後編
林文彦は、受話器を娘から奪還した。
20時にかかってくるということは実家からかもしれないし、ひょっとしたら会社からかもしれない。その電話に出ないわけはいかないな。と、思っていた。そして、でた。電話の向こうは、沈黙。
「お、とう、さん……」
静寂が切り裂かれた。文彦は姿勢を正した。脳髄に雷が落ちたらきっと人はこう直立するのだろうな。と、どこか客観視した自分が慰めてくれた。にしたって、俺に隠し子は居ない。……はずだ。
「えっ、えーと?」
反射的に聞き返していた。理解が追い付かなかった。
「美紀です」
その声は確かに、妻の美和子とそっくりだった。
美和子は今、お風呂に入っているはずで。今日は美紀の誕生日なわけで。悪ふざけでこんなことはしないタイプなはずで。
つまり、
「どういう、こと?」
声を潜めて聞き返してしまった。
電話の奥から悪意は感じず、娘かも知れない少女の声に応えないわけにはいかなかった。
「信じてもらえないかもしれないけれども。私は、15歳になった美紀です」
電話の向こうの声は、震えていた。
その震えには、不安と勇気が感じられた。
文彦は当惑した。受話器はしゃべる。
「おとうさん、浮気しているでしょう」
ゾっとした。心の中を見透かされているのかと思った。
「どうしてそれが」
平静を保って言ったつもりだった。けれど返答に失敗したと即座に気づく。間接的に認めてしまったのだ。受話器を握る手が嫌な汗でしめる。足元では、二歳の美紀が「ぱぁぱぁー」とかまってほしそうに見上げてくる。
「やっぱり、そうだったんだ。ねぇ、どうして。どうして私やお母さんが居ながら、そんなことをするの」
”美紀”に責め立てられた。当然だ。いつか誰かから責め立てられることを、そうでなくても、自分の良心にいつも責め立てられる行為を自分はしている。と、文彦は苦虫を噛んだ。
「別れてよ。私とお母さんの家庭に帰ってきて、お願い」
美紀の声は切実だった。
それはやり場のない感情をいくつも飲み込んできて、堰を切って流れ出したかのようだった。焦りと懇願と期待と絶望と苦しさと、すがってしまう甘さが、添加された言葉だった。
「……別れられるなら、とっくに別れているさ」
言ってしまった。と、文彦は動揺する。それでも、言葉は止まらなかった。理性が追い付ける状況ではなかった。
「人を、愛してしまう気持ちは、僕には大きすぎて、コントロールできなかったんだ」
「それは、私よりもお母さんよりも、浮気相手の人を愛しているってこと?」
「いや当然、美和子も美紀も愛している。愛しているから、家族なんだよ」
「わからない!だったらなんで、私に13年間会いに来なかったの!電話の一本も、手紙の一通も、なんでなんにもくれなかったの!私が、どれだけお父さんが居なくて寂しかったか、どれだけ一人で泣いたのか、どれだけ悪夢にうなされて飛び起きたのか、なんにも知らないでしょ!」
はぁぜぇ、と電話の奥から粗い吐息が聞こえる。自分の言葉が、美紀の逆鱗に触れてしまったことは明らかだった。たぶん、何を言っても怒らせていたし、当然怒る権利がある。すべては自分の行動が招いた行為だ。わかっていた、そんなこと、わかっていた。
それでも文彦は、三人を愛してしまった。
美和子を、美紀を、優奈を——。
美和子の、信頼を感じるたびに、
美紀の、純粋さに触れるたびに、
優奈の、生命力の強さを貰うたびに、
罪悪感よりも、この三人を失えないという”わがまま”が勝ってしまった。
それは結果的に、二人を傷つけることになるのか。
だったら、僕は、
「別れるよ」
「当たり前でしょ!」
「美和子と、別れるよ」
感情が、そう言っていた。
*
美紀には、文彦が何を言っているのか理解できなかった。
それでも、「美和子と、別れるよ」というフレーズが頭の中でこだましていた。
唖然としていた美紀は、だんだんと怒りに燃えてきて、こぶしを握り締めていた。
「なんで、そうなるわけ!」
初めて電話で怒鳴った。いや、15年間の人生で、人に怒鳴ったことなんて一度もなかった。母親にも、親友にも、先生にも、誰にもとったことがない行動を、美紀は父親へぶつけた。
「ごめん。でもたぶん、美和子の優しさにこれ以上甘えることは、できないんだ」
「愛してるんじゃなかったの!だから家族だって!」
「ごめん。美紀が可愛くないわけがないんだ、大切に決まっているんだ。僕だって、ずっとそばに居たい」
「じゃあそばにいてよ……」
「できないよ、親権は、間違いなく美和子のものになる」
「そうじゃなくって!家族三人で一緒に居ればいいでしょ!」
「愛に、順番を付けるなんて真似をしなくてはいけないなら、僕が、一番愛してしまったのは」
「聞きたくない。聞きたくないよ」
「……ごめん。美紀には、13年間、つらい思いをさせたな」
混濁だ。涙がこぼれる。これは決して、自分が欲した言葉が聞けたからではなく、無責任で自分勝手な父親に対する怒りなんだ。と、美紀は涙をぬぐう。
「どうして、そんな二番目に欲しい言葉をかけるの……」
「たった一人の大切な、娘だからだよ。美紀以上に、美紀の幸せを願っているんだよ」
涙は止まらなかった。
受話器をぴったりと押し付けていた。
「僕が美紀のためにできることは、なんだってする。僕は必ず、美紀に会いに行く」
言葉は失われた。
ただ、嗚咽だけが、受話器に受け止められた。
*
11月23日。世界が紅葉していく頃。
小野美和子は、緊張していた。
その緊張を表すがごとく、彼女は全身が黒かった。くるぶしまであるレースのワンピースも、ショートダウンも、パンプスも、小さいショルダーバックですらも、全部真っ黒だった。
美和子はその場に、黒以外の何色を着ていけばいいのかわからなかった。結果、全身黒ずくめになってしまった。
眼前には、山下公園通りのイチョウ並木をわが物のように歩く美紀。
見事な黄金色の元、美紀の赤いベルベットのワンピースが揺れていた。ふわり、と美紀が体を反転させる。
「お母さん、今日はありがとうね」
「うん。レストラン、もう少しみたいね」
「ふふ、楽しみ~。……わぁ、素敵!ここ?」
「そう。ホテルニューグランド。お洒落でしょう」
「映画の中みたい!」
そういって美紀は嬉しそうに、その白い建物へ駆け寄った。
石造りと思われる構造で、二階には大きな窓が並ぶ。白いカーテンが開け放たれ、茶色の窓枠に挟まれたガラスが反射していた。
二人は入店した。五階までエレベーターに運ばれる。その上昇とともに、美和子の心拍数も上がっていくようだった。
チンと、静かにエレベーターは停止する。待ち合わせ場所である、ル・ノルマンディへ向かう。
ここに来るのは、美和子にとって二回目だった。お店は変わらないのに、私はだいぶ変わってしまったわね。と、美和子は深層で憂いでいた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
感じのいい中年のウェイトレスが出迎えてくれた。美和子は答える。
「待ち合わせで。おそらく先に、林が来ていると思うのですが」
「林様のお連れの方でいらっしゃいますね。こちらへどうぞ」
ウェイトレスに先導され、店内を歩く。
白いテーブルクロスに籐で編まれた椅子。丸いテーブルを囲んで食事を楽しむ人々。大きな窓からは港が見え、光が店内へ降り注いでいた。
お昼時の店内は、平日にも関わらずにぎやかで、人々の笑顔で満ちていた。
昼間の店内は、夜の艶やかに落ち着いた雰囲気とは変わって、美和子の緊張した心をほぐしてくれるようだった。
それもつかの間。
「はっ」と美和子は息を飲む。文彦の姿を目が捉えてしまったからだ。12年ぶりとは思えなかった。ワックスで軽く整えられた黒い髪も、選ぶネクタイの色もスーツの色も、紅茶党なところも、何一つ変わっていなかった。
「どうぞ」と、ウェイトレスは籐の椅子を二人のために引いてくれた。腰かけて、丸いテーブル越しに向かい合う三人。話したいことは各自たくさんあったはずなのに、何を話したらいいかわからなかった。
「待った?」なんていうありふれた言葉じゃ、今の感情を伝えることはできなかった。
「恵美子さんは変わらないね。そして、美紀は大きくなったね」
沈黙は、文彦によって破られた。
ああ、本当に、この人は。
「しゃあしゃあとしているところ、文彦さんも変わらないですね」
美紀は二人の顔を見比べて、得意げにほほ笑んでいた。
*
私は、16年間の生涯で初めて、自分の力で事を成しえたのだ。
初めて自分の直感を信じて、
初めて激怒して、
初めて必死になった。
初めて、思いは一致しないことも知った。
それでも人は、接点を持てる。
これは、今の私の精一杯なんだ。
と、美紀は少し誇らしかった。
「お父さん、私の言葉がなかったら今日、来なかったでしょ」
「え、ああ、あれは夢じゃなかったんだな」
「あれって?」
美和子が不思議そうに耳を傾けた。
美紀は満面の笑みで言った。
「お母さんには、秘密」
~完~
処女作です。
至らないところが多いと存じますが、最後までお読みいただき誠にありがとうございます。
厳しいお言葉大歓迎ですので、よろしければコメントや評価のほど、よろしくお願いいたします。