第16話 「ココアは後でね」
「えっ……ココアと女を買いたいって言うの?」
「はい。その通りに注文して下さい」
「あ、うん。そうなんだ……分かった」
「バーテンの指示に従い、その場では何を聞かれても一切口を利かない事。相手の指示通りに行動して下さい」
何だか分からない展開になって来たが、指示に従うしかない。
でも『ココアと女を買う』って何だ。大丈夫なのか……。
半信半疑のまま、店の前に倒れている酔っ払いを横目に、両開きのドアを開けて店内に入る。
アルテミスの指示通りに、空いているカウンター席に座り、注文を聞きに来た胡散臭そうなバーテンに『ココアと女を買いたい』と告げた。
「へっ。小僧が女を買うとは大層な事だな。まあ良い。二階の三号室で待っていな」
無言で席を離れ、バーテンが指差した奥の階段を上る。
二階に上がると、薄暗く汚れた廊下の両脇に、いくつかの部屋のドアが見えた。
明滅を繰り返しチラつく電灯の明かりを頼りに部屋を探す。どうやら三号室は廊下の一番奥の部屋らしい。
通り過ぎる部屋から女性の嬌声が聞こえて来る。まるでゲームの中にある売春宿だ。
アルテミスはいったい俺に何をさせるつもりなのだろう。まさかとは思うけれど、その手の事がパイロットレベルを上げるのに必要なのだろうか……。変なドキドキが止まらない。
三号室のドアを開け、室内に入ると明かりが点灯した。
たいして明るくはないけれど、部屋の中はそれなりに見て取れる。ガラス張りのシャワー室とベッドが置いてあるだけの部屋だった。
ベッドの他には、サイドテーブルと怪し気なグッズと飲み物の販売機が有るだけで他には何もない。
どうして良いのか分からないけれど、腰掛ける椅子すらないので、ベッドに座って待つことにした。
しばらくすると、ノックと共に返事をする間もなく人が入って来た。その姿を見て心臓が跳ね上がる。
透けたベビードールの下にガータベルト。いかにも娼婦という格好をした赤毛の女性が入って来たのだ。
それなりに隠れてはいるものの、思わず目が釘付けになってしまう艶やかな格好。これはやはりそういう事なのだろうか……。
「はい。ココアよ」
ベッドの隣に腰掛けながら、サイドテーブルにココアの入ったマグカップを置く艶やかな女性。前屈みの胸元が気になって仕方がない。
どうして良いのか分からず、震える手でマグカップを取り、慌ててココアを飲んだ。
「熱っ!」
「あらあら、僕ちゃん。ココアはまだ熱いから気を付けないとね。ふふふ」
色っぽい表情で覗き込まれ、思わず赤面してしまう。
女性は俺の手を優しく掴むと、マグカップを受け取りサイドテーブルへと置きなおした。
「僕ちゃん。ココアは後でね。その前に……出すモノを出して」
「え、あ、はい。えー、えーと、えーと、何を出せば……」
「僕ちゃん。大事なことをしに来たんじゃないの? うふふ」
艶やかな表情で覗き込まれ、頭の中が真っ白になる。
ここに何をしに来たのだろう……。アルテミスはとにかく指示に従えって。
そう言えば、ゲームの売春宿ではこういう時、お金は前払いだ。そうか、そう言う事か!
支払う値段が分からず、取り敢えず硬貨が入った袋を取り出した。
「はい。じゃあ、ここで大人しく待って居てね。可愛らしい僕ちゃん」
「え? あっ……」
赤毛の女性は袋ごとお金を持って行ってしまった。
どうなっているのだろう。あのお金を全部持って行かれて大丈夫なのだろうか。何だか大きな失敗をした気がする……。
不安な気持ちに苛まれていると、ほどなくして女性が戻って来た。
「僕ちゃん。お待たせ」
女性は再び傍らに座り、直ぐに身を寄せて来た。甘くて良い香りが漂って来て頭がクラクラする。
不意に顔を寄せる仕草に、頭の中に心臓が有るのかと思うくらいドキドキしてしまう。
「はい。これ」
不意に何かが差し出された。
「へっ?」
視線を遣ると、両替した時に受け取ったものと同じ通貨カードだった。
「手数料を差し引いて一〇〇万アウグドル入っているわ。アウグドへようこそ。可愛い僕ちゃん」
「えっ? あ、はい。ありがとうございます」
良く分からないけれど、アルテミスの指示通りに行動した結果だから、これが目的なのだろう。
でも、何でまた通貨カードを入手したのかな……。
「ねえ、裏でちょっと気になる事を聞いたのだけれど……。僕ちゃんはオーディン硬貨を持ち込んだそうね。もしかして、オーディンの騎士見習い様とか?」
何の事だか分からなくて、そのまま聞き返してしまう。
「騎士見習い? 何ですかそれ」
「うふふ。そうよねぇ。そんな事を正直に話す訳には行かないわよねぇ」
赤毛の女性は、目を輝かせながら俺の顔を覗き込んでいた。
しなやかに伸びて来た指先が、そっと唇に当てられ思わず動揺してしまう。
「うわわっ」
「ねえ、僕ちゃん。しばらく、このお部屋に居ないといけないから。どうせならお姉さんと楽しい事しましょうよ」
艶やかな動作で胸元をはだけさせながら、更に身を寄せて来る。
「あ、いや。その、あの。え?」
動揺でまともに返事が出来ない。
これはどうしたら良いのだろう。これも指示された通りの行動になるのかな? なるんだよな……アルテミス。
「おい、セシル! 次の客だ」
ドアの外から、いきなりドスの利いた声が響いた。驚いて思わず体が跳ねてしまう。
「あら、残念。僕ちゃんまた遊びに来てねぇ。今度は両替じゃなくて……チュッ!」
女性は頬にキスをすると、ベッドから立ち上がり、色っぽい足取りでドアへと向かう。
流し目で振り向き、手を振りながら部屋から出て行ってしまった。
「あ、あれ……お終い?」
何だか肩透かしにあった感じだけれど、助かった気もする……ちょっと複雑な心境だ。
「失礼しやした」
女性と入れ替わりに、ドアの隙間から坊主頭の人相の悪い男が顔を覗かせていた。
目が合うなり、顔をほころばせ人の良さそうな笑顔になる。
「へへっ。旦那、ありがとうごぜいやした。あと三十分程この部屋でお待ちくだせい。あんまり早すぎると、ちょっと怪しまれるんでね。へへっ」
「は、はい。分かりました」
それからは何も起こらず、しばらく部屋で時間を潰し。一応ココアを飲み干してから車へと戻った。
「アルテミス。硬貨と交換で通貨カードを受け取ったけれど。これで良かったの?」
「ええ、それがここに来た目的ですので」
「そうなんだよね……」
「何か?」
「い、いや、別に。それはそうと、何で別の通貨カードが必要なの」
「正規のカードには、リオンがオーディン所属の船舶の搭乗員という情報が入っています。これから模擬戦闘の興行に参加し、その情報が洩れると変な興味を引いてしまいますから、全く違う人物の情報が入力されているカードを購入したのです」
「はぁ、なるほど。でも、バレたりしないの」
「どこの軍もやっている事ですから、敢えて探って来たりしません。余程の犯罪や違反行為をしなければ大丈夫です」
説明を聞いて納得が出来た。あの店は裏でこういう取引を行っている裏稼業の店だったのだ。
「ねえ、アルテミス。そう言えば、この辺のパーツショップとか見て回っても良い?」
「それは後日にして、今日は模擬戦闘の興行を見に行きます。リオンが参加するカテゴリーの競技場を何箇所か見に行きます」
「おお、そうなんだ。早く行こう!」
車は再び街中へと移動し、模擬戦闘の興業が行われる大きなスタジアムへと向かっている。
スタジアムには『Crash & Boots』と書かれた巨大な電飾看板が掲げられ、色とりどりのサーチライトの光が、夕闇に包まれ始めた空を照らし上げていた……。