春―再び
私は今日も屋根へのぼる。
また、春が巡ってきたのだ。
世界は鮮やかに色づきながら、深い眠りから目を覚ます。大空に向かってまっすぐに立つ木々は、その両手を思いっきりあの太陽まで突き上げる。風に唄い、その身を躍らせる花々は、満面の笑みを太陽に向ける。
太陽が羨ましい。そう思ったこともあった。しかし、結局のところ私は私のままだ。私の名を呼ぶ誰かがいる限り、私は私であり続けるだろう。そしてその誰かを大切にしたいと願うのだ。今を幸せに生きたいと、そうあることが出来るように祈るのだ。
雪が融けたての屋根はきれいな深緑だ。そしてまた、例のごとく先客はいるのだ。あたたかな日差しに、この上なく心地良さそうにまどろんでいる栗色の猫が一匹、ごろりと屋根の上に転がっている。ゆったりと揺れる長いしっぽは、風に揺れる花によく似ている。
「あ、お前か。久しぶりだな」
――そうだね。姉はあれからずっと忙しくしていたから。
「だけどオレもよく頑張ったよな。本当はさ、人間を諭すようなタチじゃないのに」
あの冬の日のことを思い出して、ユウヒはひどく誇らしげだった。ぴんと張ったひげがそよそよと風に揺れている。優しい春風に私は身を委ねる。やわらかな日差しに溶けてしまいそうだ。
「お前もまあ、割と頑張ったと思うよ。……知ってたんだろ? あの姉がお前に"会う"時は、辛いことがあった時だってさ」
そういうユウヒこそ気づいていたのか。そう感慨深く思ってそっと身を揺らすと、ユウヒはにゃあと鳴いた。
「ユウヒ」
優しい声がユウヒを呼ぶ。嬉しそうに身を起こし、ユウヒは姉に飛びついた。それを見て破顔する姉。ああ、良かった――そう、しみじみと思う。久しぶりに会った姉は少し大人びていて、けれどもあの頃とほとんど変わらない笑顔をしていた。この笑顔を見るたびに、泣きじゃくっていた弟もまた、つられて笑顔になるのを私は知っていた。まるで、太陽のようだと思う。人を惹きつけ、大勢に笑顔を向けられ、支えられている。
ぎゅうとユウヒを抱きしめていた姉が、思いがけなくこっちを見た。どきん、と身を強ばらせる。しかし、その必要はなかった。
「ありがとう」
何に対しての感謝なのか。……いや、そもそもこれは私に向けられたものなのか分からなかった。けれどまっすぐに私を見て微笑む姉は美しく、日の光を浴びて輝いていた。
「ここにいれば空が近いでしょ。あの天にいるのかな、って思ったら、少しでも高い場所にいたくって。私達屋根が大好きだったし。それにここからなら、吹けば"想い"も届くかな、と思って」
姉はそう言って、ポケットから緑の小さな棒を引っ張り出した。よくよく見れば先端は王冠のような形をしており、中は空洞で突き抜けていた。そうしてもう一つ、ピンクの小さなボトルを引っ張り出した。
「お母さんが買ってくれて。さびしかったり、悲しいときはいつも、大きいのを一つだけ。"想い"を吹き込んで風に流すの。どうか届けてください、って」
姉はそう言いながら、ボトルから黄色い蓋を剥がしとった。そして緑色のストローをボトルの中にそっと差し入れる。
「いつもベランダからが多かったから。それにすぐに消えちゃうのを見るのはさびしいからって色々と混ぜ物をしてみたけれど……やっぱり終わりまで見届けたいし。だから今日は久しぶりに屋根の上から。ほら、あの花火の日と――初雪の日以来の」
何度か出し入れしたストローをそっとボトルから引き抜くと、姉はそれをくわえた。ゆっくりと息を吹き込めば、姉の"想い"が膨れ上がる。日の光を浴びて七色に光る。
不意にストローから離れると、優しい春風に抱きこまれた"想い"は、ゆったりとその場を漂った。
歌が、聞こえた。
花が風にそよぐ音ではなく、優しく澄んだ声で。
ああ、私の名を呼んでください。大切に"想う"から。
――しゃーぼん玉飛んだ。屋根まで飛んだ。
屋根まで飛んで……更に、高く、高く。
あの、空まで。
了
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。
何か書きたい、と思い立ち、二時間で書き上げ、推敲しながらの投稿でしたので……様々な不備はあると思います。
けれど、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
主人公が"もの"なので大変でした。
情景描写、心理描写の練習に、とも思って書いた作品です。批評・感想お待ちしています。
二月二十日 北咲 希