第一章01‐‐‐島国と大陸国
体の下に感じるそれは慣れ親しんだものではなかった。シュウはこんな柔らかい布団で寝たことなどない。
やっぱり金をかければそれ相応の物は買えるんだな。こんなに気持ちが良いなら、ちょっと贅沢してこんなの買えば良かった。
そんなことをつらつらと考えながら、思わずため息を吐きそうになった。
昨日の時点で夢ではないと確信したが、それでもどこか現状を信じられない自分がいて。けれどこんな、手触りと寝心地だけでいかにも高そうな布団だと分かる寝台で寝てるというのはつまり。
自動的に昨日の出来事が脳内によみがえり、ああやっぱり夢ではなかったのかと、ゆっくりと目を開けた。
目に映るのは、見慣れない景色。近くにある窓から朝日が差し込んでいて綺麗だ。時間的にいつもの平日に起きる時間だろうか。
……それにしても。
兄と義姉に無断で外泊してしまった。妹のことになると理解不能な程心配性な二人のことだから、もしかしたら元の世界で警察沙汰にまでなっているかもしれない。客観的に見たら学校で行方不明になった訳だから、昨日クレイジュに宣告された通りずっと帰れないとすると、そのうち学校相手に訴訟まで起こしそうだ。勘弁して欲しいが、あの二人ならやりかねない。
さっそく痛もうとする頭を押さえて身を起こした。肩の上まで覆っていたシーツが滑り落ちる。
そういえばと、シュウは自身の髪の毛を触った。昨晩、夢の中で誰かに頭を撫でられたような気がする。優しい手つきで、軽く、ふわりと。
何でそんな夢をと思いつく理由を考えて、シュウは片手で顔を覆った。
……どうやら自分はこんな世界に来て相当イタイ子になっているらしい。
人の優しさに飢えているだなんて。
自分らしくないと心の中で呻いた時、人の気配を感じてシュウは顔を上げた。
途端、シュウの目とぱっちりした大きな目が合う。丈の長いメイド服を着た若い女性が、両手に服のような物を抱えて立っていた。
誰か分からないが、とりあえず朝初めて会った人には挨拶だろうと、シュウは頭を下げた。
「おはようございます」
「あ……お、おはようございます!」
なぜか顔を赤くして視線をそらしたその女性は、わたわたと駆け寄ってきて、寝台の横の小さなテーブルに抱えていた物を置いた。
どこかで見たことのある顔立ちだなと、女性を見つめたシュウはすぐに思い出した。昨日の夜、何も分からないシュウに夕食や風呂を準備してくれた中年の女性、ミリアに似ている。と、部屋の入口の方からそのミリアの声が聞こえた。
「至らない娘で申し訳ありません、シュウ様」
つかつかと歩み寄ってきたミリアは上半身を起こした状態のシュウを見てにっこりと微笑んだ。
「お元気そうでなによりです」
「あ、はい。おかげさまで」
ミリアはもう一度にっこりと笑うと、脇に立つ若い女性へと顔を向けた。
「シュウ様、これは私の娘のイリアです。シュウ様のお世話は我々がいたしますので、何かあれば何でも遠慮なくおっしゃって下さい」
母親に背中を強く押されてシュウの前に押し出されたイリアは、赤い顔のままもごもごと呟いた。
「わ、私至らない部分もあると思いますが、誠心誠意努めさせて頂きますので」
「よろしく、お願いします」
とりあえず頭を下げておく。本当なら、シュウは居候になる訳だからできることは自分でやりたいが、イリアを見ているとそれを言うのもはばかられた。母のミリアにきつい視線で睨まれているのだからいっそう。
「シュウ様、よろしければ朝食にいたしますのでこちらにお着替え下さい」
ミリアの手の先に目をやれば、先程イリアがテーブルの上に置いた服が合った。手に取って見てみれば、膝より少し下くらいのズボンとシャツ、ベストにベルトという一式だ。サイズは合っていそうだが、どう見ても男用。
まさか二人にも性別を勘違いされているのかと不安になったシュウに気付いたのか、ミリアがすまなそうに眉尻を下げた。
「本当は女性の身に着けるドレスをご用意していたのですが、昨晩クレイジュ様に緊急事態だからこれをご用意するようにと言われたのです」
一体昨晩何が起こったのだろう。気になったが、まあ正直似合わないドレスを着るよりは同じく似合わなくても動きやすいこれらの方が良いと、シュウは頷いた。居候させてもらう上に服までかりるのは気が引けるが、仕方が無い。
「用意して下さって、ありがとうございます」
深く頭を下げると、良く似た母娘はそろって柔らかく笑った。
用意してもらった服はどれもぴったりだった。新品という訳ではなさそうだったが、丁寧に洗濯がされていてしわも無かった。靴は昨日フィリアスから渡されたブーツを履いた。これを履いて昨日走り回ったせいか、足になじんで歩きやすい。
顔を洗い、服を全部身につけてから、料理を部屋の机の上に並べているミリアの近くへ行くと、振り返った彼女は少し目を見開いてから嬉しそうに笑った。
「良くお似合いですよ、シュウ様」
「あ、ありがとうございます」
男物が似合うと言うのもどうかと思うが、褒められて悪い気はしない。
少し照れくさくなって小さく礼を言ったシュウは、ミリアに促されるままにいすに座った。
異世界とはいえ、食べ物は元の世界とほとんど変わらなかった。虫とか生肉とかが出されたらどうしようかと心配したが、それは昨晩の内に杞憂に終わっている。この世界にも当たり前のように人参やジャガイモがあり、調理方法も大して変わらなかった。
机の上に並べられた、一人分にしては十分すぎる料理の皿を目の前に、シュウは再び兄と義姉を思い出した。
おかしな所で不器用な二人だから、今もまともな朝食を食べているか分からない。彼等に台所は任せられないと、元の世界ではシュウが毎日食事を作っていたが、帰れないとなると二人の食生活が心配だ。まあ、心配してもどうにもならないのだが。
忘れよう、とシュウは食事に取りかかった。見た目も味も申し分ない。誰かに作ってもらった物を食べるのは久しぶりだ。義姉が作ったものは食べ物ではなかったし。
「……おいしいです」
幾分頬を緩ませて言えば、ミリアは自慢げに笑った。
「夫は王宮専属のコック長なのですよ。シュウ様の為にと、昨日も張り切っておりました」
「そうなんですか。とてもおいしいと、伝えて下さい」
そうは言ったものの、内心は複雑だった。
シュウは間違えようも無く一般人だ。確かにこちらの世界に来てから無駄に体が軽いし、何か色々しでかしたような気もするが、それは所詮は不可抗力というやつで、決してシュウ自身が特別な力を持っているとかいう訳ではない。それなのになぜ、クレイジュやミリアも含めて初対面の人間に敬称を付けて呼ばれなければいけないのだろう。コック長だと言うミリアの夫にだって、張り切って料理を作ってもらう理由が無い。
その時、昨日フィリアスに『神の子』と呼ばれたのを思い出した。まさか皆、シュウの事を本当に『神の子』だと思っているのだろうか。だから敬称をつけて呼ばれるのか。
確かにシュウは生まれてすぐに両親に死なれたらしいが、その死んだ両親が神様だったなんて聞いたことはない。冗談にしてもありえない。
人違いか、なんてことを考えて、もしそうなら明らかに巻き込まれたな、と内心ため息を吐いた。人違いでこの場所を追い出されたら、どんな世界なのかも分からないこの場所でどうすればいいだろう。
釈然としない気分のままもそもそと料理を口に運んでいると、コップに紅茶を注ぎ足しながら急にミリアが口を開いた。
「クレイジュ様が、朝食がすんだら図書館へ来て下さいとおっしゃっておりました。イリアに案内させますので、そのつもりで準備をなさって下さい」
「図書館、ですか」
「ええ。分からないことが多いでしょうから、最初から全部説明する、と」
この状況を少しでも理解できるのなら、それにこしたことはない。人違いなら人違いでどうするか考えるにも、とりあえずは聞かなければ分からない。シュウはミリアに向かって頷いた。
「分かりました」
イリアの後について昨日の廊下に出ると、涼しい風が頬を撫でた。見れば、四角く切り取られた窓から青い空が覗いている。遠く小さく、立ち並ぶ建造物も見えた。昨日は暗くてしっかりとは見えなかったが、今はその、ヨーロッパ風の尖った屋根や煙突がはっきりと目に映る。思わず息を飲んだ。いつかイギリスとかフランスに行きたいとは思っていたが、異世界でこんな風景が見えるとは。
「……シュウ様」
「はい」
窓の外から慌ててイリアへと顔を向けると、彼女はすまなそうな表情でシュウを見ていた。
「何ですか?」
「今朝のことなのですが……」
「はい?」
何かあっただろうかと考えてみるが、特に思いつかない。
「あの、申し訳ございませんでした。シュウ様があまりに知っている方に似ていらっしゃったので驚いてしまって……まともなご挨拶もできず……」
シュウは首を振った。そんなことで謝られる理由はない。
「むしろ謝るのは私の方です。料理とか服とか色々と、その……すみません」
「いえそんな!私も母も父も、シュウ様のお世話ができることを誇りに思っていますから!」
力を込めてそう言ったイリアに、またどこかいたたまれない気持ちになった。そんな大層な人間でもないのに何でそうなるんだろう。クレイジュの説明とやらを聞けば少しは分かるだろうか。
暫くの間いくつもの廊下を歩いて階段を下り、たどり着いた所はどうやら城の一階の様だった。木製の頑丈そうな扉が、廊下の突き当たりにそびえるようにどっしりと構えている。よく見てみれば細かく植物の彫刻がほどこされていた。
「……ここはリギン様とセイジア様もお好きだった場所ですから、シュウ様もきっとお気に召すかと」
聞いた覚えのない名前にシュウは曖昧に頷いたが、イリアは特にシュウの答えを期待していた訳ではなさそうだった。懐古する様な口調は、リギンとセイジアという人物とイリアは何か関係があったことを想像させた。
「シュウ様、私はこれで失礼させて頂きます」
「あ、はい。ありがとうございました」
小さく頭を下げてから、いざ扉を押し開ける。重そうな外見に反して結構簡単に開いた。
扉の隙間に体を滑り込ませると、途端に古い紙の匂いが鼻をさす。シュウにとっては嗅ぎ慣れた匂いだった。どこの世界でも紙の匂いは変わらないらしい。固くなっていた心が緩んだようで、なぜかほっとした。扉を閉めて辺りを見回す。そこは、シュウがよく通った市の図書館とは比べ物にならないぐらい大きかった。
四角い部屋の四つの壁を全て埋める見上げる程の高さの本棚に、隙間なく並べられたたくさんの書物。いくつもの巨大な本棚は入り組んでいて迷いそうだ。まだ時間的に早いせいか人はいない。クレイジュもまだ来ていないようだった。
その、ひっそりとした空間に胸が高鳴った。足を踏み出すと、カツンという涼しい音が響き渡る。静かな空間を乱してしまったようで少し罪悪感を覚えた。その時だった。
「……これはこれは」
誰もいないと思っていたのに、聞こえてきたのは低くしわがれた老人の声だった。そちらを見やると、本棚と本棚の間、小さな空間にカウンターがあるのに気付いた。そのカウンターの向こうから、いすに座った小さな老人がシュウを見ている。皺の刻まれたその顔は、笑っているせいでますますその皺が深くなっていた。
「驚きましたな。一瞬リギン様が若返って帰ってきなさったのかと思いましたぞ。名は……シュウ様、と言いましたかな?」
「あ、はい。シュウ・カンザキと言います」
「シュウ・カンザキ……異世界の言葉は発音が難しい」
苦笑いを浮かべてそう言ってから、老人はそそり立つような本棚へと視線を移した。
「お二方もここが好きでしてな。毎日のように連れ立っていらっしゃったものですよ。夜中にこっそりやってきて夜通し魔道書を読みふけっていた時もわたしは見て見ぬふりをしたものでしたが」
どうやら老人の言う二人というのはさっきイリアの言っていたリギンとセイジアという人らしい。有名な人物なのだろうか。
「あの方達の魔力はそれはそれは素晴らしいものでした。けれど個人が持つ能力というのはその者の運命を選択してしまうのかもしれませんな。だからあのようなおわ……」
「ケルン殿」
テンポの速い靴音を響かせながら近付いてきたのは、昨日と同様柔和な笑みを浮かべたクレイジュだった。ケルンと呼ばれた老人も彼を認めて微かに笑う。
「これはクレイジュ様、お久し振りでございますな。今朝はいかような御理由で?」
「シュウ殿に全てをお話しする為ですよ」
「なんと。まだ御説明しておりませなんだか。いや申し訳ない。シュウ様があまりにリギン様にそっくりだったので、ついつい何も考えずに思い出話をしておりました所です」
ケルンとクレイジュは何か通じ合ったかのように同時に笑みを深めた。
「お気持ちはよく分かりますよケルン殿。わたしも驚きましたから」
ふふっと声に出して笑ってから、クレイジュはそれでは、とケルンに頭を下げた。
「奥の書庫、使わせて頂きますので」
「承知致しました」
こちらですと歩き始めたクレイジュの後ろを、シュウはケルンに頭を下げてからついて行った。
驚いたことに、図書館と呼ばれる建物は一つではなかった。ケルンのいた王城と繋がっている建物にさらに二つの建物を加え、総じて図書館というのだそうだ。それぞれが通路で繋がっていて、シュウはその内の最奥の建物へとクレイジュに連れて行かれた。その建物のさらに奥には書庫があり、そこには小さな机といすが置かれていた。周囲には棚からはみ出した書物が積み上げられている。見るからに古びた本達だった。
「ここにあるのは大体がこの国の建国史や世界の歴史が記された本です。あまりに古いので今では学者達しか見る者はいませんが」
クレイジュはそう言って、棚から迷うことなく数冊の分厚い書物を引っ張り出して丁寧に机の上に置いた。
「どうぞ」
すすめられるまま、シュウは一番上の本を引き寄せて開いた。思わず手が止まった。ページに綴られていたのは見たことのない文字だったのだ。英語の筆記体をさらに解かしたような文字。日本の草書を横書きに変換したようなものにも似ている。けれどなぜか、文を目で追っていくと自動的に頭の中に単語が浮かび、文節ができ、文が組み立てられて読んでいくことができた。前文のようなものが書かれている。
「やはり、読めますか」
「はい」
クレイジュの問いに頷くと、彼もそうですかと小さく頷いた。
「これは何千年も昔に記された本です。当時に不劣化の魔法が掛けられたみたいでこんな状態で残っているのですが」
細い指でクレイジュは開かれたページに書かれている文字をなぞった。
「この文字は神の文字と呼ばれる文字で、神界の神々が使っていたものがこちらの世界にどのような形でかもたらされたと言われています。大昔、この世界の人々はこれで読み書きしていたのですが、時代の流れと共に廃れて今では読める人はほとんどいません。けれど元々は神々が使っていた文字。ですから、シュウ殿が読めるということはつまり、あなたが神の子で間違いないということなんです」
最初から疑ってはいませんでしたが、とクレイジュは続けた。
「まあそうは言ってもシュウ殿にはこの世界の成り立ちから説明した方が良いですね」
彼は違う本を手に取り、地図が描かれたページを開いて話し始めた。
次回、昔話です。