番外編 若草の頃
※こちらはサティ警部視点の番外編です。
「アルメル、彼はウジェーヌ・サティ。パリ警視庁の警部で僕の古い学友だ」
そう言って、フランシスが俺のことを紹介したのは、アーモンド色の巻き髪に琥珀色の瞳を持った、年端もゆかぬ少女だった。今までの多くの女たちがそうであったように、彼女もそのうちフランシスの愛を得られぬことに傷ついて、自ら彼を捨てて立ち去るかひと悶着起こすかのどちらかだろうと思っていた。
愁いを帯びた雰囲気の、ひどく冷めた美少女だった。年齢のわりに落ち着きすぎているその物腰は、見ていて痛々しい感じさえする。どこか世間を信用していない節があるところなどは、なんだか自分と似ていると思った。
フランシスのアトリエにある食堂で向かい合わせで座っていると、少女は俺の手元をじっと見つめてきた。持っていた煙草の灰が今にも落ちそうになっていたからだ。俺は灰皿を手元に寄せると、静かにそれを払い落としながら、暇に任せて兼ねてより一度尋ねてみたいと思っていた質問を口にしてみることにした。
「あなたはフランシスに惚れているのですか?」
ガチャンと大きな物音がした。少女が持っていたスプーンを落としたのだ。素直な反応が面白い、からかってやりたいと思ってしまった俺は少しばかり性根が曲がっているのかもしれない。少女は貝殻の形をしたスプーンを再び手に取ると、それで紅茶を掻き混ぜながら無理矢理話題をすりかえた。
「子犬は元気?」
尋ねてきた口調には、何かしら刺々しいものが感じられた。そうだ。この少女は犬が嫌いだったのだ。しかし、先日俺はそれを無視してフランシスと彼女が暮らすこのアトリエに、我が家の犬を預けたのだった。
「このあいだは色々とお世話になりました。マドモワゼルは犬がお嫌いだったようですが、おかげで助かりましたよ」
「あなた、あのときわざと置いて行ったでしょう? さすがにルシエの親友ね。人の嫌がることを楽しむ性格なんかそっくりだわ」
「それはどうも」
「別に褒めてないわよ」
少女は無表情のまま紅茶を一口すすってから、「確かに私は犬が苦手だけど、あの子のことは嫌いじゃないわ」と口早に呟いた。
「サンディは利口な犬ですからね」
俺の言葉に、少女は驚いたように顔を上げる。
「あの子の名前、本当にサンディというの?」
「ええ。ラシェルが――あ、失礼。ラシェルというのは私の妹の名です。彼女が土曜日に拾ってきたのでサンディという名前をつけたのです」
そのとき、画材道具を肩に下げ、フランシスが野外スケッチから帰ってきた。
「ルシエ、すごい偶然よ。サンディはサンディだったそうよ」
少女は椅子から立ち上がって、普段よりやや興奮気味にフランシスを出迎えた。フランシスは甘ったるい笑顔で彼女のことを見つめながら問い返す。
「言っている意味がいまいち理解出来ないのだがね、アルメル。もう少し順序だてて説明してくれないか?」
俺が来ていることに気がつくと、フランシスは内心ちょっとばかり驚いたような顔をした。
「やあ、来てたのかい、ウジェーヌ」
しかし、幸福に緩みきった表情は隠せない。俺はすぐさまこいつをからかってやりたい心境に駆られた。
「おまえがいない間にマドモワゼルを口説いていたところだよ」
意外にも、次の瞬間フランシスの表情からふっと笑顔が消え去った。いや、正確に言うと、別の種類の微笑みに切り替わったと言うべきか。
「冗談だよ」
と、俺は灰皿に煙草の吸殻を押し付けた。
どうやら、フランシスはこの少女に本気らしい。正直言って、彼には友人ながら人を本気で愛することなど到底出来ないだろうと思っていた。しかし、それは大いなる過ちであったようだ。
恋する男の嫉妬とはなんと余裕のないことよ。それは嫌というほど知っている。何しろ自分自身が経験済みだ。あのときは今の俺とフランシスの立場が逆で、嫉妬に駆られた俺は初対面のこいつを思い切り殴り飛ばしたんだったっけ。
カルチェ・ラタンの薄汚い屋根裏部屋。思い起こせば、フランシスとの出会いは最悪だった。
大学の授業を終えて、当時惚れていた女に会いに行った俺は、彼女の部屋の扉を開いて文字通り呆然とした。口にくわえていた煙草がぽろりと床に転がり落ちる。
汚いながらも小奇麗にしていた屋根裏部屋のベッドの上で、女は裸になっていた。そして、彼女と向き合うようにして、見知らぬ男がベッドの淵に腰を下ろして微笑んでいたのである。貧相な部屋に似つかわしくない、妙に品の良い男だった。
女は俺の姿に気がつくと、さっと青い顔をした。名前も知らない裁縫女工。行きつけの酒場で知り合ってから、それなりに月日は経つが、余計な話は一切したことがない。物静かないい女だった。互いに体だけの関係であることを理解の上で付き合っていたはずなのに、いつの頃からか、彼女の大きくて柔らかなその胸は、俺の心休まる大切な居場所となっていた。
気がつくと、俺は男の胸倉をつかみ上げ、利き手の拳をふるっていた。床に倒れ込んだ男は突然のことに目を丸くして、現状を把握しきれていないブルー・アイズを真っ直ぐにこちらに向けた。
「ねえ、違うのよ。誤解なのよ、警部さん」
焦ったように女が俺たちの間に割って入る。彼女はいつも掠れた声で、俺のことを『警部さん』と呼んだ。以前、外娼と間違われて警察に連行された際に、彼女を取り調べた警部と俺の煙草の吸い方が似ていたらしいのだ。
「私たち、あなたが考えるようなこと何もしていないのよ」
女は俺の怒りが静まることを懇願するかのように、裸の体を擦り寄せてきた。「絵を描いてもらっていたの。本当にそれだけなのよ」
少し冷静になって辺りを見回すと、確かに床一面に雑然と画材道具が散らばっている。スケッチブックに描かれている裸の素描が目に留まるや否や、俺は再びひどく感情的になった。女に対する怒りと、男に対する嫉妬の念が込み上げてきて、どうしようもなく歯切りした。だが、それは本当にどうしようもないことだった。なぜならば、所詮お針子は気軽に学生たちの欲望を満たしてくれる、気立てのいい娘という役どころだったのだから。
俺は女の呼び止める声も聞かず、怒りに任せてそのまま部屋を後にした。
今だからわかるのだが、そう言えば、この頃女の様子はおかしかった。体を重ねても、以前のように情熱的な激しさを求めることはなく、何か知られてはまずい秘密でも抱えているような、そんな微笑を携えていた。
でも、どうしてだろう。俺は心の底からあの女のことをすっかり信用しきっていたんだ。自分以外の異性と繋がりを持つだなんてことは考えもしなかった。ましてや俺自身があんな風に取り乱すだなんて、それこそ夢にも思っていなかったのだ。
立ち寄った酒場で安酒をあおって、ふらふらとしながら家に辿り着くと、アパルトマンの入り口から小さな影が飛び出してきた。泣きながら俺の胸に抱きついたのは、妹のラシェルだった。
「まだ寝てなかったのか。どうした? また腹でも痛いのか?」
ラシェルは黙ったまま大きく頭を左右に振った。
両親を事故で亡くし、親の残したわずかな遺産を頼りに、俺は歳の離れたこの妹と二人きりで暮らしていた。ここは二人で住むには贅沢すぎたが、両親の思い出がつまったこのアパルトマンをラシェルがとても愛していたから、手放すことが出来ずにいた。しかし、当然ながら金は日々減っていくわけで、今後のことを考えると、いつまでもこのままで暮らしていくわけにもいかなかった。
俺は働きながら奨学金を頼りにソルボンヌの法学部へと進学した。別に弁護士や検事に特別に憧れていたわけではない。これから先、ラシェルを養っていくためには、法曹界で堅実に出世するのが一番の道だろうと盲目なまでに思い込んでいたのだ。
第三学年に入った俺は、いい加減身の振り方を決めねばならない時期だった。本当は法に興味などこれっぽちも持ち合わせてはいなかったため、学業に思うように身が入らなくなっていた。かといって、自分のしたいことがあるわけでもなく、俺はたぶん焦っていたのだと思う。ラシェルのことを言い訳にして、自分自身から逃げていたのだ。
授業を終えてからラシェルの飯を作りに一度家に戻って、それから仕事に行って、寝て、また学校に足を運んで――。そんな日々を繰り返していたが、やがて仕事が終わっても真っ直ぐに家には帰らずに、ふらふらと酒場に足を運ぶようになった。飲まなければやっていけないほどの重圧感に押しつぶされそうになっていた。あの女と出会ったのは、そんな精神的にひどく行き詰っている頃だった。
「ラシェル、黙っていてはわからないよ。一体どうしたっていうんだい?」
俺の胸元に顔を埋めていた妹は、言葉を返さず震えていた。両親の事故からだいぶ月日は流れていたが、妹は時折発作的にこんな風になってしまうのだ。彼女は手にしていた小瓶を俺の元に差し出してきた。底に蜘蛛の巣がはられた古びた牛乳瓶の中には、一匹のトカゲが入っていた。尻尾が切れていたのでひどく不恰好だった。きっと、近所の子供たちが悪戯でもしたのだろう。
「怪我してるの。私が手当てしないと、死んでしまうのよ」
「心配しなくてもトカゲの尻尾はまた自然に生えてくる。だから、元の場所に戻して来なさい」
ラシェルは傷ついた生き物を拾ってくる癖があった。翼の折れた小鳥だの、誰かに捨てられた子猫だのをしょっちゅう拾ってくるので、我が家はちょっとした動物園と化していた。だが、実状今の俺たちには、そいつらを育ててやれるほどの余裕は持ち合わせてはいなかった。これは俺の頭を痛ませる悩みのひとつだった。
「こんな小さな牛乳瓶で育てたって、トカゲが可愛そうだろう? 自由にしてやった方がいいんだ」
「駄目よ。ほっといたら、死んじゃうわ。餌をたくさんあげなくちゃ。食べ物を与えなければ、死んでしまうわ」
出来ることなら、トカゲの心配なんてしている場合ではないと怒鳴ってやりたかった。俺がどんなに日々の食事を節約しているのかを、彼女はちっとも知らないのだ。彼女は何も知らないのだ。
俺は牛乳瓶を取り上げると、それを妹の目の前に突きつけた。
「いい子だから、元の場所に戻して来るんだ!」
ラシェルはびくりと体を震わせて俺を見た。酒が入っていたせいで、声の調子は自分が思っていた以上の怒声となってしまっていた。
牛乳瓶を受け取るラシェルの小さな手は、振動が伝わってくるほどに震えていた。彼女は何も言わず目を伏せて、のろのろとした足取りでアパルトマンから出て行った。
翌日、講義の合間に教室を移動するため講堂の階段を下りて行くと、階下のホールで俺を待つ男の姿があった。昨日女の所にいた、あの画家気取りの男だった。どうやら、俺のパンチはヤツの端正な顔に青字を作ってしまったようで、口元が青黒く色づいている。
「メリザンドが行方不明になったんだ。君、彼女の行き先に心当たりはあるかい?」
そうか。あの女はメリザンドという名だったのか。女の名前をこの男が知っていたことにも腹が立ったが、今はそれ以上に女が消息を絶ったという事実の方が何百倍も苛立たしかった。
「浮気されたのは俺の方だぞ? こっちが姿を消したいくらいだ」
煙草に火をつけようと胸ポケットをまさぐりながら外に出ると、後を追いかけてきた男が、俺の口に銜えていた煙草をさっと取り上げた。
「何をする?」
「どうやら君は勘違いをしているようだ。彼女は決して浮気などしていない」
「ああそうだろうよ。絵のモデルをしていたんだろう? そういうことにしておけばいいさ。頼むからもう二度と俺の前に現れないでくれ。俺はおまえみたいなタイプが一番嫌いなんだ」
この手の輩は見ているだけで胸糞が悪くなる。きっと何ひとつ不自由することなく、恵まれた環境の中で呑気に生きてきたに違いないのだ。法学部で画家を気取っているあたり、それは明白に伺える。
男は何か言いかけたが、もどかしそうに言葉をつぐんだ。
俺はシガレットケースから新たな一本を取り出すと、それを口にくわえ、次の講義が行われる講堂へと足を運んだ。だが、授業に身も入らず居ても立ってもいられなくなって、俺は馬鹿みたいに真っ直ぐ女のアパルトマンへと飛んで行った。画家の男の言葉どおり、部屋はがらんどうだった。空になったベッドとテーブルがそこに佇んでいるだけだった。
「本当に、出て行ったのかよ」
荒々しく壁を殴りつけてみる。でもそれは、粗暴で無意味な行為だった。
女の姿をなくしてがらんとしていたのは部屋だけでなく、笑えることに俺の心もまるでぽっかりと穴が開いてしまったみたいだった。空虚とはきっとこのような感情のことを言うのだろう。
夕暮れの陽を背に受けながら、俺は女と出会ったカルチェ・ラタンの酒場まで行ってみた。雑多な酒場には女の姿はなく、酔いどれの男達ばかりで溢れていた。酒瓶のぶら下がるカウンターの奥を覗き見ると、薄暗い部屋の隅で例の画家の男が誰かと話し込んでいるのが見えた。相手はそばかすだらけの見たこともない女だった。俺の胸には再び怒りが込み上げた。こうして、今度は別の女の裸を描くのか? あの女がいなくなったことを気にしていた素振りはすべて演技だったのか?
俺は拳を握り締めた。だが、男に声をかけることなく踵を返し、そのまま別の酒場へと足を運んだ。
俺が帰宅するのを待っていたようで、ラシェルが食堂から遠巻きにこちらの様子を伺っていた。こんなに遅くまでどこに行っていたのかと問いたげな顔をしていたが、何も言ってはこなかった。俺は寄った足取りで自室に閉じこもると、ベッドの上に転がった。
頭が割れてしまいそうだった。さまざまな思いが去来する。不安と焦燥感に煽られるようにして、俺は酒場で出会った街娼から買った麻薬と注射器に手を伸ばした。ラシェルの飯を作らなければならないのに。学ばなければならないことは山のようにあるはずなのに。たかだか女ひとりを失っただけなのに――。
俺は、一体何をしているんだろう。
薬物の夢幻的な世界が心地よいまどろみを与えてくれる。時折、妹の声が聞こえたような気がした。だが、今は不思議なほどにすべてがどうでもよく感じられた。
それから、果たしてどれくらいの時間が経ったのか。突然、バケツいっぱいの水を浴びせかけられて、俺は意識を取り戻した。
「目が覚めたかい?」
見上げると、部屋には例の画家の男が立っていた。麻薬から目覚めた反動で、俺の神経は妙に騒ぎ立っているようだった。
「なぜ、ここにいる? ここは俺の家のはずだが」
「真面目な学生と評判の君が、数日講義に姿を見せないので、心配になりアパルトマンを調べて来てみたのだ」
「数日……? 一体何を言っているんだ?」
男は胸元から懐中時計を取り出して、おどけた様子でこう言った。「正式には、三日と半日だがね」
「そんな、馬鹿な……」
おぼつかない足取りでよろよろとベッドから這い出すと、男は肩に腕を回して俺の体を支えてくれた。一歩踏み出すごとに、意識がだんだんと覚醒されていく。そうして、俺の脳裏には取り返しのつかない現実が思い起こされた。
「ラシェル……ラシェル!」
声を限りに妹の名を呼んだ。あいつの食事はいつだって俺が用意してやっていたのだ。ベッドに寝かせて、母親がしていたように本を読んでやらなければ、あいつは眠ることすら出来ないのだ。それなのに、俺は三日以上も彼女を放置してしまったのか!
「ラシェル!」
ラシェルは食堂の片隅にいた。俺の呼び声に驚いて、びくりと肩を震わせた。その拍子に、握り締めていた牛乳瓶が手から滑り落ちてしまい、床の上で粉々に割れ飛んだ。
瓶の中から尻尾のないトカゲが飛び出し、ガラスの破片を乗り越えて床の上を這い回った。眠っていた小さな灰色猫のグリがそれを見つけて追い掛け始め、ラシェルははっとしたように叫び声を上げる。
「こら、おやめグリ! 駄目だったら!」
トカゲは開いていた扉からアパルトマンの外に逃げ、グリもそれを追いかけるようにして出て行った。
残されたラシェルは居心地の悪そうな顔で俺を見ると、もごもごと言い訳をしながら床の上に散らばったガラスの破片を片付け始めた。
「あれだけ走れるのなら、トカゲはもう元気ね。私が世話をしなくても大丈夫だわ」
ガラスの破片に混じって、小さく切った肉やら、野菜やら、色んな食材が転がり落ちていた。たぶん、ラシェルはトカゲが何を食べるのかわからなかったのだろう。
「私の食事を少し分けてあげただけよ。だから、怒らないで」
そう言いながら、ガラスを拾い集める妹の手はいつかのように震えていた。
食堂のテーブルの上には二人分の食事が用意されていた。俺は自分の隣に立つ画家の男に尋ねた。
「これは、おまえが作ったのか?」
男は首を横に振ると、黙ってラシェルに視線を向けた。
後に、俺が何か煩いことを言うたびに、ラシェルはいつもこの時のことを引き合いに出しては俺のことを黙らせた。「兄さんは二度と起きてこないのかと思った」「母さんや父さんみたいに死んでしまうのかと思った」「本当は泣きたいくらいに恐かった」と。
彼女は時折あの頃の自分自身に向かって、或いは、幼い記憶の片隅にある兄に向かって言葉を紡いだ。
「人はトカゲの尻尾のように、再生する力だって持っているのよ」
ああ、そうだ。人はトカゲの尻尾のように、再生する力だって持っているのだ。たとえそれが不恰好であっても――。
画家の男は俺を寝室のベッドの濡れていない場所に横たわらせると、手近にタオルとコップ一杯の水と煙草を用意してくれた。俺はそのどれにも手をつけず、ぼんやりと天井を見つめながら、女が姿を消してから早くも三日が経ったのだという現実と向かい合った。
「あいつは……帰ってきたのかな」
俺が尋ねると男は静かにそれを否定し、煙草に火をつけた。こいつが煙草を吸うだなんて、なんだか妙に意外に思えた。男は煙を深く吸い込んでからゆっくりと天井に向けて吐き出すと、気を落ち着かせたような表情を携えて俺の隣に腰を下ろした。
「彼女の体は実に美しかった。君にはそれがなぜだかわかるかね?」
俺はこいつをもう一度殴ってやりたい衝動に駆られた。だが、後に続けられた言葉の突拍子のなさに、怒りはあっという間に吹き飛んだ。
「子を思う母の愛が、その母体にまで現れていたからだ」
俺は顔を傾けて男を見た。こいつは一体何を言っているのだろう?
「メリザンドは妊娠していたのだよ。そして、それは君の子だ」
頭の中が真っ白になった。
「冗談だろう?」
男は薄く微笑むと、煙草を灰皿に押し付けた。
「彼女は君を本気で愛していた。だから、自分が妊娠したとわかったとき、君の負担になることをひどく恐れたのだ。彼女は生まれてくる子をひとりで養えるよう、腹が膨らむ前に街娼として働こうと決めた。そして、初めて声をかけた客が僕だったというわけさ。僕はこの通り絵を描く身なので、時にヌードモデルを必要とすることがある。それで、体を売る代わりにモデルをしてほしいと頼んだんだ。絵を描きながら、街娼になった経緯を聞いた。僕は彼女に今後も僕のモデルをしてくれるようお願いした。娼婦の稼ぎより良い条件でね」
俺は男の横顔から視線を外すことが出来なかった。喉がからからに渇いていたが、水の入ったコップに手を伸ばすこともなく、我を忘れて話に聞き入った。それによれば、男はこの三日間、ずっと女の消息を追っていたそうだ。どうやら女の友人――酒場のそばかす女のことだ――の話では、彼女は実家に帰ったのではないかということだった。しかし、元々金銭的な余裕がなく家を追い出されるようにしてパリにやって来たそうだから、帰る場所などないに違いないと話していたという。
本当に、俺の子なのか? おまえの子供じゃないのか? そんな思いを抱いても不思議はなかったはずだが、このとき俺は男の話を疑うことはなかった。いや、むしろ信じたかったのかもしれない。
「……あいつは、今どこにいるんだろう?」
喉の奥から搾り出された声は、ひどくかすれていた。
「さあね。でも、きっとこの世界のどこかで生きているはずだ。自分の子供のために一生懸命生き抜いていくだろう。彼女はそういう人だ」
確かに、こいつの言うとおりだった。あの女は、そういう女だったのだ。こいつがそのことをわかっていた事実が悔しかった。そして俺がこんなにも馬鹿だということが悔しかった。
それから幾日も俺は女の姿を捜し続けた。やがて季節は巡り、瞬く間に数ヶ月の月日が経ち、俺は大学を卒業した。刑事になる道を選んだのは、ひとつには女の行方をつかむことが出来るかもしれないと思ったからだ。しかし、その後女と会うことは二度となかった。
そして、この世界では異例の出世を繰り返し、俺は以前女から呼ばれていたように、ほどなくして『警部』となった。
「警部? サティ警部……? ねえ、警部さん?」
はっとして顔を上げると、琥珀色の瞳が不思議そうに覗きこんでいた。
気がつけば、テーブルにはいつの間にやら食卓の用意が整っている。かの皇帝ナポレオンが愛したシャンベルタンの銘酒に、蒸し肉やサラダ、シチュー、それから台所にはデザートと大きなケーキがあった。ああ、そうだった。今日はフランシスの誕生日だからここへ足を運んだんだっけ。
「もちろん、飲んでいくでしょう?」
当然のようにテーブルの上にグラスを三つ並べながら、少女が尋ねてきた。しかし、俺は席から立ち上がって自分のコートに袖を通す。
「いや、申し訳ないが署の方に戻ります。仕事の合間に抜けてきたものですから」
そう言いながら、俺はコートのポケットから小さな包みを取り出して、それをフランシスに向かって投げた。
「邪魔者はとっとと退散するよ。そいつはラシェルからの贈り物だ。おまえに渡せと頼まれた」
フランシスはにっこりと微笑むと、しなやかな仕草で包みにそっとキスをした。
リュクサンブール公園の木陰で課題をやっつけているときに、いつだかフランシスに尋ねたことがあったっけ。画家気取りの男が、どうして法学部なんかにいるんだ? と。そのとき、ヤツは苦笑交じりにこう言った。「君の質問はえらく的を得ているよ。父がね……ここの学生だったそうなのだ」
フランシスはつかみ所のない性格で、つるみ始めた当初は何を考えているのかイマイチわからないヤツだった。でも、いつの頃からか、彼自身ですら自分が何を考えているのかわかっていないのかもしれないと思うようになった。
選んだ道が正しいかどうかの答えなんてないのだろう。方向がわからずにさ迷い歩いていたとしても、それでも、道を歩き続ける限り、それは必ずどこかへと繋がっていく。時には思いも寄らぬ場所へ――。人生とはそうして続いていくものなのだ。
兎にも角にも、女の裸ばかり描いていたフランシスが無事に大学を卒業出来たのは、俺のおかげであると自負している。
※次の作品はアルメル視点に戻ります。




