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素敵な才能

作者: 夕季きろ

ヒースは天才的な演技ができる天才俳優だった。かの有名な映画の主演を務めた役者の母と世界各国が熱狂した名作映画の監督の父の間に彼は産まれた。小さい頃から、母はヒースに厳しい演技指導を課し、父は子を撮影現場へと連れて行き映画とは何かを延々と語った。幼くしてヒースは役者の運命を背負い、母の口利きでファミリー向け映画の主演をすることになった。

幼いヒースは泣き出したい気持ちを押し殺して、懸命に蔓延る大人たちの前で演技をした。その甲斐あって、彼の演技は多くの人の心を揺さぶりその年のアカデミー賞やらゴールデングローブ賞なんていう得体の知れない名誉を小さなヒースに与えた。彼は大勢の人の前で耳にタコができるほど母に教えられたスピーチを何度も披露した。母から教えられたことを披露するたびに多くの人が椅子から立ち上がり涙をながしながら拍手した。

 あんなに小さいのに堂々として立派だ

 心揺さぶる演技をありがとう

 うちの子も役者にしよう

 あんなに天才な子がいるんだ映画界の未来は明るいぞ

そう誰もが尊敬の眼差しを向け天才子役に言った。でも、ヒースはよく分からなかった。自分がなぜ褒められているのか。なぜ、母も父もぼくのことを誰かに認められた時にしか褒めてくれないのだろうか。ヒースはスピーチを終え、拍手が吹き荒れる壇上の上でとてつもない孤独を感じた。だけど、彼は天才子役だった。子どもらしいあどけない笑顔でお辞儀をし皆に手を振った。心は泣きじゃくっているのに懸命に演技をした。そんな人生をひたすらにひたすらに繰り返した。

 ヒースは嫌な奴になった。撮影の現場に遅れてくるのは当たり前。酷いときなんか綺麗な女の人を脇に連れてべろべろに酔っぱらってスタジオにやってきた。他の役者は一時間も前から待機して、台本を何度も読み返し精神統一をしているのにヒースは酩酊しながら千鳥足。みんなに白い目を向けられながらも彼は酒を飲んで、横にいる愛人のお尻を触る。ほんとうにヒースは最低な奴だった。けれど、3、2、1、アクション!監督が唾を吐きながら開始の合図を出すとヒースは人が変わる。彼は天才だった。彼にとって演じることは呼吸するのと同じ。さっきまで酔っ払いながら嫌がる女性スタッフにセクハラを仕掛けていたくせにカメラの前では縦横無尽。彼はどんな状況でも誰にでもなれた。恐ろしい凶悪犯罪者、紳士的で利他主義を重んじる男、ガソリンスタンドの定員、面白おかしいモンスター。ほんとうになんにでもなれた。演技をさせれば右にでる者はおらず、彼の演技を目にするたびに努力家の俳優たちは悔しさを滲ませながら憧れを抱いた。撮影が終わるとまた彼はただの酔っ払いに成り下がる。でも毎回演技を終えると、周りの人間が向ける目は百八十度変わる。セクハラされていたスタッフなんて乙女みたいにもじもじし始める。ヒースはその尊敬の視線を浴びると気分よさげな表情で愛人の腰に手を回す。彼は片手をあげて

「それでは、みなさん」

なんて言って、スタジオからふらふらと去っていくのだ。

 その日は久しぶりの休日だった。ヒースは愛人を誘いお高い昼食を食べた後、街を歩いた。通りを歩いていると数人の男が声を大にしてチラシを配っていた。何気なくそのチラシを受け取ると、通りの角にある小さな劇場でこれから舞台が行われるという報せが書かれていた。

「旦那、うちの舞台は面白いでっせ!特に主演女優のヘレナの演技は一目は見た方がいい!」

劇団員のチラシ配りの男は興奮しながら言った。

「惚れ惚れしますよ!」

ヒースは『ふん』と鼻で笑った。俺ほどの天才俳優を満足させる演技や舞台なんてないと言うように意地悪く嘲笑した。だけど、彼は酔狂な男だった。賭け事は好きだし、意味のない散財もよく好んだ。ヒースは空いた休日の午後をそのつまらなそうな舞台を観てつぶすことにした。劇場はこじんまりとしていて、座席数も少なかった。ところどころ座席の椅子は虫食いのような穴が開いていて座り心地は悪い。通りであんなに大声でチラシを配っていたのに客の数はまばらだった。舞台が始まる前からヒースはチケットを買ったことを後悔した。隣に座った愛人も退屈そうな顔で欠伸をする。やっぱり帰って酒でも飲もうかと思い彼は立ち上がろうとした。

 『ブゥ―――――』

重々しいチャイムが劇場の底に流れ出す。それは開演の合図。お話のはじまり、はじまり。

大きなカーテンが引かれ、ゆっくりと幕が上がる。

  ラララーー、、シーンギインザレイン―――

壇上の真ん中に一人の女の人が立っていた。彼女は長い深緑色のロングスカートを揺らしながらゆったりとステップ。結んだ髪の端っこがスポットライトの光を受けてキラキラとしている。彼女は嬉し気に『雨に唄えば』を口ずさみ、ただ楽しそうに舞台上で微笑み豊かに踊る。ヒースは目を見張った。なぜだか、彼女の一つ一つの所作を天才俳優は追いかけた。舞台の上の夜の中、澄み切った声で歌う彼女は一際輝いていた。

少しづつ他の演者が彼女の輪に加わり、物語が形を成していく。でも、ヒースの瞳には彼女の姿しか映っていなかった。隣の愛人は三十分と経たず白目を向いて大いびき。それを無視してヒースは主演女優ヘレナの演技に一人、すべてを忘れ見惚れていた。

 物語のクライマックス。ヘレナ演じるヒロインは恋に落ちた男と共に駆け落ちする。互いの親の反対を押し切って走り出し、二人は手を取り合ってバスに乗り込む。どこに行くのかも分からないバスに乗り最果てを目指して。二人は乗り込んだバスの座席で一度キスをする。だが、二人は愛する者同士のはずなのにとても悲しい表情をしていた。とても切ないキスだった。そこで幕が下りた。客たちはパチパチと思い思いの拍手を贈り始める。舞台袖から演者たちが一列に並んで現れ、皆で手を繋ぎ深々とお辞儀をした。その真ん中には主演のヘレナがいて、彼女は少女のような明るい微笑みを浮かべ客席を見回していた。ヒースは自分でも気づかないうちにお客に混じって呆け顔で拍手をしていた。彼がなにかを称賛することなどまずない。だって自分の演技がこの世で一番だと思っているから。なのに、その日見たヘレナの演技は自分の深い場所へと届いてくる聡明な美しさがあった。ヒースは隣で寝ていた愛人を揺すって起こす。彼女は目をぱちくりとしてから『あら、もう終わったの?それは残念』なんて口にする。ヒースはポケットから数枚のお札を取り出すと起きたばかりで朦朧とする彼女にそれを握らせた。

「君、僕は用事が出来たから先に帰っておくれ」

 公演が終わりお客達はぞろぞろと出口の白い光に向かう中、ヒースは反対方向へと進んだ。舞台袖を抜け、小さな階段を下り、かび臭く狭い廊下を急ぎ足で歩む。その先に演者たちの楽屋はあった。ヒースは断りもなく扉を開けると一言大きな声で言った。

「ヘレナさんはいらっしゃるかい?」

 楽屋にいた人々は皆一様に目を丸くして、数秒空けて驚いた。あぁ!あれはかの有名な俳優ヒースだ!といった風に。ただ一人を除いて。

「私ですか」

 奥の部屋からヘレナは疲れた顔を覗かせた。舞台で見せていた笑顔とは裏腹のけだるげな表情を彼女はしていた。

「なにかよう?」

彼女は自分の横髪を撫でながらつまらなそうにヒースに言った。彼は少し狼狽えた。天才俳優たる自分が声を掛ければどんな人でも尊敬の表情を見せるのがお決まりだったから、冷たい反応は予想外だった。困惑がばれないようにヒースは胸を張って自分を鼓舞する。

「いやはや、君の演技は目を見張るものがあったよ。どうだろうこれから一緒に食事でも」

「ありがとう。でも遠慮しておく」

ヒースは目をまん丸にして驚いた。周りの演者たちも同じ瞳でヘレナを見やった。あの天才俳優のお誘いを断るなんてどうかしてる!なんてみんな今にも言い出しそう。それでもヘレナは平然とバックに荷物を詰め帰り支度を終えた。

「それじゃ、先にあがりますね」

 素っ気なくそう言うとバックを持ってさっさと楽屋から出ていく。残された人たちは目を白黒させて彼女のことを見送った。もちろんヒースもその一人。唖然とした顔で彼は固まり立ち尽くしていた。

「ちょっ、ちょっと待ちたまえ!君!」

意識がちょうど一回転するとヒースはハッとして走り出す。楽屋の扉を焦りながら押し開け、スタスタと歩き去っていくヘレナを追う。彼女は彼の呼びかけを無視して、歩く速度を緩めず裏口を抜けた。ヒースは転びそうになりながらも彼女の背を追いどうにかこうにか通りを歩きだしていたヘレナに追いついた。

「ヘレナさん。この近くに上手いフレンチを出す店があるのだが一緒にどうだろうか?」

ヒースは笑顔の演技で語りかけた。

「とても美味しいパスタを作るレストランなんだが―――」

「だから行かないって」

ヘレナは彼の顔を見ることもなく一言呟くと歩調を速める。もう競歩のスピードだ。それでもヒースも負けじと彼女の歩調に食らいつく。俺は天才俳優ヒースなんだぞ!なんていう言葉をぐっとこらえて、引き攣った笑顔を浮かべる。

「じゃあ、君の行きたい場所を言ってくれ。どこへでも連れて行くよ。メキシコ料理屋でもコンビニでもダイナーでも映画館でも」

そう彼が言うと彼女はすたっと綺麗に立ち止まった。ヒースはそれがオーケーサインだと思い込んでニヤニヤとし始める。

「あのね、」

ヘレナはヒースに向き直り彼の瞳を冷えた目で見つめた。ヒースの傲慢さを完璧に見透かす知性的な黒い瞳。ニヤついていた彼も彼女の瞳を前にして蛇に睨まれた蛙のように身をすくめた。

「私、あなたの演技が大嫌いなの。退屈でつまらない演技しか出来ないあなたのことが大ッ嫌い」

 彼女はきっぱりとそう言って決然と歩き出した。ヒースはヘレナが言った言葉の意味がよく分からなかった。いや、ほんとうは分かってはいた。だけど、いまのいままで称賛しかされてこなかった天才俳優は罵倒を受け入れる為の心の準備がまったく出来ていなかったのだ。遠ざかっていくヘレナの姿を見つめたまま、ヒースは彼女の言い放った言葉を理解しようとした。でも出来なかった。万里の長城よりも長く、富士山よりもどでかいプライドが彼の頭の中で暴れていたから。ヒースは顔をタコみたいに真っ赤にして憤り、転がっていた罪なき小石を蹴飛ばした。

「なんだあの女!俺を誰だと思ってやがる!天才俳優ヒースだぞ!」

通りを歩いていた、人々が怒号に驚いて振り返る。ヒースは子供みたいに地団駄を踏みながら歩き出した。彼は怒りで茹だる意識の中、心に誓った。

俺はあいつをぜったい口説き落としてみせる

ヒースはやっぱり最低な奴だった。道行く鳩もパンくずを突きながら呆れていた。

その日を境に彼は休みの日はヘレナの舞台を観に行くようになった。壇上で舞う可憐な彼女の姿を客席から苦々しい面持ちで見つめながら、毎回ヒースは彼女の演技に心惹かれた。偏屈な表情も気づかぬうちに恋するアホ面へと変化させ彼は彼女のことを目で追ってしまう。幕が下り客席から拍手が送られると、ヒースは意識を取り戻す。そして、悔しそうにヘレナへと称賛の拍手を贈るのだ。

舞台が終わり客も演者もひけていくとヒースはすくっと立ち上がり本日の本当の目的地へと赴く。楽屋の扉の前に立ち、ネクタイを厳かに締め直して、ゴホンと咳払い。ドアノブを回し扉を開く。

「やぁ、こんにちは。今日も皆さんいい演技だった。それでヘレナさんはいらっしゃるかい」

天才俳優ご登場!でも楽屋にいた演者達はみんなしらっとした態度。それもその筈。だってこの訪問は十回をゆうに超えていたから。ほとんど週に一回のペースで彼はヘレナの舞台に足を運んでいた。仏の顔も三度まで。四回目以降は飽きてくるものだ。

「また来たの?」

ヘレナは結んでいた髪を解きながら、呆れた顔で奥から出てきた。

「やあやあ、ヘレナさん。あなたは髪を下ろしても美しいですな」

ヒースはうんと頷きながら、気取った声で褒め称えた。彼の言葉はお世辞ではなかった。髪を下ろしたヘレナは持ち前の可憐さに大人びた美しさを加えていてそれはそれは綺麗だった。

「馬鹿じゃないの」

だが、彼女はヒースが都合のいい言葉を並べていると思い、摂氏零度の視線で彼を見た。ヒースは一瞬ぎょっして捨てられた子猫のように縮こまる。だけどこんなところでおちおちと負けていられない。彼は『ふん!』と鼻を鳴らすと腕を組み戦闘体勢。

「そんなことより!どうだろうそろそろ僕とお洒落なバーで大人な夜を過ごすってのは?」

「嫌よ」

「それじゃ!手取り足取り僕が演技指導してあげるよ」

「絶対にいや」

「じゃあじゃあ、夜の浜辺で手を繋いで―――」

「死んでもいや」

ヘレナは一度帰り支度の手を止め、阿呆のヒースに向かってニコッと微笑んだ。調律のとれた明るい微笑みだったけれど目がまったく笑ってない。

「あなたみたいな男と手を繋ぐぐらいなら死んだ方がマシ」

なんて言い放ってまた口角をほんの少し上げ、数秒後元の冷えた表情に戻る。ヒースは苦渋を飲むように『ぐぅぅぅーー!』と唸った。彼女の笑顔が胸に突き刺さるせいで余計に腹が立った。ヘレナはバックを手に取ると悔しそうに唸るヒースを颯爽と素通り。

「お先に失礼します」

言ってヒース以外の演者仲間に向けて小さく会釈すると楽屋の外へと消える。顔を歪ませて悔しがるヒースの姿を見て、部屋にいた背の高い役者がくすくすと笑った。ヒースはジロリとそいつを睨みつけたが、男は素知らぬふりで口笛を吹いた。

「クソッたれ!」

 そう叫んで、彼は駆け出すと彼女の姿をいつものように追いかける。もうこの流れが恒例となっていたので演者達もみんな彼を無視して帰り支度を続けた。

彼女の歩くスピードは相も変わらず早く、追いついた時にはすでに通りの交差点近くまで進んでいた。

「ま、待ちたまえ、ヘレナさん!」

ヒースはへーへーと息をしながら彼女を呼び止めた。ヘレナはため息を一つつくと立ち止まり、くるりと回って振り返る。

「前にも言ったけど、私、あなたのこと嫌いなんです。だからいくらお誘い頂いても無理なものは無理です」

 心底うんざりしたように彼女は言うと自身の髪先を細い指先に絡め、

「残念だけど」

離した。

 それでも傲慢な天才俳優はこの恋が実る可能性がこれっぽっちも無いという事実を受け入れることがまったく出来なかった。諦めきれないヒースは彼女の気持ちを振り向かせるための言葉を単細胞な脳みその中に探す。

「それじゃ、さようなら」

「ちょっと!待ってくれ!」

そこで急に最悪な天啓が彼の頭に舞い降りた。それは彼女の思いを引き寄せる為の最終手段だった。つまりは最も卑劣で最低な言葉の羅列。焦りに満ちたヒースはその言葉をろくに推敲もせずに思い切り口に出してしまった。

「僕と付き合ったら君を最高な映画の主演女優にしてあげよう!僕はいろんな有名な映画会社や関係者に顔がきく!君は文字通りスターダムを駆けのぼることが出来るんだ!」

 満面の笑みを浮かべてヒースはヘレナへとその言葉を伝えてしまった。彼女はビクッと一度だけ身体を震わせると凍り付いたように静止した。ヒースは彼女の表情を窺う。ヘレナは驚いた顔で彼の瞳を見つめていた。そして、その大きな瞳の目尻にほんの少し涙が光った。彼女は静止を止めた。つかつかと彼女は足を速く動かしヘラヘラするヒースに近寄ると思い切り腕を振りかぶり、

  『『『パンッ―――!!』』』

渾身の力でビンタした!

 ヒースは凄まじい力で頬をビンタされたものだから、歩道のアスファルトへと折れた電柱みたいに九の字になって倒れ込む。一体何が起こったのかも分からず彼は頬に手を当て放心し、口をぱくぱくさせた。

「馬鹿にしないで!!あんたなんか!あんたなんか死んでしまえ!!」

ヘレナは肩を震わせ唇をきつく結び一生懸命涙をこらえていた。表情には怒りがあった。でもそれ以上に酷く傷ついたことを示す悲しみがあった。彼女は誇りを持っていた。役者として生きる為の大事な誇りを。お客が少なく座席がスカスカでも、小さく貧しい劇場でもヘレナは自分のパフォーマンスを一度だって手を抜いたことなんか無かった。いつだってひたむきに最善を尽くし、少しづつ自分の技術を大切に磨きあげてきた。ヘレナは別に名声も名誉もいらなかった。ただ自分自身が満足できる演技をすること。見に来てくれたお客さんの心に残る世界を見せること。その二つを信念として生きる立派な役者だった。なのにヒースは彼女を自分の物とするために誇りを信念を積み上げてきた日々を汚く浅ましい言葉でどうしようもないぐらいに愚弄した。ヒースは傲慢な男ではなかった。彼は愚かで傲慢で際限なく最低なちり紙みたいに薄っぺらい男だった。これには鳩も侮蔑の眼差しでヒースを睨みつけ『ポッポー』と鳴いて怒った。

 痴話喧嘩だと勘違いした野次馬が二人の周りになんだなんだと集まってきた。ヘレナは服の袖で涙を拭うと顔を伏せて走り出し、明滅していた黄色信号の交差点を渡りきる。

 彼女を呼び止めようとした。でも喉を震わせることがぜんぜん出来ない。ヒースは野次馬のおじさんに抱き起されても現実感がこれっぽっちも湧いてこなかった。頬を抑えたまま立ち尽くし、雑踏の中に消えていったヘレナのことを彼は考えようとした。

「女なんてあんなもんさ」

 彼を助け起こした鼻の赤いおじさんが苦々しく言った。

「すぐ不機嫌になって逃げてく。なぁ、あんた、気になんかしなくていいぜ。女なんてごまんといるんだから」

 ヒースの耳にそんな的の外れた言葉届いちゃいなかった。彼の鼓膜を揺らしているのは痛みを発する耳鳴りとヘレナの悔しさと悲しさが混ぜられた罵倒の言葉だけだった。なんの反応も示さないもんだからおじさんは『けっ』と唾を吐いて立ち去った。野次馬達も何も言わないヒースの態度に早々に飽きが来てちりじりに街並みの中に消えていった。

 ヒースは泣きながら駆けて行った彼女の姿を何度も反芻しながらそこで立っていた。太陽が下りオレンジ色が街を染め始めても、彼はヘレナのことを想いながらいつまでも立ち尽くしていた。月がひょっこり顔を出し始めたころ、やっと彼は俯いて帰路を歩み始めた。とても寂し気な後ろ姿だった。小さい頃に感じた孤独な悲しみが胸の内側に広がった。


 

 ジリリン、ジリリンと電話が鳴った。ヒースは二日酔いの頭にじんじんと響く煩わしい音を黙らせるために、毛布から腕を伸ばし受話器を手に取る。

「…もしもし」

目を閉じ、ベッドに寝そべったまま彼は死人みたいな声で応対。

「ヒースさん!」

反対に電話を掛けてきたマネージャーは焦りに焦った声で嘆き喚きだす。

「もう撮影始まってますよ!今どこですか!」

ヒースは受話器から耳を離ししかめっ面。脳みそがアルコールと喚き声でぐわんぐわんと揺れた。

「どこって…ベッドの中」

「はぁ!?ベッドってどこのですか!?」

瞼を少し開き念のため周りを見渡した。水色のカーテンに白いタイル張りの壁。棚には今まで得てきた栄光のトロフィーが横一列に並び、高級壁掛け時計が斜め上でチックタック。ここはやっぱり自分の家の寝室だった。

「家だよ…」

確認を終えたのでヒースはまた瞼を閉じる。

「なにやってるんです!みんなヒースさんのこと待ってるんですよ!主演が来ないと撮影が―――」

 目を開けずに受話器を側のサイドテーブルに戻し通話を切った。でも案の定、一分も経たずまた電話が鳴きだす。ヒースは舌打ちをすると腕を伸ばし電話線を思い切り引っ張って今度こそ完璧にそいつを黙らせた。毛布を掛け直し、蹲って二度寝の体勢。起き上がる気力もましてや撮影に挑む精神力も今の彼にはなかった。ただ泣くのを必死でこらえていたヘレナの姿が壊れたビデオテープみたいに巻き戻しと再生を頭の中で繰り返す。枕に顔を埋めてヒースは堪えようとした。大層最低な天才俳優も彼女を泣かせてしまったという現実には凄まじい自己嫌悪を憶えていた。

「なんで…僕はあんなことを…」

口に出して、考えた。でも、答えなんて考える必要もないぐらい簡単に分かった。ただただ、彼は傲慢で最悪な人間だったからだ。異論などない明確な答えだった。

 ヒースはそうやって蹲ったまま静かに午前中を過ごした。彼がやってこないものだから撮影スタジオはてんやわんやで結局その日の撮影は中止になった。中止になったことで皆口々に溜まっていた不在のヒースへの不満をぶちまけて、セクハラされていたスタッフはやっぱり訴えようかなと弁護士に相談しに行った。そんなことつゆ知らずヒースは身動きせず布団に包まり自己嫌悪。こんなに生きていたくない気分は久しぶりだった。ほんとに何十年振り。子供の頃、あの壇上で天才子役を演じ切りよく分からない大人達に称賛の拍手を贈られた時以来だった。ヒースはあの日感じた悲しみを手に取るように思い起こした。誰にも自分の思いが伝わらず、誰にも大切に愛されなかったあの苦痛の日々が胸に差し迫ってきて息をするのが辛かった。

「でも僕がしたことは…」

ヒースは瞼を少し開け昼の光できらりとたゆたう埃をぼぉっとした意識で見つめた。

「もっとひどいことだ…」

 舞台で華やかに舞い、朗らかに歌うヘレナ。いつも観劇を終えるたびに心に彼女の輪郭が焼き付くように残った。その感覚は彼にとって奇跡と言って差し支えないほどの衝撃だった。ヒースは誰のことも愛したことがない人間だった。なにも大切に想ったことない男だった。他人のことも、自分の職業である役者としての仕事も彼は価値があると思ったことがなかった。いつも誰かにやらされていた。愛することも演じることも。でも、ヘレナが舞台上で魅せたあの微笑みとあの演技がヒースの渇いた心の中枢に確かな恵みを与えた。砂漠に雨が降るように。小さな芽が顔を覗かせるように。彼は無価値な男だ。それは事実だし覆すことなど出来ない。だけど、ヘレナの美しさに心惹かれたこともまた事実だった。壇上で見せた微笑みも舞台裏で見せた呆れ顔や冷えた表情もそして、あの澄んだ瞳も彼はとても好きだった。それが彼の『本当』で、揺るがない『本物』の恋心だった。

「行かないと…」

 ヒースは墓場から這い出すゾンビの様相でベッドから起き上がる。酔いが消えていないから足取りはフラフラとしていてもはやゾンビそのものだった。

「謝らないと彼女に…」

 彼はそう呟いて、洗面所へとすり足で向かった。少しばかり傲慢さがぽろっと外れた。



 通りに面した劇場の外でヒースは壁にもたれ俯き、彼女がやってくるのを待っていた。たぶん、もう少ししたら公演を終えた彼女が裏口から現れるはずだ。緊張で心臓がバクバクと脈打っていた。彼は誰かに誠心誠意の謝罪をしたことなど一度もなかった。だからどんな言葉を伝えればいいか頭の中で思案しても一つの筋の通った文章にすることが出来なくて、じわじわと不安が募った。ヘレナを前にしても何も言えずに口ごもり、結局傷つけたまま謝ることも出来ずすべて終わってしまったら。そう思うととてつもなく怖かった。正直、もう帰りたかった。家に帰り酒瓶片手に毛布にくるまって夢の世界に逃げ出したかった。そうしようかと思って彼は帰り道に一度足を踏み出す。でも十歩踏み出したところでまた元の位置にとぼとぼと戻った。ここで逃げては駄目だと彼の中の最後の矜持が言っていた。たとえ許されなくてもちゃんと気持ちを込めて謝らなくてはいけないのだとヒースに残された誇りが語っていた。

 ヒースは通りを行き交う人の流れを見つめて石像みたいにじっとしていた。鳩は向かいの公園で日向ぼっこをしながらヒースのことを見守った。

「あ、」

陶器がカツン、と軽く当たるような声が聞こえた。彼はハッとして顔をあげ振り返る。

「あ」

ヒースも声をあげた。そこには彼女が涼しげな眉を持ち上げ、驚きの表情で立っていた。謝罪の言葉を思案していたせいで気づくのが遅れてしまった。

「あ、あの…」

さっそく彼は謝ろうとして一歩足を前に踏み出した。けれど、踏み出した瞬間ヘレナは無機質を張り付けた表情になってヒースから目を逸らし早歩きで通りを歩き出す。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

それでもヘレナは彼の事を無視して歩き続ける。前方の一点だけを見つめ無表情のまま。ヒースは悲しかった。自分が無視されているからではない。誰よりも魅力的な表情を持つ彼女が色合いのない表情をしていること、自分がそうさせてしまっているということが辛かったのだ。

「君に謝りたいんだ!」

ヒースは泣きそうになりながら彼女の速い歩調に合わせ喉から言葉を絞り出す。一生懸命に彼は自分の誠意を伝えようとした。

「すまなかった!本当にあんなこと言うべきじゃなか―――」

 そこで歩行の回転速度に耐え切れず足が変な感じに絡まった。視界がすー、と下に下がっていって灰色の地面が迫ってきた。気がつく間もなく彼はアスファルトの地面に惨めにずっこけた!硬い地面に顔面をしたたかに打ち付けたもんだから、ぽつぽつと鼻から真っ赤っかな血を流す。頭の中に火花が散り、痛みで目尻が熱くなる。いい大人なのにヒースは小さな子供みたいにわっと泣きだしそうになった。痛くて辛くてとっても悲しかった。

「大丈夫?」

 心配そうな声。ぼやける瞳を上げると、ヘレナが不安そうな表情でヒースのことを丸い瞳で見つめていた。感情を廃した目ではない心のこもった視線。

「あ、血、出てる!」

 ヘレナはそう小さく叫ぶと慌てた様子で自分のバックをあさり始める。ヒースはなんだかよく分からず膝立ちのままの姿勢で目をぱちくりさせ彼女の姿を見つめる。鼻からぽたぽたと顎を伝って血が流れ、灰色のアスファルトに鮮やかな色合いが加わった。彼女はバックからお目当てのポケットティッシュを取り出すとしゃがんで彼に近づいた。その時、彼女の横髪が軽やかに揺れたのをヒースはふと、見つけた。何枚も包装からティッシュを引き出すと、彼の顔に手を伸ばし血液が滴る鼻に優しく押し付ける。

「ほら、自分で押さえて」

 彼女は変わらず心配そうに目尻を下げて言った。ヒースは茫然としながら何も言わず、首をカクンと振って頷く。ヘレナもそれに頷くともう片方の手を取って、ゆっくりと彼を立ち上がらせた。

「ここは危ないから向かいの公園に行きましょう」

 そう言って、彼の手を引いて歩き出した。彼女の手はつるつるとしていてほんのりと温かかった。



 街で二番目に大きなその公園にはバスケットコートがあって、子供たちが元気よく勝負に励んでいる。手首のスナップをくるっとかけてシュート。青空に弧を描き、パスッと気持ちの良い音でゴールにボールが収まった。向こうのなだらかな階段ではスケートボードを蹴ってトリックスピン。おぉ!と周りから歓声があがった。散歩道には微笑み合い幸せそうなカップル。入り口のアーチ付近には鳩がぞろぞろ。そんな風にみんな、思い思いの昼下がりを過ごしていた。ヒースはというとベンチに座り鼻を押さえ、離れていった彼女のことを目で追っていた。公園に入ると彼女は近くにあったベンチに彼を座らせ、

「ここで待ってて」

と一言。そうして、急ぎ足で水飲み場の方へ駆けていった。ヒースは粛々と言われた通りにベンチに座って待つ。薄い繊維のティッシュペーパーを血液が染め上げていまや手は血だらけだった。血が止まる気配がないことにヒースは焦りを感じた。どうしよう、もしかしたら貧血になって死んでしまうかも。なんてちょっと怯えたりしていた。

「ほら、上向いて」

駆け戻ってきた彼女は濡らしたタオルと缶ジュースを手に持っていた。

「あぁ、すごい血!」

まあ大変!なんて言わんばかりに彼女は声を上げる。ヘレナはヒースの顎にしたった血液を濡れタオルで、すー、と手を動かして拭った。それからバックからレジ袋とまた新しいポケットティッシュを何枚も取り出して彼に手渡す。

「新しいのに変えないと!」

ヒースはぎこちなく頷き、血まみれのティシュと受け取ったティシュを手早く入れ替える。レジ袋に玉入れ競争で使う赤い球みたいになったティシュを入れると、彼は鼻血を止めるべく上を向いた。でもすぐにまた血が繊維に滲みだす。ヒースは血の気がひいた。ほんとに死んじゃうかも。

「全然止まらない…」

ヘレナも慌てた声音。見ると彼女はあわあわと口元を動かし瞼をパチパチさせて瞬きを繰り返していた。ヒースは貧血気味の意識の中、彼女の表情を見つめた。いつだって決然としていた彼女の焦った表情はとても新鮮だった。その表情もすごく素敵だとヒースは思い、そして色々な表情を持っている彼女にまた一歩、心惹かれた。そのせいで一瞬、鼻血を出していることを彼は忘れそうになった。

「ほら、頭ここに!」

 彼女は自分の太もも辺りを叩く。

「え?」

ヒースは忘れかけていた意識を取り戻し、素っ頓狂な声を上げた。彼女の言っている言葉の意味がよく分からなかった。

「ここに頭乗っけて!鼻、これで冷やすから!」

青い色のスポーツドリンクの缶を片手に持ち、またヘレナはぽんぽんとロングスカートを叩いた。そこで言葉の意味が彼にも飲み込めた。

「いや、だ、駄目だよ…」

俯いて彼はしどろもどろ。変に意識してしまったせいで顔が熱くなった。好きな人の膝枕は流石の天才俳優も恥ずかしいらしい。今の彼は歳不相応ではあるけれど思春期の少年のような面持ちをしていた。

「いいから!血、止まんないよこのままだと!」

 子供を窘める要領で彼女は顔を赤くするヒースに言った。そんなこと気にしている場合じゃないでしょうにと彼女は早口で付け足した。瞼を少し持ち上げて目尻を下げているヘレナの表情は真剣その物だった。真剣に彼の鼻から流れ出る血を止めようとしている。ヒースは思った。確か僕は彼女に謝りにきたはずだ。精一杯の誠意を伝えにやって来たはずだ。なのに、なんでだか僕は今、鼻血を流し貧血気味で朦朧としながら恥ずかしくて赤面してる。なんだか。なんだか、悪い夢でも見ているようだ。いや、これはいい夢なのか。なんかもうよく分からない。また、パス、と気持ちのいい音が鳴った。スリーポイントシュートだから三点だ!と誰かが高い声で叫んだ。彼女の真剣な表情は昼下がりの公園に何故だかとても似合っていた。



 鼻の付け根の辺り。ヒースのこめかみの側に冷えた缶を彼女は力を抜いて押し当てる。そのせいで青空を背負う彼女の表情は缶に遮られ窺えない。ひんやりとしたスポーツドリンクの缶は火照っていた顔と気持ちにやんわりと伝わった。後頭部にはほのかに彼女の温もりを感じる。気持ちがよかった。最初はヘレナの膝枕にヒースは躊躇をした。けれど、五分と経たぬ内に心が妙に落ち着いていった。多分、顔が見えないからだとヒースは考えた。彼女と目がまた合えばたちまち心は焦りだすはずだ。だから、もう彼女の顔は見たくないと思った。そして、今すぐにでも缶を退けて彼女のあの真剣な表情をもう一度見つめたいと強く、強く思った。ドリブルの音がタン、タンと弱く響く。少し離れた所から歓声がガヤガヤと聞こえる。

「痛い?」

彼女の声が缶越しに聞こえた。風のようにすっと流れ鼓膜を揺らす声。

「…少しだけ」

彼は短く答える。若干食い気味に。

「…重くないかい?」

次は彼が問いかけた。じっとしたまま口元だけ動かす。声がちょびっと上ずった。

「重いね」

ヘレナは体をちょっとばかし動かしてなぜだかくすくすと笑った。彼は彼女の姿は見えないけれど微笑みのディティールが頭の中に明確に見えた。口角をふんわり上げて瞼を少しだけ下げている花咲く表情が鮮明に浮かんだ。

「やっぱり座るよ」

ヒースはそう言って起き上がろうと上半身を動かす。だけど、彼女の手が彼の肩に触れそれを制した。

「冗談。大丈夫だから」

彼女はまた小さく笑った。ぼーーと風を切る音が聞こえてくる。空は見えないけれど飛行機が飛行機雲を青空に引いていく絵を想像した。

「すまなかった…本当に…」

彼は口を開き弱弱しく呟いた。

「君にあんな酷いことを言ってしまって…僕はほんとうに最低だった…」

言葉に力が入っていかなかった。カメラの前では自信満々に言葉を発することが出来る天才俳優の筈なのに今の彼は静かに言葉を選びぽつぽつと喋る。ヘレナは何も言わずに身体をゆったり動かす。分からないけれど彼女はその言葉に頷いてくれているような気がした。

「君はとてもすごい役者だと僕は心底思う。壇上で君が歌う姿を見た時、心が釘付けになったんだ。それは嘘じゃないんだ…信じてもらえないかもしれないけどほんとうなんだ…」

また、彼女は上半身を少し揺らした。微かな揺れが彼の身体にも伝わった。

「なのに、僕はズカズカ、楽屋にまで乗り込んで喚き散らして…しまいには君の誇りまで傷つけてしまった…本当にすまなかった…だから…だから、もう二度と君の前には現れないと誓うよ…」

 苦しそうに彼は伝えるべき言葉をやっとの思いで語りきった。呼吸が少しだけ乱れた。ヘレナから身体の揺れの返答は届かなかった。彼女は何も言わず黙って缶をヒースの腫れた鼻にぴったりとくっつけ続けた。どこからともなくサイレンのフゥオン、フゥオンという鳴き声が響いた。警察車か救急車かの判別は彼にはつかなかった。それから二人は言葉を交わさず静かにしていた。静かにヒースは缶の冷たさと彼女の温もりを感じていた。

「止まったみたいね」

 シュートが決まる音が十回ほど鼓膜を通り過ぎたあたりで彼女は言った。缶をベンチに置いた。瞬間、彼女が青空を背景にして彼の瞳に現れた。あ、とちっちゃな声をヒースは上げた。ヘレナは太ももに乗るヒースの表情を真面目な顔で窺う。パチリと長いまつ毛を揺らし瞬き。ヒースはその瞳に意識が吸い込まれた。心が隅々まで完璧に囚われた。手を伸ばし彼女の頬に触れたいと束の間思った。ほんの少し触れて、彼女の何よりも美しい生命の輪郭をゆっくりとなぞりたかった。

「大丈夫?」

 ヘレナは瞳に囚われ固まっていたヒースに首を傾げ、訊いた。頬を滑る横髪がまたわずかに揺れた。

「あ、ああ…」

 ヒースはフワフワと声を出して頷くと、上半身を持ち上げる。鼻に突っ込んであった、赤いティッシュをすっと抜いて袋の中にさっと入れた。

「すまない、ほんとうに助かったよ…ありがとう」

 ベンチに座り直し、下を向いて一度鼻をかむ。

「じゃあ、血、洗いに行きましょう」

そう言うと彼女はすくっと立ち上がって数歩歩く。立ち止まりそして振り返る。

「ほら、行きましょう。なんだかホラー映画の殺人鬼みたいよ今のあなた」

ヘレナは楽しそうにくつくつと微笑む。一輪の花が綺麗に咲いていた。ポピーのように朗らかで、アジサイのように華やかな笑顔がそこにあった。


*             *

 ヒースはいつものように劇場に入ると大人一枚と言ってお金を払う。すっかり顔なじみになったチケット売り場のおばさんが調子はどうって訊ねると、ヒースは微笑んで

「うん。いいよ」

少しばかりチップを渡す。今日もあの子張り切ってるみたいよとおばさんが調子よさげに言うと、彼は嬉しそうにそれに頷いて自分の席に向かう。その日の舞台も最高だった。今やっている演目は空港を舞台にしたラブロマンスだった。ヒロインのキャビンアテンダント役はもちろん彼女。彼女は舞台に立って切ない表情や悲しい瞳をし、時に唄い、物語の渦中を突き進んでいく。その姿は何度見ても飽きない魅力に溢れていた。演目が同じでも休みの日は必ず彼女の舞台に足を運ぶほどにヒースはヘレナという人に魅了されていた。舞台が終わると他のお客と混じって彼は精一杯称賛の拍手を贈る。この舞台の成功の為に尽力した全ての人たちに向けて。でも、やっぱり。やっぱりヒースは壇上で手を振る彼女へ一番の想いを込めて拍手を贈る。すると、その拍手に気づいた彼女が彼にだけに分かるように時々、片目をつぶってウィンクをする。ヒースは気恥ずかしそうにヘレナに微笑む。

 もう楽屋に上がりこむような無粋な真似はしなくなった。舞台が終わるとヒースはいそいそと席を立ち出口に向かう人の波についていく。外に出て新鮮な空気を吸い込むと通りを進み信号を渡る。向かいの公園に入りあの日膝枕を彼女にしてもらったベンチにゆったりと腰かける。バスケットコートでは相変わらず少年たちが真剣勝負を繰り広げ、パス、パス、と景気の良い音が鳴る。鳩が一羽よそよそしくよって来て彼のことを見上げまた去っていく。足を速く動かしランニングに励む青年が目の前を通り過ぎた。ヒースは空を見上げぼぉーとした。三十分ぐらいそうして何事か考えては伸びをした。

「ヒース」

ぴくっと体を震わせて彼は入り口の方に振り返る。そうして、彼女の姿を見つけると恥ずかしそうな笑顔を浮かべて立ち上がる。

「やぁやぁ、お疲れさま」

 ヘレナはうん。と頷き可愛らしくはにかむ。ヒースはちょっとだけ目を伏せ頭をかきながらぎこちなく頷き、

「今日も君はほんとうに素敵だったよ」

なんて、口にする。幾度となく彼女に贈りたい大切な言葉だった。ヒースにとって一番大事な想いだった。

「ありがとう、ヒース」

 彼女は彼の手を取りしっかりと握る。ヒースはどぎまぎしながら顔を赤くしてまた頷く。ヘレナはニッコリと嬉しそうに笑った。

「ほら、お昼ごはん食べに行こう」

彼の手を引きゆっくりと歩き出す。歩調を合わせてゆったりと二人で歩む。雲がなだらかに流れる。君の横顔をこっそり見つめる。

 

 二人で馴染みの喫茶店に入る。昼ではあるが淡い琥珀色の明りが灯る店内は彼女のお気に入りだった。公演を終えた彼女と食事をとることが最近ではお決まり事のようになっていた。ヘレナはカルボナーラ、ヒースはたらこスパゲッティを頼む。

「今日は調子が良かったわ」

彼女はパスタをスプーンでくるくるとフォークで巻きながら歌うみたいに言った。

「あなたが見ていてくれたからね」

もぐもぐしながらヒースは首を横に振って笑いかける。

「僕は何もやってないよ。僕はただ見ていただけさ…君が一生懸命に頑張ったんだよ」

「あら、」

ヘレナももぐもぐしてごっくん。不思議そうに丸い瞳で彼を見つめる。ほどよい音量でジャズミュージックが空間に響く。

「あなた、すごく真剣に見てくれるじゃない。舞台上で演じていても分かるよ」

「そうかな…」

「あんなに真剣に見てもらえたら誰だってやる気になる。とっても嬉しいって思うよ」

彼女はアイスティーをストローで少し飲む。ヒースはくるくるとパスタを巻く。彼は少しばかり頬を赤くしていた。彼女に喜んでももらえていることが嬉しくて。ヘレナに言葉を貰う度、ヒースは自分の深く未だ幼い心の部分が見え隠れしてしまう感覚があった。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からなかった。ただ言えることは、彼女の言葉の一つ一つに自分の心が反応している。それはとても幸せなことだと彼には思えた。

「それは、その…ありがとう」

ヒースは彼女に微笑みを向けた。ゆっくりと言葉を伝えた。

「いえいえ、こちらこそ」

ヘレナもニコニコと微笑んだ。ゆっくりと言葉を贈った。

 食事を終えると、二人は雑貨屋や古本屋をとことこ歩いて巡った。彼女は小さなアンティークが好きなようで、店に入ると熱心に埃っぽい店内を見て回っていく。棚の下にある商品をしゃがんで見やると横髪が一度揺らめく。ヒースは真剣にむくむくとなにを買おうか思案に耽っている彼女の姿をじぃっと見つめる。時折、彼はハッとして品物についていた埃をなんとなく軽く掃う。でも不意にヘレナが振り返り

「ヒース、」

真剣な面持ちで手招き。瞼が少し下がっている。

「どっちがいいと思う?」

小人の姿が小さく彫られた砂時計。笑顔の招き猫の人形。二つを指さしヘレナは訊いた。

「うーん、、」

ヒースは腕を組み思案する。使える物なら砂時計であろう。だけど、雑貨に使えるか使えないかはそれほど重要じゃない。だからこういう場合は可愛い方を買ったらいいと思う。なんてことをヒースは神妙な顔つきで言った。

「じゃー猫ね、猫。猫はかわいいもん」

ヘレナは招き猫の手に取ってクスクスと心底楽しそうに笑った。ヒースは苦笑しながら頷いた。すごく楽しいな。彼はヘレナの楽しそうなその姿を見つめて思った。彼女の手の中の招き猫もふくふくとして嬉しげだった。



「私、あなたに嘘をついてるの」

夕陽が徐々に境界線に落ちていく。朱色が浜辺の砂粒たちをきらきらと煌めかせ、波は寄せては優しく引いていく。『ザァ――』とそのたびに波から音がする。遠く向こう側に船が一隻悠々と黄昏の海を行く。カモメが影を落として飛んでいく。ちらほらと広い浜辺には人がいて皆、一日の終わり際を思い思いの想いで楽しんでいた。寝そべって夕日を浴びる人。波の近くで子供と一緒にはしゃぐ親子。立派な筋肉を携えて浜辺を走り続けるアスリート。手を繋ぎ共に歩む老夫婦。そして、ヒースとヘレナ。

「嘘?どんな?」

ヒースは裸足で冷たい波に触れながら数歩前を歩むヘレナに問いかけた。少し不安そうに。

「あのね…」

彼女はくるっと振り返るとなんだか気恥ずかしそうに上目遣いで微笑んだ。海風が彼女の横髪を口元まで流した。

「私ね…」

「うん」

「あなたのファンなの。それも生粋の」

「え?」

歩む足が止まった。彼は口は半開き、目はまん丸。クワン、クワンとカモメの鳴き声。返答するまで五秒かかった。

「だって、君は僕の演技が嫌いだって…」

「嘘よ。ほんとうは大好きなの。あなたのあの心に響く演技、ほんとうに好きよ」

「それはその…」

ヒースは途方もなく困惑して視線を地面に落とす。視線の先にちっちゃいカニがいた。カニはカニ歩きでスタスタ移動。

「私、子供の頃に映画館であなたの初めての主演映画を見てね…」

彼女がゆっくりとした足取りで彼に近づいた。二人の側を少年が友達と一緒に楽しそうに走っていく。

「すごく感動したの。どうしようもないぐらいに感動して泣きっぱなしだった。私とほとんど歳の離れていない子がこんなに心を揺さぶる演技ができるなんてってあの時思った…」

喉が、瞳が、心がじわじわと熱を帯びた。肩が気持ちの高ぶりに合わせて震えた。ヘレナの言葉をこれ以上聞いてしまったらもう、駄目だ。

「だから、私、女優になろうって思ったの。あなたみたいに誰かの心に残る演技がしたくて」

 ヒースは静かに泣いた。喉を震わせ、ぽつぽつと涙の雨を砂浜に落とした。涙は砂に落ちるとほんのりと染みを残した。ザァ――と波が唄った。ヘレナは小さな体でぎゅっとヒースの大きな体を抱きしめた。背中をゆったりと撫でて、彼の心に温かく寄り添った。彼女の優しい温もりが心に届いたせいでヒースは押さえていた嗚咽を漏らしてしまった。彼女の背に腕を伸ばし、輪郭を確かなものとするように抱きしめた。小さく華奢な身体だった。少し力加減を間違えばすぐに壊れてしまいそうなほどに。怖かった。こんなに怖いと思ったことは初めてだった。そして、こんなにも人を愛おしいと思ったことも初めてだった。

「でも、あの日楽屋に来たあなたったらすっごく嫌な人で。憧れの人だったけど、ムッとしてつんけんしちゃったの」

彼の腕の中でヘレナはいたずらっ子のようにくすくすと笑った。

「ごめん…ほんとうに…君に僕は酷いことを言ってしまった…」

「ううん、私も思いっきりあなたにビンタしちゃったからお互い様。それに――」

ヘレナは顔を上げ、手を伸ばす。涙を流すヒースの頬にぴったりと触れた。優しくはにかんで、静かに彼の頬を撫ぜた。

「あなたは表現することを誰よりも大切にしてる。小さい頃からずっと。あなたはすごいわ。ヒース、何かを大切にし続けることができるのはすごいことなのよ」

 ヒースは首を振った。大切になんかしてない。僕は君みたいに一生懸命生きてなんかいない。ただやらされていただけだ。何も考えず、一人ぼっちでずっと。そう悲しそうに言って、涙を流し続けた。彼が溢した涙が彼女の頬にぽつんと落ちた。彼女は目を細め変わらない笑顔で彼の涙をゆっくりと拭う。

「あなたはほんとうに頑張り屋さんなのね。そんなあなたのことが私は大好き」

 そして彼女は背伸びをして、キスをした。唇に触れるだけの温もりに満ちたキス。ヒースは驚いて瞼を思いっきり開いた。くらっと目眩がした。永遠が訪れたと束の間、彼は錯覚した。触れていた唇が離れた。二人はお互いの瞳を見つめ合った。ヘレナの瞳は夜空みたいに深く澄んでいた。

「ヘレナ…」

 ヒースは暮れ行く朱色混じりの藍色の世界で囁いた。彼女に誓うために。抱きしめる力を少しばかりつよめて。

「僕はこれから君を想って演技をするよ。君の心に残るように演じてみせるよ…」

 ヘレナは彼の胸に顔をうずめて、嬉しそうに囁いた。

「素敵…とっても素敵ね…ヒース…」

 胸の内に星の光が灯った。ヘレナという一番星がくれた輝きを大切に抱きしめた。いつまでも、いつまでも、大切に抱きしめた。


 

 ヒースはただの俳優になった。一時間前には現場に着いて、台本を熟読し精神統一。スタッフや演者仲間に挨拶し、今日の演技の方針を皆でちゃんと固める。みんな最初ヒースの変貌ぶりには驚いた。もしかして、危ない薬でもやってるんじゃないかなんて噂が立ったり、ドッペルゲンガーなんじゃないかなんて怯えられたりした。でもでも、ヒースは楽しそうに撮影に励んだ。いろんな人たちと意見を交わして頑張った。すると、少しづつ周りの人たちもヒースのことを好きになっていった。ヒースはいつもニコニコとして、愛想がよかった。だけど、監督が低い声で3、2、1、アクション!って叫ぶと途端に表情が一変する。やっぱり彼は百戦錬磨の俳優だった。カメラの前ではヒースはどんな人間にでもなれた。ピエロの殺人鬼。蝙蝠のヒーロー。魚が苦手なおじさん。うだつの上がらない大学生。異国の建築士。いろんな人間をまるで生き写しのように演じきることが出来た。みんな、彼の演技には開いた口がふさがらなかった。しまいには「あの人誰?」なんてへんてこなことを本気で言われたりした。それだけ彼の演技には魂がこもっていた。彼女に向けてすべてを込めた。いつだってヘレナを想って演技をした。どんなときだって彼女の心に届けと祈った。数年後、彼の演技は高く評価された。アカデミー賞やらゴールデンクローブ賞なんていう賞にノミネートされ、数多くの称賛を浴びることになった。だけど、ヒースはその全てを辞退した。だって、いらなかった。金ぴかのトロフィーを渡されても、顔も知らない人々から称賛の拍手を貰ってもなんにも嬉しくなんかない。彼女だ。僕は彼女の笑顔がなにより見たいんだ。だから僕は演じ続けるんだ。


*              *


二人で僕が主演を務める映画を観に行った。スクリーンには僕の姿が映っていて、彼女は嬉しそうにそれを見つめていた。スクリーンの強い光に照らされたヘレナの横顔はそれはそれは素敵だった。僕はその時知った。素敵っていう言葉は彼女の為に存在していたんだってね。



                           


おしまい。


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