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#4 受付の職員

この作品はフィクションです。嫌だなと感じたら読むのをやめてください。

 僕の母は当時高齢出産と呼ばれる年齢で姉を産み、そして僕が産まれた。


 幼い頃は愛されていたらしい。姉がいつも「あんたは溺愛されてたからね」と言っていたからだ。だが僕は逆だろうと思っていた。姉は認められていた。行動も、言葉も、存在も、全て……。


 母親は僕のやることなすことに口を出した。そしてそれが自分の理想通りではないと、彼女はすぐに癇癪を起こした。物置に閉じ込められたり、裸に近い恰好で追い出されたりは日常だった。さらに残念なことといえば、その苛烈な性格は外でも同じだったから、母親の性格を知る人たちは誰も僕を救おうとしなかったのだ。姉も僕をかばえば自分がやられると知っていたので、母親の機嫌の悪いときは僕に見向きもしなかった。


 そんな僕にも一人だけ友達がいた。名前も顔も忘れてしまったが、ふわふわと可愛らしい女の子だったような気がする。その子にはいろんな話をした。悲しい事、つらい事……、もちろん楽しい話や嬉しい話もした。その子にはいつの間にか会えなくなってしまったけど、一緒に悲しんだり笑いあえたことは僕にとってとても貴重な体験だった。

 僕が心理の道を志したのも、この時の気持ちが理由になっている部分もある。


 僕は母親が怖い。そして憎い。

 認知症を患い、僕のことが分からなくなっていたとしても母親は母親として僕の中に存在している。

 これは間違いない事実だ。僕はそのことをごまかすつもりもないし、受け止めている。

 だが、なぜ今になってこんなにも心を掻き乱されてしまったのだろうか。それもこれもあの「マオ」が現れてからだ。


 僕は彼女が苦手だ。マオと話していると何かが崩れていくような気がするのだ。まるで子どもの頃に戻っていくように。僕は必死に実家から離れ、カウンセラーとしての道を見つけ、ようやく安定を掴んだのだ。これ以上僕を悩ませないでくれ……。



 僕のそんな思いを知るはずもなくマオは休まずカウンセリングに訪れた。

 母親への文句をひとしきり語り、すっきりした顔で退室する時もあれば、釈然としない表情の事もあった。

 未だ医療機関への受診は勧められていないのだが、彼女の状態は比較的落ち着いていた。彼女の状態の見立ても発達特性によるものではないかというものに変化していた。ちなみに以前注意してからというもの、彼女は入室時にはきちんとノックをし、返事を聞いてから入室することも続いていた。そういう素直さは彼女の魅力なのだろう。


 だがある日、来室したマオの手には見覚えのあるカレンダーがあった。受付のパソコン脇に置いてあるカレンダーだった。


「それどうしたんですか?」

 何気なく聞いてしまったのが運の尽きだった。


「ああ、これ? 可愛かったのでよく見てみたくて借りてきました」

 そう言ってニコニコ目尻を下げるマオに、僕はあれ?と思った。マオの来る直前、受付には『外出中 すぐ戻ります』の札がかけられていたはずだ。


「あの、さ。受付いなかったよね?」

「はい。いませんでしたよ?」

「い、いなかったのに勝手に持ってきたらダメだよね……」

 マオはパチパチと瞬きをして小首をかしげた。そして「ああ、そうかぁ」などと呑気に返事をした。


 そうかぁ、じゃない!僕の中の僕が高らかに叫んだ。

 少し常識的な面を見せたかと思えば、平気でそういうことをする。社会で暮らす以上、他人の物を許可なく持ってきてはいけないのだ。

 もしかして彼女には治療よりも、SSTソーシャルスキルトレーニングのような関わりの方が必要なのではないだろうか。さらに知的な水準も検査する必要があるだろう。そう思う程マオの行動は幼さすぎる。見た目も幼いが、行動はまるで子どものようだ。

(僕はこんなに老け込んでしまうのに……)

 彼女と話した後は疲れ果ててしまう。自分の中をしっちゃかめっちゃかにかき乱された挙句、まるでマオに気力を吸い取られてしまっているようだった。


「先生、私もタヌキだけどこんなに可愛くないですよ」

「え?」

 もうすでにげっそりとしつつある僕は、マオの言葉に咄嗟に反応できなかった。マオはジッとカレンダーのタヌキを見つめ、ボソッと呟いた。


「こんな風に可愛くなれたらよかったんだけど……」


 その呟きはそれだけ聞けば何気ないものだったが、二人の間に落ちるなり、部屋中の空気がそこに吸い込まれていく程の重さを感じた。すさまじい質量の言葉に全てが吸い込まれ、ブラックホールが出来てしまいそうだ。

 そしてそこには沈黙が生まれた。

 僕は何と返したらいいものか、はたして言葉を返すべきなのか迷った。


 カウンセリングで沈黙は重要な時間だ。クライエントがじっくりと内面に目を向け考え込んでいる時には、カウンセラーが言葉を挟むことがかえって悪影響を及ぼすこともある。逆にカウンセラーへの拒否や、話すことがなくて困っている時には声がけすることもある。

 僕は今のマオの沈黙は前者だと感じていた。しかし生まれてしまったブラックホールに二人とも飲み込まれてしまうのではないかという恐怖心が湧いて来た。マオの底知れぬ闇に吸い込まれるのが本能的に怖かったのだ。僕は一瞬にしてカラカラになった口をこじ開けた。


「……あの」

「……うっふっふ」


 僕が声を発するのと同時に、マオは笑い声をあげた。

「やば、気持ち悪い笑い方しちゃった。でもそんなところもねえ、先生?」

 悪戯そうな顔をしたマオは、パタンとカレンダーを閉じて僕を見た。きっと彼女の瞳の中には、狐につままれたような顔をした僕が映っているのだろう。


「そんなところも私、人間に近づけてますよね」


 その言葉にようやく身体が自由になった気がした。そして僕は心に浮かんだことを、オブラートに包むことすらせずそのまま勢いに任せて告げた。

「人間は黙って物を持ってきません」


 その言葉にもマオは気を悪くすることなく、楽し気に笑っていた。そして面接が終了し、いつものようにマオが風のように退室した後、彼女のいたソファにぽつんと残されていたのはあのカレンダーだった。

「ほんとやめてくれ……」

 僕は文字通り天を仰いだ。


「あ、先生」

 部屋の外には香ばしい香りが広がっていた。

 受付を覗くと、受付の職員とバッチリ目があってしまった。彼女はまるで普段からそうしてるように僕に声をかけてきた。


「今ちょうどコーヒー入ったんですよ。次、空きコマですよね」

 彼女の後ろを見るとコーヒーメーカーがしゅんしゅんと湯気をあげている。いい香りだ。でも僕はコーヒーがあまり得意ではなかった。大人なので出されたものは飲むが、自らコーヒーは選ばない。休憩時にはどっしりと甘いココアを飲みたい。


 ただ不意に勧められたコーヒーを第一声で断れる程、僕は彼女と仲が良いわけではなかった。

「あ、いや……」

「先生のカップってここにありましたっけ?」

 もごもごと言いよどんでいるうちに彼女はカップを探し始めた。僕のカップはそこにはない。自分のデスク上で使用し、使い終われば洗ってまたデスクに持ち帰っている。共有スペースには置いたことはないのだが、彼女はそれを知らないようだ。


 彼女は首の後ろをポリポリ掻きながらうーんと唸り、黒いカップホルダーと白いプラカップを手にして振り返った。

「ごめんなさい。ちょっとわかんないのでこっちにしますね。お客さん用ですみません」

 謝罪を口にしながらも、彼女は少し楽しそうだった。


 受け付けの彼女は僕よりも十歳弱若いかもしれない。かもしれない、というのは直接年齢を聞いたことがないからだ。

 そもそも彼女は大学の職員で、確か学部生の時に心理学を勉強していたから学生相談室の受付に配置された……、と室長の(しば)先生から聞いたことがある。


 確かに受付をするにも基本的な心理学の知識と社会人としての常識は必要になる。守秘義務に関してはしっかり守ってもらう必要があるし、緊張して相談に来た学生を出迎えてくれる人物には、ある程度の常識を持っていて欲しい。


 ただ……。

 僕は手の中のカレンダーを見た。

 マオの常識的とは言えない行為の結果、今ここにカレンダーがある。

 受付にマオのことをまだ伝えていない今、僕は彼女にマオについて説明する煩わしさよりも、自分が泥をかぶることを選んだのだ。


「はい、先生。熱いので気をつけてくださいね」

「あ、あのっ。これ勝手に借りてました……」


 僕は彼女が渡してくれるコーヒーと交換するようにカレンダーを手渡した。彼女はぱちくりと目を丸くすると、すぐににっこり笑った。


「あらま、全然大丈夫ですよ。相談室ってカレンダーなかったんでしたっけ?」

「あ、はい。卓上は……」


 瞬時に相談室の中を思い返す。カレンダー自体はあるのだが、一枚に一年全てが記載してあるポスタータイプのものだ。スケジュールを確認する際は僕は手帳があるし、学生もスマホや手帳で確認しているから特に不便はない。


「注文しておきますね。何か好きな柄とかありますか?」

 そう口にする彼女の向こう側にかわいらしくデフォルメされたタヌキが浮かんだ。さすがに同じものにされては困る。

「えっと、相談室に置くのはシンプルなものが……」

「そっか! ごめんなさい、私あんまり気が利かなくて」

 彼女はそう言うと少しだけ恥ずかしそうにえへへと笑った。


 違う。

 彼女への申し訳無さと自分の配慮の無さでどんどん心が萎んでいく。

 無断で私物を持っていくなんて、常識の無い行為をとった僕(本当はマオなのだが)に気を遣える彼女が「気が利かない」だなんて。もう少し気の利いたことを言うべきだったのは僕だった。彼女もそのことに気づいているはずだ。


 しかし彼女の笑顔には悔しくなるほど嫌味がなかった。彼女が動くといい香りがする。明るめの髪に黒い根本が目立っても、あえてそうしているのだと思わされる。爪もつるつると光っているし、時計もきっと高いやつだ。きれいに化粧された顔は睫毛の一本一本まで整っている。


 僕はと言えば、髪も伸びたまま床屋に行くのも億劫がっているし、スラックスもよれよれだ。爪だって爪切りで切ったそのままで、やすりで整えることもしていない。腕時計だって千円均一のやつだし、指先には書き損じた時のボールペンのインクが付いている。


 僕はコーヒーの湯気の向こうに彼女を見ながら、人間としての差を見せつけられているようだった。

 

 もし僕が彼女のように整った人間だったら母親は満足したのだろうか。


 そもそもこんな僕は果たして、人間なのだろうか。


 あれ?と僕は思った。

 そういえば昔そんな話をしたような気がする。

 カップから立ち上る湯気のような霞のかかった記憶だ。



『なんかすきなどうぶついる?』

『うーん……。わかんない。でも、にてるっていわれるのはいる。にんげんよりそっちににてるって、ママがいってた』

『そうなのっ? なになに?』

『あのね……』



 そういえば、と切り出された彼女の言葉に、僕の思考は断ち切られた。

「芝先生から連絡ありましたよ。刑部(おさかべ)先生の件OKって伝えればわかるって」


 その言葉にどんよりとした気分は吹っ飛び、目の前が明るくなった。

 刑部先生は僕が大学院生だった時の担当教官だ。奥平教授とは違って細身のとっつき難い神経質そうな空気を発していて、実際に指導も厳しい先生だった。何度打ちのめされ、研究室で涙したかわからない。ただ決して適当なことを言う人ではなく、言葉ひとつひとつが誠実で思いやりに溢れた先生だった。


 僕はスーパーヴィジョンを受けようと思い、室長の芝先生に相談していたのだ。

 スーパーヴィジョンというのはカウンセラーがさらにベテランのカウンセラーに指導を受けることだ。

 相談室内のケースを外部に持ち出すには相談室長の許可が要る。僕は奥平教授から頼まれた男子学生のケースを相談しようと思っていたのだ。許可が下りた事できっと良い方向に進むのではないかと期待があふれた。


「ありがとうございます。スーパーヴィジョンの話です。今度受けようと思っていたんです」

「へえ、そうなんですか……」

 彼女はズズッとコーヒーをすすり、そっとパソコンの画面に目を移した。彼女はカチカチとマウスをクリックし、何か作業をしているようだった。

 僕はと言えば彼女からそれ以上返答がなかった事で、聞かれてもいないのに余計なことを答えてしまったことを恥じた。浮上した気持ちは一瞬にして萎んでいく。

 沈黙が二人の間に落ちた今、僕に出来ることは手の中のコーヒーをいち早く飲み干す事だった。


 目の前で湯気が揺れる。

 舌の上に転がしたコーヒーは僕には濃すぎて、全てが麻痺していくようだった。

ご覧いただきありがとうございます。次話は週末になりそうです。

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