甘いプリンにカラメルなんて、かけなくたっていいのに。
恵美さんの行動は、いつも自由奔放だった。マイペースな彼女に置いて行かれそうになることもあったけど、でもそんな彼女のそばにいるのはすごく楽しかった。
なのに。それなのに。
今回は、完全に置き去りにされてしまった。
机の上の黒い携帯電話がメールを受信したのは、俺が風呂からあがってすぐだった。時計は、もう夜の十時を回っていた。
差出人は『花野恵美』。自然と頬が緩む。だがメールを開くと、あれ、と首を傾げてしまった。
いつもの、絵文字がたくさん使われた賑やかななメールではなかったのだ。黒い文字だけで『話したいことがあるんだけど、今大丈夫?』と打ってあった。おかしいな、とは思った。嫌な予感はした。そして、その予感は当たってしまった。
『大丈夫ですよ。話ってなんですか?』
彼女に合わせて、白黒メールで返す。
恵美さんとメールのやり取りをする内に、絵文字を使うのが癖になった。友達が相手でもカラフルなメールを送っていたものだから、友人の聡磨に「母さんが、おまえのメール見て女子だと勘違いしてたよ」と言われてしまったくらいだ。
恵美さんからメールの返信は来なかった。変わりに電話の着信が鳴る。
「恵美さん? どうかしましたか?」
ワンコールで出て、なるだけ明るめのトーンで話しかける。しかし恵美さんは「うん、」「えっとね……」と中途半端な返事しかしない。急かさずに待っていると、電話の向こうで彼女が深く息を吸うのが伝わった。
「弘樹、あのね、その……、別れたい、の」
聞き間違いかな、とも思った。だって、別れたいって、なにそれ。三日前にメールした時はいつも通りだったじゃん。一週間前に電話した時だって楽しそうに笑ってたでしょ。二週間前にデートした時も、会わなかったのは十日くらいなのに「久々に会えて嬉しい」とか言って、手も繋いだじゃない。聞き間違いじゃないなら、笑えない冗談だ。
「恵美さん?」
「ごめんね」
「何なんですか、いきなり」
「ごめん」
「じゃくて、どうしてですか」
恵美さんが黙り込む。不安からか落ち着かず、机の上を爪で叩いていた。
「他に好きな人でも、できたんですか」
「そうじゃ、ないんだけど、」
「じゃあ、俺のこと、嫌いになりました?」
「違う! 弘樹のことは好きだよ」
「だったらどうして!」
思わず声を荒げてしまい、ハッとする。小さく「すみません」と謝ると、恵美さんも「あたしこそごめん」と言った。
「……あたしたち、このまま付き合っても、たぶん、続かないと思うの」
「どうしてですか」
「……」
「恵美さん」
じれったくなってしつこく問いただすが、彼女の反応はだんだん鈍くなっていった。そしてついに「ごめんね」と一方的に通話を切られてしまった。
すぐに掛け直すが、出てくれない。三回掛けても出なくて、メールを打った。
『いきなりあんなこと言われても、納得できません。会ってちゃんと話がしたいです』
五分待っても返信は来ない。俺は舌打ちをするとベッドの上に携帯電話を放り投げた。
意味わかんない。なんなんだよ。理由くらい、教えてよ。
ベッドの上の携帯電話を睨む。さっきまで恵美さんの声を伝達していたそれは、うんともすんとも言わなかった。
恵美さんと付き合い始めたのは、今から一年半程前だ。恵美さんは陸上部の一年先輩で、何かと面倒をみてもらっていた。入学したての俺は背が低く顔も幼くて、そこら辺の小学生よりも小学生らしかった。いろんな人からかわいいと言われ、恵美さんもその一人だった。だがその恵美さんは、俺よりはもちろんのこと、今まで出会った誰よりもかわいかった。一目惚れだった。ちょろちょろと付きまとう俺を、面倒見のいい彼女は一々相手をしてくれて、次第に外見だけでなく本気で彼女が好きになっていった。
そして出会って約半年後、彼女から好きだと告げられた。驚いた。こんな子どもっぽい俺を好きになってくれたのかって。すぐに、俺も好きです、と伝え、付き合うことになった。同級生からは、なんでおまえが、よくもみんなの恵美さんを、とよく攻められた。男子からも、女子からも。女子からはもうちょっと別の類の嫉妬があると嬉しかったのだけれど、当然のごとくそんなのは皆無だった。いろいろ言われたけど、というかからかわれていたけど、なんだかんだで結構温かい目で見られていたと思う。かわいいとかほのぼのするとか、だんだん好意的な反応に変わっていったから。
そんな感じで付き合いだして一年半。まだキスもしていない。付き合い始めの俺は幼すぎて、一緒にいられるだけで十分だった。デートして手を繋ぐのが限界だった。そのまま時間だけ過ぎて、何というか、今更、といった風になってしまったのだ。今更キスしなくたって、好きだという気持ちは互いに伝わっている。そう、思っていたから。
別に、性欲が弱いというわけではない。キスをしたいと思ったことは何度もある。身体に触れてみたいし、それ以上のこともしたい。その気持ちは、ほぼゼロだった恵美さんとの身長差が開くにつれ、どんどん強くなっていった。
我慢していた、という意識は全くない。だけど、行動に移そうとは思わなかった。体の関係なんて必要ないくらい、一緒にいて楽しかったし、満足しきっていた。
もしかして、そこだろうか。振られた原因は。あまりにも俺が性的欲求を見せなかったから、不安になった、とか。それとも、男らしさがなくて飽きちゃった、とか。
……どちらも違う気がする。
ピロリロ~ン、と携帯電話がなる。メールの着信音だ。
『さっきはごめんね。あたしもちゃんと話したいと思ってます。でも今はまだうまく話せないので、もう少し待ってください』
開いてみると恵美さんからで、やはり白黒メールだった。言葉遣いが丁寧なのが寂しい。しかし、これだけの文章を、彼女は言葉を選びながら時間をかけて打ったのかもしれない。そう思うと、苛立ちも和らいだ。
誠実な対応をしてもらえるといっても、まだ別れたつもりはないといっても、振られたことに変わりはない。徐々にショックとか悲しみとか、そういう感情が大きくなっていった。昨夜はほとんど眠れず、学校でも無意識の内にため息を吐いていたらしい。
「おまえ、今日ため息ばっかでウザいんだけど」
聡磨に言われ、何となくムカついたから放課後彼の家まで憑いていってやることにした。
「で? 何かあったわけ?」
道中は「なんでこっち来るんだよ。自分ち帰れよ」「わかった。俺が悪かったから憑いて来ないでくれ。成仏してくれ」と喚いていた聡磨は、いざ俺が彼の部屋まで侵入すると心配げに尋ねた。そのあたり、聡磨は詰めが甘い。いや、俺に甘い。
「ブロークンハート」
「は?」
「振られた。慰めて」
聡磨のベッドの上に座り、枕を抱え込む。あ、なんか落ち着く。
「振られたって、花野先輩?」
「うん」
聡磨が、驚いたように目を見開く。
「マジか。ついに振られたか。……というか、よく今まで続いてたよな。」
それはどういう意味だ。
「俺、もっと早くに別れると思ってたよ。まぁ、いつ別れようがそんなに興味なかったけど」
「ひでー。ちょー他人事」
「そりゃ、弘樹が誰に振られようが知ったこっちゃないしな」
「聡磨君冷たい」
「おまえさっきからキモいんだけど」
聡磨の視線が本当に冷たくなる。枕をギュッと抱えて縮こまると、彼は溜め息をついた。
昨日の恵美さんとのやり取りをざっくりと話す。聡磨は、「ふーん、そっか」とだけ言った。
「なあ」
「あん?」
「ついに振られたかって、どういう意味?」
「まんま。おまえ、全然先輩につり合ってなかったじゃん。カップルっていうより、姉と弟だったよな」
ズバン。効果は抜群のようだ。ヒロキは何も言い返せない。
「でも、恵美さんから告白してきたんだぜ?」
「当時まだ中二だろ? 若気の至りってやつだって」
「おまえ、人の恋愛をよくも……」
「だって考えてみろよ。今ならともかく、昔の弘樹ってすげぇチビでガキで馬鹿丸出しみたいな奴だったろ? 中学生の、それもめちゃくちゃかわいくてモテるような女の子が、年下のそんなガキ好きになるか? 仲良くなるうちに、好きだって勘違いしちまったんじゃねぇの」
ズババン! 急所に当たった! 効果はばつぐんのようだ。ヒロキは倒れた。
ゲームオーバー。コンティニューしますか?
いいえ。
「あ……。弘樹? ……えと、ごめん」
「うぅ、目から汗が」
「その、ホントごめん。つい、本音が」
「うわあぁぁん!」
「あ~、もう。めんどくせぇな、おまえ」
あ、嘘泣きだったのに本当に涙が出てきてしまった。聡磨がため息をついてティッシュボックスを投げてきた。頭に角が当たる。痛いんですけど。友達には優しくって言われてるでしょう。優しくしてよ。今傷心中なんだから。
俺は無言でティッシュペーパーを一枚引き抜き、目元を拭った。
「初めから、先輩は弘樹には高嶺の花だったんだよ。一年も付き合えたんだから有り難く思えよ」
「一年半だよ。付き合ってたの」
ギロリと睨まれる。だって、一年と一年半は違うじゃないか。それを言うと、どうでもいいと返された。
「う~、聡磨は誰かと付き合ったことないから、俺の気持ちなんてわからないんだよ!」
「あぁわかんねぇよ! つうか、俺だって付き合ったことならあるし」
なんですと。俺は自分の耳を疑った。そんな話、聞いたことないぞ。
「は? うそうそうそ。誰と? いつ?」
身を乗り出して質問攻めにすると、聡磨は面倒くさそうに「別に」と言った。
「別にじゃなくて、誰と? 彼女の話なんて、聞いたことないんだけど。誰だよ? 誰と付き合ってたんだよ?」
しつこく問いただすと聡磨はそっぽを向き、ぼそっと「里沙」と呟いた。顔が赤くなっててかわいい。じゃなくって、
「水谷!? まじで? いつからつきあってたの? あれ、もう別れたってこと? なんで? なんで?」
水谷は、同じクラスで聡磨の幼馴染みだ。この家のお隣さんである。
「別れたっていうか、自然消滅」
「へぇ~。知らなかった。付き合ってたのはいつ頃?」
「十年前」
「わ~、すっ……」
すっげぇ。まだ小学生じゃん。全く最近の子供はみんなマセてるんだから。
と、続けようとしてふと気づく。十年前って、前過ぎるだろ。まだ小学校入学してねえよ。
「聡磨」
「なんだよ」
「ごめんな」
「は?」
「ごめん、変なこと言わせて。この話やめよっか。あ、そうだ。今度カラオケでも行こうぜ。俺奢るからさ、付き合えよ」
「おまえさ、聞いといて興味なくすってなんなの」
キャスター付きの椅子から立ち上がったかと思うと、聡磨はベッドの俺の隣に腰をおろした。やだ怖い。
「聞くんなら最後まで聞けよ。俺たち、婚約までしてたんだぜ」
あぁ、うん。いるよね。そういう子たち。俺が通ってた保育園にもいたよ。「あたしたち、おおきくなったらけっこんするのー」とか公言してる子。かわいいよね。微笑ましいよね。あの子たち、どうなったんだろうね。
「ちゅーだってしたし」
ちゅー言うな。キスって言え。つうか、どんだけマセガキだったんだよ。俺なんて、ファーストキスもまだだっていうのに。
「指輪もあげたのにさ、」
おもちゃの指輪な。にしても、おまえこそ若気の至りじゃないか。いや、若いを通り越してるけど。そういうことは黒歴史として伏せておけよ。あぁ、聡磨には黒じゃないのか。
「あいつ、川に落としやがった」
あら、残念ね。
「だいたい、俺は別れたつもりなんてないんだよ。なのにあいつは他の男ばっか見てるし。なんなんだよ。浮気でしょ、それ。サイテーじゃん」
俺は、思わず頭を抱えそうになった。友達の中で一番常識人だと思っていた聡磨は、実はとんでもない奴だったのかもしれない。こいつ、将来ストーカーか何かで捕まるぞ。中学時代の友人、とかでメディアの取材が来たらどうしよう。いつかやると思ってましたって答えようか。
「聡磨さぁ、今でも水谷のこと、好きなの?」
尋ねると、聡磨は少し身じろぎした。
「ん……。俺、里沙以外の女子好きになったことないから、たぶん、昔からずっと好きなんだと思う」
「素直じゃん」
たとえ両思いでなくても一途に相手を想い続けている聡磨が何となく羨ましくて、ちょっと悔しくて、その紅潮した頬をつついてみる。すぐに振り払われたけど。
「うるせぇよ。おまえは自分の心配でもしてろ。また話し合うんだろ? うまくいけば交際続行になるかもしれないんだから」
それを聞いて、ああそうか、と思う。振られて、別れることばかり考えていたけど、そういう結果もあり得るんだ。
そういえば何で俺、そのことに考えが至らなかったんだろう。未練がましい男はみっともない、とか。潔い引き方とか、振られてもかっこいい見せ方とか。そんなことを考えていたんじゃないだろうか。考えていたような気がする。
これじゃあ振られるよ。だって俺、自分のことしか考えてないじゃん。バカじゃん。サイテーじゃん。もし俺が女の立場だったら、こんな男イヤだ。ダサくても、自分を求めてほしいって思うんじゃないかな。
恵美さんには、本気で当たってこよう。失いたくないんだ、絶対に。
だから、もう一度。
ゲームオーバー。コンティニューしますか?
はい。
『今日、友達から映画のチケットもらいました。「明日くる昨日」、見たいって言ってましたよね。今度の土曜か日曜、空いている日があれば一緒に行きませんか?
恵美さんの言葉がまとまっていれば、昨日の話の続きがしたいです。でも急かすつもりはありません。映画も、デートじゃなく友達と遊びに行くくらいに思ってもらってかまいませんから』
家に帰ってから、久しぶりに長めのメールを打った。恵美さんとは、短い文章で回数を稼ぐのが好きだった。そんな彼女とのメールももうできなくなってしまうのかもと考えると、寂しくなる。
いやいやいや。何を考えているんだよ、俺。別れることを前提にするな。そんな簡単に、別れてなんかやらないんだから。
メールを送って二十分後、返信が届いた。
『わあ、それ、見たかったやつだ! 覚えてくれてたんだね、ありがとう! 弘樹の友達にも感謝しなきゃ。あたし、日曜日なら空いてるよ。日曜行こっか!』
絵文字が散りばめられたらその文面は、どこか懐かしく感じられた。ところでさっき俺が送ったメールの後半部分には何も触れられていなかったが、逆にホッとしている自分もいたのは確かだ。
その後日曜日の待ち合わせなどを決め、恵美さんとのメールのやり取りは終わった。それから聡磨に、恵美さんを映画に誘えたことを報告する。その映画のチケットは、先ほど聡磨からもらったものだ。「里沙誘ったら瞬殺だったからおまえにやる」と言って小さな封筒を差し出した聡磨は、機嫌が悪そうだった。
『なんでおまえばっかり上手くいくんだよ。さっさと別れてこい。そしたら慰めてやるよ』
聡磨から送られてきたメールに「ひえっ」と情けない声を漏らし、それから笑ってしまった。文面からでも十分、彼の表情が想像できたから。
このチケットは高くつくかもしれない。
日曜日。
気まずくなることを危惧していたが、全然そんなことはなかった。会話が途切れることもなく、いつものデートと同じだった。先日の別れ話なんて夢だったんじゃないかと思うくらいに。
お昼に入ったファミレスで料金を割り勘するのもいつものこと。俺が年下だからか、恵美さんは俺に奢らせてくれたことは一度もない。
また、映画館で恵美さんが妙にそわそわしていたから、どうしたのかと問えば、「なっちゃんにもこの映画誘われたんだけど、断っちゃって……」と肩を落とされた。ため息をつきたくなったのは、彼女には内緒だ。なっちゃんは恵美さんの親友で、俺の最大の恋敵……だと勝手に思っている。なっちゃんは恵美さんとは違う高校に進んでしまい、以来メールの返信もほとんど来ないらしい。「嫌われたのかもしれない」と泣きべそをかく恵美さんを慰めるのが、最近の俺の役割だ。俺はいつもなっちゃんに嫉妬していた。恵美さんの優先順位は、何時でもなっちゃんが一番なのだ。なっちゃんが大好きなのだ。恵美さんからはしょっちゅうなっちゃんの話を聞かされていたものだから、なっちゃんの趣味や好みなんかも覚えてしまった。
だから、今日もまたなっちゃんの話になったが、それもいつものこと。
ただ、今日は恵美さんの手を握ることだけは控えた。恵美さんの方からも、不必要な接触はなかった。二人の間には、誤差程度の物理的な距離が存在していた。きっとそれが、今の俺たちの関係なんだと思う。
帰り際、「寄っていきませんか」と俺の家に誘えば、恵美さんは躊躇いもなく頷いた。今、家には誰もいない。両親は地方の温泉に行き、帰りは夜になると言っていた。
恵美さんを俺の部屋に通し、手を洗って紅茶とプリンを用意する。昨晩作った、お手製のプリンだ。恵美さんを家に誘った一番の理由はこれだ。お菓子作りは得意分野だったりする。昔母さんのお菓子作りを手伝っているうちに、俺まで興味をもってしまったのだ。
それらをお盆に乗せ、かちゃかちゃ音を鳴らしながら部屋に向かう。恵美さんはベッドに腰掛け、黄色いクマのぬいぐるみをもてあそんでいた。そのぬいぐるみは、去年の誕生日に恵美さんからもらったものだ。なぜぬいぐるみ、と問えば「弘樹に似てたから」と端的に返されたのを覚えている。似ているというのは、よくわからなかったが。
「わあ、プリンだ。手作り?」
盆をローテーブルに下ろすと、恵美さんはベッドから滑るように移動してきた。彼女の目は輝いている。
「はい。カラメルも作ってみたんですよ」
「すごい! さすが弘樹」
恵美さんは、ぬいぐるみの短い腕を互いにバスバスと打ちつけた。拍手のつもりらしい。可愛すぎるんですけど。
プリンを食べながらも恵美さんは、おいしい、幸せ、と何度も言ってくれた。お世辞ではないだろう。嘘か本音か簡単に見分けられるくらいには、ずっと傍にいたのだ。それに、恵美さんは基本的に正直者だ。悪く言えば無神経なところもあるが、そんな素直なところも彼女の美点だと思っている。
あまりにも恵美さんがおいしいと褒めてくれるから、俺は気が緩んでいた。だから言ってしまったのだ。
「俺と結婚すれば、毎日おいしいもの食べさせてやりますよ」
なんて。
言ってから、いや、言っている途中で自分の失言に気づいた。途端、恵美さんの表情が強張る。それでも彼女は表情筋を駆使し、
「そうだね。それもいいね」
と言った。その笑顔が痛々しい。
恵美さんの言葉は、嘘ではない。たぶん。もちろん、結婚する気などないだろう。けれど、言葉は真実なのだ。
紅茶を一口啜り、テーブルに戻して彼女に向かい合う。急かさない、なんて言っておきながらごめんなさい。
「恵美さん」
声が少し硬くなっていることが自分でわかった。恵美さんも気づいたのだろう。最後の一口を食べていたスプーンを置くと、彼女は僅かに背筋を伸ばした。
「俺、恵美さんのこと大好きです。恵美さんといた1年半、本当に楽しかったです。この先も、ずっと一緒にいたいです」
飾り気のない俺の本当の気持ちだ。恵美さんは、困ったように目を泳がせた。
「弘樹……。ありがとう。でも、ごめんね」
恵美さんは、俺を見てくれなかった。そのことにヤキモキする。ねぇ、俺の言ったこと、ちゃんと聞いてた? いつもの恵美さんみたいに、俺の目を見て話してよ。
「イヤです。別れたくないです。恵美さん、俺のこと好きって言いましたよね。だったら、何も問題ないじゃないですか」
まるで、駄々っ子だ。そんなかわいいもんじゃないけど。
恵美さんは俯いたまま首を横に振った。埒が明かない。彼女の隣にすり寄り、その薄い肩を掴む。彼女はビクッと震え、怯えた顔で俺を見上げた。
その仕草に、無性に苛立った。そして、なぜだか妙に、ムラムラした。
掴んだ肩をそのまま引き寄せ、後頭部に片手を添える。小さく悲鳴を上げたその唇を、俺は自分の唇で塞いだ。
初めて触れたそこは、想像以上に柔らかく、そして苦かった。さっき食べたプリンのカラメルの味だ。初めて作ったカラメルの味は、ただ苦いだけだった。プリンの甘味を引き立たせるどころか、打ち消してしまうくらいに。
俺の腕の中でもがく恵美さんは、焦っているのかさほど力は入っていなかった。だから俺は彼女の抵抗を力でねじ伏せ、キスを続けた。
突然、彼女の抵抗が止む。あれ、と思った瞬間、ドンッと胸元を強く突かれた。不意打ちによろめき、後ろに手をつく。恵美さんも反動で倒れた。スカートがめくれ、薄いピンク色の可愛らしい下着が露になる。普段の俺なら、そんなものを見てしまったら性的に興奮していたことだろう。しかし今は、何の感情も湧かなかった。恵美さんはスカートを直しながら上体を起こすと、俺から逃げるように後ずさった。
その小さな身体は小刻みに震えていた。水の膜を張った瞳から、堪えきれなかった涙が零れ出す。
俺が、泣かせたのだ。最低な形で。
「恵美、さん……」
何てことをしたのだ、俺は。どう謝ればいいのだろう。わからない。わからないよ。
だが、先に謝ったのは恵美さんだった。
「ごめんね、弘樹。ごめんね。ごめんね」
涙声でごめんねと繰り返す恵美さん。なぜ俺が謝られているのだろう。
「恵美さん、もう、いいです。俺こそ、ごめんなさい」
ごめんね、と言われる度、胸が痛む。聞いていられなくて、俺の方から頭を下げた。もう、謝らないで。恵美さんに謝られたら、俺、どうしたらいいかわからなくなっちゃうよ。
恵美さんは首を横に振り、俺との距離を詰めると、左手で俺の右手首を掴んだ。やはり、その手は震えている。その震えは、恐怖からであろうか。緊張からだろうか。
「弘樹、話すから。だから、聞いて」
恵美さんの目は、真っ直ぐにこちらに向いていた。コクンと、俺は無意識に頷いていた。
「あたし、この前弘樹に、他に好きな人ができたのかって聞かれて、違うって言ったよね。でも、ごめん。それ、半分本当で、半分嘘」
「半分?」
「あのね、あたし、一か月くらい前、クラスの男子に告白されたの。入学したばかりの頃から仲の良かった人で……、あたし、嬉しくて」
恵美さんは頬の涙を拭い、続ける。俺の手首をつかむ手はそのままに。
「それから、その人のことが、頭から離れなくなった。弘樹のことが、好きなのに。なのになんでって、自分の気持ちもよくわからなくなっちゃって……。それで、弘樹のこと、考えた。考えれば考えるほど、弘樹に対する気持ちがなんなのか……わからなくなってきたの」
ああ、そうか。そういうことか。恵美さんの言いたいことが、おそらくわかってしまった。
「弘樹、背、伸びたよね。顔もかっこよくなってさ。男らしくなって……。でも、わかんないの。あたしが好きになった弘樹は、小さくて小学生みたいな弘樹だったでしょ。外見の話をするわけじゃないけど、あたしの中では、昔の弘樹と今の弘樹が繋がらないの。最初の頃の感情が、思い出せないの」
俺の手首を掴む恵美さんの手に力が入る。そこからも何かを伝えようとしているように。
「弘樹のことは好き。……でも、この好きが恋愛感情なのかって訊かれたら、たぶん、あたし、即答できない」
姉と弟。聡磨に言われた言葉を思い出す。俺は恵美さんにとって、どこまでも弟のような存在だったのだ。
「だから……、だからね、少し、距離を置きたいの。曖昧なまま弘樹に接して、弘樹のこと傷つけたくない。……綺麗事に聞こえるかもしれないけど、これが、あたしの本音だから」
正直者というか、単に嘘がつけない人なんだろう、恵美さんは。俺を見つめる彼女の黒い瞳は、ひどく純粋そうな色をしている。
彼女に向かって、ゆっくり頷く。そして、未だ俺の手首にあるその左手に、あいている手をそっと添える。
もういいよ。わかったから。ちゃんと気持ち、伝わってるから。だから、あなたが傷つかないで。
傍に転がっていたクマのぬいぐるみを拾い上げ、その太くて短い腕で恵美さんの頭を撫でる。顔を上げた恵美さんは、ぬいぐるみを見てふっと笑みをこぼした。そして俺の手からそれを奪い、自分の胸に抱いた。
「恵美さん、ありがとうございます」
恵美さんは、少し不思議そうな目で俺を見上げた。
「言いにくいこと言わせてごめんなさい。でも、最後まで、俺に正直な思いを明かしてくれて、嬉しかったです」
最後だから、と自分に言い訳して恵美さんをぬいぐるみごと抱きしめる。今度は、拒絶されなかった。
「薄暗くなってきましたね。そろそろ、帰りますか?」
身体を離して問いかけると、恵美さんは頷いた。そしてぬいぐるみを抱えたまま鞄を掴み、部屋を出て行く。どうやらそれは無意識だったようで、玄関で「持って来ちゃった」と恥ずかしそうに笑いながら俺にぬいぐるみを返した。
家まで送ると言ったのに、恵美さんはここまででいいと首を横に振った。ここまでって、俺の家の玄関の内側なんだけど。でも恵美さんの言葉は遠慮ではなくお願いに聞こえたから、それ以上は何も言わなかった。
靴を履いた恵美さんはこちらに振り返り、「弘樹」と俺を呼んだ。
「あたし、弘樹のこと大好き。ホントだよ?」
「はい。わかってますよ」
「さっきはいろいろ言ったけど、あたし、弘樹と付き合えてよかったって、本気で思ってる。こんなふうにすごく好きになった人が弘樹でよかった。初めての彼氏が弘樹でよかった。あたしも、弘樹といる時が、一番楽しかったよ」
あぁ、俺と同じこと、思ってくれてるんだ。
それだけで十分だ。といったら嘘になるけど、まあいいかな。
「なっちゃんよりも?」
恥ずかしくなってきたので誤魔化すように尋ねると、恵美さんは「う~ん」と考え始めた。
「お願いですからそこは悩まないでください」
「だって……。弘樹に適当なこと言いたくない」
「いや、だから、そうゆうのが結構傷つくんです」
恵美さんは笑い、「比べられないよ」と言った。
「二人とも、あたしにとって特別な人だから。だからね、えっと、ツートップで一番」
いい言葉が思いついた、という感じに人差し指を立て笑顔を見せる恵美さんに、嘆息する。嘘でもいいからなっちゃんより上だと言って欲しかったが、でもこれが恵美さんなんだよな、と思う。これが、俺の大好きな恵美さんなんだ。
「恵美さん」
「なあに?」
「最後にもう一度、キスしてもいいですか」
「えっ」
恵美さんの顔に動揺が広がり、僅かに紅潮する。俺はニヤッと笑うと、彼女の口元にクマの顔面を押し当てた。「ふなっ」と変な声を出した恵美さんは、一歩よろめき顔を真っ赤にした。
「それじゃあ、気をつけて帰ってください」
声を立てて笑いたいを堪えながら手を振ると、恵美さんは顔の赤みが引かないままこくりと頷き身体の向きを変えた。
そしてドアノブに手を掛けたところでまた振り返る。
「弘樹、もう一つだけ」
「何ですか?」
恵美さんはもじもじとしながら足元に視線を落とし、顔を上げる。
「えと……街中で、弘樹のこと見かけたりしたら、話しかけてもいいかな?」
クスッと、笑いが零れる。なんだ、そんなことか。
「はい、もちろんです。俺も恵美さんを見かけたら、声かけますよ」
恵美さんは、嬉しそうに顔をほころばせた。
「うん、ありがとう。じゃあね、弘樹。またね」
「はい、また」
玄関のドアを開けて出て行く彼女に、クマの腕を振って見せる。恵美さんは律儀にぬいぐるみに対しても手を振り、そしてドアを閉めた。
終わったんだな、と思う。俺の恋、終わっちゃった。案外、呆気ないものだ。
きっと、恵美さんからのメールは二度と来ない。俺の作ったお菓子を彼女が食べることも、二度とないだろう。
あぁ、痛い。すごく痛い。初めて知ったよ、こんな痛み。
ぬいぐるみを胸に強く抱き寄せその場にしゃがみこむ。泣きそうになりギュッと目を瞑ったが、それでも涙は滲み出た。
でも、笑えてたよな。恵美さんも、笑顔だったよな。
彼女との「また」の約束を反芻する。また。その先に何があるかなんてわからない。わからなくていい。今の俺には、全部意味の無いものに思えてしまうかもしれないから。
だけど、きっと、どんな未来でも、その時になれば受け入れて楽しんじゃうんだろうな。嫌なことも、ポジティブに考えちゃうんだろう。ホント、得な性格してるよ。だけどそれが俺なんだ。
あぁ、でも。
やっぱり、痛いよ。