幻冬花
『鏡花火』の数年後のお話です。
読まなくてもそこまで問題はないと思いますが、よろしければこちらもどうぞ。
《鏡花火》
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細波が砂浜を緩やかに行き来する、冬の海。
桟橋の下では、弱い波がちゃぷちゃぷと音を立てて勢いを消していく。
ほぅ、とわざと大きく息を吐き出せば、白く立ち上る吐息が風に消えた。
雪がなくとも身を切るような寒さは、気温の下がり続ける夜の海にいるせいで。
身震いしながら、私は桟橋の上であの日のことを思い出していた。
高校最後の年の夏、花火大会。
海に身を投げるという、かなり手荒いことをしてかつての担任——想い人——の心を大きく揺さぶったあの日。
すっかり『思い出』となってしまったあの口付けに、指を這わせて。
(やっぱり、大人はズルい)
想いは通じ合ったはずなのに、先生はそれっきり一切手を出してくることはなく。
私が卒業するまで、真っ当な教師としてその立場を貫いた。
そして、卒業後も。
(俺なんか見てないで、夢を追いかけなさい。なんてさ)
男としての欲など微塵も感じられない、大人の意見。
スマートじゃないのは、それを私に伝えたのが直接じゃなくスマホのメッセージだったこと。
以降、どれだけ気持ちを伝えても返事はそれのみ。コピペでもしてるの? という程に。
そして、ついには私も「わかりました」とメッセージを返し、繋がりは途切れた。
それが、3年半ほど前の話。
大学4年生となった今は、年末年始を実家で過ごそうと島に帰省している。
就職先はとうに決まっているし、あとは卒業を待つだけ。
余りある時間もすぐに有限となる。
そうなる前に、私はもやもやとした過去に向き合おうと決めた。
未来に進むために、私は踏み出さなければいけないのだ。
年明けの明日、呼び出した先生に、伝えたいことがいくつもあった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「何年振りだ……?」
かつての教え子、島で最後の生徒からメッセージが届いたのは、大晦日の夜だった。
島で仲の良い集まりに顔を出し、ほろ酔いで楽しんでいたところだった。
『お久しぶりです』
簡単な挨拶と、要件のみ。絵文字やスタンプはひとつもない素っ気ない文章。
『明日、会えますか? 桟橋で待っています』
今は本島勤務の俺が、島に帰省していることを見透かした誘いだった。
桟橋と言われれば、島民はみんなピンとくる。そんな何気ない場所。
頭の中に自然と蘇る、あの日の記憶。
月明かりだけの漆黒の海に、打ち上がった花火が鮮やかに色を放ち。
白く照らされた彼女の頰はうっすらと染まり、熱を持っていた。
触れた唇は柔らかく、今でも——。
……今でも、覚えている。
(情けないな……)
後悔かと問われれば、後悔。
この島がすべてのまっさらな彼女に、身近にいた若い異性が俺だけという、出来すぎた環境。
それで好意を寄せられても、教師としては「それでいいのか?」と思ってしまうのだ。
ひと夏の恋、ではないけれど。
大人になってしまった俺の気持ちは、冷めるのが早かった。
(島を出ることを後押ししたのに、引き止めるなんて。そんな、都合のいい話)
…………そして、都合の悪くなった俺は教師の仮面をかぶり、彼女を正論で突き放すことにしたのだった。
まったくもって、最低な教師だ。
(俺だけだろうなぁ。ずるずる引きずってるのは)
若く、新しい世界に羽ばたいた彼女には、新しい出会いばかりだっただろう。
そこに俺という足枷がないのは、彼女のためになったはずだ。
(俺に向けていた目は、その後誰に向けられたのだろう)
などと。
まだ心に居付く未練に頭を振って。
端的に「わかった」とだけメッセージを返した。
ほろ酔いはすっかり覚めてしまい、現実に……——ずっと、逃げていた現実に、直面して。
そこに差し出される新たな酒は誘惑の塊でしかなく、逃げるように手を伸ばした。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
歩くたびに体はふわふわと、そしてふらふらと足取りはおぼつかない。
蹌踉めくたびにガンガンと頭に響き、そこだけが重い。
「良いお年をー」
と解散になったのは少し前、日付が変わるまであと数十分のところ。
仲間内で年明けかと思いきや、家庭のあるやつから一人、また一人と抜けていった。
残ったのは俺ともう一人。
白けてしまったので、そこで解散としたのだった。
(飲みすぎた。いや、飲まされすぎた)
ゆっくりと、砂浜をあてもなく歩いていた。
キンと凍てつく海風が今の酔っ払いにはちょうどいい。
頭を冷やすにも、ちょうどよかった。
家に帰っても眠れそうにない。
それならば、そんな夜には背を向けて月を見ようと思ったのだ。
桟橋から見る今年最後の月。そして、始まりの月。
島にいた頃はよく月を見上げていた。
あの日も、同じように。
穏やかな細波が砂浜に乗り上げ、また返っていく。
波の音以外には足音すら聞こえない。
街頭のない砂浜には、月明かりのみ。
その月明かりも今では雲がかかり、遠くに存在していた。
だから、気づかなかったのだ。
桟橋に座り込む彼女が、こちらを振り返って声を上げるまで。
「……先生」
聞き慣れた懐かしい声。
それでいて、以前より大人びた。
「…………久しぶりだな」
酔いの回った頭で、意外にもすんなりと出た言葉。
とっさに被るか悩んだ教師の仮面は、結局被らなかった。どうせ、彼女にはもう通用しないから。
頭に鈍く響いてた痛みは、気がつけば消えていた。
波の届かない砂浜に、二人並んで腰を下ろす。
わざわざ桟橋から移動した理由は言わずもがな。
訝しむ彼女に「前科あり」と伝えれば、不貞た口調で。
「真冬の海に飛び込むほど、命知らずじゃありません」
「泳げないのに飛び込む時点で命知らずだ」
「先生が助けてくれると信じていました」
「あのな、俺がどんな思いで……」
————沈黙。
どんな思いで。そして、その後の。
本人が隣にいることもあり、鮮明に思い出してしまう。
ちらりと彼女を見やれば、あの時よりも熟れた唇はぷっくりと主張していて。
どきりと、心臓が高鳴った。
「…………ふふっ」
彼女の唇から笑みが溢れる。
慌てて視線を外し、何事もないように「どうした?」と俺は返す。
月明かりが遠く、お互いを照らすことがなくてよかったと思った。
「先生、私ね。泳げるようになったんですよ」
「え、嘘だろ」
「本当です」
彼女は得意げに笑う。
その他にも、島ではできなかった色々なことを体験したという。たくさん見て、聞いて、触れて、学んで。
楽しげに話す彼女は、俺の知らない道を歩んできていた。
教師としては嬉しく、それでいて寂しい。
隣にいるのに遠いような感覚は、俺の胸にぼんやりと影を差していく。
「島を出たから、私は成長できました。背中を押してくれた先生のおかげです」
「……俺は、何も」
「だから、夢が1つ叶ったんですよ。春から、私は教師です」
教師。俺と同じく。
そうなりたいと、いつの日だったかちらりと聞いたことはあった。
その夢が叶ったのならば、俺の葛藤はそろそろ捨ててもいいのだろうか。
「そうか。おめでとう」
「教師の夢をくれたのも先生ですよ」
「俺?」
「他に先生なんて、いないじゃないですか」
(また、俺を揺さぶる)
島民100人にも満たない小さな島。
生徒は1人で、教師も1人。
唯一の学生であった彼女が卒業してからは、なんとか残っていた学校も廃校となった。
「だから、先生にお礼を言いたかったんです。私の人生の道標になってくれたから」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないですよ。私のために島に残ってくれたことも、簡単なことではなかったはずです」
はらり、はらりと、雪がちらつく。
穏やかな風に流され、夜の海を白い花びらが舞う。ふんわりとした大きな雪の粒は、花弁雪だ。
砂浜に落ちても形を残し、溶けることなく。
いたずらに、彼女の髪にもくっついた。
「先生、ありがとうございました」
「……どういたしまして」
自然と手を伸ばしていた。
彼女から離れない花弁雪をそっと掴むと、すぐに手の熱で溶けてしまった。
手の中に残るものは何もなく、暗がりで交差する視線と視線。
また、どきりと、心臓が高鳴った。
(彼女はまだ、俺のことを好いてくれているだろうか)
酒で回らない頭は、欲望のままに彼女を求めている。
「……それとね、先生。言いたいことがもう1つあって」
花弁雪がまた、彼女に戯れるようにくっつく。
俺の手を避けて、熱の伝わらない彼女の髪の毛に。彼女のコートに。
溶けない雪は、次々と花を咲かせる。
「まだ、追いたい夢があるんです。だから、諦めなくちゃいけない」
「何を?」
「————先生のこと」
小さく吐き出す彼女。
それを打ち消すかのごとく、海上で轟いた大きな破裂音。
白く霞む雪の中、鮮やかに花開いた光が海へと落ちていく。
(俺のこと?)
鈍った頭は彼女の言葉を飲み込もうとせず、思考の外へ吐き出してしまう。
ただ、体は。
俺の体は、彼女の言葉を拒否するように反応し、伸ばしたままだった手を彼女ごと引き寄せた。
目の前の彼女は瞬きすることなく、されるがままに息を呑み込んで。
ぷっくりと熟れた唇を、俺は獣のごとく貪った。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
午前零時をまわり、新年の幕開けと共に花火が打ち上がるとは聞いていた。
いつからそんな催しを始めたのかとお母さんに問えば、今年は観光客が多かったからだと答えた。
この島の夏の名物、『鏡花火』。
少し離れた小島から打ち上げられる花火は、漆黒の海を色とりどりに染め上げる。
花火を見上げるだけでなく、水面に写った花火も同時に楽しむのだ。
メディアに取り上げられ、昨年の夏は通年の倍以上の賑わいだったとか。
年明けの花火も、それにあやかったものだった。
「……っふ、……」
強く体を引き寄せられ、体は密着状態。
酸素を求めて顔を背けても、すぐに唇を塞がれてしまう。
まるで貪るかのように、先生の舌が絡みついてくる。
熱い。
(この反応は、予想外)
雪が舞う直前だった冬の空は雲が厚く、月明かりが遠かった。
そのため、久しぶりに会うことのできた先生の表情がよく見えず。
……思いがけない再会だったので、すっぴんを見られずに済んでよかったけれど。
ただでさえすぐに仮面を被ってしまう先生の表情が見えないのは、不安だった。
何を話しても動じず返ってくる答えは、あの頃のままのような気がして。
(だから、少しだけカマをかけた)
握り込んだ手で先生の胸を叩く。
ようやく解放された唇には、先生と私を繋ぐ糸が花火の光に照らされて。ぷつり、と切れた。
先生は名残惜しそうに私の唇を指でなぞる。
「俺のこと、諦めるの?」
「え……」
「まだ、好きでいてくれたのか?」
また引き寄せられる。
先生は私の肩に顔を伏せ、甘えるように擦り寄った。
先生の肩越しには大きな雪の花びらがひらひらと舞い落ち、花火の光を淡く吸い込んだ。
(綺麗。花弁雪に、色がついたみたい)
等間隔で打ち上がる花火の破裂音に、こちらも規則正しい心音を感じる。
高鳴っているのは、私のものだけじゃない。
先生は深く息を吸い込み、吐き出した。
首筋に息がかかり、くすぐったかった。
「俺のこと、諦めるならそれでいい」
「先生、」
続きを言葉にする前に、ぐい、と体を離された。
「でも、また振り向かせる。お前のもう1つの夢が叶ってからでいい。いつまでも待つ。突き放していた分、俺も待つから」
「先生……?」
「待つから。……——どんなに諦めようとしても、お前のことが忘れられないんだ」
大輪が海上で花開く。
一際大きな音に、自分の心臓が鼓動したのかと錯覚した。
どんどん数を増して色めく花弁雪が幻想的で、その中には見たことのない先生の顔があって。
教師の仮面を被っていない、男のひとの顔だった。
(そんな顔、するんだ)
途端に頰が熱を持つ。
私は今、先生の中の男のひとに求められている。
「返事は?」
「…………はい。でも、先生」
言いかけて、また遮られる。
開いた唇にここぞとばかりに割って入ってくる舌はやっぱり熱くて、私の頰を包む先生の手も熱い。
今度は貪られることなく解放され、おでこに軽いキスを落とされた。
コツンと、先生のおでこも落ちてきた。
「どうしよう。今すぐ俺のものにしたい」
「ま、待ってください!」
「わかってる。……ちゃんと待つから」
するりと、先生の頭は私の肩にすべって落ちる。
「追いたい夢って何?」
肩口でもそもそとしゃべられ、くすぐったくて身じろいだ。
いつのまにか腰にまわされていた先生の手は、そんな私を逃さないとばかりに抱え込む。
「……内緒です」
「なんで?」
「言えません」
「言わなきゃ、待ちようがない」
「…………恥ずかしくなりました」
肩にかかる重さがなくなった。
真正面から見つめてくる先生の瞳のから、目を逸らす。
「笑わないから、教えて」
「……怒りません?」
「怒らないよ」
目線を上げると、かちりと合う。
海に打ち上がる大輪に照らされた先生と、その周りを舞う淡い花弁雪。
同じく照らされる私はきっと、目も当てられないほど紅潮している。
「…………お嫁さんです」
笛の音が空へ上がり、少しの沈黙。
小さく小さくつぶやいた言葉は、先生にしっかりと届いていた。
ぽかんと口を開いたまま、少しずつ先生の頰が染まっていく。
「お嫁さんです。……先生の」
「俺の……」
「…………はい」
二人、向き合って俯き、赤面。
ドォンと音を響かせて花火は咲き綻び、海へ散っていく。
「俺のこと、諦めるって」
「本当は、先生を諦めることを諦める、です。カマかけました……」
「お前、また……」
「ごめんなさい」
先生は両手で顔を覆い、はぁ〜っと大きくため息をついた。
「またやられた」という先生と、「またやってしまった」私。
気まずそうに顔を上げた先生はやっぱり気まずそうな顔をしていて、それを隠すように私を抱きすくめた。
「……俺、こんなだけど。本当にいい?」
「先生がいいんです」
あたたかい。
閉じ込められた腕の中で、私は答える。
「今度はもう、離さないぞ」
「ずっとそれでいいって言ってたじゃないですか」
「……そうだったな」
ぎゅっと、腕に力が入った。
苦しくはないけれど、逃げ出すことのできない束縛。
それは、先生の意思の表れ。
「3月には卒業だな?」
「はい」
「じゃあ、それまで待つよ」
「……? 何をですか?」
私の上にある、先生の顔を見上げる。
気まずそうだった表情は消え、穏やかに私を見つめる。
おでこにキスを落とされ、頰を擦り寄せたまま耳元で。
「結婚しよう」
低い声で囁かれた。
打ち上がる花火は最後の乱舞が始まり、彩りあふれた花弁雪が舞う。
砂浜に少しずつ積もった花たちは光を纏い、淡く私たちを照らし出した。
「はい」と返事をした私に、先生は少年のようなくすぐったい照れ笑いを浮かべて。
優しく、それでいて深く。
貪られるようなものとは違い、甘く、ゆっくりと唇を合わせる。
『思い出』の口付けから、数年越しに。
私たちはようやく、未来に向かって歩み出した。