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小論/我慢するということ

作者: 成井隆

 <それくらい我慢(がまん)しろ>と言う。<それくらい我慢(がまん)できなくてどうするんだ>と相手を非難する。我慢(がまん)することが困難を乗り切る上で何よりも大事な心構えであるとばかりに、我慢(がまん)を強要する。

 本当に我慢(がまん)しなければならないことなら我慢(がまん)できる。それしか良い方法がないと理解すれば我慢(がまん)もできる。困難という嵐が過ぎ去るのを、じっと辛抱して待つ方法を自ら進んでとるだろう。

 我慢(がまん)する必要を感じないのに我慢(がまん)を強要されるとき、<我慢(がまん)しろ>は苦痛以外の何物でもなくなる。その状況で本当に必要な手段だと理解すれば、我慢(がまん)という行動も、強要されてするものではなくなるのだ。

 <それくらい我慢(がまん)しろ>と言うのは、その問題を解決してやらなければならない者がうまい解決策を見出せないか、解決してやるのが面倒だと思うときの言い草に過ぎない。具体的な方策を講じてやれないのを隠すための方便として、もっともらしく述べるのである。

 問題を解決するための方法として、我慢(がまん)という態度をとるしかないということはほとんどないだろう。どうしても必要ならば我慢(がまん)ということもするだろうが、その我慢(がまん)とは、何の手立ても考えつかないままに、その出来事が通り過ぎるのをじっと待っているだけの無為な活動である。問題を乗り切るためには、そうした方が得策だと考える場合の消極的な対応策である。

 我慢(がまん)することを覚えるのは人間として強くなる上で大事なことであるという考えは間違ってはいないかも知れないが、それは美徳でも得策でもない。余り感心できそうにない方法だろうと思う。

 無意味に我慢(がまん)することはない。じっと我慢(がまん)しているのでなく、起きた問題を解決して心地良く過ごせるように積極的に働く方がずっと人間的な活動である。

 <我慢(がまん)しろ>とは、起きた問題に具体的な対策を講じないまま無為に過ごしてしまう怠慢な気持ちを、もっともらしく、そして美化した言い方のことである。

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― 新着の感想 ―
[一言] 実は「我慢しろ」と言われても、そんな言葉は右の耳から左の耳に流して我慢をしなければいいだけの話ではあるのだけど、それでもそこに正当性みたいな何かを求めてしまう僕らは、Fate/Zeroで「正…
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