中編
「過、去?」
美紀は言葉に詰まりながらも尋ねた。ここまで信じられないことのオンパレードを浴びたが、さすがにそれは不可能だろうと思えた。
けれどアリスの目は揺らがない。
まっすぐに美紀を見据えて、堂々と胸を張って対面の椅子に浅く腰かけている。
「はい。いつ何時の、誰とでもお話しいただけます」
アリスは当たり前のことを当たり前に告げる口調で続ける。
「使い方は簡単です。話したい相手のことを想像しながら、ダイヤルを回してください。まずは日付から。例えば先月の1日15時にかけたいのなら」
彼女はダイヤルを回した。それは、202003011500*と回っては戻ってを繰り返した。美紀は心の中で数字を暗唱した。2020年、03月、01日、15時、00分*と。
「次に、相手の電話番号を市外局番から入力します。仕様上、LINE通話やSkypeとは連絡できませんので、ご留意くださいませ」
美紀の頭に様々な可能性が浮かぶ。
私は夢を見ているのだろうか、それともドッキリなのだろうか、それとも北条さんの言っていることがおかしいのだろうか、それともこの現代においてそこまで電話は進化したのだろうか。
美紀が持てる全てで想像した可能性は全て一蹴される。
「これは、いわゆる魔道具です」
え。と、美紀のカバンが肩からずり落ちた。
*
「えーと、魔法使いの道具ってこと、ですか?」
美紀はほおをかきながら尋ねた。
「はい。おじい様の遺品です」
アリスは両手を膝の上に重ねて、姿勢を正したまま答えた。言葉に迷いがない。
「北条さんも、魔法使いなんですか?」
「いいえ。私には適性がありませんでした」
美紀は動揺していた。
あまりにアリスが毅然と話すものだから、なんだかそういう世界もあるような気がしてくる。何かの罠のようにも思えるけれど、やっぱり電話をかけるだけかけてみよう。と、決意する。
「お代とかって……?」
「結構ですよ。これは、遺品を役立てたいがための行動です」
相変わらず美しい日本語で、ともすると冷たくなってしまいそうなところを、アリスは声色であたためながら答えた。
「かけていいんですね?」
「もちろんです。ああ、けれどもその電話、一人一回しか使えないのです」
「一回……」
話を信じかけている美紀は急に慎重になった。
けれども彼女には、どうしてもかけなくてはいけない相手は決まっていた。それは、美紀が三歳の頃に亡くなったという父親だ。けれど本当は、父親は蒸発したのだ。彼女は、数か月前にそれを知ってしまった。
*
小野美紀の家庭は、シングルマザーだった。
小さいころから、「父親は美紀が三歳の時に事故で亡くなってしまい、母子は残された」と、母親から教えられた。けれども母親は堂々とした人物で、その事故を憂うことは少なく、また美紀にも時間と気力とお金が許す限り優しく接していた。
美紀が学校に行く前には朝食を毎朝作ってくれたし、中学校に上がるまでは晩御飯に間に合うよう帰ってきてくれた。
それでも確かに美紀は、寂しかった。
父親と母親に囲まれて、家族三人で食事をした記憶もないし、父親の顔は写真でしか知らない。
仏壇も置いていないから、どこに手を合わせたらいいのかすらもわからない。やり場のない空虚は、その胸に沈み込んでいた。
何度も夢の中で父親の背中を追いかけた。
振り向くと同時に、その顔はなぜか空虚で、青ざめて飛び起きる。そのたびに父親の写真を見つめた。赤ん坊の美紀を抱く、にやけた父親の表情がたまらなく好きだった。
それでも、人並みに明快だったのは、母親が献身的だったからだ。そして、幸いなことに美紀の家庭は、裕福ではないものの、切迫していなかった。
小学四年生から周りに合わせてスマホを買ってもらったし、お小遣いの額だって平均的なようだった。
実家に帰省すれば、祖父母は喜んでくれたし、美紀にお小遣いだって渡してくれた。美紀は特別、家計のことは気にしなくていいよ。と、教わりながら育った。
一人で夕食をとっていた時に、テレビでシングルマザーの特集がされると、自分よりずっと貧しく大変そうで、子どもたちはひもじい思いをしていると報道された。
ガス代が払えなくて止まったことがあるとか、年金を滞納してしまっているとか。アナウンサーはVTRに合わせて読み上げていた。
中学二年生になった美紀は急に、恐ろしくなった。
実は、我が家だって無理をしているだけなんじゃないか。いっつも心配ないと笑ってくれるのは、私が子供で無力だからなんじゃないだろうか。
今まで目を背けていた、”お金””労働”というワードが美紀の頭の中でこだました。不安でいたたまれなくなって、貴重品が入っていそうな引き出しを片っ端から開けた。残金を、知りたかった。
通帳は探して五分で見つかった。少し不用心なんじゃないかな。と、美紀は口を尖らせた。そして開く。
残金は数百万円もあった。桁が読めなくていち、じゅう、ひゃく、と心の中で数えた。それよりも驚愕する事実が一つあった。
ハヤシ フミヒコ 入金 \70,000-
通帳に毎月印刷された男性の名前は、間違えることなく美紀の父親の名前だった。
父親は、生きていた。
そして毎月、私に養育費を払っていたんだ。
なのに、一度も、電話すらも、かけてくれなかった。
美紀の目から涙があふれていた。
胸が痛くて呼吸が苦しかった。
悔しい。
悲しい。
寂しい。
なんで。
どうして。
今まで、ただの一回も。
膝から崩れ落ちることがあるんだな。と、どこか美紀は冷笑していた。
目は焼けるほどに熱く涙が止まらないのに、
どこか頭の奥が冴えていて。
母親に嘘を教えられて育ったことや、それを疑わなかった自分や、一緒になって私を欺いていた祖父母や、一度も会いに来ない父親への怒りが——、そう、あの写真に写った嬉しそうなにやけ顔はなんだったんだ。と、腹ただしくてしょうがなかった。
生まれて初めて、人を憎んだ。
全身が、燃えるように痛かった。
*
「大丈夫ですか?」
ハッと、美紀は現実の世界に戻ってきた。いや、正確には、これが夢でないのならば現実、という世界だった。
「あ……大丈夫です。正確な時間じゃないと、ダメなのですよね?」
「はい。正確な時間じゃなかった場合、繋がりません。電話番号が違った場合もまた、繋がりません」
「そう、ですか」
美紀は肩を落とした。
父親の電話番号は分からない。
あの後、美紀はまだ引き出しを開け続けた、母親のクローゼットも、下着ケースの中すらも探した。それでも、父親の連絡先は出てこなかった。その後、母親のスマホを狙ってみるも、当たり前のごとくパスワードに弾かれた。
母親の誕生日、自分の誕生日、父親の誕生日、結婚記念日、母親の西暦、自分の西暦、父親の西暦、母親の電話番号、自分の電話番号、昔あった固定電話の番号——。
思いつく番号はすべて入力した。十数通りは試した。全部だめだった。
——昔あった固定電話の番号?
そうだ、ひょっとしたら、昔の固定電話の番号ならば、父親が出る可能性だってあるじゃないか。
問題は、時間。
美紀が三歳の時に蒸発したと思われるも、月や時間までは定かではない。ということは、蒸発寸前ではなく、二歳の時ならば安全パイではないか。
美紀は確信する。
かけるのは、私の誕生日。一発勝負。
ダイヤルを回す。
2007 11 23 2000 * 045……
受話器を取る。コール音が聞こえる。確かに、どこかへはかかっているんだ。と、美紀の手はかすかに震えていた。
それは、父親が出ずに一途の望みが途絶えるという不安感か、出た後に何を話すかという、”ありもしない”期待か。
コール音と鼓動が同期する。
耳鳴りのように音が脳を揺さぶり、世界がぐにゃりと歪み椅子が宙へ浮くような気持ち悪さを感じる。7回目のコール音が途中で途絶えた。その長い静寂に切れたのかと思った。違った。
ガチャ
一瞬遅れて聞こえた。それは受話器を取った音で、それだけ美紀の思考が早まっていた証だった。
「まぁまぁー?」
気が抜けた声だった。赤子の声だ。なんとなく、親近感がある声で。
ひょっとしたら昔の自分なのかな。と、”ありもしない”幻想を抱いてしまった。その時だった、受話器のはるか向こう側から、男性の声が聞こえた。
『あー、こら、勝手にとっちゃダメだって。ほら、パパに貸して』
ドクン。
目を見開いた。受話器に耳を押し当てた。
「もしもし、すみません。娘が取ってしまったようでして」
美紀の口は何かを言おうと開いていた。
それでも、喉が声の出し方を忘れてしまったように、うまく声が出ない。
「もしもし?」
受話器の奥の男性が、
きっと、ハヤシフミヒコが、
ぜったいに、美紀の父親が。
今、確かに受話器越しに喋っていた。
「お、とう、さん……」
何パターンか話し方を考えていたはずなのに、それはすべて飛んで行った。
絞り出せたのは、たった五文字だった。
*
後編へ続きます。明日(1/30)、更新します。