11
扉から姿を現したのは、時が経っても変わらない青年だった。
いや、全く変わっていない訳ではない。ただ、彼を彼だと特徴づけるものが何ら変わっていないだけだ。むしろ精悍さは以前よりも増しているし、どれ程表情が穏和であれ、昔よりも断然『男』を感じさせる空気をその細い身に纏っている。
思わず、顔が熱くなった。
知らず、手に持つ袋を握り締めていた。
さっきも近くにいたはずだが、けれどさっきと今では状況が違う。彼の目は今、じっとユーリを見つめていた。静かな光をたたえた深淵のような目。懐かしい。
その目が優しげに細められた瞬間、ユーリははっと気付いて慌てて寝台から立ち上がった。握っていた袋を寝台の横のサイドテーブルの上に急いで、でも丁寧に置く。
「も、申し訳ございません、王弟陛下」
言いながら、絨毯のひかれた床に膝をついた。この四年間、力や体だけでなく、礼儀正しさだって成長したつもりだ。それを今示さないでどうする。
ユーリが深々と叩頭しようとした時、それは近付いてきた彼の細い手にやんわりと押しとどめられた。顎の下を持ち上げられ、そのまま彼を床の上から見上げる格好となる。ユーリを見下ろす彼とばっちりと目が合った。
忘れていた、忘れようとしてきた気持ちが、閉じられた箱の鍵を開けて心の中に溢れだす。
けれど青年はユーリが何か言う前に少し寂しげな表情で小さく笑った。
「一八歳になったユーリは、異世界に僕の名前を置いてきたらしいね」
「え?」
きょとんとユーリが青年を見上げると、彼は腰を屈めてユーリの顔に自分の顔をぐいと近付けた。急に接近した彼の顔に、ユーリの心臓が慌てて胸を叩きだした。
「他の人間ならともかく、君にその呼び名で呼ばれると傷付く」
優しげな響きでささやかれた言葉に、体中の熱が顔へと集中する。彼の顔を見ていられなくて、ユーリは自身の顔を背けた。そしてその名を、忘れることなどできないその名を、噛みしめるように呟く。
「……リ、様……」
「聞こえない」
火照る顔を宥めながら、ユーリはそろそろと顔を上げた。再び、青年と目と目が合う。
なかばやけになり、今度は力を込めてはっきりとその名を呼んだ。
「アシェリ様っ」
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
名前を呼ぶだけでこれ程恥ずかしいとは、一体四年の間にどうしたというのだろう。本当に何かあちらの世界に置いてきたのかもしれない。
不意に青年、アシェリの手が伸びてユーリの銀の髪をすくい上げた。見つめるユーリの目の前で唇が落とされる。
「忘れられてなくて良かった。言うのが遅くなってごめん。……おかえり、ユーリ」
『おかえり』
その言葉は、誰よりも彼の口から聞きたい言葉だった。自分の正しい居場所は彼の隣だと確信的に思い続けていたからこそ誰よりも。
ほっとした。羞恥心なんて吹っ飛んだ。泣きたい気持ちと笑いたい気持ちがユーリの中でぶつかりあう。結果、泣き笑い的な表情になった。
「ありがとう、ございます、アシェリ様」
言葉をこぼせば、アシェリの両腕がユーリの背中に回された。そのまま彼の胸に引き寄せられる。四年前と比べて、その胸は幾分硬かった。それでも、変わらない匂いに、ユーリを抱きしめる力に、どうしようもない安心感を感じて。
ああ、帰ってきたんだなぁ、と。
そしてユーリはそのまま青年の胸に顔をうずめた。
不意に、アシェリの目が不思議そうに細められた。その視線を辿ったユーリは、先程自分が机の上に置いた袋を見つけた。
「あれは何だい?見たことが無い質のようだけど」
アシェリの質問に、ユーリは立ち上がって袋を手に取った。
この世界には皮や麻のような袋はあるが、ビニールやポリの袋はもちろんない。アシェリが不思議に思うのも当たり前だ。
ユーリは手のひらに余るような、少しごついその袋を見下ろした。胸の奥が痛む。
……きっと彼女は、引っ越す優梨の事を思って見た目よりも量を優先してくれたんだろう。
本当は、優梨なんて人間いないのに。
「ユーリ?」
アシェリの声にはっとしたユーリは慌てて振り返った。口の端を意識的に持ち上げる。
「これ、異世界で仲良くなった友達が餞別にくれた物なんです」
『友達』
自分で言っておいてまた胸が痛んだ。
ごまかすように、言葉を続ける。
「生姜っていう薬用の野菜から作ったお菓子なんですけど、これが本当においしくって」
誕生日には秋の手作りお菓子がいいと何度も頼んだら作ってきてくれて。一口食べてはまった。異世界にはこんなにおいしいお菓子があるのかと。
生姜の香りと砂糖の甘さがいかにも秋らしくて、大好きだった。
「どんな子なの?その友達は」
「え?」
アシェリを見れば、彼は自分のことのように嬉しそうにユーリを見ていた。
「ユーリが自分から友達って言う子は初めてじゃないかな。だからどんな子なのかなって」
青年の優しい声に、そう言えばこちらの世界では同年代の子達と遊んだことなどなかったと今更ながら思い出した。秋が初めてだったのだ。
無口でいつも冷静で、でも優しくって。
自然と、笑えた。
「すごく綺麗で、しかも頭は良いし運動もできるし、まさに容姿端麗頭脳明晰運動神経抜群と言う三段階がそろった子なんですけど、とにかく顔の筋肉が動かないんですよ。私はずっと一緒にいたから結構分かるようになったんですけどね?」
秋が笑った顔を思い出す。目が細くなって口元が綺麗に弧を描いて。
「あの顔を写真にしたら絶対高値で売れたと思うんだけどな……」
「しゃしん?」
「あ、えっと、あちらの世界では一瞬一瞬を一枚の絵みたいにして残すことができる機械があるんです。で、その絵を写真って言うんですが、友達の笑顔が本当にレアで、それを写真にしたら学校中の女の子達の奪い合いになっただろうなと」
惜しいことをした。まあでも、あの顔を自分の独り占めにできるのは悪くないか。
無口でいつも冷静で。
そんな秋を友達と呼べるようになったのは、本当に奇跡だと思う。
あちらの世界で、まがい物とは言え初めて年頃の女の子の生活と呼べる生活をした。こちらの世界の人間が一人もいないのをいいことに。
秋を無理やり引っ張りだして遊びに行った。制服以外でスカートを履かない秋に無理やりピンクのワンピースを着せた。テストが理解不能で秋に泣きついた。本当はどこでも良かったけど、もっと秋と一緒にいたかったからレベルの高い同じ高校を選んだ。
全く知らない異世界の人間を殺さなければいけなくても、秋と一緒にそんな毎日を過ごしていればその罪悪感は忘れられた。
いつか別れなければいけないと知っていても秋と一緒にいたかったのはつまり、秋がいる毎日が好きだったから、秋が好きだったからだろう。
そうだ。秋は間違いなくユーリの友達だった。
頬を抑えた。あの後、王にぶたれた箇所だ。治癒の術を施したがまだ熱があるように思える。けれどその熱はなぜかユーリをほっとさせた。
王に殴られるよりも、秋が死ななかったことの方が大きいのだ。頬の熱は、秋が助かった証のように思えてならない。
殺そうとしたのは自分だ。秋を、今まで何度もやってきた他の人間と同様に殺そうとした。その事実は曲げられない。
でも。
『優梨に、ありがとうって言ってなかったと思って』
あの言葉を忘れられない自分もいる。ユーリが秋を友達だと一方的に思い込んでいるだけで、秋はこちらのことなど何とも思っていないかもしれないという疑い。それを一瞬で吹き飛ばすような言葉だった。それを思い出したら、秋を殺すことがどうしようもなく辛い。
二分された心がどうしようもなく痛んだ。
神の子と崇められても所詮は人間だ。
後悔すると分かっていてなぜ友達を殺さなければいけない?
ああでも、もしかしたら。
秋を殺そうとしたユーリを、秋はもう友達だと思っていないかも知れないのでは?
その時感じたのは、喪失感。
……せっかく、初めてできた友達だったのに。
自分で失ってしまった。一体どこまで馬鹿なんだろう?
気持ちと一緒に溢れた涙はとてつもなく熱かった。
序章がいやに長いというこの計画性の無さ。
でも一様これで序章終了です。