10
机に向かっていたフィリアスは、前方から空気を切り裂いて飛んでくる物を感じ、ひょいと身を屈めた。阻まれることなく真っすぐに飛んだそれは、後方にある壁に音を立てて突き刺さる。
……ちっ。
あからさまに聞こえた舌打ちに、フィリアスは顔を上げた。思った通り、そこには悔しげな表情を隠すことなくその整った顔に浮かべたクレイジュが分厚い紙の束を手に立っている。シュウに見せた優しげな雰囲気は宇宙のかなたに追いやったらしい。
フィリアスの口の端が自然と上がる。
「後にも先にもこの俺にナイフを投げる臣下はお前だけだ、クレイジュ」
「それは光栄だ、このたわけが」
吐き捨てながらつかつかと机まで歩み寄ってきたクレイジュは、細めた目でフィリアスを見下ろした。瞳の奥で怒りがくすぶっているのが分かる。
「どうかしたのか」
大体見当は付いていたがあえて聞いてみると、クレイジュはすっと息を吸い込んだ。
「押しつけやがってこのカス」
静かに放たれたその一言から始まり、クレイジュの口から国民に慕われる宰相とは思えない暴言が次々と飛び出す。
ふざけんじゃねえぞこのアホキング、厄介事だけこっちに回すなって何度言ったら分かんだバカ、アホ、マヌケ、カスカスカスカスカス。てめぇはジャガイモより格下だ、バーカ。このたわけの塊。
怒鳴る訳でもなく、淡々と呪文のように紡がれる暴言に、毎度のことながらうんざりする。実際はこの青年がどんな厄介事でも確実に処理すると、その能力を重く見て回しているのだが。そして本人もそれを知っている筈なのだが。それでも彼はフィリアスに面と向かって暴言を吐かなければ気が済まないらしい。しかもその暴言が毎回違うのだからレパートリーの多さに呆れると共に感嘆する。
しばらくして気が済んだのか、息をついたクレイジュにフィリアスは気になっていたことを聞いた。
「シュウはどうした」
「わたしに押し付けたあなたがそれを聞きますか」
きっ、とフィリアスを睨んだクレイジュだったが、口調が敬語に戻っているのは平生に戻った証拠だ。彼はそのまま深々とため息をつき、シュウが眠っている筈の、隣室へと続く扉へと目をやった。フィリアスもそれにつられて見る。
「驚くほど淡々としていましたよ。帰れないと聞いても『そうですか』の一言でしたし」
「そうか」
「ええ」
また怒りが湧いてきたのか、クレイジュは頷いてから一言、それもこれも全部お前のせいだマヌケと付け加えた。無駄にマヌケが強調されている。
「……前から思っていたが、クレイジュ、お前は口が悪すぎる」
「平民出身ですから」
爽やかにそうのたまった青年はそれに、と付け加えた。
「美しい言葉ばかり並べたてる貴族なんて、国の頂点に立つ王の傍にはいらないでしょうが」
言いながら、クレイジュはフィリアスの後ろ、壁に突き刺さったナイフの柄に手をかけた。
「……それにしても」
ぐっと力を入れると、ナイフは呆気なく抜ける。
「しっかりした子じゃないですか、王。いささかしっかりしすぎているとも言えますが。でもいい子です」
「ああ」
「吹き出さないようにするのに苦労しましたよ。礼を言われた時のあなたの顔と言ったら、それはもう……」
肩を震わすクレイジュに、フィリアスは渋面をつくる。確かにあの時、あのタイミングであんな礼を言われるとは思っていなかった為、まともな反応ができなかったのは確かだ。
「……忘れろ」
「無理です。というか嫌です。鮮やかな思い出のメモリーに永久粘着剤でしっかり貼っときましたから」
一般人が見たら一目散に逃げるだろう視線で睨みつけるフィリアスなどどこ吹く風というように、クレイジュは持っていた紙の束を机の上に置いた。
「本当に成長なされましたね、シュウ殿は。わたし達にとっては一日で大きくなられたようなものですが」
フィリアスの脳裏に、ロダの上でこちらに振り向いた少年の顔が浮かぶ。
柔らかそうな黒髪が、夜風にそよいでいた。光を受けて白い肌は輝いていた。真っすぐな目が、フィリアスをじっと見ていた。
知っている彼に、そっくりな顔のつくり。知っている彼女に、そっくりな目。
自然、フィリアスの眉が額の中央に寄った。
「お二人が、一人になって帰ってきたような錯覚でしたよ。あの落ち着きようはセイジア様ゆずり、動物に好かれるのはリギン様ゆずり、ですかね」
感慨深そうに言ったクレイジュは、紙の束から一枚取り出した。それをフィリアスに、どうぞと手渡す。
「目覚めてからすぐにリシュールに部下を行かせました。……あれから、一六年だそうです」
一六年。とすればあの少年の歳は一七か。
どうやらクレイジュも同じことを考えたらしい。
「大きくなられた筈ですよね」
そうだ。あれから一六年。
崖っぷちの、生きるか死ぬかの危機的状況は過ぎ去った。けれどまだ気は抜けない。
国の存亡はこれからにかかっている。
『我が父が落とせなかった貴様の国を、今度は私が落として見せようではないか』
ヴェルディアのあの言葉は嘘ではないだろう。
――それならば、やるべきことはただ一つしかない。
軽く力を入れれば、扉は音も無く開いた。鍵が掛けられていなかったことになぜかほっとする。
光の灯る自分の部屋とは違い、シュウの部屋の光源は窓から入る月と星の光だけだ。奥に置かれたベッドの上、白いシーツにくるまる少年の体の形が硬質な刃のような光に浮かび上がっている。
フィリアスが足音を殺して近付いても、彼が目覚める様子はなかった。
それも無理はない。いきなり異世界とやらに来させられ、いきなり命を狙われ、最後には帰れないと告げられたのだ。一七歳の少年には耐えられない衝撃だろう。
この時間だけでも、全てを忘れていられるのなら彼にとって悪いことではない。
無自覚の遠慮のせいか、広いベッドの端の方で眠っている為、大部分が余っていた。
見下ろせば、シュウのあどけない表情が見えた。
一七と言えばちょうど子供と大人の境目だが、そんな目で見れば彼はいささか成長が遅いように見えた。背はフィリアスよりも幾分小さいくらいだが、何より顔立ちがまだ子供っぽい。唯一年齢に似合わない強い光を持つ目が閉じられているせいで、寝顔の子供っぽさは強調されていた。
それでもやはり、美しい。
もっと成長すれば、国の女達を色めき立たせるであろうことは間違いなかった。
端正。精悍。どんな単語がこの少年に似合うだろう。
フィリアスはじっとシュウを見つめた。少し癖の入った髪が、シーツの上に散らばっている。ストレートではないゆえの、柔らかそうな手触りの髪。
その質感を直に感じたくて思わず手を伸ばそうとした時、仰向けに寝ていたシュウが寝返りをうった。
「ん……」
彼の口から漏れた女のような声に、心臓が強く胸を打つ。思わず首筋に目が行った。筋の浮き出た白い首。……まるで女のように細い。投げ出された手も同じく。
視線を下に移すと、シーツの上からでもしっかりと引き締まった両足の形が見えた。首や腕と同じように白いだろうことを断定させるすらりとした足。
体に熱がたまっていく。シーツを剥ぎ取りたい衝動。
フィリアスの口元が獰猛な笑みを形作った。
どうやら自分は相当たまっているらしい。……同性を見て欲情するほどに。
フィリアスは再び手を伸ばし、少年の形の良い頭を軽く撫でた。思った通り、柔らかい感触。
すぐに背を向け、自分の部屋には戻らずにそのまま廊下へと続く扉を開けて外に出た。と、ちょうど廊下を通りかかったクレイジュと鉢合わせした。彼の目がぎょっと見開かれる。
「どっから出てくるんですか、王。まさか……」
「同性に興味はない」
続く言葉を一刀両断すると、クレイジュはほっと息を吐いた。その脇を通り過ぎたフィリアスの背に彼の声が続く。
「王、今からどこへ?」
「街へ行く」
「……今からですか」
真夜中に街に行くとしたら理由は一つしかない。
全てを理解したような表情を見せたクレイジュは、軽く息をはいた。
「今日あちらの国で殺ってこなかったんですか」
「血を見て騒がれては面倒だからな」
「それ位で騒ぐような子ではないと思いますが、そうですね。シュウ殿に気を使ったことに関しては褒めて差し上げます」
フィリアスはふん、と鼻を鳴らした。クレイジュの感に触る物言いも気にならなかった。とにかく今は、人を殺れなかった分、体にたまったものを他のことで吐き出さなくてはいけない。
「前から聞きたかったんですが、王」
クレイジュの言葉に、これからのことを思って機嫌が悪くなかったフィリアスは珍しく振り向いた。
「何だ」
「あなたまさか、人を剣で刺すことと女性と体を繋げる感覚は同じだとか思ってません?」
「お前は違うのか」
当たり前を通り越して世界の定理だとでも言いたそうな口調に、クレイジュはため息をついた。
やってることを考えれば確かに似たようなものかもしれないが。
でも。しかし。クレイジュには全く理解できなかった。いや、きっとクレイジュだけではないだろう。世界の大部分の男はきっと理解できない。
「もういいです。……ちゃんとかつらかぶってって下さいよ?そんな髪の色の人間はそうそういませんから」
「ああ」
声にどこか嬉しそうな響きを持たせて、フィリアスは去っていった。
後方でフィリアスの背中を見送ったクレイジュは、シュウが眠っているはずの部屋の扉を見つめ、そして決意した。
あの方に言われた通り。あの子の本当の性別を何が何でも隠し通そう、と。