04
「わたしね、今日、別れてきたわ」
「へえ、今度はどの彼だい?」
「全員よ。正確には、あなた以外のすべての彼と別れてきたの」
「、え?」
いつものことかと思って何気なく投げかけた質問の答えに、思わず自分の耳を疑った。穏やかだった気持ちが、どんどん波立っていく。
彼女は今、何と言った? あの浮気性の彼女が、ぼく以外の恋人全員と別れた、だって?
動揺するぼくとは反対に、彼女はどこか満足げな表情で先を続けた。
「わたしはもう、あなただけの愛で十分だって気付いたの。あなたは、誰よりもわたしを愛してくれている。ほかの恋人を切るだけの、いえ、それ以上の愛を注いでくれているもの」
確かにぼくは彼女を愛しているし、その気持ちはほかの恋人にの誰にも負けない自信がある。彼女が何股もかけていることを知って、それを許している――いや、だからこそ愛している人間なんて、きっとぼくだけだろう。
だけど、
「ダメだよ、それじゃあ」
「え?」
「ぼくは、浮気をしている君がすきだったんだ。君は浮気性で、ぼくは寝取られ趣味。それで利害が一致していたはずなのに、君がぼくだけを愛してしまったら、ぼくは君を愛することができないじゃないか」
そう、ぼくは彼女を愛している。だけどそれは、彼女が浮気性だったからだ。ほかに何人の恋人がいようとも、彼女は必ずぼくのもとに戻ってくる。その優越感がたまらなくて、彼女に恋人が増えれば増えるほど、彼女を強く愛することができたのだ。
だけど、ぼくは同時に知っていた。彼女が本当に求めていたのは、一人ひとりが持ち寄った小さな愛で形成する大きな一つの愛ではなく、たった一人の人間が与えてくれる、たった一つの大きな愛だということを。
彼女にとって、その対象がぼくになりかけていたことにも気付いていたけれど、聡い彼女は決してそうならないだろうと信じていた。だからこそ、ぼくは彼女を愛していたというのに。絶望とも失望ともとれるような感情が、ぼくの中で渦巻く。
すると、それに気付いたらしい彼女はゆっくりと腕を組み、ふ、と困ったような笑みを浮かべた。
「そう。わたしは『あなたの愛』だけを求めていればよかったのね。『あなた自身』を、『あなただけ』を求めてはいけなかった」
「ああ、君はやはり聡明だね」
「ふふ、ありがとう。けれど、わたしは賢明ではないの。わたしの求めていた愛を見つけてしまった以上、もう浮気をすることはできないわ。わたしはあなただけがほしいの」
「残念だな、ぼくはそんな君はいらない」
「じゃあ、別れましょうか」
「ああ、そうしよう」
あまりにもあっさりとした別れ。彼女は悲痛そうに顔を歪めて唇を噛んだが、ぼくだってまさかこんな形で別れが訪れるとは思わなかった。
どうして誰もぼくの愛をわかってくれないのだろうか。結局彼女も、これまで付き合ってきた人たちと同じだったのか――
「ねえ、最後に一つお願いがあるの」
「……何だい?」
ゆるり、こちらに向けられた彼女の視線と、ぼくの視線が交錯する。彼女に対する愛情はすでに消え失せていたけれど、その射抜くような真っ直ぐな瞳は、素直にキレイだと思った。
そして、
「あなたの手で、わたしを殺してくれないかしら」
健康的な赤い唇からこぼれた言葉は、まるで呪いのようだった。
「わたしは、今まで同時に何人もの人間と付き合って、彼らを平等に愛してきたわ。だけど今日、それをすべて捨てて、あなただけを愛そうと決めたの。初めてたった一人の人間に、すべての愛を捧ぐことができたのよ」
流暢に言葉を紡ぎ、ソファーから立ち上がった彼女がゆっくりとこちらに近づいてくる。歌うように、愛をささやきながら。
「だから、あなたも最後くらい『あなただけをすきなわたし』を愛してくれないかしら。いくら寝取られ趣味だとしても、あなた以外の誰かに殺されてしまったら、わたしはもう、あなたのところには戻ってこられないでしょう?」
するり、目の前まで来た彼女の右手が、ぼくの左ほおを撫ぜる。口では皮肉を吐いているくせに、今にも泣きそうなカオをしている彼女に苦笑して、ぼくはその右手に自分の左手を重ねた。
「浮気をしている君しか愛せないぼくは、普通の恋人としては最低だっただろうね。だから、最後くらいはこう言ってみようか。君は誰にも渡さない、と」
「君を殺す役目は、でしょう? ふふ、でも、恋人に最後を託すなんて、ちょっとロマンチックだと思わない? 悪くないわ」
嬉しそうに微笑んだ彼女の唇に、自分のそれを重ね合わせる。かすかなぬくもりに触れた時間はほんのわずか。けれども、それは今までで一番心地よく感じられた。
再び二人の間に距離ができると、彼女は何がおかしかったのか、くすくすと愉快そうな笑みをこぼした。
「わたしたち、到底普通にはなれそうにないわね」
「そうだね。でも、それでいいんじゃないかな。だからこそ、ぼくたちは愛し合えた」
「ええ、そうね。わたしの求めていた愛を与えてくれたのは、あなただだった。愛しているわ」
「ああ、ぼくにとっても君は理想そのものだった。ぼくも君のことを、愛していたよ」
過去形で愛の言葉を紡ぎ、ぼくは彼女の心臓にナイフを突き立てたのだった。
* * *
ぼくと彼女の利害は確かに一致していたけれど、それは彼女が自分の求めていた本当の愛に気付いていなかったというだけの話。ぼくと彼女が自分の求めている愛を互いに要求するのならば、その利害が一致することは決してないのだから。
だけど、彼女がぼくに殺して、と乞うたあのときだけは、互いの愛が唯一重なった瞬間だったのではないだろうか。何故なら、彼女はぼくという一人の人間の愛を手に入れ、ぼくは何人もの恋人からぼくだけを選んだ彼女をこの手で殺すことができたのだから。彼女が帰ってこなければ、あの優越感は成立しないのだ。
しかし、幸福に満ちた死を迎えた彼女とは対照的に、ぼくに残されたのは虚無と失望だった。そんなの、不公平ではないだろうか。
だから、ぼくは彼女がキレイなままの時間を止めて、桜の木の下に埋めた。この世に生きている限り、結局は生者が勝者だ。死者は生者に貶められ、辱しめられ、弄ばれる。
だけど、ぼくは彼女をそのような目に遭わせるために、死体を埋めたわけではないし、ましてや復讐という動機のためでもない。これはただ、ぼくの愛なのだ。
結果、今、ぼくの目の前で、ぼくを理解できないというような目をしている男に、君は奪われた。つまり、ぼくはまた君を愛することができるようになったのだ。
さあ、愛しい君。君は、こんなぼくを愛してくれるだろうか。