心交換所
金曜の夜の飲み屋は騒がしい。僕も別に静かに飲みたいというわけではないけれど、安いチェーン店の焼き鳥居酒屋で合コンをしたり、愚痴の応酬を交わしたり、同僚同士で騒ぎ合ったりと、誰もかれもが声高に喋る口を閉ざすことは無い。浮かれきった人達の中で僕だけが一人、カウンター席に座って砂肝を食べながら日本酒をちびちびと飲んでいる。むしろ、このバカ騒ぎの中で一人ぼっちな僕の方が場違いなのでは、と無為な疑問を思ってしまう。
「よ、悪い悪い、残業で遅れてもうて」
僕が鬱々としていると、やっと待っていた友人、柳瀬がどかどかと足音を立てながら僕の隣に座った。
「遅い。僕は君がいつ来てもいいように十五分も早くここで待っていたのに、君は約束の時間に一時間も遅れてきた」
「いやぁ、すまんすまん。お詫びにずりとビール奢ったるさかい、機嫌なおしてーな。ねーちゃん! ずりとビール二つずつちょーだい!」
柳瀬はこてこての関西弁で店員さんに大声で言う。僕は店員さんに顔を見られないように顔を伏せた。
「半年ぶりなのに、君は相変わらず時間にルーズだ」
「しゃーないやろ? 半年に一回は仕事で東京に来れるゆーても、出張が条件やし。何も自分のために来てやっとるわけちゃうしなぁ」
「それでも、僕は君のために自分の時間を削ってまでここで惨めな思いをして待ってたんだ。僕が気遣ってやってるのに、君は連絡一つ寄越さずに……」
僕が話していると、猫なで声を発しながら店員さんが砂肝とビールを持って、僕らの間を割ってテーブルにお皿を置いて行った。
「まぁ、そないにぐちぐち言わんと、食おうや飲もうや」
柳瀬はちっとも悪びれることなく、櫛を手にして砂肝をがぶりと食べる。それにつられるわけじゃないけれど、僕も櫛を取って砂肝を食べた。こりこりとした触感とちょうどよく利いている塩味が、自然とジョッキに手を伸ばさせた。
「……く、はぁ!」
ビールは最高に美味しかった。
「いやぁ、お仕事のあとのビールは最高やなぁ!」
「そんなおっさんみたいなこと言うなよ」
「俺らもうおっさんやろ? 大学卒業してもうそろそろ八年で、三十路やで? 立派なおっさんや」
大学時代から老け顔だった柳瀬が言ってもちっとも説得力がなかった。ジョッキの中の金色の液体に映る僕の顔は、まだまだ若い自信がある。それに比べて柳瀬は豊齢線も昔より深くなっているし、おでこも後退してきているし、こいつばかりが老けて言っているみたいだった。
「僕はまだ若いよ。まだ三十さ」
僕がそう言っている間に、柳瀬は胸ポケットから煙草の箱を取り出していた。
「で、どや、最近の仕事は、順調か?」
柳瀬が煙草を一本取り出して、口に咥える。全面喫煙可能なこの店に来ると、彼はいつも一杯飲むとまず煙草を吸うのだった。
「前に話したときと全然変わらないよ。相変わらず首の皮一枚でつながってる感じ。多分、もう少ししたらクビなんじゃないの?」
「お前大丈夫なん!? こんなとこで飲んどらんと、もっと仕事がんばらな」
咥えていた煙草に火がともり、もくもくと煙を上げて燻り始める。
「いいよ。これでクビになったら、フリーターにでもなんでもなってやるさ」
「せっかく三流大学からえらい雑誌編集者になれたってぇのに、そんなあっさりでええんか?」
「あっさり辞められるのなら、僕はクビになる前に辞めているよ……まだ、どうにか繋がっていたいから、諦めきれないからこうして窓際族になっても居残ってるんだよ」
僕がジョッキを持ってビールを飲んでいると、柳瀬の腕が僕の前を通った。僕の前に置いてある灰皿を柳瀬は自分の手元に寄せているのだった。
「そうかぁ。で、なんか努力しとるんか?」
僕は首を横に振って示した。
「あかんやん! もっと努力せな!」
「努力しても、どうしようもないだろ?」
「そんでまだ編集者やりたいんか?」
今度は首を縦に振った。
「甘いなぁ、自分。まるで子供みたいなこと言うとるやん」
「いいだろ、別に。努力したってチャンスが来るわけじゃないし、僕は自分の時間を大切にしたいんだ。それを削ってまで仕事をやりたいとは思わないよ。映画雑誌が作れるのなら別だけど」
僕は後ろを通った店員さんに、皮ダレとねぎまを頼んだ。
「せや、映画言うたら、生島について知っとるか?」
「生島? ……ああ」
生島は、僕と柳瀬と同じ、映画研究会の同期だった。あいつはひょろ長い体つきと色白い肌が特徴的だった。どこか不健康そうなのに、いつもカップ麺ばかり食べるからみんなから余計に体調を心配されて、それでも笑顔で「僕、カップ麺ばっか食べるの子供ん時からの夢やってん」と楽しそうに答えて、おいしそうに食べる奴だった。今も、元気にしているのだろうか、仲は良いわけじゃなかったけれど、久しぶりに会ってやってもいいかな、と懐かしい思い出にふけっていると、柳瀬は重大発表をする芸能人みたいに少し溜めてから、大げさに口を開けて言った。
「あいつな、自殺してもうてん」
「嘘!?」
僕も、彼と同じように口を大きく開けて、ぽかんとしていた。
「自殺なんて、病死の方が現実味あるよ。あんな馬鹿みたいに毎日を楽しそうに送ってるやつ、僕他に知らないよ」
「せやねんなぁ。俺もあいつが自殺した聞いて、なんとか葬式にちょっとだけ顔だせてんけど、そん時もまだ棺から出てくるんちゃうかぁ、って半信半疑やったもん」
柳瀬が灰皿にまだ長い煙草を押し付けながら、「でもなぁ」と付け加える。
「あいつとな、死ぬ一か月くらい前にたまたま会ってん。そしたらな、大学んときとホンマに人が変わったみたいに豹変しよってん」
「え?」
また、僕らの間にさっきの店員が割って入り、お皿を置いた。タレの付いた鳥の皮と、白いネギと鳥腿をこんがり焼いたねぎまが横たわっている。
「髪金髪に染めて肌をこんがり焼いて……ちょうどこのタレと同じぐらいの色の濃さやったわ。俺もアイツに声かけられるまで全然気づかんかってん」
「へぇ、あいつがねぇ。信じらんない」
「やろ? でも棺で見たあいつの顔も同じやって、あん時話しかけてきた奴がホンマに生島やってそん時初めて分かったもん」
「ふーん」
そこまで聞いて、僕はほんの少し、昔の友人を思い浮かべる。けれど、涙は湧いてこなかった。それほどまでに彼に興味が無かったというのもあるけれど、やっぱり実感がわかないというのが一番の理由だった。彼の墓を見ても、それは湧くことはないだろう。実際に彼の死に顔を拝めないと、理解できない。ちょうど目の前にある焼き鳥が、もとは鼓動をしていたあの汚らしい色の毛を持った鶏だと実感できないことと同じことだった。
「で、俺そん時生島のおかんがな、あいつが東京の「心交換所」ってところに行ってからあんな豹変しちまって、今回みたいに自殺したゆうてたんや」
「心交換所?」
「あ、やっぱ知らんか」
「もしかして、そこに行きたいとか思ってるのか?」
「いや、俺は行かへんよ。生島のおかんはそこを突きとめて息子の仇取ったる言うとったけどな。俺はそんな変なとこにわざわざ行きたい思わん。何より怖いしな」
「だろうね、お前チキンだもん」
「せやなぁ。俺はチキンやもん、今共食い中やもん。って、そんなことはどうでもよくてな。でも、東京来たからには探してみよう思うて東京の会社の人に聞いたら、場所しっとる言うてな、教えてもらってん」
「え!? 場所も知ってるのに行かないのかよ。ほんと、つくづくチキンだな」
「そ。でも、面白いところやとは思わんか?」
確かに、心交換所、心交換。その字面通りだったら、なんだかオカルトチックで妙に興味をそそるものはある。
「なぁ、良かったら今度行ってみて感想きかしてーな」
柳瀬はそう言って、自分の名刺を取り出して、裏に心交換所のある住所と、簡単な地図をボールペンで記入した。それを手でもって僕の方に向ける。
「な、お前オカルトとかそういん好きやろ?」
「……考えとくよ」
わくわくしている柳瀬から、僕は彼の名刺を奪い取った。
翌日、僕は朝一で会議だった。土曜日だというのに、この会社は学校とは違って週休完全二日制を取っていない。しょっちゅうこうやって土曜日にも召集され、僕は頭ががんがんするのを我慢しながら会議に出なくてはならなかった。加えて、僕は朝が非常に苦手でもあった。一刻も早く、会議からは抜け出したかった。
「……ですので、今回の企画は、新しい読者獲得を想定して……」
今年入社してきた女子社員が、淡々と説明をこなしていた。僕はそれを随分と離れた席で眺めている。
「はい、じゃあ、この企画について意見や感想を……」
次は今回の記事作成のリーダーが取り仕切り、全員に意見を聞いていく。それにみんなが、それぞれの反対意見や賛成意見、問題点を指摘していく。僕はそれを聞き流して早く終われ、早く終われと念じているのだった。
「で、最後に……一応、麻生君にも意見を」
そう言うリーダーの顔は僕を汚らしい虫でも見ているかのように不快そうだった。
「いえ、特に……いい記事になると思います」
僕がそう言うと全員が一様にため息をついた。聞くだけ無駄だったとそう言いたげで、すぐに次の話に入って行った。
会議の後はマイペースにデスクワーク。この出版社のホームページについて、パソコンに知識がある僕がいろいろと担当しているのだった。パソコン関係のことは君にしかできない。編集長からそう言われた。でも、それは単なる口実で他の仕事をやっても大して成果を期待できない僕を窓際の席に隔離するのが目的なのだった。
「あいつ、今日も大した意見くれなかったわ?」
「ああ、あの「奈良の大仏」? へぇ、あそこを動いて会議に出るだなんて珍しい」
「仕方ないじゃない。一応、同じ記事の担当にされてるんだから。来てくれないと話を進めさせてもらえないのよ。うちのリーダー体裁だけは取り繕いたがるんだから」
デスクから愚痴と悪口が聞こえてくる。奈良の大仏、とは僕のこと。無口でじっと座って仕事ばっかりしている、奈良の大学出身の、全く必要でないのに場所を取るし、給料泥棒をしている僕を揶揄する言葉だった。あんなに言われていい気は全然しないけど、言われても仕方ないと僕は割り切っている。未だにあんな誰に聞かれてるか分からずに大声で愚痴を言う、大学を出てすぐの新入社員のことだ。相手にしないのが大人の対応だった。
僕は家に帰る前に、駅前のコンビニ立ち寄る。冷蔵庫をあけて、ビールとチューハイ、それから棚に置いてあるパックの日本酒を籠の中に入れて、最後におつまみのさきいかを取ってレジへ。ある種のルーチンワークのようになっている僕の日課だった。
お酒を買った僕は気分を良くすることもなく、アパートの階段をがつん、がつん、とつま先を一段一段蹴飛ばすように当てながら登って、二階の一番奥の部屋に行く。たまったチラシが、ポストから溢れだしている。けれど僕はそれを放置して部屋に入った。
つん、と辛い匂いがした。おととい豚キムチを作ったときのフライパンが、そのまんまの姿でシンクに放置されているために臭う刺激臭だった。それでも部屋の奥までは香ってこないので、僕はさらに放置する。部屋の電気をつけると、ベッドとテレビと本棚とガラスのテーブル、後は床に散らばったゴミ以外に何もない、殺風景な部屋が照らし出される。
僕は鞄を放り出してベッドにどかっとすわり、テレビを付けようとする。でも、リモコンがちっとも見つからない。イライラしてきたので、僕はテレビに近寄ってボタンを押して電源を付けた。それでベッドに戻るときに、僕が放り出した鞄の下にリモコンが置かれていることをしり、一層空しいイライラを募らせるのだった。
テレビ番組に興味は湧かない。本棚に置いてあるレンタルビデオ店の手提げ袋を取って、その中に入っている七つのケースから、僕は一つを取り出した。適当に借りた邦画のDVD。これ以外に僕の楽しみはない。本棚に陳列されている中古DVDは全部見てしまったし、漫画も飽きるほど読んだ。テレビもなく、パソコンも鞄から出すのが面倒臭い。一番手っ取り早くて、何より一番面白いのは、目新しいまだ見ぬ映画の世界だけだ。
僕はそれを見ながら、夜ご飯も食べないでおつまみとビールの封を切る。最初の予告だけでも、僕はゆうに一缶空けてしまう。それでも、酔いに彩られただけでほんのわずかなシーンが全てクライマックスのように感じ、とても面白いものを見ている気分になれるのだった。
本編は現実ではありえないようなサクセスストーリー。自分が変わらなきゃ人生は変わらない、と主人公がのたまっていて、努力も何もしなかった天才を追い抜いて立身出世する陳腐な物語だ。
「変わる……ねぇ」
現実的に変わることなんてそうそうできやしない。僕はパッとしない中高大の十年間を過ごしてきた。もちろん変わりたいと常々思ってはいたけれど、僕には無理な話だった。せいぜい体が十分に成長した程度しか変わったことなんかない。
僕は最後の一缶となったビールの残り半分を一気に煽った。パッとしない学生生活を送った奴は、みんな社会に出てもパッとしないままに押しつぶされていくのさ。いつか変われる、意志さえあれば変わることはできる、なんて、今の僕には信じられないことだった。
僕は体の望むままにベッドの上に寝転んだ。柔らかい布団と、僕の臭いの染みついた枕が、心地よく僕を包んでくれる。僕を甘えさせてくれる。体を横にすると、ズボンのポケットの中に入っていたものが、布団と僕との間に挟まれ、僕の太ももに食い込んだ。取り出してみると、財布だった。
「……変わる」
財布を開くと、何枚もの使わないポイントカードと免許証が目に入った。その中に、一枚だけ場違いな名刺がある。僕はそれを取って、財布の方を投げて床に落とした。
名刺は昨日柳瀬からもらったものだ。表面に柳瀬の名前と肩書き、係長と書いてある。僕は歯噛みしながら裏返した。そこに、住所が書いてあった。東京都新宿区……。
生島が行って、人が変わったようになったという心交換所。
変われるのなら、変わってみたい。諦めの裏返しはいつでも欲求と嫉妬、素直な自分の気持ちだ。僕はそれを枕元に置いて、酔いの中に溶けていくように目を閉じて眠りに落ちた。
日曜日の午後。僕は例の心交換所のある場所に向かっていた。そこは、あたりを見れば怖そうな人たちのたむろしている新宿のある一角だった。僕はぶつかったりがんを飛ばさないようにうつむき加減に歩いた。
住所と隣にある地図を見比べ、さらに町並みとも見比べる。目印になるサラ金のビルがあった。そこの裏の路地に行けば、あの心交換所はあるらしい。僕は臆病風に吹かれないように勇気を出して、裏路地まで歩いた。
裏路地はじめじめしていて、ゴミの臭いと近くのビルから聞こえてくるどすの利いた男の声が充満していた。その、路地の真ん中の方にまるで占い師のようにテーブルに赤紫色の布を掛けて壁際のパイプ椅子に腰かけている一人の老婆がいた。そして、そのテーブルの横に立てかけてある看板には、達筆の漢字で「心交換所」と書かれていた。
「あの、心交換所、でお間違いはないですか?」
僕は足音をさせないように忍び足で近づいて、老婆に話しかけた。老婆はブルドックみたいな垂れ下がった頬と、口紅を塗った梅干しみたいな唇にさらに皺を寄せながら、僕の方を見上げた。
「あんた、お客さんかい?」
猫の首を絞めたような声でも発音ははっきりしていた。
「は、はい」
「そうかい。じゃあ、あんたはどんな心が欲しいんだい?」
「どんな心……?」
「例えば、そうさねぇ。何者にも動じない屈強な男の心、とか優しくて思いやりにあふれた好青年の心とか、すぐに逃げてなんでもすぐあきらめてしまう弱虫のこころ、とかなんでもなりたい自分にぴったりの心を言ってくれやせんか?」
「そうだなぁ……」
僕の憧れ、自分がどういう人になりたいか。僕は昨日見た映画を思い出しながら言った。
「ポジティブで、向上心があって、気遣いもできて、とてもモテる人の心、かな」
僕がそう言うと老婆はひっひっひ、と海外アニメの魔法使いのように笑った。さすがに、最後のは自分の欲望が出すぎていたかなぁ、と僕は彼女に笑われた原因がそこにあるように感じて顔を熱くさせた。
「ええ、ちょうどいいのがありますよ。ポジティブで向上心があって気遣いもできてさぞおモテになった人の心が、ちょうどございますよ」
老婆は椅子に座りながら屈んで、机に下を何やらごそごそとすると、一本のプラスチックのピッチャーのような筒を取り出した。その中はピンク色の煙で充満していて、他になにか入っているのかはさっぱり分からない。
「この中に、心が?」
けれど、僕はそう確信していた。予想通り老婆はうなずいた。
「さて、交換する前に一つだけ良いですかな」
老婆はそれから一枚の紙とペンを取り出して、僕に寄越した。
「それは同意書でしてな、心交換に置いては三つのことをお客さんに守っていただくことにしておるのですわ」
その同意書には三つ、箇条書きに書かれていた。
『一つ、交換した心の返品は受け付けられないこと。二つ、おひとり様一回限りということ。三つ、こちらに交換していただいた心をこちらが保管し、第三者の心と交換してもいいと了承すること』
最後に名前の記入欄がある。僕はそこにすぐに署名した。
「お早い決断ですな。いいでしょう、すぐにでも交換に取り掛かりましょう」
老婆はテーブルに置いてある筒を持って、その黒い蓋を開けようとする。
「んんぐ、んんんんぐ!」
老婆は呻きながら固く締められた蓋をねじって開けようとするが開く気配はちっともみえなかった。
「良かったら、僕があけましょうか?」
顔まで口紅みたいに赤くした老婆に見かねて僕が提案する。
「いいえ、結構ですよ。お客さんの手を煩わせるわけにはいきませんわ」
老婆はしかし、かたくなに手放すことはなく、その後も蓋と格闘していた。そして、ついにポン、という小気味良い音を響かせて、蓋は開いた。するともくもくと煙が立ち込めて、僕の方に寄ってくる。煙はピンク色の雲のようになって僕の頭を覆った。
「う、うわっ!」
逃げる間もなく包まれる。煙たくて払おうとするも、煙には全く手ごたえが無く払うことができなかった。少し息苦しくなってくると、自然と口が大きく開かれた。それから胸の奥の方から強い嘔吐感を感じた。嗚咽を漏らしながら、もがくように苦しんでいると、胸の、ちょうど心臓のあたりから何かがむくむくと喉の方に上って行くのを感じた。そして、それは喉を通り抜けると大きく開かれた口から、ぽかん、と飛び出して行った。それは、赤っぽいピンク色の、それはそれは綺麗な肉色をした丸いものだった。それはぷかぷかと浮かんで、煙の外に出て行った。僕はそれが僕の心だと気付いた。そう思うと、僕の心は名残惜しそうに僕から離れて行ったような気がしてしまう。あの心とは今生の別れだったのだ。そして、失われた心の代わりに、ピンクの煙が僕の口の中にぐいぐい入って行った。ちょうど空気を吸うような抵抗の無い感覚だったので、息苦しくは無かった。一気に僕の中に入っていくと、まるでさっきのことが夢のことだったかのように、僕は老婆のいる路地裏に立っているのだった。
「お帰りなさい。さ、料金は三千円です」
老婆は急かすように催促した。
「ああ、でも、ちっとも変った気がしないぞ」
「最初はそうですよ。そのうち、そのうちどんどん心が変わったことを実感していきますよ」
老婆にお金を渡すと、彼女はひっひっひ、と不気味な笑みを浮かべていた。テーブルの上には新しい筒があり、それにはピンク色の煙が満ちていた。
結局、その日の内に変化とやらを実感することができなかった。次の日の朝、僕は今までに感じたことのない爽快感とともに目を覚ました。
朝日がカーテン越しに部屋に注いでくる。時刻は六時三十分。目はすっきりとさえている。この時間に起きるものならまだ間に合うから寝ようと、すぐに二度寝をしてしまうはずだった。けれど、そんな気も起きない。こんなにきれいに目が覚めるのは、小学校の遠足が楽しみで早起きしたとき以来だった。二十年来の快挙だった。
そう思うとなんだか清々しい。僕は体を起こしてテレビを付けた。朝ご飯、なんていうものも久しぶりに食べる。買い置きしておいたバターロールをむしゃくしゃと食べながらニュースを見ていると、ちょうどスポーツコーナーだった。いつもは全然気にしないのに、今日は何やら気になるのだった。サッカーの日本代表の試合のニュースが流れる。ゴールを決める日本のエースの姿が、とてもきらきらしているように見えて、かっこよく、また羨ましくも思われた。試合は珍しく快勝だったらしい。
「へぇー。昨日の夜やってたのか。中継で見たかったな」
それを言ってはっ、と口をつぐんだ。昨日までちっとも興味のないことだったのに、ニュースを見てからやけに心が躍るのだった。それに、なんだか十年来に体を動かしたくもなっている。なんだか変だなぁ。と思いつつ、僕は時間に余裕があることを確かめて、近くを散歩することにした。
「で、今回のインタビュー記事はちょうど日本代表の試合が行われているということもあり、なでしこジャパンの選手の記事が良いのではないかと思うのですが……」
午前の会議。話の全てが明瞭に頭の中に届いてくる。それどころか、はきはきしゃべる彼女が実は緊張していて一区切り話すごとに手元の資料を逐一確認するも、最後の方になるとしゃべることを忘れてしまってもう一度資料を見る、というしぐさを取っていることにも目が行くようになった。
「よし、俺はこの企画いいと思うな。なぁ、みんなもそうだろう?」
リーダーがそう言うと、周りのみんなもそうですねぇ、と頷いていた。でも、僕にはその不協和音が聞こえてきた。無理やり言っている。リーダーが言うから合わせておこう、というような裏に秘めた思いと表を出てくる言葉との間にちぐはぐのある反応だった。
「じゃあ、最後に一応聞くけれど、お前も賛成だよなぁ?」
意地の悪そうな表情を浮かべてリーダーが話しかけてくる。
「いや、僕は反対です」
ここは合わせておくべきだろう、といつもなら思っていた。面倒だし、目を付けられるのは嫌だし。けれど、僕はなんだかこの企画がとてつもない大失敗を呼び込むような気がして、思ったことが口をついて出てきた。
「えっ!?」
誰もが驚いていた。変に静かになりそうだったから、僕は言葉を続ける。
「なでしこジャパン、ってもう古いじゃないですか? それに、取り上げるのであればせっかく今活躍している男子代表の方をインタビューすべきだと思います。今のところ、なでしこジャパンはあんまり好調ではないみたいですし、いっそのことスポーツ選手を取り上げるのであれば、他のスポーツ選手。とりわけ女性があこがれるような最近話題になりそうな選手をピックアップすべきですよ」
僕の意見に、みんなが唖然としていた。むしろ、僕が意見を言ったことに対してみんなが言葉を失っているだけなのかもしれないが。
「お前なぁ、新人が頑張って企画作って来たんだぞ? それをそんな頭ごなしに潰す様な意見を出してどうする?」
リーダーは発表者の女子社員に手を向けながら言った。女子社員は、下唇を噛んで僕とリーダーに目線を行ったり来たりさせている。
「新人だからこそ、きちんと意見を言ってあげるべきじゃないんですか? こんな風に、うまくいくとは思えない企画をそのまま通すことは、その子の成長を思いっきり阻害してしまうと思うんです。それじゃあ意味がない。ただでさえ出版不況と言われているなかで、より一人にでも多くの人に雑誌を手に取ってもらえるような企画を考えなくちゃいけないんじゃないですか?」
「何を!? じゃあ、お前が企画を作れよ! 全部自分で、全部一人でやれよ!」
リーダーはそう言うと、まるで子供が癇癪を起した後のように会議室を出て行った。
夜。僕は部屋に帰ってパソコンを開いて画面向き合っていた。
「続いては、中東の……」
テレビも点けてある。こうしてパソコンで画面に集中しながら今が旬のスポーツ選手を捜しつつも、ニュースで取り上げられる選手についても情報を得られる。
大事なのは、誰もが知っている、ではなく、ある程度の人が知っていて、多くの人が知らないスポーツ選手。つまりこれから火をつけてブレイクするような選手だ。僕はそう思ってネットサーフィンをしている訳だが、なかなか見つからない。
「今日は、酒はがまんだな」
時刻は夜十時を回っていた。まさか、僕がこんな自分の部屋で仕事について試行錯誤しているだなんて、前までは想像もつかなかった。
「では、続いてはスポーツニュースです」
女子アナの声を聞いて、パソコンからテレビに視線を移す。
「本日は競泳の女子自由形の予選が……」
アナウンサーが淡々と説明をしつつ、画面はプールを俯瞰した映像に切り替わる。まるで魚影のようなすばやく進む選手たちの黒っぽい水着姿が映った。僕はそれに目を引かれていた。
「今回の大会で、日本新記録まであとわずかというところまで迫った、秋山未来選手ですが試合後にこう語っていました」
先頭を泳いでいた選手にクローズアップし、試合後のインタビューのシーンへ。テロップが選手の顔の横と胸の前に出されて、横には秋山未来(二十三)と書かれ、下には記者からの質問、日本新記録惜しかったですね、と書かれていた。秋山選手は肩で息をしながら、顔中についている水滴を拭うこともせず、笑顔でインタビューに答えていた。
「そうですねぇ。でも、決勝では必ず日本新記録超えて見せますよ」
自信に満ち溢れたどうどうとした語り口。世の人がみんなこれくらいに自信を持っていたら、どれだけいいことかと思うくらい、爽やかでかっこいい姿。それに、何よりもそんな風に笑う彼女の細目と笑窪が僕には堪らなかった。
「コレだ!」
僕はすぐに彼女を取材相手にすることに決めた。忙しい時期ではあるけれど、最初にアポを取れば、ほとんど独占取材ができるに違いない。それに最も旬で、何より女子競泳は今のところ注目されているスポーツではないから、意外性も抜群だ。これなら、いい記事が書けるかも……。僕は秋山未来についてまずはネットで情報を集めることにした。顔写真が映るたびに、僕はその顔に目を奪われてしまう。一応、公私は分けておかないと、と思いながらも、胸を躍らせる思いで仕事に明け暮れるのであった。
取材は一週間後に行われた。都内のカフェで行うのがベストだろうと思い、そこで待ち合わせをする。僕は三十分前には到着して、まだかまだかとそわそわしながら待っていた。手帳を開いて今日聞くことをもう一度見直す。何より失礼なことを聞いていないだろうか、その確認が最優先だった。そうして、カフェの奥の方の席で待っていると、店員さんが、お連れの方がお見えしました、と秋山未来を連れてきた。
「秋山未来です。本日はよろしくお願いします」
秋山さんはお辞儀をして、綺麗な黒髪がさらさらと流れるように前に垂れて、頭を上げた。香水の甘い香りが漂ってくる。
「……」
顔をこちらに向けた彼女が、ぽかん、として黙っている。
「あの……どうかされました?」
ぽかんと、呆然していたのは僕の方だった。きっと間抜けな表情をしていたことだろう。テレビのインタビューだと、彼女は水泳帽をかぶっていたしきっとすっぴんだったに違いない。髪を下ろして化粧を施した彼女は、すごくきれいで、僕のタイプだった。
「ああ、いや、すみません。つい見とれちゃって」
「まぁ、そんなお世辞を……」
「いえいえ、お世辞なんかじゃないですよ。テレビで見るのよりも随分とお美しい。陸に上がった人魚姫に恋した王子様のような気分ですよ」
さらさらとそんなきざったらしい、僕には似つかないような言葉が出てきた。僕は頭を掻きながら彼女の反応を薄目で伺って見ると、彼女は笑っていた。
「もう、そんなこと言って。ふふ、なんだか洋画の吹き替えみたいな文句ですよ。でも、私そう言うの好きです。ありがとうございます」
彼女の笑いは僕をあざけっているようなものではなかった。彼女は心の底から嬉しそうに笑ってくれているのだった。
あれから、半年の月日がたった。すっかりと寒くなって、年も明けた。もう少しで新入社員たちが入ってくる時期になる。僕は彼らに抜かれてしまうことがないように気を引き締めて仕事に取り掛かっていた。
「麻生さん! もう会議の時間ですよ!」
「えっ!?」
僕がパソコンの前で記事の作成をしていると、後輩の女子社員が僕を呼んだ。
「もうそんな時間か? いやぁ、全然気づかなかったよ」
僕はデスクを立って、会議用に用意しておいたファイルを持って呼びつけた彼女のところに行く。
「もう、麻生さんがいないと全然話にならないんですから、忘れないで下さいよ」
口を尖らせながら僕の隣で言う女子社員。あの僕が発言して企画を取りやめになってしまった女子社員だ。あれから、僕の部下としてほとんどの仕事を一緒にするようになっている、いわばビジネスパートナーだ。
「ああ。今日も何とか会議を時間通り終わらせるようにしなくちゃな」
僕はそう言いながら腕時計に目を落とす。時刻は四時過ぎだった。
「あれ、もしかして今日は予定ありですか?」
「ああ、彼女とデートなんだ」
「じゃあ、残業は無しにしないとダメですね」
「そうだね。アイツのために時間を作ってあげないと、すぐに拗ねちゃうから」
「ごめん、ごめん。ちょっと遅れちゃった」
僕は夜景の見える高層ビルの中にあるレストランに到着して、窓際の席に座っている彼女のもとに急ぎ足で近寄った。
「いいわよ。あなた、すごく忙しいみたいだし」
彼女、秋山未来は五分だけ遅れた僕に少し皮肉っぽく言った。ちょっと不機嫌そうだ。
「ほんとごめんよ。ちょっと、寄り道の時間を計算に入れてなくってさ」
僕は鞄の中から、白い紙と銀のリボンで包装された包みを差し出した。それを見て、未来は目をぱちくりさせて、驚いた風に僕の目を見た。
「ほら、ちょうど一か月記念日だろ、僕らが出会ってから。その、記念だよ」
彼女は僕のプレゼントを受け取ると、嬉しそうにはにかんだ。
「うれしい、きっと忘れてるって思ってたから」
「デートの時間に遅れたりはするけど、大事なことは絶対に忘れないよ。それに、僕らが出会った日、十八日になると毎月思い出すんだよ、君に出会ったときのことを」
彼女はプレゼントをテーブルの上に置いた。
「君と初めて出会ったときに感じた。この人とは絶対に結ばれる運命なんだって」
未来は僕が初めて会ったときに気障なことを言ったときと同じようにほほ笑んだ。
「そんな、また洋画の吹き替えみたいなこと言って」
「でも、本心だよ」
「そうね。そんな風に言われるの、私二回目だしね」
僕らのテーブルにウェイターが来て、お互いのグラスに濃い赤紫色のワインを注いだ。
「じゃあ、乾杯しようか」
「何に?」
僕は口角を上げてから言った。
「僕たちの未来のために」
「私たちの未来のために」
二人は同時に言った。そして、笑い合う。通じ合っていて必要としあっている。これ以上に幸せなことなんてあるのだろうか。
きん、とグラスが触れ合った。
「それにしても、あなたがこんなプレゼントまで用意しているなんて。私ね、昔あなたが全然仕事ができなかった時があるっていうの、未だに信じられないわ」
「どうして?」
「だって、こんなにも忙しいのに、私のために気を回してくれる。私の選手としての仕事も認めてくれている。もう、何をとっても完璧な人なんだもん」
「はは、そうだね。ちょうど君の取材をしてからだよ。僕の人生が変わりだしたのは。それはそうと、君がいるから、今日はこれはおあずけだね」
僕はそう言って、胸ポケットの中から、煙草の箱を取り出してテーブルの少し離れたところに置いた。
「もう、そこまでは気の使い過ぎよ。私に遠慮なんてしなくてもいいのに」
「いやいや。今や日本のトップ選手の君を前にして煙草を吸うなんて。日本の重要文化財に泥を塗るくらいに愚かでもったいない行為だよ」
「もう、またぁ……」
未来はワインを一口含んだ。それにつられて僕も飲む。お酒を飲むのもそう言えば随分と久しぶりな気がする。
「……ほんと、あなたってすっごい似てるわ」
「誰に?」
「言っても、怒ったりしない?」
「ああ、僕が君を怒ったことなんてないだろう?」
「そうね……。私の、元彼によ」
「君の元彼? ああ、そう言えば前に話してた大学から付き合っていたっていう」
「そう。私の三つ年上の人でね。あなたの吸ってる煙草、アメリカンスピリットでしょう?」
「そうだけど。良く知ってるね」
「元彼もそれを吸ってたのよ。アメスピが一番うまいっていつも言ってた。私、それしか煙草は名前知らないわ」
「へぇ。でも、三つ上ってことは、君が一年の時しか一緒に居れなかったんじゃない?」
「うん。彼はサッカーサークルに入ってたし、私は水泳部に入ってたし、なかなか会うのは難しかったけど、何とか頑張って時間を作ってくれたのよ、彼。とっても優しかった」
「ふーん。サッカーが好きだったのも、同じだね」
「そうね。ほんと、そっくり。姿は全然違うけどね。彼はスポーツマンで体ががっしりしていたけど、あなたはせんが細くて、私はもちろんあなたの方がいいわ」
「そっか。良かった。そんな風に中身が似ている人が好きになるなんて、そういう人がタイプで、結構惹きつけるんじゃない?」
「そうかもね。でもね、一つだけ似通っている部分ですごく心配なところがあるの」
未来は顔を曇らせた。
「どこ? 直せたら直すよ」
「あの、ちょっと言い辛いんだけど……」
未来はだんだん声のトーンを落としていく。重々しい口を開けるのが彼女には辛そうだった。
「元彼はね、新入社員のころから随分と目を付けられた将来有望な人だったの。それで毎日毎日家に帰っても夜遅くまで仕事についての勉強を重ねてて……。きっと期待に応えようとしていたんだろうね。私ともなかなか出会えなかったから、私もどんどん心配になって……。そしたら、嫌な予感が的中して、彼過労で倒れちゃったの」
「もしかして、それで……」
「入院はしたけど、きっとまだ生きているはずよ。入院中もずっと仕事仕事って言ってて、私も愛想尽かして別れちゃった。それが大学三年の終わりごろだったかな」
「そうなんだ。心配してることって、もしかして僕の仕事のこと?」
未来はうなずいた。
「私、もう二度と同じ失敗をしたくないの。ねぇ、できればもうちょっとお仕事の量減らしてもいいのよ? せめて、家にいる時はゆっくりしててね」
僕のことを真剣に心配してくれているようだった。だけど、今の僕にとって、仕事はとても大事で、家で仕事をしないようにするのは断腸の思いだ。だから、素直にうん、とは彼女に言えない。僕は黙り込んでしまった。
「ごめんなさいね、こんなこと言って。折角の記念日に……」
「い、いや、全然大丈夫だよ。そうだ、後で家に帰ってから映画見ようよ」
「もしかして、洋画?」
「ああ、うん。最近洋画の面白さに目覚めてね。昔は邦画の方が好きだったんだけど」
「じゃあ、邦画のおすすめが見たいわ、私」
「どうして?」
「だって、洋画好きなところもあの人に似ているんだもの」
「そ、そうなんだ。合わせてるつもりはないんだけどな……変な偶然もあるもんだな……」
僕はそう言いながら、何となくおかしい気がした。こんな偶然があるものなのか、と僕は怪しみ始めていた。僕らはその日、お互いの家に行くことも無しに解散した。今日の夜景はちっとも綺麗じゃない。そんなことを思いながら僕はエレベーターの中で無言に耐えるのだった。
三日後、半年に一回、恒例の柳瀬と飲みに行く日が訪れた。約束の時間は八時。けれど、僕が着いたのは、八時四十五分だった。
「ごめん、柳瀬。遅れて」
一応メールは送っていた。けれど、彼ならそんなことをしなくても、今のように変わらぬ馬鹿笑いで迎えてくれていただろう。
「おう! 初めて遅れたなぁ! なんや、電車でも遅れたか?」
「違うよ。残業さ。雑誌のページが足りてないことに気付いて、その穴埋めを何にするかの緊急会議さ」
「珍しいこともあるもんやなぁ」
僕は彼の隣に腰を下ろした。
「そうでもないよ。最近は毎日残業さ」
「やるなぁ。半年前とはえらい変わりようや。せや、ずりとビール頼むか?」
僕は彼の提案に首を横に振った。すると、彼は信じられない、と言ったような大げさなひょっとこ顔みたいな驚いた表情をした。
「最近、砂肝がなんだか合わなくなってねぇ。それに、アルコールはもうちょっと弱いのが、サワーなんかがいいかな。家に帰ってからも仕事の続きをしなくちゃいけないんだ」
僕は未来に言われたことを思いだす。彼女の忠告はちっとも守れないでいた。
「お前、病気か? それとも、頭どっかにぶつけたか?」
「そ、そんなことないよ」
柳瀬が僕に詰め寄るように言う。僕は押され気味に言われて、つい、心交換所のことを忘れてしまっていた。
「そうか? なんや、お前随分変わってもうたなぁ」
「そんなにかい?」
柳瀬がスーツの胸ポケットに手を入れるのを見て、僕は視線をテーブルの端に向けた。隅で銀色に輝いている空の灰皿を僕は見つけて、掴んで柳瀬の前に置いた。
「ほら、灰皿」
「おう、悪……なんや、お前こんなこともするようになったんか」
「普通だろ? それに、僕も煙草を吸うようになったから、喫煙者に対する気の使い方を分かってきただけなのかもね」
柳瀬が咥えた煙草に、火をつけてあげる。柳瀬は一息吸って灰皿に灰を落とした。
「嘘やろ? ホンマに煙草吸うんか、お前が?」
返事をするよりも早いと思って、僕は自分の煙草を取り出して咥えて火をつけた。
「ほらね」
柳瀬は唖然としていた。
「な、なんでや? 新しい彼女の影響か?」
「違うよ。ほら、昔はしょっちゅうお酒飲んでたでしょ? それじゃあ家での仕事に差し支えが出るから、煙草に変えたんだ。変えたって言っても全く別物なんだけど、煙を吸うだけだから気を失うこともないし……」
柳瀬の顔がみるみる酔いのさめていくように青ざめていく。
「お前、もしかして心交換所行ったんか?」
僕は目を丸くし、口をすぼめながら頷いた。
「はぁ、そら変わってしまうんもしゃーないわぁ……。でもなぁ、麻生。なんや俺心配やわ」
「良い変化じゃんか、どうして?」
「生島のこと思い出してまうんや……。お前も、まさか自殺してしまうんとちゃうかって……。なんや、いやなことが起きそうな気ぃすんねんなぁ」
「そんなことないよ。心を交換しても、僕は僕さ。自殺なんかしない」
「……自分ではそう思うかもしれへんけど、ホンマにお前は変わってもうたんや。なんか、しゃべっとる間もまるで別人と話してるみたいで……それに、自分の好みまで変わってもうとるんやで? なんか、前までのお前が死んでしもうたような、変な気持ちがすんねん」
僕は自分の胸に手を当てた。未来は「僕の仕事できなかった頃が信じられない」と言っていた。「元彼に似ている」とも言っていた。僕は、何もかもが変わっている。何もかもが、別人のものになり替わっているのだろうか?
「なぁ、麻生」
柳瀬はビールを飲み干して
「自分、見失うなよ」
と、低い声で僕の胸に突き刺さるような一言を言った。
家に帰って、電気を点ける。鼻に香る匂いは玄関の芳香剤の香り。綺麗な白いカーペット、奥で静かに佇んでいるベッド。テレビの前にノートパソコンの乗っているガラスのテーブル。テーブルをテレビと挟むようにあるソファ。壁に掛かっている、サッカー日本代表のレプリカユニフォーム。
昔の部屋がまるで悪夢の中の出来事だったかのように、部屋の様子は天と地ほどの差がある。今日はなんだかこの部屋に居心地の悪さを感じた。確かに、綺麗で空気は甘い香りに満ちていて、僕を喜ばせるような趣味の品が飾ってある。けれど、今の僕は無理やりはめ込まれているパズルのピースのように、この部屋には合っていないような気さえする。
「自分を見失うな」
その言葉を思い出して部屋を見ても、ここに昔の僕がいた痕跡を探すことはできない。僕はこの部屋で自分を見失い始めていた。
「……はは、まさか。心を交換しただけだ。僕は前向きになって、向上心のある人間になって、彼女もできて、順風満帆じゃないか、言い変化じゃないか」
どれだけ肯定の言葉を並べても、胸の奥で誰かがしくしくと泣いているような、哀しい気持ちが湧き上がってくる。それが、「僕」なのだろうか?
僕はユニットバスに立った。少し飲みすぎたのかもしれない。そのせいで情緒が不安定になっているだけだ。顔を洗ってすっきりしたい。
黄色いライトが狭い室内に充満して、僕は夢見心地になった。部屋の灯りが違うだけでも、この部屋とユニットバスの中は全く違う場所のような気がする。
洗面台の蛇口をひねって水をだし、手で掬う。痛いほどに冷たい。それを顔にぶちまけると、頬をビンタされた時のような痛快ほど爽やかな気分になる。備え付けのタオルを取って、顔を拭いた。
僕は上目で鏡を覗いた。一度見て、もう一度タオルでごしごしとしてからまた鏡を見る。今度は、ちゃんと両目で、正面を向いて自分の顔を見据えた。
「え……なに、これ」
僕は手からタオルを零した。僕の目に映った鏡は、白雪姫の魔法の鏡かと見まごうほどに異常な光景を映し出していた。
僕の顔の半分が、他の人の顔になっている。右半分が、僕とは骨格も似ても似つかない、えらの張った四角い顔で、堀が深くて、肌も浅黒い男の顔になっている。
僕が冷静にその顔を見ていると、彼の浅黒い肌が、どんどん僕の左側に浸食しているのを発見した。
「く、来るな。これは僕の顔なんだ、こっちに来るな」
僕は震えた声で訴えた。だけど、その侵略は止まらない。ついに、僕の細くて低い鼻が、鼻筋のしっかりした鼻の穴の大きな、丈夫そうな形に変わってしまった。
目を背けたかった。けれど、首がギプスで固定されたみたいに動かない。足も、洗面台についていたても、そこから離れようとしない。目をつむっても瞬きをするぐらいですぐに目を開けてしまう。僕は、迫りくる恐怖。死にも似た、迫りくる消失を悟った。僕は胸の奥で悲しそうにしくしくと泣いている。そんな弱弱しい僕を、体に残った心の残滓を、獰猛な勢いが覆いかぶさって飲み込もうとしている。
「止めて、止めてくれ、来ないで、僕を、僕を乗っ取らないで……」
もう、顔の四分の三も体も別人だった。体つきのいいスポーツマン。ひ弱で、不健康そうな体の男はもう、左目と耳だけしか存在していなかった。
「う、うわあああああ……………………………………」
絶叫が聞こえた。けれど、それはすぐに止んだ。僕はタオルを拾って、部屋に戻った。まだ、今日の分の家での仕事をしていない。未来には迷惑をかけるけれど、それだけはやめる訳にはいかないのだった。
メールを確認すると、柳瀬が一件メールを送ってきていた。
「もう一度言う、お前は自分を見失うなよ」
僕はそれに、「大丈夫、僕はいつまでも僕のままだから。もう、心配しなくていいよ」と、返信して、仕事に取り掛かるのだった。
ども、作者です。ここまで読んでいただいてありがとうございました。久しぶりの短編です。純文学風です。とはいっても漫画に影響されて書いたやつなのですが。それにしても、いろいろと文章について考えることが結構大変だとまたまた思い知らされました。プロットを書き終えてからもっと考えるべきことにいろいろと気付いて、ああ、崩すの面倒だからこのまま、と思って書いたら、あくまで純文学「風」になってしまった感じが強い作品になりました。セリフ多めですしね。ちなみに、一応のテーマは「変わる」こと、人間一気に変わろうとするとダメだな、みたいなことを取り返しのつかない失敗で描いてみたい、という感じですね。それに誰しもあの人みたいな心が、内面が欲しい、とか思うことはあると思うので、ちょっとこういう設定もいいかなぁ、と。昔に戻ってやりなおす、とかのある意味でのパクリでもあると思うのですが、まぁ、それはいいとして。では、ここまで読んでいただいた方、あとがきも含めて、重ね重ねありがとうございます。では、またどこかで会える日を願いまして、さようなら~。