小論/我慢するということ
<それくらい我慢しろ>と言う。<それくらい我慢できなくてどうするんだ>と相手を非難する。我慢することが困難を乗り切る上で何よりも大事な心構えであるとばかりに、我慢を強要する。
本当に我慢しなければならないことなら我慢できる。それしか良い方法がないと理解すれば我慢もできる。困難という嵐が過ぎ去るのを、じっと辛抱して待つ方法を自ら進んでとるだろう。
我慢する必要を感じないのに我慢を強要されるとき、<我慢しろ>は苦痛以外の何物でもなくなる。その状況で本当に必要な手段だと理解すれば、我慢という行動も、強要されてするものではなくなるのだ。
<それくらい我慢しろ>と言うのは、その問題を解決してやらなければならない者がうまい解決策を見出せないか、解決してやるのが面倒だと思うときの言い草に過ぎない。具体的な方策を講じてやれないのを隠すための方便として、もっともらしく述べるのである。
問題を解決するための方法として、我慢という態度をとるしかないということはほとんどないだろう。どうしても必要ならば我慢ということもするだろうが、その我慢とは、何の手立ても考えつかないままに、その出来事が通り過ぎるのをじっと待っているだけの無為な活動である。問題を乗り切るためには、そうした方が得策だと考える場合の消極的な対応策である。
我慢することを覚えるのは人間として強くなる上で大事なことであるという考えは間違ってはいないかも知れないが、それは美徳でも得策でもない。余り感心できそうにない方法だろうと思う。
無意味に我慢することはない。じっと我慢しているのでなく、起きた問題を解決して心地良く過ごせるように積極的に働く方がずっと人間的な活動である。
<我慢しろ>とは、起きた問題に具体的な対策を講じないまま無為に過ごしてしまう怠慢な気持ちを、もっともらしく、そして美化した言い方のことである。