アイデンティティーのための恋愛
「ねえ、わたしのどこがすき?」
「は?」
カタカタとパソコンのキーボードを打っていた彼の手が止まり、ゆっくりとその顔がこちらに向けられる。眉間にはシワが寄せられていて――いえ、彼はいつもあんなふうにしかめっ面をしていたわね。
そんなことを思いながら、わたしは彼に対してもう一度問う。
「ねえ、わたしのどこがすき?」
「いや、急にそんなこと言われても……」
「そう、顔なの」
「いやいやいや、まだ何も言ってねぇだろ」
「じゃあ、どこ?」
彼の目ををじっと見つめて三度問えば、彼は眉間に刻まれたシワをさらに濃くし、少し考えたあとで、
「……顔?」
と小さくつぶやいた。自分で言ったくせに、その答えが不服なのだろう。まるで苦虫を噛み潰したようなカオをしていた。良い意味でも悪い意味でも、素直で正直なところは彼の長所だとわたしは思っている。
「あら、そうなの」
「……すまん」
「どうして謝るの? 別に怒ってないわよ?」
「ホントか?」
「ええ、まず外見を挙げるというのは妥当だと思うわ。それが一番わかりやすいアイデンティティーだものね」
「そうか……ってアイデンティティーって何の話だよ?」
少し気まずそうにしていた彼がぱっと顔を上げる。そのカオはやっぱりしかめっ面で、そのうち眉間のシワがクセになって刻まれてしまうのではないかしら、と少し心配になったくらいだ。
まあそんな冗談はさておき、彼の質問に答えようと口を開く。
「若いころの恋愛ってね、アイデンティティーのための恋愛なんですって」
「どういう意味だ?」
「たとえば、あなたがわたしの――そうね、さっき顔と言われてしまったから、上手なたとえができないわね」
「……すまん」
「いいのよ。じゃあ、たとえばあなたがわたしのやさしいところがすきって言ったとしましょう。そうすると、わたしは自分のことをやさしい人間なんだって思うの。つまり、まだアイデンティティーが確立していない未熟な人にとって、恋人が挙げたすきなところが自分のアイデンティティーになるってこと」
「ああ、なるほど」
彼は感心したような声を自然にこぼした。やっぱり彼の長所は素直なところだと思う。
でも、だからかしら、ちょっといじめたくなっちゃうのよね。
「でも、そのとおりだとすると、今のところ、わたしのアイデンティティーは顔だけみたいね」
「……お前、遠回しに責めるのやめろよ」
「あら、何のことかしら? 人聞きの悪い」
「はあ……」
にこり、と満面の笑みを浮かべてみせれば、彼は額に手をあててため息をついた。
「本当に怒ってるんじゃないのよ? ただ、」
「ただ?」
じっとこちらを見つめる彼を見据え、わたしは再び微笑む。
「いくらまだ若くても、恋人に言われた長所どおりの人間になるなんて、わたしはごめんだわって思っただけよ」
きっぱりとそう答えると、目をつぶって何故か再度ため息をつく彼。そして、こちらを向いたかと思うと、困ったように笑った。
「お前はもう十分アイデンティティーが確立してるんだから、そんなの聞く必要なんてなかっただろ?」
「ふふっ、あなたが何て言ってくれるか楽しみだったの」
「ったく、タチ悪ィな」
「あら、顔しか出てこなかったあなたに言われたくないわ」
「ぐっ」
「アイデンティティー云々は置いておいたとしても、恋人にすきなところが顔しかないって言われたら、普通は落ちこむんじゃないかしら」
眉を下げ、ほおに手をあてて嘆かわしげにため息をつくと、彼は完全にうなだれていた。もちろんわたしのほうは演技だったのだけれど、ちょっといじめすぎたかしら。
「……ごめん、て。俺が悪かった」
「いいのよ。怒ってないもの」
「ウソつけ」
「本当よ?」
「……ホントか?」
「ええ。じゃあ、わたしのどこがすき?」
本日何回目かのその問いに、彼が瞠目して固まる。しかし、すぐに苦笑して、
「全部だよ」
と言った。それがウソか本当かはわからない。けれど、彼の長所のように素直に受け止めておくことにしよう。