冬
空に、吸い込まれそうな夜だった。
冬の冷たい大気を越え、数えきれないほどの星々が街を吸い上げようとしているように思えた。重力は確かに私達を地に引きつけている筈なのに、ふわふわと天までのぼっていってしまうように思えるのは何故だろう。抗えそうもない力が私を、引く。
「いかないで」
小さな、震える声が、囁く。
ゆっくりと声の主を見れば、姉が小さな体躯を更に縮めるようにして、膝を抱えてしゃがみこんでいた。その震える肩の原因が、寒さのせいだけではないことは分かっていた。今夜、初雪が降るかもしれない――そうニュースが告げていたことも、分かっていた。けれど、私には姉にかけるべき言葉が分からなかった。
「いかないでよ」
無風の夜は気味が悪いほどに寒々しかった。物音一つしない夜。街灯よりも高い屋根のうえには不躾なオレンジの光は届かない。
寝静まった町で、けれども姉の心は鎮まることを知らないことだって、分かっていた。けれど一体私に何が言える。いいや、何も言えやしないのだ。
――私の言葉は、姉には"届かない"。
姉が気休めの言葉を必要としていないことも、分かっている。
「約束したのに。雪が降ったら一緒に雪だるま作ろうって。入学式にはきっと、一緒に桜の門をくぐろうって。……嘘つき、嘘つきっ!」
悲痛な叫びが夜のしじまを切り裂く。
ああ、私には何も出来ないのだ。何一つしてやれない。無力な自分がうらめしい。
にゃぁ、と鈴を鳴らすような高い声が響いた。
姉が大きく肩を揺らす。"ユウヒ"が姉の傍にゆっくりと寄り添った。ごろごろと喉を鳴らしながら、頬を姉のパジャマにこすりつけるユウヒ。私の目に、おずおずと顔を上げる姉の顔が映った。
「ユウヒ? なぐさめてくれるの? ……ううん、駄目だよ。お願いだから一人にして。悲しいのは私なの。さびしいのは私なの。確かに一緒にいたんだ、って……この痛みが愛しいの。このままで、ずっといたいの……だから」
ふにゃあ、とユウヒは強く鳴いたかと思うと、姉の白く滑らかな手の甲を引っかいた。止める間もないほど一瞬のことで、姉は何が起こったのか分からなかったようだ。ややしばらくしてから、姉はゆっくりと目を見開いた。
「ユウヒ?」
震える呼び名。
ユウヒは、姉の抱えた膝と胴の間にひらりと身をよじらせて、素早く潜りこんだ。そして幾分きついまなざしで姉を射る。姉はそうっとユウヒを見つめ返す。
『オレはいるよ。あいつも、あんたの笑顔が好きだったろ』
姉がゆっくりと目を瞬いた。言葉は通じない筈なのに――それなのに。
『オレはここにいるよ。今はまだ、いかないよ。だから泣くなよ。ずっとずっと一緒になんて、いられない。だけど、だからこそ、一瞬、一秒ずつが大切なんだろ。オレも短い命なりに大切にしたい。最期に、幸せだった。そう言えれば、いいだろ?』
ずっと喋り続けていたわけじゃない。ただ、片言のようにゆっくり、噛みしめるように話すユウヒは、私には輝いて見えた。こんなに真っ暗な夜なのに、思い浮かぶのはあの日の夕日。
こいつはきっと、自らの名前を呼ぶ姉を大切に思ってくれているんだ。そう、確信する。
『あいつは幸せだったよ、きっと』
にゃあ、と小さく響く声。
姉がぎゅうっとユウヒを抱きしめた。小さく震える肩。その肩越しにこちらを見据えるユウヒは、やわらかな笑みを浮かべ、素早く一度――ウィンクをした。
「大好きだった――ううん、大好きなの。いつだって私の後ろをついてきて。煩わしく思った時だってあった。叱られる時はどんなに弟が悪くても、いつも姉が叱られる――不公平だと思ってた。でもね、だからこそ私が守ってあげられた。私には責任があったの。真っ先に叱られ、それでも姉であり続けるっていう」
溢れる思いは優しく、強く。地球上の重力は、今度は姉に向かっているんじゃないか。そう思えるほど強く引かれる。だけど――……。
「大好き、なの。そして私は幸せだった。大切だった。だから、ね。ユウヒ。今日だけは泣かせてね。明日からはきっと、ちゃんと前を向いて歩くよ。笑顔で……いつまでも、姉として」
にゃぁ。嬉しそうにユウヒが鳴く。
けれど、その声ももう遠い。空が私を呼んでいる。高く、高く、どこまでも昇って。
星を散りばめた天上。弟もいるのかな、と思う。姉が行けない場所ならば、私が会いに行こう。そして弟もきっと、笑顔で迎えてくれる筈だから。
高く、高く、空に呼ばれて。
そう――屋根より高く。