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Cafe Shelly

Cafe Shelly 虹色の人生

作者: 日向ひなた

「もう疲れた。ごめんなさい」

 私はそう思って、カミソリを手首に当てた。そしてそのカミソリを一気に手前に引こうとした。

 が、一瞬頭に浮かんだ子どもたちの顔。それが私の力を弱めたのだろう。本当なら一気に吹き出すはずのものが、じわりと滲んだだけだった。けれど私はそこで気が遠くなり、バタンと倒れこんでいた。

 次に気がついたのは病院のベッド。目を開けると、末娘の心配そうな顔がそこにあった。

「お母さん、大丈夫?」

「よしえちゃん…」

 私は娘の名前を呼ぶ。もうすぐ二十歳になる娘。

 あぁ、私、生きてたんだ。どうして死ねなかったんだろう。死ねば楽になるのに。また苦しくてつらい人生を歩まないといけないのか。そう思うと、また気持ちが落ち込んでしまう。

 いつの頃からだろう、こんな気持で毎日を過ごすようになったのは。気がつけば気持ちが落ち込んでしまう。うつ病だと診断されたのはかなり前。今は抗鬱剤や睡眠薬、その他いろんな薬を飲まないと生きていけない体になってしまった。けれど病状は一向によくならない。今ではパニック障害も併発して、突然不安になって呼吸困難になったりすることもある。

 もう生きていくのがつらい。それしか考えられない。

「高橋さん、具合はいかがですか?」

 看護師から声をかけられても、私は曖昧な返事しかできない。

 今は病院のベッドの上。もう体は動かせるとは思う。けれど、自分の意志とは関係なく体が重たい。

 重たい、というのは実際もそうだから。昔仕事をしていた頃はスリムだったのに。仕事をやめてから、気がついたら太ってしまった。薬の副作用というのもあるみたいだけど。ブヨブヨの体も自分の自信を無くしている要因の一つだ。

 明日には退院ということらしい。さて、どうやって生きていこうかな。頭の中ではそんなことしか考えられない。

 末娘のよしえが高校に通っていた頃はまだちょっと張りがあった。実はよしえは学校でちょっとしたいじめに合っていた。同級生からいろいろと嫌味を言われたり、仲間はずれにされたり。困ったのは、世間一般で叫ばれているような悪質で誰が見てもいじめられているという状況ではなかったこと。ごく一部の同級生から、証拠が残らないような陰湿ないじめをされていた。あの頃はすでに私も心の病を持ちながらも、親子でそのいじめに対して必死になって戦っていた。

 そういえばあのときに相談したスクールカウンセラーの先生、今は何をしているんだろう?

 スクールカウンセラーの先生。結構話しやすくていい人だったな。でも、よしえがまだ在学中に学校を辞めてしまった。なんでも自分の夢を叶えるためだって聞いている。私にも叶えたい夢なんていうのがあればな。

 そんな感じでモヤモヤとした日々がまた始まった。そんなある日、よしえがこんなことを言い出した。

「私、パソコンの訓練校に通ってみようと思うんだけど」

 よしえは高校を卒業してすぐに就職したのだが、そこでもちょっとしたいじめに合い、わずかな期間で辞めてしまった。その後はアルバイトをしながらの日々。だが決して遊んでいるわけではない。志は高いのだけれど、どうやってそこにたどり着けばいいのかがわからない状況。そんなとき、職業訓練としてパソコン教室に通いたいということを言い出した。職業訓練だと原則無料なのでありがたい。

「いいんじゃない。行ってみれば」

 アルバイトを夜のシフトにしてもらえば、昼間学校に行くのは問題ない。そう思って通わせてみた。

 すると、よしえの言動がそれから変化しだした。今まで愚痴が多かったのが次第に減っていき、自分の将来のことをいろいろと語りだした。その表情は明るく、見ていてこちらも勇気づけられる。

「よしえちゃん、最近なんだか生き生きしてるね」

「うん、学校とても楽しいんだよ。高校と違って、いろんな年代の人がくるし。お母さんより年上の人も来るよ」

 私はもう五十を過ぎている。そんな年齢でもパソコンを習おうと思うなんて。

 そう思いかけたときに、よしえからこんな言葉が。

「今度次の生徒募集を始めるんだって。お母さんも通ってみたら?」

 私がパソコン? とんでもない。そもそもパソコンなんて使うつもりもないし、よしえと違ってどこかに就職しようなんて気持ちもないし。

 けれど、興味はある。毎日よしえから聞かされている授業内容、先生たちの言葉、そして年代を超えた友達付き合い。こういったものに心を惹かれる。

「でも、病気があるし…」

「大丈夫。実はね、クラスメイトの中で結構うつを患った人って多いんだよ」

 これは意外だった。そんな人でも学校に通えるんだ。だんだんと興味は湧いてきたけれど、今一歩前に進むことができない。私、どうしようかしら。

 こんなときに相談できる人がいればなぁ。そう思ってポツリとこんな言葉をつぶやいた。

「あのスクールカウンセラーの先生がいれば相談するのになぁ」

 あの先生に相談すればなんとかなるかもしれない。

「あ、あの先生。確か喫茶店を開いてるって聞いたよ」

「喫茶店なんだ」

「先生は前からコーヒーが好きで、自分のお店を持つのが夢だって言ってたから」

 先生も夢を叶えたんだ。

「それ、どこにあるかわかる?」

「うぅん、私は知らないけど…高校の同級生に聞けばわかるかも」

「ぜひ調べて、お願いっ」

「まったく、どっちが娘だかわかんないね。わかった、調べておくね」

「ありがとう」

 よしえの言葉を聞いて、なんだか心が落ち着いてきた。カウンセラーの先生に会えるかもしれない。会ったら今の私のことを聞いてもらいたい。

 そういえばあの頃、よく学校に通って相談を聞いてもらったな。そのおかげで勇気ももらえたし、いじめに対して立ち向かう気力にもなっていた。今度もあんな気持ちで活動的になれるかな。その日の夜は珍しく睡眠薬のお世話にならずに眠れることができた。

 翌日は朝からそわそわ。よしえから早く連絡がないかな。そのことばかり考えて、携帯を握りしめて待ち構えていた。時々メールが入るけれど、よしえからじゃないのを確認するたびにガッカリ。そうして気がついたら夜になっていた。よしえは学校からすぐにアルバイトなので、夜十時過ぎないと帰ってこない。

「ただいまー」

 待望の時がやってきた。

「おかえり。ね、先生の喫茶店わかった?」

「お母さんせっかち。まだ返事来ないよ」

「そ、そう…」

 かなり期待をしていただけに、よしえのその言葉は私の気持ちを一気に沈ませた。とその時、よしえの携帯からメールの着信音が。

「どれどれ、美由紀からだ…あ、ここなんだ。お母さん、先生の喫茶店わかったよ」

 このとき、私の頭の中が急に明るくなった感覚を覚えた。

「どこどこっ」

 思わずよしえの携帯を覗き込む。

「ほら、街中のレンガの花壇の通り。あそこにあるんだって」

 あの通りか。何度か通っているけれど、そんなところに喫茶店があるなんて気が付かなかった。

「お店の名前はカフェ・シェリー。なんでも魔法のコーヒーっていうのがあるみたいだよ」

「魔法のコーヒー?」

「なんだろう、これ。それしか書いてないから、どんなのかわかんないや」

「わかった、ありがとう。明日早速行ってみるね」

 カフェ・シェリーに魔法のコーヒーか。私の期待は高まった。これで人生が開けるかもしれない。

 私はつい過度な期待を持ってしまうというクセがある。それで何度も現実とのギャップで落胆して落ち込んで痛い目を見たことがあるのに。

 いや、先生は裏切らないはず。勝手にそう決めつけ、自分の人生に一つの希望を持ちながら一夜を明かした。

 翌日、午前中から早速カフェ・シェリーに足を運んだ。

「確かこのへんだったな…」

 この通り、道はパステル色のタイルで敷き詰められて、道の両端にはレンガでできた花壇が並んでいる。道幅は車一台が通る程度ではあるが、そんなに狭さを感じない。

「あ、ここか」

 その通りの中ほどで黒板に書かれた看板を発見。そこには「Cafe Shelly」という文字が書かれてある。なるほど、このビルの二階だったんだ。今まで二階のお店なんて気にとめたことはなかったからな。

 早速階段を一歩ずつあがる。私は病気を持っているせいで階段をあがるのは苦手。なのに今日に限っては足が勝手に進んでいく。

カラン・コロン・カラン

 扉を開くと、心地よいカウベルの音。それと共に響いてくる「いらっしゃいませ」の声。店内に入ると、コーヒーと甘いクッキーの香りが私を包み込む。なんだか心地いい空間。

 カウンターを見ると、あのカウンセラーの先生がカップを磨きながらにこやかに私の方を向いて微笑んでくれる。

「先生、お久しぶりです。覚えていますか?」

「あ、高橋さん、でしたよね」

 うれしい、私のことを覚えていてくれたんだ。

「お久しぶりですね。学校を辞めて以来ですから。よしえちゃんは元気ですか?」

 娘のことも覚えていてくれたんだ。

「よしえはアルバイトをしながらパソコンの訓練校に通っているんですよ」

「へぇ、それは楽しみですね」

「それでね、先生。私、今悩んでいるんです」

 懐かしさもあるけれど、それ以上に自分の話を聴いてもらいたい。そんな衝動からか、あつかましくも先生に話をもちかけた。先生は嫌がりもせずに、ニコニコした顔で「どんなことですか」って聴いてきてくれた。だから私、遠慮せずに話を始めてしまった。

「私、夢を持ちたいんです」

「夢、ですか」

「えぇ、覚えていると思いますが、私病気を持っているでしょう。今はそれと戦うのに必死で。毎日どうやって暮らしていこうか、その事ばかり考えてしまって。だから毎日が辛くて…」

「なるほど、だから目標となるものが欲しい。そういうことですね」

「はい。何か見つかるでしょうか?」

「そうですね。じゃぁ私から一つお薦めがあります。うちのオリジナルコーヒー、シェリー・ブレンドを飲んでみませんか?」

「それって、魔法のコーヒーですか?」

「あ、ご存知でしたか」

「魔法のコーヒーってことしか知らないんですけど…」

「じゃぁ、とりあえず飲んでみましょうか」

 私は気がついたらカウンターに陣取り、先生の行動をじっと見ていた。

カラン・コロン・カラン

 入口のドアが開き、ただいまーという可愛らしい声。

「あ、マイ、おかえり。こちら、高橋さんといって学校時代の保護者の方だよ」

 マイさんって、確か歳の離れた先生の奥さんだったな。噂には聞いていたけれど、実際に見るのは初めてだ。髪が長くて、清楚な感じでとてもかわいらしい。

「初めまして、マイといいます」

「こんにちは、高橋愛といいます。周りからはよく愛ちゃんと呼ばれています」

 なんだか私、図々しいな。そう思いながらも、なんとなく話しやすい雰囲気に引き込まれてしまう。

「高橋さん、夢を持ちたいそうだ」

「わぁ、ステキ。自分から夢を持とうという気持ちがあるのは素晴らしいですよ。愛ちゃんがどんな夢を見れるのか、楽しみだな」

 マイさんはエプロンをしながらそう話しかけてくる。マイさんから愛ちゃんと呼ばれて、なんだか親しみが湧いてきた。

「はい、おまたせ。当店自慢のシェリー・ブレンドです。飲んだらぜひどんな味がしたか、感想を聞かせてくださいね」

 私は早速そのコーヒーカップを手にとった。コーヒーといえばスターバックスとかでしか飲まない。しかも飲むのはコーヒーじゃなくて、甘いものばかり。純粋なコーヒーを飲むのは久しぶりじゃないかな。

 口に近づけると、まずはコーヒー独特の香りが漂ってくる。コーヒー通じゃない私にも、その香りの心地よさが伝わってくる。

 一度思いっきり鼻でその香りを感じた後、いよいよ味に突入。黒くて熱い液体を舌の上に流しこむ。

 苦い、けれどそれは同時に心地よさを感じさせる。安心感、その言葉が頭に浮かんだ。と同時に、目の前にいる不安そうな表情の、まだ見たこともない人の顔が浮かぶ。だがその不安は私の前で笑顔に変わっていく。

 あ、この感覚。私が前に先生にカウンセリングをやってもらった時のあの感じだ。心に不安を抱えていたときに、先生に話を聴いてもらって前に進もうという気持ちになった。今度は私がそれをやる番。不安を抱えている人を私の言葉で救ってあげる事ができれば。そんな考えが頭の中でどんどん展開していった。

「お味、いかがでしたか?」

 マイさんの言葉でハッと我に返った。

「何か感じるものがありましたか?」

 マイさんがもう一度私に聞いてくる。

「なんだか不思議な味、というか感覚です。私、ふと先生みたいになりたいって感じたの」

「愛ちゃんがマスターみたいに?」

「うん、前に先生にいろいろとカウンセリングをしてもらったでしょ。あんな感じで、人を勇気づけるようなことがしたいって感じたの」

「人を勇気づけるかぁ。なんかステキだなぁ」

 マイさんの言葉に勇気づけられた。けれどすぐにこんな不安が襲ってきた。

「でも私、カウンセラーとかの勉強したことないし。この歳で今から勉強とかもなぁ」

「カウンセラーに固執する必要はないんじゃないですか?」

「えっ、どういうことですか?」

 先生の言葉、どういう意味があるのだろうか?

「高橋さん、前にお聞きしましたけれどいろいろな経験をされていますよね。それも、とても苦労された経験を。しかし一つ一つにきちんと立ち向かってこられた。そういうの、私にはありませんから。今同じように悩んでいる人にとって、一番有効なのは同じ体験をした人がどのようにそれに立ち向かったのか。その話じゃないかなって思うんですよね」

「そんな、私の話だなんて…」

 先生はそう言ってくれるが、自信がない。けれど、人を勇気づけることができるなら。私の経験でよければ。

「そんな仕事、できるのかな? そもそも、どういう仕事をすればいいのかな?」

「その答え、シェリー・ブレンドに聞いてみるといいですよ」

 マイさんが事も無げにそう言う。確かに、さっきこのコーヒーを飲んだ時にひらめいたことが、今の私のやりたいことを気づかせてくれた。だったらもう一度、このコーヒーにかけてみよう。その思いで私はカップを手にとった。

 さっきと同じように、ゆっくりと口の中にコーヒーを流し込む。すると、今度は違う味わいが。まず頭に思い浮かんだのはよしえの顔。そこから連鎖的にいろいろな人の顔が思い描けた。だが、それはまだ見たこともない人たち。若い人もいれば年配の人もいる。男性もいれば女性もいる。そんな人達の中に私がいる。不安も抱きながら、それでいて心地よさも感じる。今の私にはない、新しい空間。そんな言葉が頭の中をよぎった。

 ここでふと思い出した。よしえのあの言葉。

「今度次の生徒募集を始めるんだって。お母さんも通ってみたら?」

 よしえが通っている訓練校で生徒を募集しているんだった。そこに飛び込めってことなのかな?

「今度はいかがでした?」

 マイさんにそう言われて、また正直に私の感じたことを伝えてみた。

「なるほど、愛ちゃんがパソコンの訓練校に、か。それってどこの教室だかわかりますか?」

「えっと、確かここなんです」

 私はよしえからもらったメモを取り出して説明した。

「あ、ここならお勧めですよ。知り合いがやっているところですから。笠井さんという先生がすごく頼りになりますよ」

 そういえばよしえの口からも、笠井先生が楽しくて頼りになるって聞いていたな。マイさんの言葉を信じてみようかな。

「高橋さん、一歩を踏み出せば必ず結果は出ますよ。いじめに立ち向かった時がそうでしたよね」

 よしえのいじめに対して、私は最初は周りが何とかしてくれないかと思って先生に相談した。が、結果的には私から行動を起こし、その問題を解決した。先生の言葉は私に勇気を与えてくれた。

「じゃぁ、まずはその学校に通ってみることから始めてみます。きっと何かが変わることになるんですよね」

「間違いありませんよ。また時々ここに寄って報告してくださいよ。楽しみにしています」

 先生に相談してよかった。よし、早速その一歩を踏み出してみよう。その日の夜、よしえが帰って来て早速入学手続きのことを聞いて、翌日には行動を開始した。私の胸はだんだん高まっていった。

 それからはトントン拍子に話が進んで、あっという間に入学の日を迎えた。タイミング的によしえが卒業をしてから私が入学という感じ。親子で通えるかと思ったけれど、そこは残念。けれど、私自身が子離れしなきゃ。

 クラスは二十人ほど。そこには年齢も経験もまちまちの人がそろっている。最初はおっかなびっくりで、ちょっとおどおどしていた。みんな、再就職のためにパソコンの技術を身につけようと意欲満々なんだから。そんな中で私は、何かが変わるかもしれないというその一念だけでここを訪れている。少し感覚がずれているのかもしれないな。

 最初はおとなしく毎日を過ごしていた。クラスメートとはそれなりに会話はするけれど、私という人間の本性は隠すように過ごしていた。だって、どんなふうに見られているのかが怖くて。けれど、徐々に私の本性が現れてきた。

「ねぇ、これってどうするの?」

 パソコンの授業で教えてもらったことがイマイチ理解できなくて、隣の三十代の男性に質問。彼はパソコンがわりと得意で、ホームページづくりの技術を磨きたくてここにやってきたそうだ。

「愛ちゃん、ここはこうするんだよ」

「うぅん、なんだかわかんない。代わりにやってよ」

「代わりにやったら勉強にならないでしょ」

「そんなこと言わずに、ね、お願い」

「まったく、愛ちゃんに頼まれると断れないからなぁ」

 こんな感じで図々しくできないことを人にお願いしてやってもらう。確かに、勉強にはならないんだけど。でも、パソコンを仕事に活かして再就職、なんてことは考えていないから。とりあえず基本的なことさえできればいいかな、と思っている。

 こんな感じで徐々に私が人なつっこさを出してきたので、クラスのみんなも

「愛ちゃんに頼まれると」

と言ってくれて何かとやってくれることが多くなった。そのかわり、何でも図々しくお願いをしているだけではない。私は私なりにクラスに貢献できるように頑張っている。みんなの輪を崩さないように、そしてなんとか高められるように心配りをしているつもり。そのせいなのか、先生もこのクラスは今までに無く結束力が強いと言ってくれる。

 私も、今まで触ったこともなかったパソコンに少しずつ慣れて、自分で文字を打って文書を作れるところまでになった。人から見ればかたつむり級の遅さなのかもしれないけれど、この歳になってこんなことにチャレンジできるということの喜びのほうが強くなっている。

 そんな感じで毎日が過ぎていく。今実感しているのは、ここにきてよかったってこと。なんだか気力が湧いてきて、とても行動的になってきた。それと同時に、もう一つ私自身の体に大きな変化が現れた。

「お母さん、ずいぶん痩せたよね」

「そう?」

 といいつつも、実際に体重が減っていくのが目に見えてわかる。学校に入る前までは、どう考えても太っていた。しかし今はずいぶんと痩せている。この前、久しぶりに友達を見かけて声をかけたら、最初はだれだかわからなかったと言われたほどだ。それがまた、自分の自信につながってきた。

 この歳になっても、やればできるんだ。そういう考え方に直結してきた。実は痩せるというのも、シェリー・ブレンドで引き出してもらった思いである。

 あれから何度か先生のところに通って、シェリー・ブレンドを飲んでは自分の目指すものをイメージしていた。まだはっきりとした姿はわからないけれど、私を通して多くの人の悩みが解決して幸せそうな姿に変わっていくことを思い描いていた。そのときに、私自身がすっきりとスマートになっている姿をイメージしていた。

 先生曰く、イメージが行動を変えていくとのこと。そのことをすごく実感している。

 そんなある日、就職のためのキャリアカウンセリングという時間が設けられた。そもそもこの学校は再就職を目指す人のためのもの。そのために生徒一人ひとりに対してキャリアカウンセリングを定期的に行うことになっている。

 私は正直なところ、どこかに就職をするなんてことは考えていない。今は自分の経験を活かして、相談員として活動をしようという気持ちが強くなってきている。そこでキャリアカウンセリングを行なってくれる小林先生にそのことを伝えてみた。

「相談員、ですか…」

 小林先生はちょっと難しいといった表情を浮かべた。言いたいことはわかる。相談員になるにあたって、私は何の資格も持っていない。単に自分の経験だけでそうなろうとしているのだから。

「愛ちゃん、申し訳ないけどボクは愛ちゃんのことをよく知らないんだよね。学校の中で頑張っている姿は見ているけれど、どうして相談員になろうと思ったのか。その経緯をよかったら話してくれないかな」

 経緯、か。私は自分の過去を話すことにためらってしまった。どこから、そしてどこまで話せばいいのだろうか。それ以上に、私の経験を今ここで話してしまって、小林先生は引いてしまわないだろうか。

 結局、この日は私のことを話せずじまいで終わってしまった。その日の夕方、学校が終わると私はすぐにカフェ・シェリーに足を運んだ。

「先生、今日ね、こんなことがあったの…」

 シェリー・ブレンドを注文してすぐに、私は先生に今日の出来事を話してみた。

「なるほど、それで自分のことを話すのにためらってしまったんですね」

「先生、どうしたらいいと思う?」

「じゃぁそれも、シェリー・ブレンドに聞いてみるといいかな」

 私の中では、悩みができたらシェリー・ブレンドに頼るのが習慣になってしまった。今回もそうしようと思ってやってきたのだ。

 早速シェリー・ブレンドを口にしてみる。そして感じた味がとても妙だった。

「先生、なんか今日の味って変だよ。だって、コーヒーの味しかしない。どういうこと?」

「もう一度問題点を整理してみましょうか。高橋さんは自分のことをキャリアカウンセリングで話すかどうか、そこを迷っていたんですよね」

「はい」

「そしてシェリー・ブレンドが出した答えが、コーヒーの味。つまり、高橋さんはコーヒーの味を望んでいる、ということになりますね」

「そうなりますね」

「だったらこう考えられませんか。今と同じ事をすればいいって」

「今と同じ事って、どういうこと?」

「つまり、なにか判断に迷ったら、シェリー・ブレンドに頼ればいいってことですよ」

「でも、迷った時にすぐにここに来れるわけじゃないし…」

「じゃぁこうしませんか? 水筒を持ってきていただければ、私が毎朝高橋さんにシェリー・ブレンドを入れてあげますよ。それを持ち歩けばいいんじゃないかな」

「先生、ナイスアイデア!」

 早速翌日からそうすることにした。その日から毎朝学校にいく前にカフェシェリーに寄って水筒にシェリー・ブレンドを入れてもらうようになった。そのおかげで、安心して昼間の時間を過ごせるようになった。

 毎日迷うことが起きるわけじゃないけれど、万が一の時にこれを飲めば安心、という気持ちになれる。何もなかった日には、放課後にクラスメートにシェリー・ブレンドを少しずつわけてあげるようになった。みんな、この不思議な味にびっくり。おかげで、カフェ・シェリーのお客さんも増えたみたい。

 そんなとき、またキャリアカウンセリングの順番が回ってきた。

「愛ちゃん、今は進路はどう考えているの?」

 小林先生は真剣な眼差しで私を見つめてそう質問してくる。

「今までの経緯をよかったら話してくれるかな」

「ちょっと待ってください」

 その瞬間がきた。

 私は水筒の中のシェリー・ブレンドを急いで一口飲んだ。そして目をつぶる。どんな味がするの? ドキドキしながらその瞬間を待つ。

 すると、私の頭の中には過去の人生が走馬灯のように映し出された。辛かったこと、苦しかったこと、涙したこと。けれどそんな人生に私は自信を持っている。決してほめられたものではないけれど。

 うん、そうよ、そうよね。

「愛ちゃん、どうかな?」

 小林先生の言葉で私は目を開けて、そしてこう言った。

「先生、今から私の人生を話すけど、聞いてくれますか?」

「あぁ、いいよ」

 私は今までの人生を語り始めた。

 子供の頃は田舎町で普通に暮らしていたが、最初に結婚した夫との関係が私の壮絶な人生の始まりでもあった。その夫のDVに始まり、そして暴力団との付き合い、さらには覚せい剤を打たれて中毒になった日々。

 その夫から逃れてなんとか覚せい剤からも抜け出すことができたが、生きていくためには仕事をしていかなければならない。そのとき私は風俗店に勤め、それからすぐにお店を経営するようになった。そこではさまざまな事情を持った女性たちが集まり、彼女たちを守る側として頑張った。

 その後、再婚を果たして幸せな生活が待っていると思っていた。が、夫との仲もすぐに冷え切って。とりあえず安心していられる場所だから、夫婦生活は続けているけれど。

 けれど過去のこともあってか、いつしか心身ともに疲れがきて。気がついたら「うつ」の診断がくだされていた。

 病院もいろいろ転々とした。けれど病状はよくならず、むしろ薬の量だけは増えていく生活。

 そんな中、子どものいじめの問題と直面した。最初の頃はどうして私たちだけがこんな目にあわないといけないのか、と嘆く日々だった。しかし、当時スクールカウンセラーだったカフェ・シェリーのマスターをやっている先生のおかげで、いじめに立ち向かうことができた。

 目標のない人生を送って、最後に行き着いたのがここ。今では自分の目標を見つけることができて、それに向かって行こうという気持ちが強くなっている。そんなことをひと通り話をした。

 ふと見ると、小林先生がじっと下を向いている。私の話がつまらなかったのかな?

 ところが小林先生、パッと顔を上げて私にこう言ってくれた。

「愛ちゃん、今ボクの心はとても揺れています。感動で打ち震えているんです」

 その目は真っ赤に染まっていた。

「愛ちゃん、今の話はもっと多くの人に聞かせるべきだ。同じような境遇にいる人、今悩んでいる人にとっては大きな希望になるよ。だから、愛ちゃんは相談員じゃなくて講演者になるべきだよ」

 講演者。そんなこと今まで思いもしなかった。けれど、その言葉の響きとそしてそのイメージに私の心の中に電流が走った感じがした。

「先生、ありがとう。でも、講演者ってどうすればなれるんですか?」

 ここが一番の問題。なろうと思っても簡単になれるものじゃない。

 ここで小林先生から一つ提案があった。

「まずは毎朝行なっている三分間スピーチの時間があるじゃない。ここで今の話の一部を話してみたら?」

「えっ、みんなの前で?」

「そう、きっとみんな感動してくれるよ」

「そうかなぁ」

 半信半疑ながらも、小林先生はボクが味方になってあげるからと言ってきかない。じゃぁ次の自分の番の時に話してみます、ということになった。とはいっても、いきなりDVや覚せい剤、風俗店の話はみんなにはきついかな。まずはいじめの話からしてみよう。

 そうして数日後に私のスピーチの出番が回ってきた。今では当たり前になった水筒のシェリー・ブレンドを授業が始まる前に飲む。よし、やるぞ。

「では今日のスピーチは愛ちゃんです。よろしくおねがいします」

 私は大きく深呼吸をしてみんなの前に立つ。そしてこう話しだした。

「みなさんはいじめにあったことがありますか? 私は、いや私たちはあります」

 この言葉はかなり衝撃的だったらしく、みんなの私を見る目が一瞬にして変わった。私は言葉を続ける。

「娘のよしえが高校生の頃です」

 そこからよしえのいじめの体験談を伝えた。と同時に、私自身もいじめにあったことも付け加えいた。

 だが悲惨な話だけで終わってはいけない。そこからどうやって立ち向かっていったのか。親としてどう行動したのか。そのときに助けてもらった人のことも。

 気がつくと三分間スピーチは大幅に時間を超えていた。私は自分の胸の中にある思いを一気に吐き出した感じがした。

「以上で私のスピーチを終わらせていただきます」

 そう言った瞬間、会場がシーンと静かになった。私の話、ダメだったかしら?

 だがそのあと、一転してみんなが大きな拍手をしてくれた。その拍手は今までスピーチで聞いていたものよりも大きく、そして長いものだった。

 あぁ、よかった。みんなに私の話が認められたんだ。初めて話した、たどたどしく、そして短い講演。

「愛ちゃん、よかったよ」

「なんか勇気が出た」

 みんな口々にそんな感想を言ってくれる。さらに昼休みに、同じ受講生で今まであまり話したことがなかった主婦の人からこんなことを言われた。

「私の旦那さんが学校でいじめについていろいろと運動をしているの。愛ちゃんみたいな人の話をぜひ生徒や保護者に聴かせるといいと思うのよね。旦那さんに講演ができないか話をしてみるね」

 なんと、この話はトントン拍子に進んで、ちょうどその学校で来月保護者の集まりがあるので、三十分ほど話しをして欲しいと依頼された。私はシェリー・ブレンドを口にして、自分の意志を確認。

「うん、わかった。やってみる」

「愛ちゃん、ありがとう。旦那さんも助かるわ」

 さらに小林先生がこんな話を持ちかけてきた。

「愛ちゃん、ボクの知り合いにDVで困っている人を助けるというNPOをやっている人がいるんだけど。その人にこの前愛ちゃんのことを話したら、ぜひDVで困っている人の勇気になって欲しいから話をしてくれないかって。ボランティアになるけどいい?」

 私はもちろんですと二つ返事で答えた。

 もうシェリー・ブレンドの力はいらない。私自身の中にある意志が明確になっているから。

 私は私の言葉で、たどたどしいながらも三十分ほどの講演を二回ほどこなした。正直なところ、私はきちんとした言葉は使えない。敬語なんかもむちゃくちゃ。でも、とにかく自分が経験したことや自分が感じたことを自分の言葉で、本音でしゃべろう。その一心で話をさせてもらった。

「愛ちゃん、すごいよ。なんか心に響いてきた」

 小林先生やクラスメート、その他の人も同じような感想をもらうことができた。私、今までこんなつらい経験をしてきたけれど、それはこの日のためにあったんだ。

 そう思えるようになってきた。私の話でもっと多くの人が希望を持ってくれれば。その思いはどんどん広がっていく。

 けれど、たった二つの、しかも短い講演をやっただけで本当にそんなふうになれるのかな?こんな不安が襲ってきた時には、すかさずシェリー・ブレンドを飲むことにしている。そしてもう一度、私が望んでいることを自覚する。

 うん、もっと多くの悩んでいる人の力になりたい。そう思い直して自分の気持ちを確かめる。

 そんな感じで気がついたら訓練校の卒業の時期がやってきた。他のクラスメートは多くの人が再就職先を見つけることができたようだ。けれど私は就職するつもりはない。

「愛ちゃんはここを卒業したらどうするのかな?」

 小林先生の最後のキャリアカウンセリングの時間。私はその質問に対して、堂々とこんなふうに答えた。

「はい、講演者になります。そして、多くの人に希望を与えられるようになります」

「うん、愛ちゃんならそう言うと思ったよ。それでね、余計なおせっかいかもしれないけれど…」

 小林先生はそう言ってあるリストをくれた。そこにはいろんな人の名前と所属、連絡先が記載されている。

「これは愛ちゃんの話を受け入れてくれそうな機関や組織の担当者さんのリストだよ。まずは自分のプロフィールシートをつくって、こういったところを一件一件回ってみるといい。どんな講演をするのかは、先日のDVの講演をした時のビデオがあるから。これを見せるといいよ」

 そうして小林先生は講演のDVDを私に渡してくれた。

「あとは自分の力で切り開いてみるんだ。なんでもかんでもボクがやってしまうと、自立にならないからね」

 小林先生のプレゼントに、私はとても感動してしまった。と同時に、これからは自分でやらないといけないんだという決心がついた。

「先生、ありがとう。私、がんばる」

「うん、これからの活躍を期待しているよ」

 私は早速、もらったリストのところに一件ずつ電話をしてアポを取ることに。こんなことやるの初めてだから、最初は緊張して手が震えた。しかし、先方の担当さんに変わると、意外にもリラックスできた。

 あらかじめ小林先生が担当さんに私から連絡がいくことを知らされていたようだ。だから話はスムーズに進んで、それぞれの方に会いに行くことにした。

 小林先生からもらったDVDはよしえにお願いしてダビングしてもらったし。そのときよしえからこんなことを言われた。

「営業活動するなら名刺がいるじゃない。とりあえず自宅のパソコンで印刷できる名刺をつくってみなきゃね」

 そんなの作ったことがない。けれど名刺は必要。さて、どうしよう。

 このことを小林先生に相談したらこんな答えが。

「そっか、よし、パソコンの最後の授業は名刺作りにしよう」

 ということで私のお願いから名刺作りの授業が始まった。ここで私のような個人で仕事をする人には、名刺一枚で何の仕事をしているのかがわかるような内容を記載することを学んだ。さらに自分というものをわかりやすくするキャッチコピーも必要。これには頭を悩ませた。しかし、みんなでそれぞれのキャッチコピーを考えることに。

 そしてできた私のキャッチコピー。それがこれ。

「虹色の人生を持つ講演者」

 えっ、なにこれ? そう思わせるのがいいそうだ。そうすると、必ず意味を聞いてくる。そういう時には私はこう答える。

「私、いままでいろいろな人生を送ってきました。DVにあったり、いじめにあったり、風俗店を経営したり。それは決して楽しいものではありません。けれど、今は希望に向かって天に伸びています。七色の虹のように、さまざまな人生を送ってきたけれど、それは大きく空に伸びていくためのものだったんです。私はそんな話をさせて頂きます」

 このことは忘れないように名刺の裏にも書くことにした。この名刺を持って早速アポを取ったところに訪問。おかげで私という人物を覚えてもらうことができ、さらにいくつか講演の話もいただいた。決して饒舌ではないけれど、それがまた人の心を打つようだ。

 おかげで少しずつ私という人物が認知され始めた。さらに、講演の後に相談を持ちかけてくる人も。私は決して気の利いたアドバイスはできない。自分の体験を事細かく話してあげるだけ。それでも相談者には勇気を与えられているみたい。

 気がつけばシェリー・ブレンドで味わった人生になっている。そして今日もまた、この言葉で家を飛び出していく。

「いってきます」

 一昔前では考えられなかった朝を迎えている。引きこもりがちでいつも家にいた私。外出はするけれど、それは周りが動き出してから。

 けれど今は違う。まずは私が最初に家を出る。

「お母さん、今日はどこだっけ?」

「えっと、隣の県の小学校のPTA講演だよ」

「わかった、いってらっしゃい」

 今では近隣の市町村を始め県外にも講演で呼ばれるようになった。私の名前も広く知られるようになって、いろんなところでいろんな立場の自分の話をする。

 私が送ってきた虹色の人生。内容的には決してほめられたものではない。が、その経験があったからこそ今がある。

 そういえばマスターが言っていたな。過去と他人は変えることができないと言っていたけれど、過去に起きた事実は変えられなくてもその解釈は変えられる。その結果、周りの人が自分を見る目は変えることができるって。

 私は過去も他人も変えてしまった。それは自分と未来を変えることにつながった。今日もまた、自分の虹色の人生の一つに新しい色を加えることができそうだ。そして多くの人の人生に虹をかけてあげてこよう。

 高橋愛、人生まだまだこれからだ!


<虹色の人生 完>

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