01
穏やかな瞳でやさしく微笑む人。その瞳も、笑顔も、全部大すきでした。
「遙! おっはよー!」
「咲、おはよう」
ぶんぶんと元気よく手を振りながら駆け寄ってきたのは、わたしの幼なじみであり、親友でもある河埜咲だ。咲は振り向いたわたしのトナリまで来ると、はーっと白い息を吐きながら手をこすり合わせた。
「今日も寒いねえ」
「そうだねえ。受験生だし、風邪引かないようにしないとね」
「いーやー! 受験とか思い出したくないっ」
耳に手をあてて、何も聞こえないというような動作をした咲。それを見て、思わずくすり、と笑みがこぼれた。咲は、遙は頭いいからいいよねえ、と恨めしそうな声を出したけれど、わたしだって受験が嫌なのは一緒だよ、と返しておいた。
津川遙、十五歳。受験を数ヶ月後に控えた冬、わたしは『彼』を忘れる決心をした。――はず、なのに。
「おはよう」
学校の校門が見えてきたあたりで、後ろから声をかけられた。この声は――
「白夜! おはよー」
「津川さんも、おはよう」
「お、おはよう」
わたしがそう答えると、にこ、とやさしく微笑んでくれたのは、わたしと咲のクラスメイトの天宮白夜くんだ。この人こそが、わたしが忘れると決心した『彼』である。
白夜くんとは中学一年生の最初の席でトナリになったのだが、そのとき、わたしは彼に一目ぼれしたのだ。三年間、地味にクラスは一緒だったけれど、それ以来、トナリの席になったことは一度もない。
「あ、今日って席替えじゃない?」
すると、咲が思い出したようにそう言った。まるでわたしの頭の中とシンクロしたような話題だ。ドキリ、と思わず心臓が跳ね、返答に遅れてしまうと焦った――そのとき。
「ああ、そうだったっけ。寒いからストーブの近くがいいな。津川さんもそう思うよね」
わたしよりも先に白夜くんが口を開き、自然にこちらに話を振ってくれた。
「う、うん! そうだね」
「白夜ジジくさっ」
「いや、普通だろ」
わたしはほっと胸を撫で下ろしながら、二人の会話を聞いていた。そして、もう一度心の中で思う。わたしは『彼』を忘れる。そう決心したのだ。
ぎゅ、と心臓のあたりで拳を握りしめて決意を新たにし、わたしたちは教室へと向かったのだった。
* * *
「はーるか! 何番だった?」
朝のホームルームで引いた席替えのくじを見ていると、咲が声をかけてきたのだが、わたしはその質問に答えることができなかった。何故なら、
「ん? どした?」
咲は唖然とするわたしの横から、ひょい、とのぞきこんだかと思うと、そこに書かれていた番号の位置を確認するために、視線を黒板に向けた。
「あっ、遙、ストーブの近くじゃん。いいなあ」
「……どうしよう……」
「へ? 何が?」
「わ、わたし、白夜くんのトナリだよ……?」
別に盗み聞きをしていたわけではないけれど、先ほど百夜くんが友達とどこだったか言い合っていたのが聞こえてしまったのだ。それが聞き間違いでなければ、わたしの引いた番号は、百夜くんのトナリ。中一の初めての席以来の快挙だ。
まるでロボットのようにゆっくりと首をめぐらせて咲のほうを向くと、目が合った彼女はぱあっと顔を輝かせ、
「よかったじゃん!」
と弾んだ声を上げた。だけど、
「よくない! ムリ! 恥ずかしい!」
彼女の言葉を全否定するように、わたしは首を横に振る。どうして? 忘れようとしているのに、こんなのってないよ。未練なんて残したくないのに。
そうして頭を抱えて悶々としていると、バン! と机を叩く音が聞こえた。驚いて顔を上げれば、咲の人さし指がビシッとこちらに向けられる。そして、
「よくなくない! ムリじゃない! 恥ずかしくない!」
「えっと、日本語おかしいよ? 咲」
「細かいことは気にしないの! いい? これはチャンスなのよ?」
「い、いや、でも……」
「わかったらさっさと席移動する!」
「は、はいっ!」
有無を言わせぬ勢いで咲に活を入れられ、わたしは慌しく新しい席へと向かう。咲はわたしが白夜くんをすきだということを知っているから、背中を押してくれるのだ。それはとても嬉しいのだけれど、あきらめると決めた以上、そのことを早く伝えなくては。
しかし、新しい席に近づくにつれて、自分の胸が高鳴っているのがわかる。ああ、まだわたしはあきらめきれていないようだ。そして、ごくり、とつばを飲みこんだ瞬間、見計らったかのようなタイミングで白夜くんがこちらを振り向いた。
「あれ? もしかしてトナリ、津川さん?」
「う、うん!」
「そっか。よろしくね」
にこり、百夜くんが笑う。そういえば、初めてトナリになったときも同じような会話を交わした覚えがある。わたしは、このやさしい微笑みに一目ぼれしたんだ。
「よ、よろしくお願いします!」
ぺこり、と頭を下げてから自分の席に座ったが、鼓動はなかなか鎮まってくれない。これから一ヶ月、白夜くんのトナリにいられるのかと思うと、嬉しくてたまらなかった。
(――って、忘れるんだった!)
その決心を思い出して、わたしは小さなため息をこぼしたのだった。