君だけがほしい
君だけがほしい。だから、
「ふざけんなよ」
「え?」
低くつぶやくと、自虐的な笑みを浮かべてうつむいていた彼女が顔を上げてこちらを見た。
「確かに、俺には大切なものがある。だけどな、愛してるのはお前だけなんだよ」
「それは、わたしはラブで、ほかはライクってこと?」
「そうだよ」
「そう……」
くそ、自分で言っておいてかなり恥ずかしいが、彼女はどうやら納得してくれたようだ――と思ったのも束の間。
「でも、わたしはそれだけじゃ嫌なの」
「ああ?」
「わたしは、あなた以外のすべてを――そう、この世界でさえも捨てられる自信があるの。あなたには、その自信があるかしら?」
「それ、は……」
その先に続く言葉はなかった。彼女以外のすべてを捨てられる自信が、覚悟が、俺にはあるだろうか。ああ、こうやって即答できないあたりが俺と彼女の愛の違いなのかもしれない。彼女は自分と同じだけの愛を、俺に求めているのだ。
「ほらね、捨てられないでしょう? あなたはやさしいものね。でも、その程度の愛なら、いらないの」
俺の迷いに気付いたらしい彼女が、冷たく、突き放すような言葉を吐く。しかし、その言葉とは裏腹に、彼女の顔に浮かんだ微笑みはどこか哀しそうに見えた。
確かに、俺には大切なものがたくさんあるし、それは人間として当たり前のことだろう。だけど、俺が一番愛しているのは彼女で、彼女以外の人間なんて考えられないということも、また事実なのだ。俺は、どうすればそれを伝えることができる?
「じゃあ、別れましょうか」
「――ちょっと待て」
俺は立ち上がり、机の上にあったカッターを手にして彼女のほうを振り向いた。キチキチと音を立てて姿を見せた刃を、そっと手首にあてがう。
「……何をするつもり?」
「お前は、俺のすべてを手に入れるなんてムリだって言ったよな」
「ええ」
「じゃあ、それを今ここで実現してやるよ。俺のすべてをお前にくれてやる。俺が死んだら、俺はお前だけのものになるだろ?」
これが、俺の覚悟だ。彼女と同じだけの愛――つまり、彼女以外を捨てることができるか、というのなら、自分の命をも捨てる覚悟が必要だろう?
凶器を持つ手にぐっと力を入れる。冷たい刃が皮膚に食いこもうとした、そのとき。
「やめて」
静止を促す彼女の声が聞こえた。それは懇願するようなものではなく、いつも冷静な彼女を体現するかのようなとても平坦なものだったけれど、顔を上げてそちらに視線を向けると、彼女の口がキレイな弧を描いたので、俺は安堵した。ああ、どうやら俺の覚悟が伝わったようだ――
「何勝手に死のうとしているの?」
「へ?」
「ダメでしょう? あなたを殺すのはわたしなんだから」
「っはあ!?」
「あなたが自殺したって意味がないのよ。ほしいものは自分で手に入れなくちゃ」
ふふっ、と妖しげな笑みを浮かべる彼女。ウソだろ、俺はマジでこいつに殺されるのか!?
「……本当に、バカね」
ぽろり、小さなつぶやきとともに、彼女の目から涙がこぼれた。俺はとっさにカッターを捨てて、彼女を抱きしめる。どうやら俺の覚悟は伝わりすぎてしまったらしい。
「ごめん、俺が悪かった」
「そうよ……あなたが死んだら、わたしは誰を愛して、誰に愛されればいいの……?」
「うん、ごめん」
「わたしには、あなたしかいないのに……っ」
こんなにも感情をあらわにして、ましてや泣いている彼女は初めて見た。俺は彼女を抱きしめていた腕をさらに強くする。
しばらくして、だいぶ落ち着いたらしい彼女が顔を上げ、上目遣いでこちらに視線をよこした。
「わたしは、あなたしかいらないの。でも、あなたは違う。それなら、あなたなんかいらない」
そう言った彼女の潤んだ瞳に吸いこまれるように顔が近づき、俺は彼女に口づけた。時間にして数秒。けれども、それはまるで永遠のように感じられた。
「俺が抱きしめるのも、キスするのも、お前だけだ」
「……それで?」
「俺は、お前だけがほしい」
彼女の目を真っ直ぐに見据えて告白すると、彼女は「じゃあ、別れましょうか」と言った。
でも、それはウソだとわかっている。だって、そう言った彼女はとても嬉しそうに微笑んでいたのだから。
俺が愛しているのは彼女だけだ。
だから、俺は君だけが、ほしい。