楽園と七つの島
□ 旅立ち □
これは、まだ神と人が契約する前の話。
ペロポン諸島のアカデイアという町に、ポントスという男がいた。
「古い伝承によれば、東の果てに楽園があるそうだ。いつか、行ってみたいものだ」
彼は、清廉で真面目な漁師として町でも評判の男だったが、同時に結構な夢想家でもあった。
沖に出て魚を捕らえていると、広い海洋を眺めながら、度々、仲間にこのような言葉を漏らしていた。
ある時、共に船に乗っていた仲間が、いつものようにそう呟くポントスに言った。
「ポントス。そこまで言うのなら、この船を使って、一度、楽園を見てきたら良い」
「しかし、私には家族がいて、友がいて、仕事もある。君がそう言ってくれることは嬉しいが、しかし、そのような無責任は許されないだろう」
「ああ、君は本当に篤実な男だ。この町の人は皆、君が今まで直向きに生きてきたことを知っている。だから、その夢を皆に話して見てごらんよ。誰一人として君を笑うものはいないだろう」
漁師仲間にそのように言われたので、町に戻った後、ポントスは人々に対し楽園へ行ってみたいという夢を語った。
すると仲間の言う通り、誰一人として彼を笑うものはいなかった。
そればかりか、人々は夢の成就を願い、大量の金や穀物や肉を用意してくれ、それを船に積み込んだ。
彼はその光景を目にして、涙を流して感謝し、ついに悲願であった楽園への旅へ出発することが出来た。
「皆、ありがとう!私は必ず帰ってくるぞ!このアカデイアの港に、必ず帰ってくるぞ!」
手を振って、そのように叫ぶと、先程の漁師もまた、揚々と叫んだ。
「誰もそれを疑う者はいない!代わりに、君が見たものを聞かせてくれよ!」
ポントスはそれを必ず守ると約束し、やがて船は東の水平線へと消えた。
雲ひとつ無い晴天の日。旅立ちの日であった。
□ 一日目 □
次の日、ポントスの乗った船は"グラ"という島に着いた。
この島の人間は皆、まるで林檎の様に太っており、漁で鍛え上げられた彼にとって、その姿は非常に醜く思えた。
彼は歩いていた男を捕まえると、次のように言った。
「何故、この島の人間は皆、丸々と肥え太っているのですか?」
すると、男はだらしなく垂れた腹の肉を揺らしながら言った。
「食べる事が楽しいからに決まっているだろう。この島の食べ物は、麦から乳、木の実から肉に至るまで、全て香り高く、とろける程に甘美なのだ」
更に聞くと、この島では、乳や蜜の川が流れ、一つ木に色とりどりの果実が成り、毎日山から町へ元気な羊や豚が降りてくると言う。
人々は寝転びながらそれらを貪り、腹が満たされると、鳥の羽を用いて喉をつつき、食べたものを吐き出し、再び美食を楽しむそうだ。
ポントスは、そう言って笑う男の口に、一切の歯が無いことに気付き絶句した。
「そうだ、君も食べてみたら良い。口に入れた瞬間に、幸せになるだろう」
男はそこらに生えている木から適当に果実をもぐと、彼に差し出したが、ポントスはそれを丁重に断った。
なぜなら、アカデイアを出発する時に皆から貰った食べ物が、未だ沢山残っていたからである。
これ以上は腐らせるだけだ、そう考えたポントスは船に戻ると、さっさとグラの島を後にした。
「ここは、楽園では無いようだ」
ポントスは、故郷から持ってきた好物の無花果を口にした。
香りは余りなく、優しい甘さの実であった。
□ 二日目 □
次の日、ポントスの乗った船は"ラチュラ"という港街に着いた。
彼が船から上がると、大勢の漁師たちで賑わう港に、彼らと同じ数の女が居ることに気づいた。
ポントスは、その奇妙な光景に首を傾げた。アカデイアでは、漁は男の仕事である。故にその港には女の姿は殆どなかったのだ。
彼は、道端に佇む長い髪の女に、次のように言った。
「貴女達は、何故、港に居るのですか?とても働いている様には見えないのですが」
すると、女は立ち上がって、彼の首元に腕をかけ、艶めかしい声で言った。
「ここは奔放の街。私達は過去や他人だけでなく、魂にも縛られない。自分の身体が欲するままでいられるの」
女が言うには、この街では男女を問わず、酒に溺れ、享楽に耽るのが当たり前だという。
「どう?貴方の逞しい身体なら、きっと人気者になれるわ」
淫靡な香りを漂わせ彼に迫る女だったが、ポントスはそれを丁重に断った。
なぜなら、彼にはアカデイアに妻と子が居るからである。それは、なによりも大切な彼の宝であった。
加えて、ただでさえこの旅の為、家族に無理を強いているのだ。家族を棄てることはできない、そう考えたポントスは船に戻ると、女から逃げるように、さっさとラチュラの街を後にした。
「ここも、楽園では無いようだ」
ポントスは、海面に揺蕩う月を眺めながら、故郷に残した家族を想い出してため息を漏らした。
□ 三日目 □
夜が明けると、ポントスは"アヴァリ"という島に着いた。
島の町には豪華絢爛な家々が立ち並んでおり、彼は感嘆の上げた。道は奇麗に整備され、埃一つ落ちては居なかった。
もしかしたら、ここが楽園なのかもしれない。そう思ったポントスだったが、島を歩きながら妙な事実に気が付いた。
一度も人の姿を見ていないのだ。これほど煌びやかであるのに、町は無機質にもしんと静まり返っていた。
しかし、ポントスは遂に町の外れで薄汚い乞食を見つけ、彼に訊ねた。
「この町はとても奇麗ですが、全く人の姿を見かけません。それは何故でしょうか?」
すると、乞食は声を震わせて言った。
「ここの奴らは皆、強欲なのだ。立派な家を建てて、自分たちはその中に引き籠っているのだ」
続けて乞食が言うには、誰か一人が家を空けたとしたら、すぐに他の人間がその家に入って、有り金を全て奪ってしまうので、皆が疑心暗鬼になっているという。
ポントスは落胆した。どれほど奇麗な町並みであっても、他人の物を奪い、他人の心を信用しない、このような島が楽園であるはずがない。
その時、肩を落とす彼の顔の前に、乞食が手を差し出して言った。
「ほら、話してやったぞ」
ポントスは、乞食の目脂がこびりついて濁った瞳に恐怖を覚えた。そのような眼では、何物も見ることはできないだろうに、ポントスの懐に少しばかりの金貨があることは目ざとく見抜いていた。
誠実なポントスは、これ程まで非道な島があるとは露ほどに思っていなかった。
結局、彼は手元にある金を乞食に与えると、急いで船に戻った。幸い、船は盗まれておらず、積み荷も無事だった。
「ああ、楽園は、いったい何処にあるのだろうか」
息を荒くして失望に暮れながら、彼はさっさとアヴァリ島を出た。
□ 四日目 □
船を走らせたポントスは、続いて"エッシリア"という島に着いた。
島には港が無かったので、ポントスは仕方なく海岸に錨を落とし、泳いで島に上がった。
浜辺には、大勢の老若男女がたむろして、疲れたような、退屈そうな表情で、海を見たり、空を見上げたりしていた。
またも珍妙な光景に出会った彼は、近くに居た男に訊ねた。
「こんなところで、皆さん集まって一体、何をしているのですか?」
男はポントスを一瞥すると、無気力な声で呟くように言った。
「なにも」
それだけ言うと、彼は二度と口を開かなかった。
困ったポントスが人々に訊ねて回るも、どの人もまともに彼の顔を見ることなく、平坦な声で一言呟くばかりであった。
結局、数十人に質問したポントスは、次のことを知った。つまり、この島では毎月のように洪水が起こるので、人々が町を作ろうと、作物を育てようと、全てが無駄になってしまうというのだ。
最初の内は悲嘆に暮れながら、頑張ってきた彼らだったが、遂に何もかも虚しいばかりだと思うようになり、今では毎日、何をするでもなく過ごしているという。
元々情に深いポントスは、何か彼らの助けになれないかと申し出たが、彼らは「どうにもならない」と断った。
不甲斐ないとは思いながらも、島の人間が望んでいない事を行う訳にも行かないだろう。ポントスは船に戻った。
「ここは、楽園からは最も遠いところだ」
悲観したが、未だ楽園を諦めてはいない彼は、再び船を東へ東へと進めた。
□ 五日目 □
続いて彼が辿り着いたのは、"イラ"という港街だった。
船着き場に船を泊めたポントスが桟橋を歩いていると、壮年の男がドカドカと乱暴に彼に駆け寄ってきた。
「貴様、そこはこの街の人間だけが泊められる場所だ。よそ者が縄を繋げてはならぬ」
怒った男がそう捲し立てたので、ポントスは慌てて謝り、今度は男の指定した場所に船を泊めると、改めて港街へ向かった。
しかし、イラの街における経験は、彼にとって最も悲惨なものとなった。
なぜなら、この街の人間は常に何かに対して怒りを感じており、皆が皆、他人の一挙手一投足にまで神経を使っているのだ。
道を歩いているだけの彼を睨みつけ、話しかけたりすれば横柄に声を荒らげる。物を買おうとしただけなのに、態度が悪いと追い出されたりした。
ポントスは、最初こそ我慢していたものの、遂にこの街に居るのが嫌になって、港に戻った。
すると、なんということだろう、先ほどの男が、ポントスの船を桟橋に繋いでいる縄を、ナイフで断ち切ろうとしているではないか。彼は急いで男の手を止めると、声を荒らげた。
「貴方はいったい何をしているのですか」
「黙れ。よそ者の船が、この港に泊っていることが気に食わぬのだ」
ポントスはほとほと呆れ果てた。怒りに狂う者に話など通じないという事が、身に染みて分かったのだ。もし、言い返したり、諭したりしたところで、彼は自分の行いを省みることなく、身勝手な憤怒を自分に向けるだろう。
激昂した男にいつ襲われるのともしれないので、彼はとっとと船を出した。
「ここもまた、楽園とは程遠い……」
彼は、背中から聞こえてくる理不尽な怒りに対し、最後まで耳を傾けることはなかった。
□ 六日目 □
翌日、彼は"イヴ"という島に着いた。
この島は、これまでの島とは異なり、一見して変わったところは見受けられなかった。
風光明媚とはいかないまでも、桟橋に吹く潮風も柔らかで心地よい。
そうして、ポントスが船から降りる準備をしていると、数人の若者たちがやって来て、彼に言った。
「この船は、貴方のものですか?」
「ええ、そうですよ。友人が旅に出る私の為に拵えてくれたのです」
「それは良いものをお持ちで……いや、私もより大きな船を持っているのですがね」
一人の男がそう言うと、それ以外の男は次々と「自分も持っている」「私もある」と言い出した。
ポントスは、なるほど、この島は大きな船を住民一人一人が持てるほどに裕福なのだな、と思い。それならぜひ、その大きな船を拝見したいものだ、と口にした。
しかし、彼の言葉に対し、男たちは一様に罰の悪い顔になると「今、ここにはない」と口々に言った。
「それよりも、貴方は旅をしていると見受けられますが、いったい何処を目指しているのですか?」
一人の男が慌てたようにそう訊ねると、ポントスは、東の果てにあるという楽園を目指しているのだ、と本心を口にした。
すると、男たちはいきなり笑いだして、口々に彼を嘲った。
「楽園など、ある訳が無いだろう。馬鹿な男だ」
彼の言葉に、ポントスは顔をしかめた。故郷の人々が認めてくれた自分の夢を、何故この男達に笑われなければならないのだろうか。
しかし、彼の内心も知らない男達は、如何にポントスが愚かで、その愚かさを示す自分達が聡明であるかを、嬉々として語った。
ポントスは、この島でもまた、人々に呆れてしまった。そうか、この者たちは、何も持っておらぬのだ。故に、船を持つ私を妬み、楽園を目指す私を嘲るのだ。
しかし、それを私が咎めたところで、彼らの耳には届かないだろう。彼らは耳すら持ってはおらぬのだ。
目の前でクスクスと笑う男達を、冷ややかに見送り、遂にポントスは上陸することなく、"イヴ"の島を後にすることに決めた。
イラの街のように、町を歩いても不愉快な経験をするだけだ、と悟ったのだ。
「楽園は、本当にあるのだろうか?」
これまで、楽園はあると信じていたポントスの脳裏に、先ほどの男の嘲りが蘇った。しかし、彼はその虚妄を振り払う。楽園はきっと存在する。皆がそれを称えてくれたのだ。彼は、そう信じて、船を再び東へ向かわせた。
□ 七日目 □
そして、とうとう彼は"スペルヴァ"という島に着いた。
島の木々は常に熟した果実を大量に実らせ、大きな港には種々の魚が水揚げされ、街の通りには荘重な邸宅が立ち並んでおり、街ゆく人々は常に笑顔で、異邦人のポントスに対しても、朗らかに接してくれた。
ポントスは、このような素晴らしい島こそ楽園に違いないと思い、その真偽を確認するため、港に居た色黒の漁師の男に訊ねた。
「この島は、もしかして楽園なのですか?」
すると、漁師は白い歯を見せて、威勢よく高らかに笑った。
「ええ、そうです。これほど素晴らしい島は、まさしく"楽園"ですよ」
男の言に、ポントスが心を躍らせたのは言うまでもない。夢にまでみた楽園に、彼はやっと辿り着いたのだ。
「異邦人にとって、そう感じるのも無理はない。なぜなら、この島の街は、神である私たちが作り上げたのだから」
しかし漁師は、ポントスの期待を裏切った。彼は耳を疑った。彼は今、自分自身を神だと言ったのか?
男はどこからどう見ても自分と同じ人間であり、伝承に聞く神の姿とはかけ離れているではないか。傲慢にも程がある。
しかし、男は彼の動揺など気にも留めず、如何にこの島が素晴らしいか、如何に自分たちが天の才を持っているかを、自分に酔いしれながら、身振り手振りで語った
最初こそ話を合わせていたポントスであったが、段々とうんざりしてきた。確かにこの街の人間は、"イヴ"の島の人間とは違い、才気を持つ者の側であることは確かなようだ。それは、この街の様相を見れば明らかだ。それに、この島の美しさは楽園と呼ぶに相応しいかもしれない。
しかし、それは決して自分から自慢したりひけらかすものではないと彼は思うのであった。
男は最後にポントスに対し、ここが気に入ったのならば暮らしてみてはどうだと提案したが彼は結局、その誘いを断った。元々、楽園に暮らすつもりはなかったし、故郷の友人に、旅の中で見たことを伝えなければならない。
ポントスは船に戻り、遂に島を出た。
「ここが、本当に楽園だったのだろうか?」
彼は迷ったが、やがて決心をしたように、再び東を目指した。
□ 旅の終わり □
ポントスは東へ、東へと向い、遂に地図に無い島に辿り着いた。
そこには港も町もなかったので、"エッシリア"の時と同じように、沿岸に錨を下ろすと、泳いで浜辺に上がった。
彼は島全体を見るため、山を登りながら、島に生えている木々や、その風景を観察した。なかなかに良い島ではないか。彼の率直な感想はそのようであった。
故郷によく似た気候で過ごしやすいし、好物の無花果もある。人々も町も無いのは気になるが、もしかしたら、山を越えた向こう側に、町があるかもしれない。
やがて山頂に辿り着き、島全体を眺めると、彼は目を疑うような光景を目の当たりにした。
「ここは……アカデイアではないか」
その通り、ポントスが目にしたのは、生まれ故郷、アカデイアであった。彼は図らずも世界を一周して、帰ってきたのである。だが、俄かには信じられない彼は、山を下りて町へと向かった。
しかし、彼が見たものは現実であった。どこからどう見ても、そこは生まれ育った故郷の町であった。
彼が港まで来ると、その姿に気づいた漁師が、あっと声を上げた。信じられないと言った顔で彼は言った。
「どうして港から出て行ったお前が山から帰って来るんだ?」
それはポントスにも分からなかった。やがて、漁師が皆にポントスの帰還を伝えると、彼の周りを囲うように続々と人が集まってきた。そして、人々は彼との再会を大いに喜び、夢を叶えた彼の栄光を讃えた。
その時、彼の脳裏に、"もしかしたら、ここが楽園だったのかもしれない"という考えが浮かんだ。思えばこの旅は苦難の連続であった。どの島の人間も、自分の欲望しか考えておらず、他者のことなど頭になかった。しかし、すぐに彼はその自惚れを振り払った。
人が人を秤に掛けることなどあってはならないのだ。彼は、一瞬でもそのように考えてしまった自身を恥じ、遂に"楽園など、どこにもなかったのだ"という事実に目を向けた。
しかし、アカデイアの人々は、そのような事実を知らないので、「楽園は、どんなところだったか?」と口々に問いかけてくる。
さて、彼は返答に詰まった。未だ楽園があると信じている彼らに、"楽園など存在しない"と言っていいのだろうか。
目を輝かせて自分の話を待っている子供らに、そのような事実を突きつけるのは酷だろう。だが、実際には訪れていない楽園に行ったなどと嘘を吐くのも憚られる。
困ったポントスだったが、やがて思いついたように、指を立ててこう言った。
「楽園は、天の上にあるそうだ」