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32話目 落ちた先


 公平は奈落へと落ちた。

 仲間が照らしていた松明の火も、あっという間に遠くなり、そこには闇が広がっていた。

 内臓が浮き上がる不快感と、ひたすらに落ちていく恐怖が無限に続く。

 このまま落ち続ければ、高所からの落下で死んでしまうのではないか、公平の脳裏には不穏な考えが過った。

 暗い、暗い、まるで怪物の口の中に飛び込んでいっているようだ。

 少しずつ、公平の意識が削り取られていく。

 そして、完全に意識が落ちる寸前で公平の体は地面についた。


「うっ! 痛っ…」


 それはまるで、尻餅をついただけのような痛みだった。

 あれ程落ちていたのにも関わらず、地面と接触した部分だけが軽く痛む程度。

 公平は自分の体を隅から隅まで確かめたが、特に異常はなかった。


 ーーなんだったんだ…?


 落ちていったのが嘘のように外傷がない。

 あれは何かの間違いだったのか、と公平は思ったが、仲間の姿が見当たらないことと、肌で感じる異様な雰囲気がそれを否定した。

 すぐに公平は自分の荷物の中から松明のもとを取り出し、火をつける。

 すると、ここは見える範囲全てが黒いガラスのようなものでできている空間であった。

 先ほどまでいた場所とは明らかに違う。

 公平はあの落下が嘘ではなかったと認識した。


「来て早々とは…ちくしょう! 早く彼らと合流しないと!」


 下に落ちたということは、仲間は上にいるはずだ、と公平は思い、上に行くための道を探す。


 ーー壁やら床やらなんなんだこれ?


 公平は、こんこん、と黒いガラスのようなものでできている壁を叩いた。

 壁は不自然なほど滑らかで、松明を近づければ公平の全身が写り込んだ。


「これだけ滑らかだと滑りそうだな…こんな状況で魔物に会ったら、果たして勝てるかどうか…」


 公平は慎重に、周りの気配を感じながらすすむ。

 すると、前方に明らかに土でできた場所を見つけた。

 セーフティゾーンだ。


「助かった! とりあえず何かあったらここに逃げてこよう」


 しっかりとセーフティゾーンの場所をチェックし、そこを起点に上昇傾向にある道を探す。

 しかし、適当に物を転がしたりして探してみても見つからなかった上、どうやら通路が不自然に繋がっているらしく、いくら進めども同じ場所に戻って来てしまった。


 ーーなにか仕掛けでも働いているのだろうか…あの落下といい面倒なものばかりらしい…


 何かの罠ならば、解かなければ進めない。

 迷宮巡りの最中に、似たようなものはあったが、わかりやすいものばかりであったので、今の所公平は解決策が思いつかなかった。


「まいったな…一旦セーフティゾーンに戻って、何か考えないと…」


 ここで考え事をするのはまずい、そう思った公平の後ろから、何かが近づいてくる音が聞こえた。

 ずる、ずる、ずる、と粘着質な何かが零れ落ちる音がする。

 加えて恐ろしいほどの異臭が漂ってきた。

 公平はこの音と異臭の正体を知っていた。

 ーーゾンビだ。

 見える範囲までくると、そのおぞましい姿が露わになる。

 ゾンビは武器を持っているわけでも、上位種であるわけでもない、ただの鈍くて知性のかけらもない普通のゾンビだ。

 公平はこの状況で戦うことには消極的であった。

 仲間のいない今、自分一人で戦うとなると何が起こるかわからない。

 だが、向かおうとしていたセーフティゾーンはゾンビの後方にある。

 その上、迷宮を巡る中でゾンビとは幾度となく戦闘を交わした。

 一匹ならなんとかなるだろう、そう判断した公平は剣を抜いた。


「ファイアボール!」


 公平は火魔法をゾンビに向けて放った。

 今回は一匹であるので火球で攻撃する。


 ーーこうすれば確実に攻撃が当てられるから、何体も相手をするときと違って、ダメージが入らないなんてことはないだろう…


 公平の予想通り、連続で何発も放った火球は全てゾンビに当たった。

 あとは足を狙って崩れたところを狙うだけだ、そう思った公平が一歩前に出ようとした瞬間、気づいた。

 火球が当たった筈のゾンビの体には、傷一つなかった。

 傷一つない、と言うと語弊がある。

 生前受けたであろう傷や、腐り落ちた肉などゾンビの体は五体満足なわけではない。

 だが、公平が放った火球でダメージを受けているなら、焼けた跡がなければおかしい。

 おまけに普通ならダメージを受けたゾンビは動きが鈍る。

 だが、公平の目の前にいるゾンビは、動きは鈍いが出現したときとその速度が変わっていない。

 つまり、このゾンビは公平の攻撃が全く効いていないのだ。


 ーー嘘だろ!


 今までこんなことはなかった。

 ゾンビであれ、その上位種であれ、火魔法であればダメージを受けていた。

 ではさらにその上位種かと言われると、おそらく違うだろう、と公平は思った。

 このゾンビは、本当に、普通の、通常のゾンビであるのだ。

 ゾンビはじりじりと公平に近づき、腕を振りかぶって攻撃してきた。

 半分以上腐り落ち、最早骨まで見えている腕。

 にもかかわらず、防御のために公平が構えたロングソードをいともたやすく折ってしまった。


「…え?」


 公平は折られた刀身をただ呆然と見た。

 そして、脳が現実を受け入れられずに口元が三日月型に吊り上がる。


 ーーあれ、俺なんで…


 どこか夢を見ているような、ぼんやりとした意識の公平に向けて、振り下ろされたゾンビの腕が強制的に公平を現実に戻した。

 間一髪のところで避けるが、掠った頬が裂けて血が噴き出す。


「あ…う…あぁ…」


 公平の心臓が早鐘を打った。

 呼吸が乱れて頭がくらくらとする。

 体がふらついた。

 だが、ここで倒れてしまうとあっという間にゾンビの餌食になるだろう。


「あ、ああ…う…うぁ…うあああぁぁぁぁーー‼︎」


 公平は叫びながら、ゾンビの懐をかいくぐり、逃げ出した。

 後ろからはゾンビが追ってくる気配がしたが、振り向かずに全力で走る。


 ーー早く…早くセーフティゾーンまで逃げなければ…


 公平は必死に走った。

 恐怖でもつれる足を必死に動かしながら、逃げた。

 焦りと不安の中、松明を振り回してセーフティゾーンを探す。

 乱れた呼吸で頭を真っ白にしながら、公平はやっとセーフティゾーンを見つけた。

 松明を放り投げ、セーフティゾーンの中に飛び込む。

 ゾンビはまだ追ってきていた。

 松明は遠くで輝いているので姿は見えないが、あの異臭と粘着質なものが零れ落ちる音がゆっくりと近づいてくる。

 公平はセーフティゾーンの中で、ガチガチと震える歯を必死に押さえつけ、小さくなりながらなるべく音を立てないように努めた。

 脳に以前ガノイが言っていた、セーフティゾーンは絶対に魔物に見つからないわけではない、と言う言葉が繰り返し響く。


 ーー頼む…頼む…気づかないでくれ…!


 ずる、ずる、ずる、という音が公平の耳元で聞こえた。

 ゾンビがすぐそばまで来た。

 ゾンビは公平のそばまで来ると、動きを止める。


 ーーなんだ…まさか気づいたのか…?


 しかし、ゾンビは止まったまま動こうとしない。

 どうやら、逃げた公平を探しているようだった。


 ーー早く行ってくれ! ここには…ここには俺はいない!


 それからどれほど経っただろうか。

 やっと諦めたゾンビがどこかへと立ち去った。

 公平はその場から動かずに、ゾンビが完全に立ち去った後もしばらくはじっとしていた。

 そしてその体勢に耐えられなくなってから、公平はゆっくりと体を起こした。

 音を立てないようにセーフティゾーンの奥に手探りで移動する。

 公平はセーフティゾーンが壁まで続いていることを確認すると、やっとまともに息ができるようになった。


 ーーし、死ぬかと思った…


 公平は膝を抱え込んで座る。


 ーー全く歯が立たなかった…それどころか武器まで失ってしまった…


 公平は暗闇の中、手に持ちっぱなしの刀身が折れたロングソードを見る。

 よく見えないが、どうやら根元から折れたようだった。

 これからどうしようか、公平はそれを考えることができなかった。

 この迷宮が恐ろしいものであることは知っていた。

 それは覚悟の上だったはずだ。

 だが、公平にはどこか甘えがあった。

 それは自分は魔王であるという甘え。

 レベルが上がらなくても、実力がなくても、自分は魔王なのだからきっとどこかで強くなるだろう。

 公平は無意識のうちにそう考えてしまっていた。

 また、たとえ強くなれなくても仲間と協力すれば勝てるだろう、という根拠のない自信もあった。

 特に、全属性という存在が稀であることもそれを増長させた。

 他人にはない能力。

 それがあれば勝てるだろうと思っていた。


 ーーその結果が、これだ。


 例えば先ほどのゾンビが複数いたとして、仲間がいれば勝てただろうかと考えて見る。

 公平は全く勝てると思えなかった。

 それどころか、おそらく瞬殺されるだろう、そう思った。

 さらにそれは想像ではなく、現実で起きうる可能性を秘めている。

 公平はル・デイダニア迷宮に来たことを後悔した。

 やっとゼノンが最後まで反対していた理由がわかった。

 なぜ自分はこの迷宮に来てしまったのであろうか。


 ーー怖かったんだ…!


 あの夜、ゼノンが人間と魔族について話したあの夜。

 あの時に、自分が期待されている役割や、犠牲になった者のことを聞かされて、公平は恐ろしくなった。

 自分がなんとかしなければ滅びゆくかもしれない、そう知ってその重さに潰されそうになった。

 なんとかしなければいけない、公平の脳内はそれで一杯になった。

 特に自分のせいで犠牲になった魔族を思い浮かべると、苦しくてどうしようもなくなった。

 あの世界で日本で、ただのサラリーマンとして生きてきた公平にとって、この世界で課せられた役は重すぎるものだった。

 だからあの時、螺旋階段でテドラに条件を提示されたとき、公平は逃げることができなかった。

 あれはある意味救いの手だった。

 その手を掴んだ結果がこれである。

 後悔しても、もう遅い。

 公平はもうどうしようもないところまで来てしまった。

 ボロリ、と公平の目から涙が溢れる。


「あ…」


 怖い、苦しい、嫌だ。

 だが、それ以上に公平は自分が情けなかった。

 無力で何も成せない自分が。


 ーー行かないと…仲間たちと合流して、謝って、ここから出よう…


 涙を手の甲で拭い、見つからないようにと捨ててしまった松明の代わりに新しいものを取り出す。

 残りはもう少ない、慎重に使わないと。

 そう思いながら公平が火をつけるとーーすぐそばにゾンビの顔があった。












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