#1 タヌキの少女
登場する人物や施設、内容等は全てフィクションです。明るい話ではないと思うので、嫌だなと思ったら読むのを止めてください。
僕の仕事は職場の窓を開けることから始まる。
僕が勤める大学は都市部から車で数十分ほどの山の麓に建っている。窓を開けると湿った土と若草の匂いが吹き込んでカーテンを揺らした。
僕は数年前からこの大学の学生相談室のカウンセラーとして働いている。学生相談室とは学生を対象にカウンセリングを行う施設で、基本予約制で、料金は無料である。
カウンセリング中は窓を開けられない。そのため新しい空気を室内に取り込むために朝イチで窓を開けるのだ。そして僕は受付のパソコンを立ち上げ、こっそりと今日の予約を確認する。
「今日は、三限が空きか……」
本来なら予約の管理は相談室受付兼事務職員の仕事となっている。しかし僕はあまり人付き合いが得意ではない。だから……というわけではないのだがこの春、新しく相談室の受付に来た女性と積極的に関わりたいと思えず、自分で予約を確認していた。そして学生が来るまで部屋で待機している。
カウンセラーだからといってコミュ力抜群なわけではないのだ。むしろ自分のように関係作りが得意ではない人間がカウンセラーになるのではないかと思っている。
予約の確認が済み、相談室に戻ろうとしたときに、パソコン脇に小さな卓上カレンダーが置いてあることに初めて気づいた。優しい色合いのタヌキのイラストのカレンダーだ。きっと受付の彼女の趣味なのだろう。だからどうした、という事ではないが。
その日も僕が出勤して三十分経った頃に「おはようございます!」という元気な声と共に受付の職員が出勤してきた。僕も部屋の中から一応「おはようございます」と返す。聞こえているのかはわからないが、無視するよりは良いはずだ。
その日も予定通りに学生が来談し、休憩時間となる三限目が訪れた。
空気を入れ替えようと窓を開けたその時だった。
コン、コン
控えめに、しかしはっきりと相談室のドアがノックされた。
このドアをノックするのはカウンセリングを予約している学生か、受付の職員のどちらかだ。しかし今日はこの時間予約は入っていないはずだ。とすれば、受付が訪ねてきたのか。
僕はドアノブに手をかけ、一度深呼吸して、ゆっくりとドアを開けた。
そこにいたのは学生と思われる小柄な少女だった。
「君、は……?」
「相談に来ました」
僕がおそるおそる尋ねたのに対し、少女は語尾まではっきりと答えた。
「予約はしてないよね?」
「はい。していませんが、時間が空いていれば当日でも相談を受け付けているとポスターで見ました」
「えっと受付は?」
「今日は無理ですか?」
チラッと受付に視線を向けると『外出中 すぐ戻ります』の札がかかっている。
もう一度目の前の少女に目をやる。茶色いふわふわとした髪の毛を風に揺らし、たれ目がちな瞳はまっすぐ僕を見据えている。
僕は手のひらがじわっと湿ってくるのを感じた。
基本的に予約の相談以外は受け付けていない。それはカウンセリングを行う上で大切な決まりだ。彼女の言った「当日も受け付ける」というのは「一旦受付で話を聞き、カウンセリングとしての時間は改めて設定しますよ」という意味合いだ。
緊急時など例外もあることにはあるのだが……。
僕は悩んだ。
本人が「無理か?」と聞いているのだから断ってもいいのだ。しかし目の前の彼女からは必死さも感じられる。受付が戻るまで待たせるか。だが「予約もないのに直接来室する」ということ自体、この子の問題が現れているではないか。そうだ、緊急性はそれなりにある。
若干強引な理論展開ではあったが、一つ大きな息をつき、手をスラックスで拭いながら「どうぞ」と少女を室内に招き入れた。
要するに断るのが苦手なのだ。
室内には自分のデスクの他に、応接用の小さなテーブルとソファーがおかれている。実は箱庭などもあったりするがあまり使っていない。
彼女は一番入り口に近いソファーにちょこんと腰かけた。
まず初回時には全員に書いてもらっている「相談申込用紙」を彼女にも渡した。学内の機関であっても個人情報を知られることに抵抗のある学生もいるので、「書ける範囲で良いですよ」と告げると彼女は軽く頷いて記入を始めた。
僕は彼女の対面を避け、直角に位置するよう座った。記入する彼女の様子を見て僕は内心ギョっとした。彼女はまるで幼児のようにペンを握りこんで持っている。書き込む字もようやく判別可能というところだ。しかし彼女の顔は真剣そのものだった。
彼女が書き上げた申込用紙には「マオ」という名前と「はなしをきいてほしい」という主訴のみ記入され、あとは空欄だった。
紙から顔を上げ、彼女を見る。
丸顔にたれ目。ふわふわとした茶色い髪は肩程のボブ。オーバーサイズの服を着ている。
彼女の話とは何だろうか。いや、この文字の感じからすると学習面で困っているのかもしれない。とすれば単位関係だろうか。僕は想像を巡らせた。
「あの、ここに書いてもらった『はなしをきいてほしい』ということについて、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
僕がお決まりのセリフを口にすると、少女はパッと顔を向けてパチパチと瞬きをした。そのしぐさが小動物みたいだと思った。
「字、読めましたか?!」
「読めましたよ。お名前も『マオ』さんで間違いないですか?」
「そうです! 良かった!!」
どうやら字が綺麗でないことの自覚はあったようだ。嬉しそうに笑みを浮かべる彼女は、次の瞬間爆弾を落とした。
「私、タヌキなので」
タヌキ。
狸、たぬき。
「え、っと。タヌキ、っていうのは?」
ここは質問に限る。勝手な推測はクライエントへの理解を歪ませてしまう。
「タヌキです。知りませんか? 動物の」
「動物のタヌキは知っています。あなたが誰かに『タヌキ』と呼ばれているということですか?」
そうだとしたら本人は気づいていないのかもしれないがいじめかもしれない。そんな思いを抱きながら僕はさらに質問を加えた。
だが、平然とした顔の彼女から返ってきたのは、さらに僕の思考に混乱を招くものだった。
「いいえ、私、タヌキなんです。タヌキだけど、人間に変身して来ているんです。話を聞いてほしくて」
僕の心臓は跳ね上がった。そんな時ほど冷静にならなければいけない、大学院時代の恩師が言っていた。
すぐに今後の対応を頭の中で組み立てる。
ふざけているだけなら良い。でもそれならこんなに真面目な顔で話せるだろうか。もしかしたら彼女は精神病を発症しているのかもしれない、もしくは薬物使用による幻覚や妄想の類なのかも。発達の偏りによってそう思い込まざるを得ないのかもしれない。たとえどの場合でも、彼女を医療機関に繋げるよう話を進めなければ……。
頭をフル回転させている僕をよそに、マオは話を続けた。
曰く、5つ子の真ん中として生まれ、幼い頃から人間への憧れがあり、変化の術に加えて文字や言葉などの人間の文化を必死で学んだ、と。
しかし母にはあまり認められないまま、人間でいうところの成人を迎えた。さてこれからどうしようか、と考えながら住処の近くのこのキャンパスを散歩していた時に学生相談室の案内を見た。そこで学生に化けて相談しようと思った、ということだった。
「どんな内容でもお話に来てください、と書いてあったので、私の話も聞いてもらえるかなと思って」
マオは学生証も持っていた。名字の部分は学生証を持つ指で隠れていたが、隠れていない顔写真の表情は固いものだった。
彼女も写真を撮る時は緊張するタイプなのだろうか。僕も昔から写真映りが悪いと言われ続けていたので、カメラの前では極力表情を変えないようにしているのだ。彼女の学生証のように僕の写真はいつも同じ表情だった。
「でも安心しました」
「え……っ、ええと、何がですか」
マオは学生証を持つ手を引っ込めながら、話を再開した。すっかり写真に気をとられていた僕は慌てて相槌を打った。
「先生が私の話をちゃんと聞いてくれそうなので」
ハッとマオの顔を見れば、彼女は学生証の写真と同じ表情で、まっすぐこちらを見ていた。
――試されていた。僕は瞬時にそう思った。
彼女は話を聞いてほしいと語り、母に認められないことへの不満を口にした。だがおそらく本当に話したい内容は話していないのだ。「タヌキである」と衝撃的な発言をし、その反応を見ることで僕が信頼に値するカウンセラーなのか彼女は慎重に見極めていたのだろう。
僕の口はすっかり渇ききり、声がかすれた。
「ちゃんと、というのは……」
「ちゃんとは、ちゃんとですよ。だっていきなり『タヌキです』って言われたら、人間って『あ、こいつ頭おかしい』って思うんじゃないんですか?」
そういって彼女は眉を下げ、困ったように笑った。その笑顔にどこか見覚えがあったが、それを思い出すには時間が足りなかった。気づくと既にカウンセリングの終了時間間際となっていた。僕はそこでようやく息がつけたような気持ちになったと同時に、終始彼女のペースに巻き込まれていたことに気がついた。
「先生、終わりですか?」
僕が腕時計に一瞬向けた視線をマオは見逃さず、すかさず反応してきた。
終了時間を迎えたことにホッとしていたことに気づかれただろうか。その懸念に気づかれないよう、僕は淡々と時間が終了であることを告げた。
「あ、はい。時間です」
「わかりました。じゃあ次はいつですか?」
「次、あ、ああ、次回は……」
僕はまたもや悩んだ。
完全にマオにこの場を支配されている。まるで僕がクライエントで彼女がカウンセラーのようだ。しかも僕の見立てでは、彼女には一刻も早く医療機関を受診してもらう必要がある。ここまで操作的な彼女の状態は思っているよりも重いかもしれない。様々な診断名が頭の中を渦巻く。
しかし僕を信頼したいと思っている彼女の気持ちを無視することで、彼女の症状が悪化でもしたら……。
(いや、でも……)
僕は彼女を見た。
丸顔とたれ目が幼く見せているのか、彼女は大学生というよりも中学生のように見えた。彼女には未来がある。このまま見過ごすことは出来ない。受診を勧めよう、そう思っていたはずなのに僕の口から出たのは全く異なるものだった。
「ではまた来週、同じ時間に」
口にしてすぐに、しまった!と思った。
そんな僕の内面など知りませんとばかりにマオはにっこり笑顔になった。
「わかりました。また来週ですね。ありがとうございました」
そう言い残し、マオはあっという間に退室した。まるで初めから自分一人しかいなかったかのように、静まり返った部屋に取り残された僕はしばらく呆然としていた。
ふわり、と舞い上がるカーテンが僕の意識を引き戻す。
「窓、閉め忘れてたのか……」
誰に言うでもなく呟きながら、僕は窓に近づいた。そして窓を閉めた後、いつもなら仕事時間に見ることのないスマホを手に取った。動揺を抑えたかったのかもしれない。
画面を明るくすると、珍しく通知が来ていた。
実家の姉からだった。
僕の実家には現在2つ上の姉と認知症を発症した母親が暮らしている。父親は僕が大学生の頃に他界した。
僕は大学進学と共に実家を離れ、そこからあまり寄り付かないようになっていた。小さい頃から母親には出来の良い姉と比べられ続け、正直実家が苦手だったのだ。
姉からは『お金ありがとう。たまには顔が見たいです。』とメッセージが送られてきていた。僕は介護をしないかわりに、定期的に送金してるからそのことだ。
「顔が見たい、だってさ。誰がだよ」
僕は口の中で小さく唱え、スマホの電源を落とした。
そういえばマオと名乗った少女は本当に来週も来るのだろうか。来週の同じ時間、念の為予約を取っておこう。医療機関の目星もつけておかなければ。
そう思い、僕はドアを少し開けて受付に向けて声をかけた。
「すみません。来週の三限目、空けておいて下さい」
受付の職員は既に戻ってきており、「わかりましたー!」と元気よく返事をしてくれた。数秒待っても彼女はそれ以上のことを聞いてこなかったので、僕はやり取りしなくて済んだことに安堵しながらドアを閉め、デスクに戻った。
次の学生が来るまでまだ数十分ある。その間にマオの記録を簡単にまとめておこう……、そう思って新たに記録用紙を出したとき、僕は今の安堵の理由に気がついてしまった。
もしさっき、受付の職員にマオのことを聞かれたら僕はどう答えていただろうか。答えようがなかったのだ。まさか「自分をタヌキだと妄想している女子学生が来たので、予約なしで相談を受けたうえに病院に繋ぐこともせずにここで相談を継続することにした」なんて口が裂けても言えない。適切な対応を取らなかったのなら、カウンセラーとして失格じゃないか。
突如としてあふれ出てきた不安に僕の足元はぐにゃりと歪んだ。そのくせ頭の中はキン、と音がしそうなほど感覚が張りつめている。
精神病の疑われる彼女が来週まで平穏に過ごす可能性は100%とは言えない。もし彼女に何かあったとしたら、相談に来た彼女に適切な対処を取らなかった僕はカウンセラー失格だ。
そうしたら僕はようやく手にしたこの生き方を手放さなければならない。
どうしよう、どうすれば。
激しさを増す動悸に僕の視界は揺れた。
ざわ、と窓の外で葉が揺れる音が聞こえた。
まだ……、まだ大丈夫だ、と僕は思い直した。
来週、予定通り彼女が来たらその時に対応すればいいだけだ。もし来なかったらそれは彼女が「行かない」という選択をしただけの事だ。そうだとしたら僕はカウンセラーとして彼女の選択を尊重すべきだ。
そう考えると視界が定まってきた。
僕は深呼吸を一つして改めて記録用紙にペンを走らせ始めた。
どこからか若草の青い匂いが鼻先をかすめた気がした。
お読みいただきありがとうございました。次話は明日の18時に更新予定です。