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2 魔道士の魔術

 ガツン、と激しい衝撃音がすると思われた。

 けれど、実際には無音だった。

 子どもの頭に激突するかしないかの刹那に、その水晶の岩は砕け散り、キラキラと光りながら空中に飛び拡がった。

 そのままスローモーションのように、欠片は落ちずに子どもの身体の上で浮遊している。

(これは、今朝の・・・・・・?)

 男は思わず見入っていた。

 無数の欠片のそれぞれに、男と息子のいる裏山の風景が映し出されていた。


 


 今朝はよく、晴れていた。

 裏山を上がって少し開けた場所で、男は切り株に腰を下ろした。空を見上げて深呼吸をし、木々の香りに心地よさを感じていた。

 その脇で、子どもは繁みに目を向けていた。何かを見つけたらしく、そちらに向かって歩いていく。


 男は子どもが離れていくのに気づいていなかった。子どもの方を、見てはいなかった。座ったまま、ざりざりとした土の感触を靴の裏で確かめてみたり、蟻が何か運んでいるのを見つけたりしていた。

 空は澄み渡っていた。緑が風に揺れていた。一人で歩いていった子どもは、惹きつけられたように繁みの中を覗きこんでいる。繁みの中にいるのは、半透明の、イタチのような生き物。見たこともない不思議な形状のそれに向かって、子どもは不器用に手を突きだした。半透明のイタチはその手に触れられて、揺らめいて形を崩し始める。瞬間、子どもの背後から飛びかかった、もう一匹の紫色のイタチ。のけぞって、声も上げずに倒れる子ども。


 その頃男は、流れる雲を見上げていた。葉擦れの音を聞いていた。

(なんて阿呆面だ)

 水晶に映る自分の姿を見て、男は思った。

 幼い子どもから、目を離すべきではなかった。

 悪いのは、すべて自分だ。

 

 



空蝉うつせみイタチか」

 魔道士の呟きに、男ははっと我に返った。


 水晶が空中を漂って過去を映し出していたのが、一瞬だったのか、数分間だったのかはわからない。ともかく魔道士が空中でぐっと何か握るような動作をした瞬間、辺りに浮かんでいた水晶の欠片はすべて消え去った。


 急に夢から醒めた時のように男は混乱しながらまばたきを繰り返していたが、その間にも魔道士は淡々と作業を進めていた。

 子どもの首の付け根のあたりに二本の指を当てて何やら呪文を唱えると、子どもをうつぶせに返し、いつの間にか手にした枯れ枝のようなものを背中の一点に押し当てる。

 ぐっと一度力を入れた後、トントン、と軽く突くと、その枯れ枝から半透明の葉が生え始めた。魔道士はその葉をむしり取り、人差し指と中指の間に挟んで自分の額にかざし、それからふっと息を吹きかけた。すると葉は、鮮やかな黄緑色に変化した。

 それを再び子どもの背中に持っていくと、その葉の上に朝露のように水が湧いた。傾けた葉から零れ落ちた滴は、子どもの背中の先ほど突いていた一点に、吸い込まれるようにして消えた。



「な・・・・・・なんだったんですか。うつせみ・・・・・・いたち?」

 男はやっと言った。


「空蝉イタチ。肉体と魂を分離して行ったり来たりする性質を持つ魔物の一種だ。この子は分離途中の、物質性と精霊性が不安定な状態の空蝉イタチに不用意に触れて、噛まれた。空蝉イタチの唾液には毒性があるし精神性の損傷も強かったから、放っておいたらもって二十時間だっただろう」

「それで、息子は助かるんですか?」

「空蝉イタチが原因だとさえわかれば、解毒薬はあるから問題ない。傷に残る魔力から攻撃時点のイタチの物質性と霊性の割合を測って逆位相の術をかければすぐに治る。あとはよく眠ることだ」

 たしかに、いつの間にか子どもの呼吸は穏やかなものに変わっていた。

 頬にも赤みがさしていて、普段眠っている時の様子と同じように見える。



 男は安堵のあまり、膝から力が抜けそうだった。

 けれどもまだ、ここからだった。

 男は言った。

「でも、まだ目を覚ましていないですよね」

「体力も精神力も眠ることでしか回復しない。ゆっくり眠らせた方がいい」

 魔道士はそう説明をしたが、

「し、信用できませんよ」

 男は言った。魔道士は、怪訝な顔をする。


「成功報酬と言ったな。め、目を覚ますまでは、成功とは言わないんじゃないか」

 男は精一杯の虚勢を張って言った。必死だった。

 ここが踏ん張りどころだ。

 この子が目を覚まし、起き上がり、歩くところを見届けなくてはならない。


「一度目を覚まさせることもできる。が、この子のためには」

 魔道士はなおも言ったが、

「そんなことを言って、金を払って連れて帰っていつまでも目を覚まさなかったらどうするんだ!」

 男は突然大声を出し、魔道士を怒鳴りつけた。


 魔道士は冷めた目で男を見ていたが、黙って子どもの傍へ行き、顔に手をかざして何か小さく呪文を唱えた。

 すると子どもは、ぱっちりと目を開いた。

「これで満足か」

「まだだ。起きて、歩けるまで」

 魔道士は、もう言い返すことはしなかった。

 子どもの顔にかざしていた手を身体の方にすべらせながらさらに呪文を唱え、それからまだあまり意識がはっきりしていないらしく目を見開いている子どもに話しかけた。


「起き上がれそうか?」

「ん・・・・・・」

 子どもはぼんやりしていたが、台の上で何とか身体を起こそうとし始める。

 魔道士は、それに手を貸している。



(私だって)

 まだスムーズに起き上がれない子どもを見ながら、男は思った。

(私だって、もっとゆっくり休ませてやりたい。ちゃんと快復するまで、眠らせてやりたい。)

 でも、それはできないのだ。

 病み上がりで可哀想だけれど、この子は自分の足で歩いて家に帰らないといけない。私が抱えて帰ることはできない。


 なぜなら私は金なんて、一Gも持っていない。治療はできなくても診察代は本来請求できる町医者も、事情を聞くと支払はいいよと言ってくれた。


 私は昨日、失業したのだ。

 会社をクビになったのだ。

 頭が真っ白になり塞ぎこむ私に、今朝妻は、息子を散歩に連れていってほしいと頼んだ。きっと私を気遣って、気晴らしになればと思ったのだろう。これまであまりにも仕事が忙しくて、息子と二人きりで外に出たことなどなかった。久しぶりの自然に、私の心は踊った。また一から出直したらいいんだ、そんな風に、前向きな気持が湧いてくるのを感じた。子どもを連れていることなどすっかり忘れていた。子どももおらず結婚も就職もしていなかった若者の時のような気分になって、私は自然の中で、自分のことしか考えていなかった。


 全部私が悪いのだ。

 この魔道士に、金を払うつもりはない。

 五千万Gなんて大金はそもそもないし、家や銀行にあるわずかばかりの貯金は、妻とこの子の将来のために、少しでも多く残しておきたい。

 この子が死んだら、どうせ私も死ぬつもりだった。当たり前だ。私は自分が許せない。この子が死んで、自分だけのうのうと生きるなんて無理な話だ。

 だが、幸いなことにこの子は死なずに済んだ。

 それだけで、充分にありがたいことだ。



「とうちゃ」

 見ると、何とか起き上がって歩くことができたらしい息子が脚にしがみついている。

「痛いとこないか?」

 男は訊ねた。

「うん」

 素直に頷く子どもを見て、男はたまらなくなった。しゃがみこみ、その身体をぎゅっと抱きしめる。柔らかく、温かい、生きている息子。これからも、生きていく、息子。


 その成長を、見ていてやりたかった。

 もっと、いろんなことをしてやりたかった。


「とうちゃ。苦しい。離して」

 あまりにも強く抱きしめたので、子どもは小さくもがき始めた。

 男は思わず笑みをこぼしながら、身体を離す。


「それだけ元気なら、もう大丈夫だな」

 男は言った。

「うん?」

「一人で帰れるな?」

「ここ、どこ?」


 男は立ち上がった。

 子どもを連れ、小屋の扉を開ける。

 小高い丘は見晴らしがよく、下りの先には見慣れた町が広がっていた。


「帰れるな?」

「ん・・・・・・とうちゃは?」

「父ちゃんはまだ用事があるんでな」

「じゃあ待ってる」

「駄目だ」


 男はあえて突き放すように言うと、息子の背中をばん、と叩いた。

「大丈夫。おまえは大丈夫だ。わからなかったら道を訊け。知ってる人か、優しそうな人に訊け。おまえは大丈夫だから」

 不安そうな顔の息子に、しっしっと追い払う仕草をする。


 元気でな。元気で生きろ。

 おまえなら、大丈夫だ。

 たびたび振り返りながらも丘を下っていく息子を見送り、かなり下まで降りたのを見届けてから、男は小屋の中に戻った。

 扉を閉めて、魔道士に向き直る。


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