ぼうけんのあとしまつ
神野親王 生没年 786-842 桓武天皇の第二皇子。母は藤原乙牟漏。
皇后に橘嘉智子をたて809年に即位する。
即位後に譲位したはずの平城上皇が藤原薬子や藤原仲成らと語り政権を奪回しょうとした(「薬子の変」)ため、坂上田村麻呂らを派遣してこれを制圧した。
これにより上皇は出家し、薬子は自害、仲成は殺害された。
以後朝廷は30年もの間安定し平安文化が開花した。
「蔵人所」・「検非違使」などを設置し、また、「弘仁格式(「弘仁格・弘仁式」をいう)」、「新撰姓氏録」を編纂させる。書にすぐれ三筆の一人とされている。
賀美能宿禰 生没年 不明。平安京の初代采女長官。桓武天皇の第2皇子(後の嵯峨天皇)の乳母であり女官として皇室に仕え、新居郡誕生の先駆となった人物である。
藤原貞子は悪いところはないようだ。
「よかった。会えないかと思ったぞ」
笑顔で応える貞子であるが、キラキラとして、どきっとする親王である。
「顔を見たので帰りますね」
「ありがとうございます。また逢いとうございます」
「うん」
そう言うと部屋から出て行き、玄関へ向かう。
玄関には息を切らした従者が着いていた。
「神野親王さま、黙って出て行かれて、宮中は大事でしたぞ」
「うむ、すまぬな」
玄関で、藤原貞子の手を引く藤原貞子の母親が見送りに来てくれていた。
牛車に乗り込みむと、周辺にいた兵士が八人ほどで取り囲み警戒している。
牛車の前後には馬に乗って警戒する者が四人。
従者が10人ほどの大移動である。
周辺の住民は何事かと見ているが、全員無言での移動のため、誰が乗っているかは分らない。
牛舎はゆっくり進む。前後の馬たちものんびりと歩いている。
乗った時は左手に太陽を感じて乗ったので、太陽を背に牛舎は進んだはずである。
大体3つの家を移動したあたりで左に向いた感じがし、さらに3つの家を移動し、右へと移動した。
外をチラリと見ると、大きな道路に出たようだ。人の往来も多く、警備の馬ではない、他の馬たちも楽に走っている。
しばらく移動すると門を越えたのか、ガタリと言う音ともに周辺の音が静かになった。
時々馬の鳴き声と足音のみ聞こえてくる。
牛車が止まると、女従達が出迎えている。
「神野さまよくご無事で」抱きつかれた。
乳母の賀美能宿禰がいる。
「お父様が怒っていらっしゃいますから、後覚悟を」
「ありがとう」
親王を誘導する女従達。男子の護衛は入り口から入れない。
しばらく行くと、仁王立ちの父上がいた。横には安殿親王もいた。
「お帰り。こちらへ」父上、安殿兄、乳母の3人がツラなぅった
僕の部屋に入り、僕を座らせると、問いただした。
「どうして勝手に義妹の所へ行ったのだ?」
「どうしてもなにも、お加減が悪いと聞いて、誰に聞いても教えてくれないので、お見舞いに行っただけです。義兄として当然のことだと思いますが、間違っているでしょうか」
3人とも黙ってしまった。反論は出来ない。
「無断外出すると、警備の責任となり責任を取らされる者もいる。親王の身勝手な責で責任を取らされる人に悪いと思わないか?」
「その通りですね。分りました。今後は報告して外出します。明日からお見舞いに行こうと思っています」
「分りました。従者も連れていってください」安殿親王も心配して口を挟んだ。
『兄さんは心配ではないですか?」
「ええ、お母上から聞いていますので、大丈夫ですよ」
父上の顔が一瞬少し怒った顔になった様に思えたが、気のせいのようだ。
その日は何故か父親の怒った顔が気になって夜を過ごした。