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#2 男子学生

作品に登場する人物、施設、内容等全てフィクションです。嫌だなーと思ったら読むのを止めてください。

 一週間後のその日、カウンセリングに来ていた男子学生が突然「大学を辞めたい」と言い出した。


 この大学には人文系学部と理系学部の二学部しかない。彼は理系学部に籍を置いていた。どちらの学部生も基本的に三年次から研究室に所属し、そして所属した研究室で卒論を仕上げていくことになる。

 彼は一浪と一留を経て、昨年ようやく研究室に所属していた。僕とのカウンセリングもちょうど研究室に所属した時期に教授に勧められる形で開始した。


「どうやら人間関係があまり得意じゃないらしいんですよ。研究室に入ればメンバーもほぼ固定だし、上手くやれなかったら悩むことも増えるでしょうからね。そこで先生にサポートをお願いできると安心なんですよ」

 彼の初回カウンセリング時、うつむく彼と彼の紹介者である奥平(おくひら)教授はソファに並んで座り、僕にそう告げた。


 僕は二人を見比べた。昔読んだバスケットボール漫画の監督を思わせる体格の先生と、うつむいた視線をおどおどと彷徨わせ白くひょろりとした学生。臭いこそ無いものの、寝癖で跳ね散らかす髪の毛に首元の伸びたシャツ、手垢で曇った眼鏡など、あまり清潔とは言えないくたびれた身なりをしていた。


 学生相談をしていると学内の先生達の噂がよく聞こえてくる。奥平教授はいつも穏やかで優しい先生だと学生たちの評判が良かった。研究室も人気で「奥平研究室に入れなかった」という学生の嘆きの声もたまに相談室に持ち込まれる。

 僕の他界した父親も穏やかで、めったに怒ることは無かった。雰囲気が父親に似ているからか僕はこの先生に親しみすら感じていた。だからとは言わないが、この先生の隣にいる男子学生が先生から目をかけられ、守られる立場にいることを若干羨ましくも感じていたのだ。

 

 僕はその羨望を自覚していた。だからこそ、彼とは()()()()を気づきたいと思った。

「先生。彼は何かの病気なんでしょ? なんかこう、パッと元気になって、落ち込まなくなるような薬ってないんですかね?」

 奥平教授は男子学生の肩をポンっと叩きながら僕に問いかけた。学生は肩に手を置かれた瞬間大げさな程身体を揺らした。その様子に苦笑いしながら、僕は奥平教授の期待に若干申し訳なさを感じつつ答えた。

「すみません、僕は医師ではないので診断も、薬の処方もできないんです……。それにそもそもそういう薬は存在しません……」

「ええっ、なんだ、そうなの? お医者さんじゃないのか! あっはっは、これは失礼しました!」


 奥平教授に合わせて僕も笑った。こういう勘違いは結構な割合である。

 僕たちカウンセラーは医師ではない。心理の専門家としてこの職に就いている。医師のように薬を出したり、病名を診断することはできない。面接や検査でクライエントの状態を見立て、それぞれが専門とする手法を使いながらクライエントと共に設定した目標を目指すのだ。

 僕は気を取り直して教授の隣で小さくなっている学生に向かって告げた。


「よくなるのは少しずつかもしれないけど、君が困っていることについて一緒に考えていきましょう。よろしくお願いします」

「ょ、よろしく、お願いします」


 僕が挨拶を口にした時、学生は初めてこちらを向いた。

 意外にも彼はこちらを真っ直ぐ見つめたものの、その目にはおびえが滲んでいた。

(別に取って食うわけじゃないのに)

 僕は微かな苛立ちを感じた。


 彼はカウンセリングには休まず、時間通りにやって来た。僕は彼に情報共有の了承を得たこともあり、奥平教授とも時々連絡を取っていた。彼は研究室でも他の学生となんとか上手くやれているらしい。


 彼とは趣味などの話を通して徐々に打ち解けていくことができ、最近では留年した時の気持ちなども話すようになっていた。僕たちはこのカウンセリングの目的を「自分の気持ちを言葉にできるようになること」と設定していた。彼は幼い頃から緊張すると上手く言葉が出なくなることがあり、そのこともコミュニケーションの苦手意識に繋がっていたらしい。


 卒業単位もおおよそ取り終わって、後は卒論と数えるほどの単位を残すだけだった。その時期に「辞めたい」というのはどういうことだろう。前回のカウンセリングで『卒業が見えてきた』と話したばかりじゃないか。僕は半ば裏切られたような気持ちで彼に尋ねた。


「突然辞めるって……、何かありましたか?」


 彼は膝の上で両手を固く握りしめながら、言葉を絞り出すようにして答えた。

「ずっと……、ずっと考えていたんです。ぼ、僕はここで何をしたらいいのか」


 僕も彼の緊張に引きずられるように顔が強張ってくる。

「そうなんですね。他に相談した人はいますか?」

「ぃ、いえ、いません」

「奥平先生には?」

「……ぃえ」


 裏切りだ、と僕の心にどす黒く、熱いものが渦巻いた。

 なぜあんなに心配され、気にかけてくれていた奥平教授に相談していないのか。手厚くサポートを受け、ここまで来たはずなのに。これでは奥平教授のことも、僕の事も裏切っているだけだろう。

 僕は怒りに変わった苛立ちを抑えながら、学生に問い続けた。


「今年卒論を書けば卒業できるはずだけど、卒業はできなくても良いってことですか」

「……そうなります、結果的に」


 学生はここに来たばかりの時のように小さくなっていたが、僕の問いにはっきりと答えた。


「先生に相談しなかったのはどうして?」

「せ、先生は、絶対辞めるなというので」


 そりゃそうだろう、辞めさせたいと思う先生はいない。僕は学生の発言の真意をつかみかねていた。学生はまたおどおどとした態度になりながら、しかし僕に何かを伝えようとしていた。


「ぃ、言い方はあれですけど、こ、ここに来たのも、辞めさせないためで」

「自分の教え子を辞めさせたいっていう先生はいないでしょう?」


 堪りかねて僕は心に浮かんだことを口にしていた。彼の額には汗なのか皮脂なのかわからないじっとりとした湿り気が見て取れた。彼はその額を手のひらで拭った。その拍子に束になった前髪がボロリと額に落ちてきた。


「ぁ、あの、そういうのじゃ、なくて……」

「あ、そうか。もし単位のこととか、授業のことで困っている事があるなら教授に相談してみるといいんじゃないかな」

「ぁ…………」


 僕は彼の発言について、背景に「卒業を控え、単位や授業の出席状況などが不安になってきた」ことがあるがゆえに「辞めたい」という言葉につながったのだと推測した。

(あれ……?)

 その瞬間、変なモヤモヤとした違和感が僕を包んだ。

 だが、言葉を詰まらせつつも彼の表情からそれまでの必死さがスッと影を潜めたこともあり、僕の推測が正しかったのだろうと違和感も去っていった。


「私からも先生にお話してみようと思いますけど、どうですか?」

「……。お願いします」


 基本的には面接内容を本人の許可なく第三者に伝えるわけにはいかない。そのため本人に伝えて良いかどうかの了承を取ってから、本人の不利益にならないような形で第三者に伝え、協力を仰ぐことがある。

 僕は今回の学生の話は、担当教員である奥平教授と共有すべきだと考えたのだ。学生もそれを了承してくれた。


 次のカウンセリングは彼の申し出で曜日を一日繰り上げることになった。基本的にカウンセリングは同じ曜日、同じ時間に行うものなのだが、大学をはじめ学校では授業との兼ね合いもあるので、時間を変更することもままある。今回は、彼の受けている授業が時間変更でカウンセリング時間と重なってしまったらしい。

(本当に大学を辞めたいなら出席回数なんかどうだっていいはずじゃないか)

 そう考えれば考える程、彼は本当は大学を辞めたくないのだろうと僕は確信した。


(……ん?)

 再び、変なモヤモヤが僕の心を覆う。何かがしっくりこない。僕を包む大きなモヤが僕の心を、所在を奪っていく。

 この感覚には覚えがあった。


 僕の母親は、僕が大学に進学することに反対だった。姉のように専門学校に行き、すぐに働ける資格を手にすべきと考えていた。


『なんで訳の分からないオカルトのためにお金を払わないといけないのよ? お姉ちゃんみたいにすぐ役に立つ資格を取りなさい』


 僕の志望は心理学部だったから、古い人間の母親には心理学はオカルトと同じ意味に感じられたのだろう。志望していた大学がそれなりに名のある大学だったためか、進学実績を上げたい高校側の説得で大学進学は渋々認めてもらえた。しかし、当時の僕は目を三角に吊り上げながら憤る母親に逆らってまで進学することに罪悪感すら感じていた。何が何でも合格しなければいけないというプレッシャーで眠れない夜を過ごしたし、原因不明の頭痛に悩んだりもした。


 だが何とか合格してみれば母親は鼻高々で近所に触れ回り、高校の先生にも嬉々として菓子折りを持っていく程の浮かれようだった。そして母親は僕に言った。

『ほら、ママの言うとおりだったでしょう? 多少苦しい思いをしても大学に行った方が良いのよ』

 まるで宇宙人と会話しているようだと感じたんだ。けれどそれもいつものことだったから、僕は確か「そうだね」とだけ答えたんだったっけ……。


 考える程にモヤはどんどんと湧き出し、僕をすっぽりと包んでしまいそうだった。

(ダメだ、早く電話してしまおう。きっとこの問題を抱えたままだからだ)

 僕は予定を記載した手帳を閉じ、デスク上の電話を手に取った。内線表を手に取りながら、話す内容を頭の中で組み立てる。

(まず挨拶。そして、相手の状況を伺う。そして本題、彼が学校を辞めたいと言い出していることについて……。よし、大丈夫)

 大きく息をついてから、奥平教授の番号をダイヤルした。


 受話器を耳に当てるとコール音の合間にコォー、コォー、と風の音がした。

(あ……、僕だ)

 受話器に自分の息がかかり、風の音のように聞こえたのだ。無意識に呼吸が荒くなっていたようだ。慌てて呼吸を整えようとしたが、コール音が途切れた事で僕はさらに慌てる羽目になってしまった。


「はい、奥平です」

「あ、えっと、学生相談室の……」

「ああ! こんにちは! 彼、最近どうかな?」


 名乗り終わる前に奥平教授のエネルギッシュな声が耳に飛び込んで来た。教授が機嫌よく受話器を取っている様子が目に浮かび、僕は若干落ち着くことができた。


「あの、実はご相談したいことがありまして……」

 そう切り出した僕は、先ほどの男子学生との面接内容を告げた。

「ええっ! そりゃマズいね。わかった、ちょっと彼と話してみるよ。もしかしたら親御さんを呼んで話をした方がいいかもしれないね。うん、わかった。どうもありがとう!」


 お礼の言葉と同時にガチャリと乱暴に受話器を置く音が響くと、僕を包んでいた変なモヤの影は薄くなっていた。僕は静かに受話器を置き、深いため息をついた。


「ふうー……。さて、と」


 ふいに風が流れ、前髪が揺れた。


「――っ!!」

 はじかれたように振り向いた瞬間、僕は息が止まりそうになった。


 いつの間にかマオがソファに座っていたのだ。

 

 彼女は初回同様にドアのすぐ近くのソファにちょこんと座り、こちらをジッと見つめていた。

お読みいただきありがとうございます。次話は明日18時に予約投稿しています。

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