秋
今日もまた、先客がいた。
夕暮れ時。
人波が家路を辿り始める頃。
もう少しすれば父が帰ってくるだろう。そう思いながら屋根をのぼれば、ユウヒがごろりと寝そべっていた。いい加減それを咎めるのも面倒に思い、そっと傍に寄る。
夕食の匂いを抱く風に惹かれたのか否か、珍しくぼーっとして山の方を眺めていたユウヒは、ゆっくりとこっちを向いて、小さく笑った。
「よう。こんな時間にどうしたんだよ」
――姉がさびしがっているんだよ。……弟が風邪をひいちゃったから。
「ああ。そういえば弟が病気なんだって? 結構ひどい、ってうちのばあさんが、お前んとこの母ちゃんに聞かされてたぞ」
私は驚愕に身を震わせる。何故なら、母は姉に対しては、ほんの大したことのない風邪だ、と言い聞かせていたのだから。
嘘をつくな、とユウヒを睨みつければ、大仰に肩をすくめられた。
「本当かどうかなんて、知るわけないだろ。オレの家じゃなくて、お前の家の話だ」
切り捨てるようなことをユウヒは言ったが、その口調は冷たいものではなく、むしろ温かみを感じそうに思えるものだった。そういえば、ユウヒは弟と仲は悪くない。こいつなりに心配しているのかな、と思う。
気だるげに横たわり、こっちを見るユウヒの瞳は、オレンジの陽光を受けて金色に輝いている。
不意にユウヒは私から視線をそらすと、はじめと同じように山のある方角へと顔を向けた。私も黙ってそちらを見ると、ちょうど夕日が山影にかかったところだった。山際に沈んでいく夕日は驚くばかりに美しかった。ゆるい弧を描く山際は金色に輝いている。山の向こう側から放たれる光は、空を紅く染め上げる。
オレンジにぼやける空、うすく紫がかった空、白くぼんやりとした空、まだ昼間の青を残している空。どれも同じ一つの空なのに、ころころと変わる表情のように、ゆったりと移ろっていく色合いは息を呑むほど美しい。細くたなびく雲は、やんわりと身を空に染めている。
日の沈んでいく今、一瞬、ほんの瞬き一つで見逃してしまうような、そんな移り変わっていく風景だからこそ、怖いくらいに鮮烈だった。
「今日は随分と長くいるんだな」
ユウヒがぼそりと呟いた。それはこちらの台詞だ! という代わりに私は、姉のおかげだよ、と応えた。その返答に満足したのか否か、ユウヒは曖昧な笑みを浮かべてこちらを見た。
きらきらと光る瞳。けれど、その輝き具合はさっきと全く同じものではない――今と、過去と、未来とは、違うものだから。
「こんな壮大なものがさ、オレの名前っていうのはなんだか……変な感じだなぁ、と思ってさ」
ユウヒがそっと零した言葉。いつもは傲慢さすらおぼえる口調は陰をひそめて、自信なさげな言葉が風に流されていく。
何かあったの、と問えば、ユウヒは小さく伸びをした。
「いや、別に。ただなんとなく、そう思っただけ。オレたちって驚くほどちっぽけでさ、強い風が吹いただけで、あっという間に掻き消える灯火みたいで」
真剣さを滲ませるその声は、ひどく脆く、しかし強い力を秘めている。
「だけど、やっぱり生きているんだな、って。ぼーっとしてても時間はすぎるし、気付けば今なんてあっという間に過去で。……話がそれたけど、つまり……なんていうか、名前は過去につけられたのに、現在自分を支えてて……」
言いづらそうにユウヒは顔をしかめる。普段はこれほど難しいことを言わないからだろう。慣れないことをしようとするからだ、と突き放したくもなるが、それを上回って、私はユウヒの言葉が聞きたかった。
「今日さ、名前のないやつに会ったんだよ。本人は気にしてないみたいだったけど……可哀相になっちまって。名前を呼ばれたらオレは振り返るだろ? それってつまり、オレがここにいるってことでさ」
ゆっくりと、噛みしめるように言葉を紡ぐユウヒ。そこにはもう、迷いはなかった。
「認められることって、嬉しいよな。だから、どんなに自分の身には余るように思える名前でも、それに見合うようになりたい。認めて、オレの名を呼んでくれる人を大切にしたい、と思ってさ」
ユウヒの笑顔は晴れやかだった。残光がその顔を、鮮やかに照らし出す。
「そういえばお前の名前って――」
ユウヒが思い出したように言った。でも、ごめん。
――時間切れみたいだ。