05
立ち上がった男は、鮮やかな動作で手に持った剣を腰のベルトに差した。剣を抜かなくて良かったと秋がほっとしたのも束の間、男の視線が秋に注がれる。髪へ、顔へ、体へ。線をなぞるようなぶしつけな視線に、警戒感が増す。いや、出るべき所は全く出てないし、しかも線の分かりにくいジャージを着ているからまさか女だとは思われないだろうが、それでも女という性別は危険だ。いかに男女平等の世になったとはいえ、力で女が男に勝てるはずが無い訳だから。
男は、一通り秋を検分した後、おかしそうに口の端を上げた。薄暗い部屋の中、銀色の髪がさらりと揺れる。薄笑い、というのが正しいその顔に、秋は自覚無しで眉を寄せた。
「……何をそんなに警戒している?」
秋の気持ちを見越したかのような男の言葉に、秋は一歩足を引いて構えた。体術は義姉に問題無く使える位には教えてもらっている。
「いや、警戒するなと言う方が」
変でしょう?と言外に言葉を込めて、秋は男の青い目を見返した。薄笑いを浮かべたままの男は、その笑みをますます深くする。
「そういう所。……両方の親にそっくりだな」
秋は疑いのこもった視線で男を見つめた。この男は、死んだ両親を知っているのだろうか。
睨み合うように、秋と男は互いを無言で見つめ合った。野生の獣を思わせるような男の視線を、真っすぐに受け止める。獰猛な視線。けれどすぐに、男は秋から視線をそらした。なんだか睨めっこに勝ったような気分になって、少し嬉しくなる。
男は、いまだ身構えたままの秋を余所に、祭壇の裏へ回った。何をするつもりだろうかと緊張する秋の目の前で祭壇の上の部分を引っ張り上げる。難なく開いたその中から、男は使い古したコートのような衣服と鞘に入った小ぶりの短剣を取り出した。どうやら祭壇は櫃としても兼用していたらしい。
目を丸くする秋に、男はコートと短剣を投げて寄こした。一瞬迷ったものの綺麗にキャッチした秋を見て、男はまた笑った。今度は薄笑いではなく普通の笑みだったが、それはすぐに消えた。
「警戒されていてはお前だけではなくこちらが困る。俺の名はフィリアスだ。……お前は?」
再び寄こされた視線にたじろぐ。その声には、答えなければ許さないというような響きがあった。他人に命令することに慣れている響きだ。腹が立つ。秋は受け取ったコートを捨て、短剣をいつでも抜けるように構えた。男、フィリアスの眉が面白そうに上がる。
「俺は礼儀としてお前の名を聞く前に自分の名を言った。次にお前が名を言うのは当たり前だろう?」
猫なで声に、ぞわりと体中の毛が逆立つような感じを覚えた。ぶっきらぼうに言葉を返す。
「礼儀以前に、私はあなたを知りませんから」
「生憎と、俺はお前も、お前の親も知っている」
「私があなたを知らないんです」
当たり前だ。コスプレ男を知っている筈がない。繰り返すと、フィリアスは面倒そうに舌打ちをした。優梨辺りが見たら悲鳴を上げそうな視線が秋を刺す。
一歩一歩近付いてくるフィリアスに、秋は警戒感を増して後ずさった。兄のおかげで刃物の扱いも人並み以上には心得ている。実際に使うのは初めてだったが。
「ここは、お前にとっても俺にとっても敵国だ」
「は?」
何を言っているのだろう、この男は。日本は現在どこの国とも戦争はしていない。むしろ終戦は何年も前の話だ。戦争体験者がいなくなると、問題になっているぐらいなのに。この男、中世ごっこでもしているのだろうか。
「お前、どこの国の人間だ」
「日本ですが」
見れば分かるだろうと、半眼で答える。
「そうか。……俺は、そのニホンという国を知らない」
「え」
全く意味の分からない言葉に、秋は呆気に取られた。日本は世界的にも有名なはずだが、フィリアスは至って真剣だ。本当に中世ヨーロッパにタイムスリップしたのかと思う。けれど彼の話す言葉は間違いなく日本語だ。信じられない。
「俺にとってニホンという国がある世界は異世界だ。今来たばかりのお前にとっては、この世界が異世界だろうな」
異世界?どこのファンタジーだと困惑する秋に、フィリアスは言葉を続けた。
「俺はこの世界のフィアナという国の人間だ。今俺達がいるのは敵国であるシャルキ。……お前、異世界で命を狙われなかったか?」
瞬間的に、優梨が頭の中に浮かんだ。表情で分かったのか、フィリアスが頷く。
「そいつは確実にシャルキの人間だ。そいつの名は?」
迷ったが、男の真剣な声に押されて秋はぼそりと答えた。
「……優梨」
フィリアスは顎に手を当てると、なるほどと呟いた。
「多分、そいつの本名はユーリ・パディアスだな。シャルキでは高位の神官の娘だ。そいつなら、お前のいた異世界にも行ける力があるだろう。あいつ、俺が見た時は赤ん坊だったが」
苦々しげな声に、秋は動揺した。フィリアスの言葉を信じるべきか否か。優梨のあの攻撃も、あの青い円も、普通なら信じられない話だ。けれど秋は自分の目でそれを確かに見た。これで異世界があると、自分がそこに来てしまったと聞いてもおかしくは無いような気がする。
さっきまでの真剣な顔はどこへやら、またあの薄笑いを唇に乗せて、フィリアスは言った。
「どうだ、名を言う気になったか」
「……秋です」
今秋がいる場所が異世界かどうかはこの目で見なければ信じられないが、実際に殺されそうになったのは確かなのだ。秋はフィリアスを完全に信じてはいなかったが名前を言うくらいはいいだろうと思う。それにどうやらこの男は今の所自分を傷つける気はなさそうだった。
シュウ、とフィリアスは少し言いにくそうに呟き、秋が捨てたコートを指差した。
「シャルキでは黒髪は邪悪の象徴だ。それを着てフードを被れ」
今度は素直に言うことに従った。短剣を下ろして古びたコートを手にし、手早く身に付ける。そしてしっかりとフードを被った。
その時だった。
この部屋の外、ずっと遠くを誰かが駆け抜けて行く音が聞こえた。緊迫して叫ぶ声も。
『ユーリ様がお帰りになられましたっ!!』