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龍の泉

作者: 情情

       龍の泉


 ここは泉。

 一人の美しいわかものが横たわっている。ちょうど寝椅子でねむるようなぐあいに。だが、もう魂は既に抜けている。

 愛の神は眼が見えないという。そのようにわかものも眼が()かない。

 うつくしいわかものは(すべ)ての者から愛される。自分自身からさえ愛される。そのように――不思議なことだが――自分の美しさだけは見える。それ以外のものは見ても見えない。愛せない。どうせならまるで愛を知らないでいるのなら。いっそ完全な盲目なら。

 わかもののそばの木霊(こだま)。姿のない森の精。おもいを伝えようにも(せん)を切るはじめの言葉がない。いっそ最後の科白(せりふ)もなくしていたなら。

 盲目の予言者は盲目のわかものの心を知る。老人は運命を読んで、息子の長生きをねがうそのわかものの母親にこう返答した、

「ああ、みづからをしらないでおればな」

 なぜ、わかものは盲目のくせに自分の姿だけは見えたのか。世の人間たちは、なんでも眼にしてもいつも自分だけは見えないものなのに。

 盲目の予言者は知っていた、わかものは男も知らず、おんなも知らず、ただ自分のうちしか知らないウロボロスだと。

 盲目の予言者は知っていた、自らは男も、おんなも。

 かつてかれは、杖をもって自分のなかの蛇を打ち懲らしたのだ。その身内の蛇性こそ、男をしておんなの肉を欲せしめおんなの魂を知るを妨げ、おんなをして男の肉に溺れさせ男の霊に通じるを阻むものと、かれーかの女は知っていたのだ。人類最初の男とおんなは蛇に眼を開かれ、罪の肉体を恥ぢた。老予言者は盲目とはなったが、終に蛇を打ちすえ、(しな)びた乳房と老いた陽根を二つながらかかえて恥ぢず、見開かないその光奪われた眼で誰よりも先を見通す。

 あわれなウロボロスのわかもの。おまえは物の姿を認めない。おまえを愛する者の声をきいてやらない。おまえが見ようとするのはおまえの姿だけであり、おまえは永遠の堂々巡りをするほかない。おまえの愛欲、口腹の欲は、みんなおまえ自身に向かう。おまえの蛇性がおまえの肉体を求める時、おまえは蛇に呑み込まれたも同然だ。おまえはおまえの総てを見ようとして闇のなかに呑み込まれる。

 ああ、おまえが発する愛の光は、自分の鏡にはねかえされておまえの外に出て行かない。おまえのまわりには闇しかない。

 闇のなかで愛し得るのはおまえの幻だけだ。それは抱き締めることはできない。すぐに霧ときえ、見失われる。おまえの幻は直ちにおまえに吸収される。おまえはまた独りぼっちになる。

 おまえがやっと見つけたかたわれは水辺においてであった。おまえはそのかたわれを愛した。だが、その愛は水の反射を受けてやはり自分にもどるものでしかなかった。そこにあるのはおまえ自身なのだ。水の鏡にうつるおまえの影、闇に見たおまえの幻なのだ。

 しかし、おまえの肉体は否応(いやおう)なしにおまえを()きつける。おまえは自分の蛇性に逆らうことができない。

 どちらがどちらを抱き、くちづけしようとするのか。もうおまえはおまえではない、影こそおまえだ。

 おまえは鏡のなかに自分をうしなう――水のなかにきえる。そして影が(むくろ)に残る。

 そしておまえは水にしづんでも最後まで透明になれない。おまえは水の影としていつでも呼び戻される。おまえを愛した木霊が自身の声を奪われ、反響の(とりこ)となったように、もうおまえは反映の虜なのだ。おまえは水面に影をおとす者の姿を見ない。その者に見るのはまだおまえ自身の姿だ。おまえはそのかたわれを誘惑し、水中に引き込もうとする。だが、人を溺れさせてもおまえが救われることはない。おまえはまた新しいかたわれを誘惑するだけだ。木霊に自分がないように、おまえにはいつまでも自分しかない。しかしそれは透明で、他人をうつすものでしかない。

 不完全な眼を持った不完全な透明人間。ウロボロスは自分で自分を食いつくせない。口で口は食べられないから。おまえも永遠にきえることがない。自分で自分を見るなんてことをするから。見えない眼で見えないものを。

 いっそ針で眼を突いて、自分もほかのなにも完全に見えなくすればよかったのだ。そうすれば闇にあいた穴をとおして一条の眼に見えない真理の光が……。愛は初めておまえのうちから外へ広がるだろう。そして、おまえのうちなるウロボロスも(つい)にしっぽから口をはなして、一本の棒に延びきったことだろうに――盲目の予言者の大切な支えの杖に。



 ここは泉。

 いや、野守の鏡。すなわち野中に溜まれる水。

 低きにあって低きものみず、高きをみる水。おもひおもはずよそながらみる水。

 禁猟の野に矢が放たれる。――狩り。

 狩りする者は全き一であろうか。相手を射込む矢の姿そのままであろうか。

 射込む存在の中心には命の一がある。一の矢が一の命を射れば、矢の立つところ〇の的となる。

 では、一はどこへ行くか。

 一は狩る者がとらねばならぬ。一をとるためには狩る者が一でなければならぬだろう。一で一をとることは〇をとることに等しい。〇をとって一は新しい次元におどりでる。

 狩る者が全き一であるためには腹が〇でなければならぬ。腹に一物(いちもつ)あらば全き一とはならぬ。おのれの内部に閉ざされた〇は、狩りによっておのれの外部の獲物を一気に消化する衝動を満たす。相手を〇において初めておのれの〇が見いだされる。〇を見いだした一はもはや旧の一ではない。旧の一も〇に消化された。しかし、一を一気に消化するエネルギーが新たな次元に一をつくる。

 ここにおのれの一と相手の一は対立しない。おなじ次元に〇が立つ時、真に一と一の和が相なりたつのだ。

 一を象徴する矢こそ、別次元への橋渡しだ。〇の的に(あた)る時、霊力こもってサチを授ける。


 おお、しかし、飛ぶ矢は飛ぶか。飛ぶ矢は到達するか。

 ここに亀を追い抜けない英雄のアキレスがいる。「足どりせわしい しかも不動の」アキレスとは何者だ。幸運の後ろ脚 跳躍のたくみ その兎の(ほま)れはアキレスには致命傷。しかし誉れはあってもやはり亀には勝てない。

 亀よ。のろまな亀。太陽のように、太陽の歩みそのままにのろまに。

 太陽に手のとどかぬように、その地の影にも追いつけない。

 天は無足。地には四足。宙に迷う二足の人間。不死も生もない中有(ちゅうう)の闇。神にも亀にも(また)がろうとする二足の草鞋(わらぢ)

 不如歸。(かえ)るに()かず。行く者は行かずであるから。しかし(ねぐら)の当てはあるのか、草鞋を脱ぐ場所は。アキレスはもはやひきかえせない。戦は起こる前に止められない。運命を読む少女の言葉は誰も信じない。二足で歩きだしたらもう制止がきかない。


 禁野(しめの)目守(まも)る野守はなにを見咎(みとが)めるであろうか。飛ばない矢の残骸。腹膨(ふく)れた密猟者。命だけ掠奪されて、存在自体を完全に寂滅せられなかった獲物。夏でさえ声のみきこえて姿を見せない時鳥(ほととぎす)を声すらきこえぬ桜時分に捕らえようとする者たち。

 足下を見て頭上の鷹を知る野守にも、姿を見せない死出(しで)田長(たおさ)は捕らえられない。



 ここは泉。

 泉のおとめはこの世の救いのなさをなげいた。こんなうつくしいからだ、こんな透明な心を持っているのに、どうして天はこのわたくしをお認めにならないのかしら。

 かの女はいつも青天はるかなる世界に(あこが)れ、自ら飛び立ち天に昇る、総身(そうみ)をただ憬れの魂の気にかえて。

 しかし、天までは至らない。至らずしてかなしみの雲にかげる。ないはずの肉体が急に重くなってくる。肉体は今、本来は燃えない身を無理にも心熱く燃え立たせて気となったもので、灰の粉ほどの重さもないのだけれど、それでも天には重すぎる肉体。かなしみの湿りに心はとけて、肉の濁りが鉛色に染める。鉛は地上の力に従い、玉なしておちようとする。このみにくいかたまりをかの女は()ぢるが逆らえない。せめてもたくさんのなみだでつつみまぎらわして地に(そそ)ぎ、もとの清水(しみづ)にかえるばかり。

 天の門はかたく閉ざされているようにみえた。けれども、そんな天を泉のおとめは恨むことができなかった。自分の永遠にわかい生命はやはり天上にあるべき身の(あか)しだとおもい、いつかは迎えられると、それでもかたくなに信じていたから。

 かの女は夜になっては星座になったかつてのなかまたちをあおぎみて、そして(うらや)んだ。泉のおとめは、かの女たちが一体どういう神神のおぼしめしをうけて天に昇るようになったのかを考えてみる。しかしかの女はその事情をほとんど知らないのだった。かの女は森の淋しい泉の精で、出入りしてくれる川もなかったのだ。光は射し込まず、風も泉を波立たせることをはばかって、上のほうを素通りすることがおおかった。

 それでも、やがて小鳥たちがかの女のよい友達になってくれたのだった。

 鳥たちにも、実は、星座になったおとめたちとおなじような過去の物語があった。鳥が声の精であるというのは、前世のドラマがその声に総て凝縮されているからだった。その声はうつくしいけれども、底はかなしい響きの色がある。

 かなしくともおもてにはうつくしく響かせて、昔のことをいつも歌っていなければならない小鳥たちは、過去の声よりも今ある現在の姿をとても大事にしたいとおもった。その姿はおたがいを見ればおよそ自分のことも想像できる。でも、それはやはり想像でしかなく、自分の姿がこの眼で見えるわけではない。自分の声は自分でいつでもきけるけれども、だが自分の姿はそれをうつしてくれる泉まで行かないことには見ることができないのだ。

 初め、泉に近づいた時は、おそるおそるだった。過去の呪縛にある者にとって、現在をつかむことはこの上もなくおそろしい気のするものだったから。しかし、かの女らの前に見えた泉のおとめは、透明なまでにうつくしかったが、決してひとを寄せつけない冷たさは持っていなかった。たしかに多少は冷たかったかもしれない。でもそれはかの女が独りぼっちでながいあいだ淋しさに耐えていたせいなのだ。かの女もみんなとおなじようにきずついていたのである。透きとおる(はだ)の奥にはかげがあった。なめらかなおもても細かく(ひび)われが走って、潤いがところどころうしなわれていた。

 泉のおとめと小鳥たちはすぐに親しくなった。けれども、鳥たちがながく水浴びすることは泉のおとめが戒めた。実は、かの女は滅多と人のおとづれをうけることのない淋しい森の奥深くの泉だったが、(まれ)に道に迷い、(のど)のかわききった者たちがやってくるようなことがあると、あまりの人戀()いしさに(あらが)いがたい力でかれらを深く引きこんでは、そのたびに行き過ぎてみな骨抜きにしてしまっていたからである。このようにいつもわかくうつくしくあるのに天に迎えてもらえないのは、あるいはそのせいもあるのかもしれない。おとめは今になってふとそんな気がした。

 小鳥たちにしても、現在の姿が一目確かめられればよかったのだ。昔とはすっかりなりもかたちもかわってしまっているが、罪のない愛すべき姿はむしろありがたい神のおぼしめしのようにおもわれた。

 小鳥たちは毎日毎日泉のおとめの上を、楽しく元気のよい歌をうたいかわすように囀りながら、かろやかに飛びめぐった。その様子をみると、泉のおとめはまた強く天上へのおもいにとらわれるのだった。かの女は小鳥たちに、これまで何度天に近づこうとして(むな)しく失敗したか、天にあってこそ相応(ふさわ)しいこの身なのに、地にながくあるうちに知らず知らず濁りが進んで、ますます天に昇る望みははかなくなりそうなことを(うった)えた。それにひきかえあなたがたは、おなじ地の住人でありながら地の力の引き留めをうけず、ここを楽園とでもいうように楽しく歌をうたい軽快に飛びまわっておられます、本当におうらやましいかぎり。

 そこで鳥たちが答えて言うには、あなたはまことにわたくしたちより澄みきって清らかでいらっしゃるのに、いつも低いほうにながれてしまう性をお持ちなのはお気の毒なことです。けれどもわたくしたちだって、この世に極楽を成就(じょうじゅ)しているわけではないのです。わたくしたちは、過去一世だけでは引き請けることのできなかった重荷を今も引き継ぎ、この身に背負って鳴きくらしているのです。わたくしたちの歌はひと様にはさも気楽で快活に響くかもしれません。でも本当のところは、過去のかなしい物語なのです。過去ではさんざかなしみにひしがれ、泣くことに追われて、ひとをかえりみるところもないままはかなくなってしまったので、今はわがかなしみをひとには心愉(たの)しい歌にきかせて(あがな)いをしているわけなのです。前の世のなみだでは()くしきれなかったかなしみの泉を縷々(るる)としらべの玉に(つづ)ってくみだしているのがわたくしたちの歌です。そして、そうやってかなしみの心をよろこびに歌う以上、またからだも重くつらいからこそ、いっそう軽く(のび)やかに振る舞わなければなりません。わたくしたちに翼があるのはそのためです。過去はあまりに重すぎましたが、わたくしたちはもうひと世そのかなしみを引き請け、よろこびに歌い綴って贖うことを神に申し出ました。そして、神はそれをききいれてくださり、わたくしたちに翼をつけてくださいました。

 神? あなたがたの翼は神がくだされたものなのですか? それを――その翼をくださったのはどちらの神なのです? まさか太陽の神ではありますまい。太陽の神はいつもわたくしを焦がれさせました。そして、わたくしは水の性を火にかえることも(いと)いませんでした。ああ、だのにかれは仮借ない仕打ちでわたくしを……。飛翔がいよいよ高潮に達し、あと一息で永遠の高みに出られるとおもうところを、残酷にもかれはわたくしを拒んで、飛翔の符号を負にかえてしまう、そうして重力に縛りつけて再びわたくしを地上におくりかえすのです、いつもいつも太陽の神は……

 ええ、太陽の神であるはずがありません。太陽の神に近づけるのは、わたくしたちのなかまでは鷹のキオネと烏のコロニスだけです。もっとも、どちらももはや小鳥とは呼べませんでしょうけれども。わたくしたちの身だって天界へ近づくことはまだまだ……。わたくしたちがいるここと、神神のおられるかなたとではあまりにその隔てがおおきいものですから。でも、わたくしたちはいつかこの翼で、いまはあまりに遠いかなたへでもきっと行くことができるものと信じておりますけれど。というのも、この翼をつけた靴で使者の神はわれわれの世界と天界とを行き来なさるのですから。

 使者の神?

 そうです。使者の神は太陽の神の弟神です。そして、かれは同時に雄弁の神であり、商売の神、旅人の神です。そして、嘘つき、博打(ばくち)打ち、盗っ人の守り神です。

 盗っ人の守り神? でも、わたくしは決して盗泉ではございません。

 この世にいてそんなことを言っても無意味です。みんななにがしかは(けが)れ濁っているのです。それより重要なことは、使者の神は天界にも冥界にも相通じていらっしゃるということです。神神のなかでもめづらしく世知長()けたこの神は、この世の者をどの神よりも深く理解し、かなたの世界へもっともよき道案内をしてくださいます。かれの持つ二匹の蛇がからんだ杖は、医神も持つもので、癒しあるいは復活に導き、またその螺旋(らせん)――無限大記号のかたちは永遠の生命の象徴です。尤もそれは、もとはといえば太陽の神からの贈り物なのですけれども。その杖はもちろんかれの大事な役目を示すもので、実際わたくしたちの救済にも関係があるのですが、その前にまづかれ本来の持ち物として翼靴のことをわすれるわけにいきません。この翼の働きを神はわたくしたちに明かされ、あまりに重い過去を背負ったわたくしたちの救済のために、このように翼を背にとりつけてくださった、それは今お話ししたとおりです。

 まあ、なんと恵みぶかい神でいらっしゃるのでしょう。そしてなんてありがたい翼であることでしょう。

 ええ、本当に。使者の神に戴いたこの翼は、これまでの世ときたるべき世との橋渡しをしてくれるありがたい翼なのです。

 ああ、それではわたくしも、わたくしもその翼を身にすれば――

 ええ、あなたのおもいはわかりますわ。でもまちがわないでください。翼を戴いたからすぐ天界に飛び立てるものではありません。さきほども申し上げたように、わたくしたちもまだ天界へ行くことはできていません。地上の者にくだされた翼だけで天界へ昇ろうとしてもそれはかなわないことなのです。翼はあくまでこの世のもの、天界の者は地の力の引き留めをうけないので、もとより翼は要らないのです。でも、過去の重荷に今なおつながれているわたくしたちにはこれがなくては天をおもうことさえかなわないでしょう。あなたもお見受けするところ、いつも湿りに浸されて随分と地の情調を吸い込んでいらっしゃる御様子、それではどうしてもその重たさに低きにながれるはやむをえないこと、情の(ほだ)しにもつながれてなかなか地の力を振りきってお飛び立ちになれないことでしょう。あなたもどうやら翼が必要なお方のようです。でも御覚悟ください、翼はあなたのおくるしみを軽くしてくれるものではなく、あなたがなくされる重量分重くくるしみはのしかかり、あなたはよろこびの歌をうたいながらかなしみと真正面に向きあわなくてはならないのです。

 ええ、わかっておりますわ。希望があれば、その覚悟もむしろ励み。それにしても、なんてよいことをうかがったのでしょう。いきなり一足飛びのようには天に飛べないことがわかって、これまでのおもいあがりが戒められました。もうひと世、この世の引き留めのなかで辛抱しなければならないのですね。でも、くるしいながらも翼を得ていれば、そのつぎの世にはきっとわたくしでも……

 そう悟ったおりもよし、泉に一人のうつくしいわかものが近づいてきた。絶えて人のおとづれはないこの淋しい泉にやってきたのは、小鳥たちの声に誘われたものであろうか。そのわかものは特に道に迷ったふうもなく、これまでこの泉に引き込まれておぼれてしまったおおくの者たちのようにひどいかわきのためにからだが衰弱してもいなかった。そのうつくしい姿かたちといい、健康的な様子といい、まるで普通の者とちがう風情に、泉のおとめはなんともしれぬ魅力を感じた。小鳥たちは泉のおとめに小声で早速、なんとそれが使者の神の息子であることを教えたのだった。

 そのわかものは水浴びがとても好きだった。というのも、かれは泡から生まれた女神を母親に持っていたからである。

 だから当然のことにこのわかものは美少年で、水浴のために衣服を脱ぎおとした裸身もきらきらと光を放ってまぶしいほどだった。

 たださえ情緒過多で感じやすく逆上(のぼ)せがちな泉のおとめは、もう憬れの熱に身が燃えるほどだったが、これまでの例のように、それではきっとこのわかものにもはねつけられるとおもって、(はや)る心をぐっとおさえ、水らしく自分の色はあらわさないようにつとめた。

 そのように抵抗なくわかものを迎え入れてから、かれがすっかり上機嫌で水になじみ、少しからだがふやけてきたところを、突然泉のおとめは抱きつき唇まで奪った。接吻してなお手をはなさず、いや、からだじゅうをヒドラのような触手にして、わかもののからだにからみつき、おおいかぶさった。

 ただし、ここでわかものを骨抜きにしてしまうようなことは自ら戒めた。それでは元も子もなくなるとおもったから。そこでかの女はわかものにこう言った。

 ――もうどうしたってあたしはあなたからはなれない。でもこのままではあなたは骨抜きのふにゃふにゃになってしまう。それはあたしも望まないわ。第一、あたしは本当にあなたを愛してしまったのですもの。あなたは素晴らしくお美しく、言い表わせない魅力に満ちていらっしゃるわ。あたしはどうにも天に昇りたいとおもっているけれども、それはかねてからの念願というばかりではなく、もう今ではむしろ、あなたとともにいたいからというのが絶対理由なの。あたしの身分であなたを愛するのは分不相応だとおもうけれども、そんなこと言ってられない。一旦心にきめたら、どうもこうも一切見境なくなるあたしなの。ああ、だから、あなたと一緒に天に行けるよう、まずはあたしにも翼をください。あたしのねがいごとはただそれだけ。それだけかなえてくだされば。ああ、是非あたしに翼を。翼をください。

 するとこのわかものは甘くなよなよした声で、(というのも、かれはやはり母親の影響のほうを強くうけてしまったのだろう、すぐ泉のおとめと同化してしまった)

 ――そんなまわりくどいことを言わずに、ねえきみ、ぼくたちはこのまま合体してしまえばいいぢゃあないの。翼はおとうさん譲りでぼくが持っているから、なにも心配することはないよ。

 初めはそんな気のなかったわかものも、出来過ぎた親持つ子の弱点である優柔懦弱(ゆうじゅうだじゃく)の性によって、すっかり泉のおとめに丸めこまれてしまった。

 こうして二人は合体し、泉のおとめは丸くしなやかな胴となり、わかものは長く高貴な首とうつくしい翼にその特徴を示した。

 白鳥――ここに新しくこの名の鳥が誕生した。この鳥はこれまでの森の小鳥たちとはまったくちがって、第一に水鳥として水の上をおよぎ、第二に過去の歌――そのうつくしい囀りを持っていなかった。(それでも、唯一度だけこの鳥も歌をうたう。それはこの世にわかれを告げる時。この上なくうつくしい、しかし深くかなしい歌。それはおとめのなごりの歌か)

 このように両性の結合がそのままからだとなった白鳥は、陰陽二極に相通じることになった。この鳥はかれの父神のように天界にも冥界にも通じ、天界では母神の二輪車を曳くし、冥界ではたとえばトゥオネラの大河でかなしい歌をうたう。無論おとめの心でなつかしくおもうこともあるから、時々は地上の水辺におりてよく(いこ)いもする。その時は水にすっかりなれあってしまって、おとめには本来のものでない翼――羽衣をつい脱いでわきにおいたまま水にとけこんでしまったりする。おとめはわが家にかえったような心持ちでまるで気も心もゆるしているそのすきに、しばしば羽衣を奪われてしまうのだ。しかしそれがまた、天の者と人間とを結びつける契機をつくる。かなたで清められた霊魂がそうやって地上の肉体と結びあう――新しい生命はいつもそのようにしてこの世に生み出されてくるのである。

 こうして翼が象徴するのは、隔てある者の間を結び仲立ちする橋だ。牽牛と織姫との間をとりもってわたしつなげてやる(かささぎ)の橋なのだ。

 なお、鳥たちの歌について一つだけつけくわえておかなければならない。森の小鳥たちはみな過去のかなしい物語をよろこびの歌に織りかえて(さえづ)りうたっていたけれども、そのなかにもただ一種、過去の歌を持たない鳥があった。過去がないわけでなく、うつくしい囀りをしないわけでもなく、いや衆に(すぐ)れてうつくしく囀り、過去にあったおもいも誰よりも強かったのに、それを声に響かせない鳥があった。その鳥は過去の歌をうたわず、唯一途に経文の名を読みとなえるのだった。その鳥だけは神の力にあづかって翼をつけたわけではなかった。鳥の様かたちは、罪ぶかいとされたおんな身を捨てきった純粋な魂の姿といってよかった。魂はもうおのが身の上のことはわすれている。なにものにもおおわれない魂はそのまま仏の慈悲につつまれていることを感じ、ほゝき(法喜)と鳴く。鳴くのはやはり小さいながらも未だ残る鳥の身のゆえであった。この身はなお仏につくさねばならぬ、とて小鳥はなおそのあとを一心かたむけて経を読みすごす。ほけきょー 法華経。それはまた、ひーつきほし 日月星 ときこえる。それは願かなう時に召される三光天の歌である。



 ――拄杖子(しゅぢょうす)()して龍と()乾坤(けんこん)呑却(どんきゃく)(おは)れり。山河大地甚處(いづく)よりか得来たる。



 ここは泉。

 かれることのない龍の壷。胎内にわきかえる霊水に口つけて飲む龍は永遠の循環を体現する。断ち切れば(せき)を切ってながれる大水。人の世を潤す恵みの水も、鐘の誓いおろそかなれば、村一統おしながし淵の底深くに沈める。

 谷神(こくしん)は死なず。その門は()めどもつきぬ天地の根。天門の開き()ぢるも、神秘な女性なる玄妙な徳の働き。人のつくる鐘は山の御堂からおちて谷底の淵に沈む。鳴らし手もいないのに鐘がひとりでに鳴るのはなんの合図であろうか。

 河に沈む黄金。これら泉の(ほのお)をラインのおとめたちから奪うことはならない。それはいづれ指輪のように、最後にはまたラインの水底へひとめぐりして(かえ)るだけなのだ。その定めは神も人も逆らうことはかなわない。そしてそのあいだ、幾多の血の贖いと火の(きよ)めとが求められることであろうか。

 海に沈み、ミッドガルドの大地をとりまいてねむる大おろち。このおのが尾を口に(くわ)えた途轍もない大おろちの円環がはづされる時、魔法の(ひも)も解けておそるべき無敵のおおかみが放たれる。宇宙樹は焔につつまれて(たお)れ、この世を統べてきた神神にも終に終わりの時がくる。

 地の底より地上を、天を見る、大地に開いた眼である泉。その深い奥底に、この上ない知恵の代償に捧げられた神神の王、オーディンの隻眼(せきがん)が沈み隠されている。その眼は泉のながれに洗われながらいつも見開かれて、天と地とに起こる一切がその眼にうつった。無論、おのれのもとの主の運命も、ながれる雲がかたちをかえながら眼の前を通り過ぎるのを見るごとくに眼に入れ、それが消滅する様まで見届けていた。それは神神の黄昏(たそがれ)の後もかわることはなく、再びわきかえりよみがえる世界の様を何度も見ることだろう。

 南から(くら)い森を抜けて、狼池に白鳥乙女が飛んでくる。神神の王、死せる戦士の父につかえるワルキューレ。羽衣隠されて土地の王子たちの妻となる。その王子たちの一人、わざの(たくみ)、妖精王の黄金を略取する者こそわざわいなれ。

 黄金にひそむ呪い。水中を()()とする小人が指輪にこめた呪い。小鳥の言葉をききわけ、隠れ(かぶと)をものにし、木の葉の隠した唯一處(ただひとつどころ)を除いて全身不死の血を浴びた英雄も、呪いに打ち勝つことはできない。

 川獺(かわうそ)の皮の内側も外側も黄金でおおわれた。見え残ったひげ一本まで小人が大事にして出し惜しんだ指輪をもっておおいかくされた。それが総ての争いの種、呪いのはじまり。

 川獺のきょうだいはおそろしい龍になった。死んだきょうだいのことも構わず、父まで殺して小人の宝を独り占めするために。だが、その悪龍もかのおそれをしらぬ英雄によって退治されるのだ――その英雄を養育したのは、実は、宝をねらうもう一人のきょうだい(かれも小人だった)だった。その龍のきょうだいは、腕前すぐれた鍛冶屋として龍を一刺しで貫き殺す類いなき名剣グラムを英雄に与えて兄殺しを(そそのか)したのだ。実のところ、かれは心のうちでは龍と英雄の相討ちをねらっていた、そうして最後に宝が自分ひとりのものとなることを。しかし、結果はかれのきょうだいだけ命果て、英雄が勝った。宝は英雄のものとなる。そして英雄は、龍の血を(すす)って小鳥たちの歌を理解することができるようにもなったが、その小鳥たちの歌には、かれを養い育てた小人の陰険なかのたくらみが告げられていた。こうして川獺の最後に残ったその欲深く意地悪いきょうだいもまた血の復讐を受けるのである。小人は英雄の暗殺を(はか)ろうとする、しかし逆に英雄の剣(自らが鍛えたものだ)にかかり、首を()ねられて、おなじ血しぶきを飛ばしながら兄の後を追うことになった。だが、黄金の呪いはまだつぎの犠牲を要求する。ほかならぬその小人の養い子、かの英雄もおなじき非業(ひごう)の死を免れ得なかったのだ。その呪いによる宿業(しゅくごう)は、血で血を洗う復讐劇の果てに一つの王族が滅亡するまで終わらない。

 剣よりも(さや)のほうが十倍もねうちがある。特に、王の持つ剣はそうだ。鞘をつけているかぎり一滴の血もながれない。鞘をはなれた剣はおおくの敵を殺すだろうが、それは敵を倍に増やしている。血が血を呼び、やがておのれにかえる両刃(もろは)の剣より、それを安らかにねむらせて血にくもらせることなく平和を保つ鞘こそ、王に相応しい。湖から得た剣は湖にかえされねばならない、鞘がうしなわれた時こそ、その時だったのだ。だが時おそくもはや鞘のない今、剣をしづめた湖におのれのなきがらもともにひきとられてゆくことになる。

 上る道は下る道と一つだ。天に昇る龍も淵の底へ降る龍もおなじ一つの龍だ。いくつかある龍の頭のいづれが水を飲み、いづれが水を吐こうとも、胎内にある泉の水はかわらない。天地にかかる虹はその水のめぐりの象徴だ。

 だが、時には水を司る龍が(いかづち)(かたど)る。雷神は小人のつくった幡桙(はたほこ)によってとらえられる。小人は猛烈な勢いの火をあつかって剣を鍛え、鏡を鋳る。眼や足をうしなうことによって、小人の秘術はさらに呪術に變貌(へんぼう)するだろう。かれらやかれらのつくる光り物は、瞼のない眼から光を放つ蛇に親しい。蛇は夜刀(やと)(谷)の神として魔力をおびる。

 生ける銀は龍の神性をかえる。水銀におかされた龍は、その重いからだでもはや天に昇れない。時に龍は火を吐き、金属の溶けた熱水をながし、毒をとばして里人の敵となる。やがて英雄が出でて、その龍の首や尾は断ち切られる。そして、かれは龍の胎内から剣を得るだろう。しかし、剣からしたたりおちる血の滴は、敵の連鎖の一環だ。もはやここに、龍は零落して、天と地をめぐる水の循環は乱れ、相対立しあう敵意に()られた鎖の連環が、血を油と注いでは、二股にわかれた炎の舌で導火線に似た時間を()めとってゆく。循環しない時間はいつか行き止まる。炎は最後にはきえるしかない。だが、あとにはなにも残らない。総て焼き盡くされてからではもうとりかえしがつかない。

 龍を殺してはならない。龍の壷を(こぼ)ち、おかしてはならない。龍を悪となすは人為のわざだ。永遠に清水のかれない龍の壷も、人の強欲(ごうよく)が盗みだそうとしてこれをわる。そこで人は流出する水にかえて、水銀をつぎこむだろう。こうして龍の性を金と火に近寄せた報いは、人と龍の闘争を生み、おたがい総てが滅びきるまでそれは絶えることがないのだ。

 はやく龍を澄んだ清らかな湖にもどし、天地(あめつち)をかけての水のめぐりを復活させなければならない。そのためにはその証しとなる虹を。われわれはそれこそ真剣にもっと渇望すべきだ、天地をかけわたすうつくしい虹の復活を。だが、地に日の光をはねかえす剣があるかぎり、本当にうつくしい虹はあらわれない。ただ不吉な白虹(はっこう)を見るばかりでは救いはない。剣は龍にかえせ。大地に、湖の底にかえせ。

 その時、静かな柔い女神の行列が天からおとづれるだろう。そして、地におりたった女神の合図を受けて、虚空(こくう)にうつくしい虹が立つ。天地をかけわたす橋がもとどおりに整い、相争う者みなたがいに(ゆる)し和解しあい、地に平和がとりもどされる時こそ、われわれが原初の楽園にたちかえる時なのだ。


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