ここから始まるstory (利知未シリーズ 朝美編)
利知未シリーズの、成り立ちの物語です。
今回の主人公は、朝美と里沙。最後に玲子と利知未が入居するまでの、長さとしては中編(?)くらいの小説です。お楽しみください。
一
昼過ぎの公園は趣が違う。子供たちは学校や保育園、幼稚園、それぞれ昼間の居場所に集っている。だから、それより小さな子供を連れた若い奥様達が集う場所。
そんな中で、里沙はちょっと不自然な景色を見つけた。
きぃぃ…きぃぃ…。ブランコが揺れている。学生服の子がぼぉっとした表情で、揺られている。
公園の反対側では、ベンチの周りで若奥様達の情報交換が活発だ。楽しそうに、愉快そうに、高らかな笑い声まで時々響いている。
対照的なブランコの、女子学生の様子。
里沙は、胸の奥で小さなざわめきを覚えた。
『彼女は、何をしているのかしら?普通なら午後の授業を受けている時間よね。』
そっとブランコの方へ歩み寄っていく。後1.5メートルの距離で、その少女がこちらに気付き、チラッと横目で見た。
「こんにちは。」
里沙は笑顔で挨拶をした。少女は頭を落として地面を睨み、こちらを見ようとしない。
隣のブランコに腰掛ける。
「良いお天気ね。」
「…」
少女は何も答えない。離れたところで相変らず、若奥様の集会は続いている。
「その制服、懐かしいな。私も通っていたの、ほんの少しの間だったけど。大崎先生って知ってる?さっちゃんって、みんなに呼ばれていたわ。私の、担任の先生だったのよ。」
少女の体に一瞬、緊張したような気配が走った。
「…私に説教でもするつもり…?」
「そんなつもりは無いわ。ただ、懐かしかっただけよ。」
恐らく想像していたのとは違う、穏やかな里沙の声と言葉に戸惑い、少女は頭を上げた。そして、里沙の顔を始めてその瞳に捕らえる。里沙は声と同じ穏やかな微笑を持って、少女の視線を横顔で受け止めていた。
「ふ…、変な人。」
鼻で笑うような息を漏らしながら、少女が言った。
「私は里沙。あなた、お名前は?」
「…朝美。」
「朝美さん、ね。1年生?」
「え?あ、ネクタイか。」
「ええ。昔と同じなのね、その色分け。」
「そうみたいね。」
「私が通っていた頃は、スカートの長さは膝下丈って決まっていたのよ。今は随分と短いのねぇ。歩道橋で前を歩いているのを見ると、中が覗けそうでこっちがどきどきしちゃうわ。」
「おばさんみたいな事言うね。」
「そうかしら?でも、あなた達から見たら私もおばさんなんでしょ?」
「二十歳過ぎたら、おばさん。」
「失礼しちゃうわね。そんな事言ったら、あなただって四年後にはおばさんなのよ。」
「まだ四年もあるじゃん。」
「たった四年なんだから。あっという間よ。」
「歳をとると時間が早くなるっていうもんねぇ。」
「言ったわねぇ!」
里沙はおどけて拳を上げて見せた。朝美は笑って、ブランコから逃げるように飛び降りる。
そのまま2、3メートルほど走り、里沙を振り向いた。いい笑顔だった。
「ありがと。久しぶりに楽しかったよ、オバサン!」
「また言ったわね!もう。」
言葉とは裏腹に里沙も笑顔だった。それから、大きな笑顔を優しげな表情に変える。
「学校には、行ったほうがいいわよ。」
「…不思議。あんたに言われても頭にこない…。ね、里沙さん、また…、」
一瞬言葉を切る。暫らく何も言わない。里沙は黙って同じ表情のまま、次の言葉を待ってみた。
「やっぱり何でも無い。じゃあね。」
軽く手を振り、向きを変えると、朝美は公園を走って出ていった。
最近、里沙は考えている事があった。今、自分が留守を預かっている、一人住まいにはかなり広過ぎる家の、いくつもの空き部屋。その部屋を上手に使う方法を。
オーナーである叔父夫婦は、『下宿屋をするのが夢でいっぱい部屋を作ったんだけど…、折角、息子の家族と一緒に住めるようになったから、やっぱりねぇ…。』と言って、異国に骨を埋める覚悟で渡仏して行った。
あの時、里沙は。
「それなら、この家はお売りになった方がいいのでは?」
そう進言してみた。だが、新しい下宿としての機能を一番に考えて作られた、この広過ぎる家は…。売値の所為もあったのだが、やはり買い手がつかなかった。
リフォームが終わったばかりの家を壊して、更地にするのも勿体無いと言う事になり、姪の中でも特に可愛がっていた里沙に家の管理を任せ、自分はオーナーになると、そう結論したのだった。
リフォームの際の借金は、叔父夫婦が結構な資産家であったことを幸いに、家以外の物を売ったお金で、あらかた片付いていた。
この家に入り、そろそろ半年になる。始めのうちは新生活に入るための準備が忙しく、ゆっくりとした時間をとることが出来なかったが、最近はくつろぎの時間の中に、この広い家で一人暮らしていることの寂しさを、良く感じるようになってきていた。
「下宿かぁ…。それも良いかも…。」
誰に言うでもなく、小さく声に出してみる。横長のソファに足を上げ、膝の上に抱いたクッションに頭を持たせた姿勢の里沙が、リビングの、南西の大きなサッシ窓に一人きり、映り込んでいる。
二階に7部屋、洗面台とトイレが1つずつ。一階には五部屋と、一度に3人は入れそうな大きな浴室、広いキッチンとダイニングとリビング。トイレは2つも設置されている。
リビングの、南西の大きな窓の外には、日当たりの良い物干し場が広く確保されており、玄関の隣には、自転車が4、5台は置けそうなスペースが設けられている。
そう、広すぎるのだ、徹底的に。叔父夫婦はいったい何人の店子を置くつもりで、この広い屋敷を作ったのか…。
少なくとも五人は置くつもりだったのではないかと推察されるが、その面倒を誰が見るつもりでいたのだろうか。勿論、夫婦で見るつもりだったのだろうが、もうお世辞にも若いとは言えない二人には、かなりの覚悟が必要だったと思う。
それだけ、血の繋がった息子の誘いは、あの二人にとって嬉しい事だったのだろう。
リビングの時計が、午前零時の時を告げた。里沙は物思いから覚めた。そろそろ眠らなければ。明日は面接がある。あの朝美と言う学生が籍を置く高校の、英語のリーダーの臨時講師を決める面接だ。クォーターで数年間、外国で暮してきた帰国子女の里沙には、うってつけのアルバイトである筈だった。
朝美は夜の繁華街を歩いていた。家には帰りたくなかった。原因は、反りの合わない義母の存在。
父は何故あの人を再婚相手に決めたのだろう?いいや、それ以前に、自分がまだ幼稚園に通っていたような幼い頃、あの優しくて暖かい実の母と、どうして離婚などしたのだ。
私の不運は、あの頃から始まったんだ。せめて母親について行ってたら、まだ幸せだったのかもしれない。
「朝美じゃん、久し振り。」
声を掛けられて振り向いてみると、中学時代の同級生が咥え煙草で立っていた。周りに男女混ざって四人ほど連れ立っている。
「どうした?知り合いか?」
酔っ払った、四十代の男性の声がする。
「川田さん、大丈夫ですか?」
二十代の男性が肩を貸しながら言った。
「中学の時の同級生なんです。」
「なんだ、能勢の不良仲間か?」
川田が千鳥足で、支えられながら近付いて来た。
「またぁ、この子はそれ程酷くなかったんですって。川田さん、あたしの知り合いって言うだけで、片っ端から決め付けないで下さいよ。この子はちゃんと高校入ってるから。」
「そりゃ、悪かったな。」
「にしても、なんだってこんな時間に、一人でこんな所にいるの?お家の人、心配するでしょうに。」
四人のうち、一人混ざっていた三十代の女性が言った。
朝美は突然声を掛けられて当惑してしまい、ここから逃げ出す事も忘れている。
「うーん、家で何かあったの?」
能勢が聞いた。中学時代から特に仲良くしていた訳ではないのだが、家庭の事情から少々捻くれてしまい、傍から不良と呼ばれていた仲間とも面識があった朝美は、彼女のフルネームくらいは知っている。一度か二度は会話をした事もあった相手である。
「何だか良くわからないが、送っていったらどうだ?満更知らない仲でもないんだろう。」
「そうですね、あたしもそろそろ帰らないといけないしなぁ…。」
「そうしろ、そうしろ!お前らはもう1軒付き合え!」
「ハイハイ。じゃ、川田さんは俺らが引き受けるから。」
「二人で大丈夫?」
「美知子さん、あたしの中学時代のあだ名、知らないでしょう?デンジャー和美って有名だったんだから。」
「危険ってこと?怖いわぁ、あたしそんな子と仕事してんの?」
川田を支えていた男性と視線を合わせて笑う。
「知らなかったんですか?」
「女子プロレスラー見みたいな、あだ名ね。」
「良く言われる!」
本人も一緒になって笑った。仲が良さそうな集団だ。朝美は、気持ちがチクリと痛むのを感じた。
川田が、腕を振り回しながら大声を出す。支えている男性がよろけた。
「れんじゃぁだか、ぶらじゃーだか知らんが、行くぞ!ついて来い!!」
「はいはい、分かってますって。じゃ、能勢、また明日。」
「明日、遅刻しないでね。今日、早く切り上げた分、仕事溜まってるんだから。」
「美知子さんこそ。じゃ、お先に。」
能勢はそう言って職場仲間に手を振ると、朝美の背中を押して歩き出した。
流されるように家路についた道すがら、能勢は朝美の事情を突っ込んで聞こうとはしなかった。
「あたしもさ、色々あったから特に聞かないよ。」
「…。」
「家に帰りたくない事なんてしょっちゅうあるし、まぁ、あたしの場合は就職しちゃったから、中学の頃に比べて家族も煩く言わなくなったし、今は楽だけどね。」
「あたしも就職すれば良かった…。」
「何言ってんの、あんたは成績良かったんだから仕方ないでしょ。あたしは成績も素行も最悪だったから、今の会社が雇ってくれなかったら、プータロウだったよね。」
アハハと笑う。小さくなった煙草を捨てた。足で揉み消している。
そのまま、歩いて行く。
「…。」
「小さな工場だけどさ。結構、良い人達に恵まれたからラッキーだったよ。やる事やってれば中学ン時の事もとやかく言わないし、給料は入るし。あたし結構、今の生活に満足してる。」
「羨ましい。」
「…。」
無言で道を行く。
能勢のように中卒で働き出していたら、家族はどんな風になっていたのか…?朝美の義母はプライドの高い人だ。恐らく今以上に冷たくされていたのだろう。
『高校も行けないような出来の悪い娘だなんて。あたしは恥ずかしくて、買い物にも行く事が出来ない。』
空想の中で、険しい顔をした義母が言う。朝美は小さく首を振って、今、自分が思い描いてしまった厭な光景を、頭から追い出した。
『あの人が言いそうな事くらい、簡単に想像できる…。』
返って厭な気分になってしまった。
それから暫くして、家の前に到着した。能勢が気遣わしげに聞いた。
「一人で入れる?」
「大丈夫。…多分、もう寝てる時間だから。」
「そう。じゃ、またね。」
「送ってくれてありがとう、じゃ。」
朝美が玄関のドアに消えるのを見届け、道を反対に引き返して行った。
二
「高田さんは、またお休み?誰か連絡を受けていない?」
ざわめく教室内。誰一人、彼女の欠席理由は知らない。
「仕方ないわね。後で連絡ね…。」
「さっちゃん!今日から美人が来るって?」
「耳が早いわね。このクラスは今日、三時間目のリーダーからよ。大田君、見惚れてないで確り勉強しなさいね。」
年配の優しそうな女性教師だった。縁無しの眼鏡が上品に似合っている。隣に若い男性が、着馴れないらしいスーツ姿で控えている。
「だってよ。加藤。」
「何で俺に振るよ?」
教室内が明るくさわめく。雰囲気の良い、仲の良さそうなクラスだ。
高田朝美。彼女のクラス、東城高校普通科・一年三組である。
「その前に。今日から二週間、このクラスの数学を担当する実習生の、葉山先生です。先生、お願いします。」
若い男性が教卓に着き、緊張気味に挨拶をした。
「葉山修二です。精一杯、やらせてもらいます。二週間よろしく。」
何人かの女生徒が囁き交わす。
「結構、良い男じゃん。」
「クラスの男子より頼り甲斐ありそう。」
「私、ちょっと頑張っちゃおうかな!」
「百瀬が何を頑張るんだって!?」
男子生徒の茶々が入った。
「もっちろん、スーガクに決まってんでしょ?!」
「あっりえねー!!」
「何ですって!?」
騒がしくなった生徒たちに、女性教師の叱咤が飛んだ。
「ハイハイ!静かに!!百瀬さん、中間テストの結果を楽しみにしますからね。太田君もリーダーの成績、きっとで上がるんでしょうね?」
「うわ、墓穴だ。」
教室中に笑い声が上がった。女性教師が葉山に頷きかけ、授業が始まった。
「では、教科書三十四ページを開いてください。」
その時、教室の後ろのドアが開き、朝美が入ってきた。何人かの生徒が振り向く。ほんの少し、教室がざわめく。
「高田さん、遅刻ですよ。後で職員室に来なさいね。」
女性教師が出席簿を開いて、書き込みながら声を掛けた。
「…分かりました。」
「葉山先生、授業を続けてください。」
「はい。」
遅れて教室に入った女生徒を気にしていた実習生は、改めて授業を開始した。
一時間目が終了した。その休み時間、朝美は職員室にいた。
「最近、無断欠席が目立つわね。今日の遅刻も、今学期始まってまだ一ヶ月しか経っていないのに、5日目ね。…何かあったの?」
「……何にも。」
「余り続く様なら、ご父兄の方に来てもらわなくてはならないわ。」
「親は、関係ありません。私の問題です。」
「…そう。でも、このままじゃ、そう言う訳にもいかなくなるわ。…ね、何か悩みがあるのなら、先生に相談してもらえないかしら?」
この担任教師は、広い一般常識に照らし合わせて見た時、恐らく「良い教師」の部類に入る教師だろう。それでも今の朝美にとっては、何かと口うるさい義母と同じような存在だった。
…あのヒトは、世間体を異常に気にしてる。そのくせ実は、自分の血が流れていないあたしなんかには、とことん冷たい。外面が良い分、見ていて益々、気分が悪くなる。
「…。」
「今日の遅刻の理由は?」
「……寝坊しただけです。」
「…そう。それなら益々、親御さんに生活管理のことでお話しをさせてもらう必要があるわね。お母様は、お家にいらっしゃるんでしょう。」
「あのヒトは…!…いいえ、義母は関係ありません。私が遅刻しなければ良いんですよね。なら、明日から気をつけますから。」
反射的に家族のことを「あのひと」と表現した朝美の様子に、担任教師、大崎佐知代は感じる物があった。彼女は、母親と上手くいっていないのではないか?と。
高田朝美は、入学してからの一学期間、特に生活態度に問題がある訳でも、成績が目立って良かったり悪かったりした事も無い。まず一般的な生徒であった。性格はやや大人しく見え、クラスの中でも特に仲の良い友人がいる感じも無かった。
高校生にもなれば、生徒達も大人らしい付き合いが出来るようになる。義務教育時代のような、集団で徒党を組む様な付き合いは無くなる物だ。
だから、どこかのグループに属していなくても、クラスメート達とは辺り障りの無い付き合い方さえしていれば、変に浮いてしまったりする事も滅多に無い。
部活動などでの友人関係の方が、クラスでの関係よりも、優先される部分も多分にある。
それでも、自分のクラスは仲が良い方だと、大崎は自負している。
今のところは、目立ってクラス内の異変は感じてはいないが、朝美の家庭の事情は、少し確認してみる必要があると考えた。
「…分かったわ。でも、もしもまた無断欠席や遅刻があるようなら、その時は親御さんにも来て戴きます。そのつもりでね。」
「分かりました。失礼します。」
朝美は一礼し、職員室を出て行った。
里沙は、その様子を離れた席から目撃していた。朝美の担任教師は、里沙がほんの短い間ではあったが、お世話になったクラスの担任を受け持っていた大崎先生だ。話しをしたくて近付きかけていた時、朝美が大崎の前に来たのだった。
朝美が職員室を出たことを確認し、里沙は改めて大崎に近付いて行った。
「大崎先生、今、少しよろしいでしょうか?」
「ああ、野沢先生。」
何かを名簿に書き付けていた手を止め、目を上げて身体の向きを変えてくれた。
「今の生徒。何か、したんでしょうか?」
「いいえ。ただ、ちょっとね。」
「私、実は先日、近所の公園で姿を見かけたんです。午後の授業の時間帯だったから、ちょっと気になって…。少し話をしました。」
大崎は、少し驚いた表情をする。
「そうだったの。彼女、どんな様子だったかしら?」
里沙は、ブランコに揺られながら俯いていた、彼女の姿を思い出した。
「…元気の無さそうな様子で、始めは私が近付いても気が付かなかったみたいでした。」
「そう。彼女は、入学当初は特に目立ったところも無い普通の子だったんですけど。…二学期が始まってすぐよ。目立って無断欠席や遅刻、早退が多くなってきていたのは。…今日も一時間目の授業が始まってから来たので、それでちょっと話しをしていたのよ。」
「そうなんですか?先日は、別れ際には笑顔で挨拶をしてくれたけど。」
大崎は軽く目を見開いた。彼女が知り合って直ぐの里沙に、笑顔を見せたと言う。…今まであっただろうか?少なくとも自分の前では余り無かった。特に今学期に入ってからは、覚えが無い。
「野沢先生、臨時講師のあなたにこんな事をお願いするのも何だけど…。良かったら、彼女の事、良く見ていてあげてくれるかしら?私も気を付ける様にはしますけど。それよりも私は、高田さんの家庭の方を少し、調べて見ようと思うから。」
「私でお役に立てるのなら。」
「お願いね。」
ベルが二時間目の授業が始まる時間を告げた。
「あら、大変。授業に行かないと。それじゃごめんなさいね。」
大崎は教科書と出欠簿、筆箱を持ち、少し慌てて職員室を出ていった。
里沙は自分にあてがわれたデスクに着き、三時間目の授業の予習をしながら、あの朝美と言う生徒の事を考えた。
大崎は、「家庭の事情を調べて見る。」と言っていた。と言う事は、何か引っかかる事があったのだろう。
臨時講師としての自分の立場では、深入りする事も不可能だろう。ならば今暫らく、個人として彼女と付き合って見たほうが良いのだろうか…?それとも臨時とは言え講師として、一人の生徒と教師としての立場を尊重するべきか。答えが出ないまま時間が過ぎ、再びベルが十分休憩の始まりを告げた。
三時間目の授業は、特に問題も起きずに無事終わった。ただ、里沙が教室に入った時の朝美には、一瞬の驚きの表情が浮かんだ。
クラスの雰囲気は明るく、生徒同士が他のクラスに比べて仲が良いような印象を受けた。担任の大崎の人柄の所為だろうか。
自分が高校時代、ほんの数ヶ月間在籍した時のクラスも、比較的仲の良い明るいクラスだったように思う。帰国子女の里沙を受け入れてくれるのにも、それ程時間がかからなかった。
その日の昼休み。食事を終えてから隣の席で実習ノートを纏めていた葉山に、その手が止まるのを待って、里沙は声をかけた。
「葉山先生、今日の一時間目、一年三組の授業をされたんですよね?」
少し驚いた表情で、葉山が顔を上げる。
「え?ああ、そうです。そういえば、野沢先生は三時間目でしたか?」
「ええ…。それで、可笑しな事を聞くようですけど…、」
躊躇った里沙の言葉を、笑顔で促す。
「何でしょう?」
「その、一年三組のクラスの雰囲気、どう思われましたか…?」
葉山は目線を斜め左上に泳がせ、言葉を選ぶ。
「そうですね…。僕には、明るくて良いクラスに思えましたが?」
「…そう、ですか。…そうですね、私も同じような感想を持ちました。」
今度は葉山がしばし躊躇い、言葉を足した。
「ただ、一人ちょっと遅れて教室に入ってきた生徒がいて、その生徒の様子と、クラスの雰囲気が、何となく気には成りましたが…。」
朝美の事だ、と里沙は思った。
「どんな風に気に成ったのでしょうか?」
葉山はもう一度言葉を考える。やはり斜め左上に視線が泳ぐ。
この人の癖なんだ、と里沙は思った。朝美の事を聞こうとして、そんな感想を持ってしまう自分が、少し可笑しくも思えた。
「少し寂しげで、何か一瞬クラス全体もざわついた感じになったんです。普通、そんなもんなんでしょうか。」
真摯な声で話しを続けた。
「僕の高校時代と比べてはいけないのでしょうけど。僕の高校のクラスにも何時も遅刻してくる奴がいたんです。そいつの遅刻は何時もの事でしたから、クラスメートも冷やかしたり、逆に先生にみつから無い様に庇って見たり…、まぁ、何と言うか…。それでもクラスの中で浮いてしまうような雰囲気が無い奴だったから、結構仲良くやっていたんですよ。…だから、一人の生徒が遅刻してきて取る態度と言うか、雰囲気が…、特に一年三組は仲の良い印象が強かったので、何か、ちょっと違うな、とは、感じたんですが。」
そこで言葉を一度区切り、笑顔を作って言葉を足した。
「まぁ、僕も今日が初日なので、正直言ってそんな事感じている余裕も無かったんですが。今、野沢先生に聞かれて、改めて考えて見た感想ですけどね。」
里沙は葉山に好感を抱いた。真面目で優しげな青年だと思った。
ただ、今はそれよりも気に成る事がある。朝美の事だ。
葉山があのクラスに感じた印象は、あながち的外れでも無いのだろう。自分が教壇に立った時間には指して問題も無かったが、調子のいい男子生徒の言動に対して朝美の取った行動は、クラスの中でも少々浮いていたように感じたからだ。大半が笑顔であったのに対して、彼女は一人、外の景色を冷めた目で眺めていた。
予鈴が鳴り、短い昼休みの終わりを告げた。
「もう午後の授業が始まるんですね。早いな。自分が一杯一杯だから、そう感じるのかもしれませんね。」
葉山はそう言って、笑顔を見せる。里沙も笑顔で答えた。
「そうかもしれませんね。私も今日が初めてだから、何か時間が経つのが早く感じます。」
「次は…、五組だ。野沢先生、また後程。」
授業の支度を抱えて席を立つ。里沙は後、一組の授業を残すだけだった。
「私も行かないと。すみませんでした。」
「どう致しまして。」
もう一度笑顔で答えると、葉山は一足先に出入り口に向かった。
放課後、仕事を終えて校門を出た里沙を、朝美が門柱の影で待ち構えていた。
「野沢先生。」
周囲の生徒を気にしながら声をかけてきた。
「朝美さん…、」
「先生だったんですね。」
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら?」
並んで歩き出す。朝美は少し肩を竦めて見せた。
「ちょっと。」
「でも、あなたと公園で会った時には、まだ決まっていなかったのよ。」
「そーなんですか。」
「ええ。だから、」
「今日、教室での再会になったんですね。」
「そういう事ね。」
暫く黙って歩き、周囲から同じ制服の人影が消えた頃、朝美が言った。
「別にあたし、先生全部が嫌いって訳じゃないから。タマに、ちょっとウザイけど。」
「そう?良かったわ。じゃ、お友達にも成れるかしら?」
小さく頷いて見せる。
「里沙さんなら平気だと思うよ。っと、野沢先生って呼ばなきゃダメか。」
「そんな事無いわ。正直、アルバイト教師みたいな物で、先生って呼ばれる事には抵抗があるのよ。」
眉を上げて里沙を見た。
「そうなんだ。じゃ、本当は何をやりたいの?」
朝美の率直な質問に、里沙はちょっと考えて答えた。
「インテリアデザイナー。」
「へー。じゃ、そう言う学校に行っていたの?」
「ううん。普通に教育学部にいたのよ。でなきゃ臨時とは言え、学校の先生なんて出来ないでしょう?」
「じゃ、どうやって成るの?」
「大学時代、アルバイトであるデザイン事務所で働いていたのよ。勿論、インテリア関係のね。」
「へー。そこで勉強したの?」
「そうねぇ…。少しは教えて貰っていたわ。でも、基本的には独学よ。もう少しで、何とか作品の持ち込みが出来そうな自信がつきそうなの。だから、この講師は一時凌ぎって、感じかな…?」
「そうなんだ。」
感心する朝美に、照れ笑いを見せながら続けた。
「でも、そんなつもりで教壇に立っていたら、教員の皆さんに怒られてしまいそうね。」
里沙の言葉に、朝美は真面目な顔で答えた。
「そんな事、気にしなくても良いじゃない。だって、里沙さんには里沙さんの目的って言うか、夢がある訳でしょ?ソレって自由で良いんじゃないかな。上手く言葉が浮かばないけど…。」
里沙は朝美の様子に笑顔を見せる。
大崎は、最近問題が出てきた生徒だと言っていたが、こうして話しをすると、朝美と言う子はそれ程問題のある様には見えない。
「そうね。…厭だわ。生徒に勇気付けられる先生なんて、前代未聞よ、きっと。」
「そんな大層なつもりは無いけど。でも、里沙さんの夢、実現したら良いな。」
「あなたには、何か夢は無いの?」
「あたし?あたしは…。」
急に節目がちになる朝美を見て、里沙は言った。
「私の夢だけ聞いて、内緒は無しよ。」
そしていたずらっぽい笑顔を見せる。
「ね、これから私の家に寄って行かない?美味しい紅茶があるのよ。」
「…ソレって、校則違反じゃない?いいの、先生が生徒に違反させて。」
「良いのよ。みつから無い様にするから。」
一瞬、目を見開き、そして吹き出す。
「アッキレタ!でも、いーか。だって、アルバイト教師なんでしょ?」
「そうよ。じゃぁ、ケーキも買って行きましょうか?」
「奢り?あたしお金持って無いよ。」
「当たり前。だって、私が誘っているんですもの。」
「…じゃ、お邪魔しちゃう。」
良い笑顔を見せてくれた。里沙はそれが嬉しかった。里沙自身、あの一人には広過ぎる家に帰るのが、少々辛いと感じてもいた。
『生徒に甘える教師なんて、本当に前代未聞だわ。』
心の中で一人ごちた。
三
家の前で里沙が鍵を取り出すと、朝美の驚きの声が上がった。
「こんな大きな家に住んでるの?!」
玄関を開錠して、扉を開く。
「ちょっと、事情があるのよ。さ、どうぞ。」
ケーキの箱をちょっと捧げ持ち、肩を竦める様にしながら、朝美は玄関のドアを抜けてくる。
「…何か、落ち着かないなぁ…。」
やや広めの靴脱ぎスペースと、やはり大きい靴箱と、先に続く一般家庭より長めの廊下をキョロキョロと見ながら、朝美が呟いた。一足先に靴を脱ぎ、廊下に上がっていた里沙が小さく溜め息をついて言った。
「そうなの。一人じゃ広すぎて…。」
「一人で住んでいるの?!」
朝美がもう一度、驚きの声を上げる。廊下を進んで直ぐ左側のリビングへと朝美を誘いながら、里沙は答える。
「ええ。叔父夫婦の持ち家で、本当は下宿を開こうと思って、リフォームを済ませたばかりだったのよ。」
「で、その人達はどうしたの?」
リビングに入り、驚きながら朝美が聞いた。
「リフォームが終わって直ぐに、外国にいる息子さんご夫婦に誘われて、渡仏して行ったわ。どうぞ掛けて。」
ソファを手で指し示し、キッチンへ向かって行く。
「紅茶、入れてくるわね。」
「…はい。」
おずおずとソファの端に腰を下ろし、小さく返事をした。
暫く落ち着かない気分で待っていると、里沙が紅茶の良い香りと共に、リビングに戻って来た。トレーの上に、ケーキ用の皿とフォークも載せている。
「お待たせ。」
笑顔で、テーブルの上に紅茶と皿を並べて行く。食器類もシンプルで、綺麗な形で上品な印象の物だった。
「テレビ、つけましょうか?」
「いい、です。」
硬くなっている朝美の様子に、クスリと笑ってしまう。
「そんなにかしこまらないで。自分のお家だと思って寛いでよ。」
「…そう言われても。…それに、自分の家は余り落ち着かないし。」
言ってしまって慌てて口を噤む。何か詳しい事を突っ込まれて聞かれるのでは無いかと思い、身構える。
「そう。じゃ、ココを朝美さんの寛げる空間にすれば良いわ。」
予想に反した言葉に、朝美は思わず里沙を見詰めてしまった。
「どうしたの?何か変な事言ったかしら?さ、冷めないうちにどうぞ。」
熱い紅茶が注がれたカップを、朝美の前に薦めた。
「里沙さんって…、」
「なあに?」
里沙は紅茶に息を吹きかけながら、目を上げた。
「…んーん。何でも無い。戴きます。」
緊張がやや解れ、笑顔になった。
朝美は里沙に惹かれ始めていた。今まで、身近にいなかったタイプの大人だと思った。朝美の身近な大人は、父と義母と学校の教師だけだ。里沙も教師ではあるが、その前に一度公園であった時の印象が強い。
そして、その大人である彼女は、自分の周りにいる大人達と何処か違っていた。まだ知り合ってほんの短い時間しか経っていないのに、里沙の言葉にはもう何度と無く驚かされてきた。
人として、朝美にとって、とても魅力的な女性だと思った。
「ところで、朝美さんの夢ってなんなの?」
ケーキを皿に取り分けながら、里沙が言った。
「あたしの夢は…、…ただ、落ち着いて生活したいだけ。」
「随分と老成した事を言うのね。」
「老成?」
「落ち着いた、ちょっとお年寄りのような、って言う事よ。」
朝美は少しむっとした。
「年寄りって…、酷いな。」
里沙は声を出して笑う。
「ごめんなさい、悪気があったんじゃないのよ。ただ、あなたくらいの歳の子が語る夢にしては、ちょっと珍しいわ。」
「…だって、ソレしかないんだもん。特に将来やりたい事がある訳でもないし、勉強だってあんまり好きな方じゃないし。」
「勉強が好きな子って、いるのかしら?私だって余り好きじゃなかったわよ。」
「でも、里沙さんはインテリアデザイナーに成る為の勉強、独学でしているんでしょ?」
「ソレは学校の勉強とはちょっと違うもの。自分が好きで、興味がある事だったから、雑誌や本も読むし、昔から絵を書くのは好きだったから、描いて見るようになったのよ。始めは雑誌の写真を見て写したりして。その内に、このデザインのココをこうしたらどうだろう?って思い出して、線を加えて…。そうこうしている内に、自分でデザインをして見たくなったから、アルバイトにそういう事務所を探して。…それからよ、本気で勉強始めたのは。」
「そーなんだ。でも、里沙さんは好きなことに巡り会えたから、そーやって勉強を始められたんでしょ?…あたしには、まだ無いからな。」
里沙は紅茶に口をつけ、一息ついてから聞いた。
「でも、興味のある事はあるでしょう?」
「うーん…、そーだな。」
ちょっと悩んでから、朝美が答えた。
「ファッションには、興味あるよ。…でも、自分でデザインしたいとかは思わない。雑誌眺めて見たり、ウインドーショッピングは良くする。けど、それって皆やってる事じゃない?特別どうとは思わないな。」
「それで良いんじゃない?本当にそう言うことが好きなら、マヌカンに成るって言うのも、一つの道よね。」
「エー!?マヌカンって、凄く大変だって聞いてるけど。ノルマとか、達成できないと凄い高い商品、自分で買ったりして数字を挙げるって…、」
「詳しいのね、誰かに聞いたの?」
「…ちょっと。」
朝美は渋い顔つきになる。その話しは、義母から聞かされてきた話だった事を思い出したからだ。
義母は、結婚するまでそういう職種に付いてきた人だった。まだ朝美が大人しく彼女の話しに耳を向けようとしていた頃に、よく聞かされてきた内容だった。
その影響か、あの人は世間体、周りの目と言うモノを物凄く気にする。ファッションは勿論の事、家の外での態度も。朝美と出掛けた時等には、ソレこそ見栄を切って良い母親である事をアピールしようとする様子が良く見えた。それも朝美が小学生くらいまでの事だ。
それ以降は、朝美自身が成るべく義母と出掛ける機会を避けてきたのだ。思春期に差し掛かる毎に、義母の態度が腹立だしく思え始めてきたからだ。
もしも、そんな話しを聞かされて来なかったならば、朝美の夢の中にマヌカンと言う選択肢も生まれてきていたのでは無いかと、自分でも思っている。それ位、ファッションには興味もあった。
黙ってしまった朝美の様子を見て、里沙が言った。
「マヌカンでなくても、どこかの衣料品販売店の売り子さんとかでも良いんじゃないかしら?デパートとか、大きなメーカーチェーン店の販売とかでも。」
「…まぁ、そーかもしれないけど。…でも、やっぱり厭だな…。」
あの人と同じような職種に付くと言う事は、否定し続けて来たあの人の人生を、認めてやった事になってしまいそうで、朝美は頑なに、自分の好きな道から違う道を探そうとしていた。
まだ、里沙にも詳しく話そうとは思えなかった。興味は惹かれる人だけれど、そこまで心の内を曝け出し切れるほどの信頼は、まだまだ持てる訳も無かった。
「…ゆっくり、探せば良いわ。まだあなたは高一何だから。急いで答えを見つけようとしなくても、良いのじゃないかしら。」
「それでいーのかな?」
「良いと思うわよ。それより、ケーキ戴きましょう。つい欲張って買い過ぎてしまったわ。久し振りだったから。」
「一人ノルマ3個。」
「夕ご飯、入らなくなってしまいそうよ。」
「あたしは平気。甘い物は別腹だから。」
「逞しい胃袋ね。」
「若いって言ってよ。」
「ハイハイ、そーね。どれから食べ様かしら?」
ワクワクしながら、二人でケーキを選び始める。朝美にも里沙にも、久し振りで感じた、一人では無い楽しい時間だった。
紅茶を一人三杯もお代わりをし、ケーキも三個づつ平らげて時間を見ると、7時近くなっていた。
「大変、お家の人が心配してしまうわ。そろそろ送って行くわね。」
「…いーよ。送ってもらわなくても。一人で帰れるから。」
ふと、暗い表情を見せた後、無理に笑顔を作って朝美が言った。里沙は一瞬の暗い表情を見逃さなかったが、気付かない振りをして言った。
「でも、もう外、暗いわよ。私が誘ってしまったんだし、何かあったら責任を感じてしまうわ。」
「大丈夫。中学生だって部活で遅くなれば、こんな時間になるよ。」
「でも、」
「…じゃ、駅まで送って下さい。それでイーです。」
「…そう?じゃ、電話番号を教えておくから、お家に着いたら連絡を貰えるかしら?」
「えー、面倒臭いなぁ。」
「あなたが無事にお家に着いた事が判らなかったら、今夜、眠れなくなってしまうわ。夜更かしはお肌に悪いのよ。私の美容と健康の為に、お願いよ。」
ちょっとおどけた様な口調で言った里沙に、朝美は小さく吹き出してしまった。里沙も笑顔になる。
「二十歳過ぎたら、肌荒れも気になるもんね、オバサン!」
「また、そんな憎まれ口きいて。」
「素直なだけです。…ちゃんと連絡するよ。」
「そう。じゃ安心して夜、眠れるわ。」
帰り支度をした朝美と、玄関まで向かいながら里沙が言った。
「もし良かったら、また遊びにいらっしゃいよ。私も一人じゃ寂しいのよ。…でも、内緒ね?学校、クビになったら大変だから。」
「分かった。あたしもこの家、気に入ったよ。ちょっと広すぎて落ち着かないけど…。またお邪魔します。ご馳走様でした。」
「どう致しまして。じゃ、駅までね。」
鍵を閉め、駅とは反対側に向かう里沙に慌てて追いつく。
「こっちじゃないよね?」
「こっちで良いのよ。車が置いてあるの。」
「え?持ってるの?…生意気!」
「生意気って事は、無いでしょう。」
「だって、家の父親だって持ってないのに。アルバイト教師なんでしょう?」
「そうよ。でも無いと不便なのよ。その為にアルバイトしている様なものなのよ、私は。叔父夫婦から管理人代って事で、生活費はお給料として、ちょっとだけ貰っているの。」
「うわ、リッチ!」
「そーでもないわ。だから、働いているのだもの。」
「そーなんだ。」
「この車よ。」
小さな工場の駐車スペースに、レモンイエローの軽自動車が一台、止まっていた。
「流石に軽なんだ。」
「だって、コレで充分だもの。さ、乗って。」
運転席から身体を横に伸ばしてロックを外し、扉を軽く開く。
「お邪魔しまーす。」
「どーぞ。シートベルトはしてね。」
「はい。」
「じゃ、行くわよ。」
エンジンを掛けライトを着けると、里沙の軽自動車は注意深く道に出て行った。
駅まで朝美を送り、家に帰ると、また一人きりの寂しい空間が里沙を待っていた。
「ただいま…。」
誰に言うでもなく、一人呟いて靴を脱ぐ。
先に風呂に湯を張りながら、リビングの食器を片付ける。小さな溜め息が漏れてしまう。
「いやだわ…。どんどん暗くなって行ってしまうみたい。」
片付けの途中で、リビングのテレビを付けに行った。音を大きく調節する。人の声が少しでも流れていた方が、安心出来る気がした。
片付け終え、先に風呂へ入ってしまう事にした。夕飯は流石に入りそうも無い。少食な里沙には、ケーキ三個が結構な重量に成っていた。それでもつい食べ切ってしまったのは、一緒に食べてくれる相手がいたからだ。里沙は本気で下宿を始めようと、決心していた。
風呂から上がり、リビングでテレビを眺めながら薄い水割りを飲んだ。先程まで別の人間がいたリビングは、返って一人の孤独さを引き立たせている様な気がする。電話が鳴った。受話器を上げると、朝美の声が聞こえてきた。バックで微かに車が走り去るエンジン音がしている。
「ちゃんと、お家に着いたの?」
「うん。今日はご馳走様でした。無事帰宅しましたから、安心してお休み下さい。」
態と明るくしている様な声の調子が気に成ったが、敢えてそこを指摘する事はしなかった。挨拶をして電話を切る。少し気になった部分はあったものの、里沙は残りの水割りを飲み切り、アルコールの力を借りてベッドへ入った。それ程、深くは眠れなかった。
電話ボックスから、朝美は出てきた。家はもう直ぐそこだ。
門の前でやや躊躇った後、思い切ってドアを開け、帰宅したのだった。
四
朝美が玄関を入った時間は、夜9時少し前だった。
自宅の最寄駅に降りたはいいが、どうしても真っ直ぐに帰宅する気に成れず、駅前の本屋でたっぷり一時間半は時間を潰し、ファッション雑誌を2冊、立ち読みしてから帰途に着いた。
そのまま家に帰らずに、フラフラしていようかと言う考えが一瞬、頭を掠めたが、里沙の事を考えて帰宅したのだ。
彼女には余り心配させない方が、良い様な気分になっていた。
ここ数年間の朝美としては、実に久し振りな感情だった。自分に関る他人の気持ちを慮って行動すると言う事が、出来なくなってきていた。
ただいまも言わずに、真っ直ぐに二階の自室に向かう朝美の足音を聞いて、キッチンから義母が顔を出した。
「また、挨拶もしないで。夕ご飯はどうするの?」
「…後で行きます。」
「そう。」
そっけなく言葉を交わし、義母は再びキッチンに引っ込んだ。
自室に行き、服を着替えてから向かいの部屋をノックする。
「智紀、ゲーム貸してよ。」
ドアを開け、声を掛ける。
「あ、今ダメ。ちょい待ってて。」
血の繋がらない二つ違いの弟・智紀は、まだ二歳になったばかりの頃に、義母と一緒にこの家に来た。
義母にはどうしても良い感情を持てないでいた朝美も、まだ何も分からない幼い義弟に対しては、朝美からの勝手な同情心と、哀れみとでも言う様な気持ちから、良く面倒を見てきた。智紀も、小さな頃から朝美には良く懐いていた。
「セーブするから、対戦しようよ。」
セーブ画面に変わると、智紀が顔をこちらに向けてニッコリする。
「あ、でも姉ちゃん、飯食ったの?さっきお母さんがブリブリ文句言ってたよ。」
「お腹空いてないんだもん。空いたら、食べに行く。」
「太っても知―らね。」
「生意気だな。何処でそーゆー事、覚えて来るんだよ?」
「クラスの女子がいつも言ってるよ。菓子食いながら。バッカでーって思う。そー思うんだったら菓子なんか食わなきゃイーのに。」
ゲーム機の電源を切り、ソフトを取り替えながら言う。
「アクション?」
「うん。この前、隠し通路見つけたんだ。」
「あたしは格闘がやりたい。」
「イーじゃん、隠し通路教えてやるから、一緒にやろーよ。」
「じゃ、ちょっとね。」
ゲーム独特の音楽が聞こえ出す。コントローラーを持って、智紀の横に腰を下ろした。
この家にいて一番リラックス出来るのは、智紀といる時だった。そこに両親のどちらかが入ってくるだけで、朝美の雰囲気が変わる。智紀はそれを、良く知っていた。
それでも幼い時からずっと面倒を見てくれている義姉の良い所は、自分が一番知っていると思う。まだ中学二年の少年だが、一端な大人の男にでもなった気持ちで、朝美を庇ってやりたいと思っていた。
二人でゲームに夢中になっていると、階下から父親の声が呼びかけた。
「朝美!飯、食わないのか?」
何で父親が、と思う。きっと階下で義母に言い付け口をされたのだろう。
朝美の表情が曇る。
「やられた!」
智紀が大声で言った。
「姉ちゃん、強いな。」
「ゲームやってるのか?」
父親の声がする。
「リベンジしてたんだ。」
コントローラーを置き、ドアを空けて智紀が言った。
「朝美はまだ飯を食ってないんだ、あんまり無理矢理に付き合せるな。智紀、宿題は?」
階段を上がってきながら父親が言った。
「これからヤルよ。」
「もう十時だぞ。見てやろうか。」
「イーよ。簡単だから。」
ドアの前で智紀が父親と話している。これでも庇ってくれているつもりなんだと思って、朝美は少し笑ってしまった。
「今、行きます。」
少し気が楽になって、朝美はコントローラーを置いて立ち上がった。
キッチンに入り、ダイニングに行くと、義母が無表情で給仕する。
この人の無表情は、イコールで怒りを抑えている事と結ばれる。そろそろ何か言い出すだろうと思いながら、ぼそぼそと食事を進める。
「朝美さん、何時も何処に行っているの?態と遅くに帰って来て、食事もしない。珍しく食べると言ったと思ったら、こんな時間まで降りてこない。…あたしの作る物が気に入らないなら、そう言ってくれる?」
「…。」
「その代わり、自分の分は自分でやってね。そうしたら、あたしは今後一切、あなたの分を作らない事にするわ。」
「…ご馳走様。」
半分もおかずを残して、席を立つ。義母の眉間がピクリとした。そのままダイニングを出ようとする朝美に、ヒステリックな声を上げる。
「あなたって子は!いったい何が気に入らないの?智紀もあなたも差別して育ててきたつもりは無いわ!あたしはこれでも努力して、あなたの良い母親になろうと頑張ってきた。それなのに、あなたは何時までもそうしていじけて、最近は帰ってきても只今の一つも言わない、朝も何時、家を出たのか判らない、ちゃんと話し合おうと思っても、ろくに返事もしない!いいかげんにして頂戴!!」
階段を降りてくる二つの足音。
「どうした?」
父親が姿を表す。智紀も父親の後ろに表れる。
「あなた、あたしはもう、この子と上手くやって行けません。我慢の限界です!」
わっと泣き出した。智紀が後から、何とも言えない顔をして、ダイニングの様子を見詰めている。
その横をすり抜けて、朝美は玄関に向かった。
「姉ちゃん!何処行くんだよ?」
靴を履き、扉に手を掛ける。
「待って!」
手を伸ばす。すんでの所で朝美を捕まえ損ね、軽くバランスを崩す。
朝美は外へ出て行った。智紀が姿勢を立て直して、靴を履き、追いかけて玄関を出た。
駅の方へと足が向いた。何処に行くつもりも無ければ、財布も持って来ていない。それでも少しでも家から遠くへ行きたくて、闇雲に歩いて行く。
「姉ちゃん!待てってば!」
後から腕を掴まれた。振り解こうとする。
「無理だよ。これでも部活で筋肉、鍛えてんだから。」
確かに、力が強くなってきていた。昔は腕相撲でも負けた事が無い義弟だ。もうちょっと力を入れれば振り解けそうなのに、朝美は妙に力が抜けてしまった。
「いつものヒステリーじゃん?気にする事無いよ。」
「…気になんて、してない。」
「じゃ、何で家、飛び出すんだよ?」
「智紀には関係無い。」
「関係無いって事、ない。家族だよ。」
「あたしとあんたは血が繋がってないんだから、他人よ。」
「違うよ、姉ちゃんは、姉ちゃんだよ。おれは姉ちゃんの弟だろ?」
「……。」
「おれ、姉ちゃんこと好きだぜ。良い姉貴だって、何時も友達に言ってんだ。ちっちゃい時から良く遊んだし、庇って貰ってきたモンな。」
「……。」
「姉ちゃんの方が喧嘩強かったモンな。おれが泣きべそかいてると、誰にやられた?っつって、殴り込みに行っちゃうんだもん。恐ぇ姉貴だなって、良く言われたよ。」
笑いながら言った。
「…なんで、智紀が追いかけてくるんだろう?」
「え?」
「…普通は、父さんが来てくれても良さそうじゃない。」
「父さんは、お母さんに捕まってんだもん。仕方ないじゃん?」
「あたしじゃなくて、あの人の方が大事なんだ…。」
智紀の表情が一瞬、険しくなった。ほんの少し、キツイ口調で問い掛ける。
「姉ちゃん、何でお母さんって、呼ばねーの?」
「呼べる訳ないじゃない!あたしのお母さんは、一人だけだもん。」
「何で?おれは父さんが二人いるけど、平気だよ。」
「あんたは、本当の父さんのことを良く覚えてないだけだよ。だって、家に来た時、まだ二歳になったばっかりだったんだよ?」
「…でも、ちょっとは覚えてるよ。」
「あたしは凄く良く覚えてるの!あんたのお母さんとは全然違う、暖かくて、優しいお母さんだったんだから!!」
智紀の表情がまた険しくなる。
「そー言う言い方ってないよ。お母さんだって、一生懸命だと思うよ。そりゃ、おれから見てもタマにちょっと違う気は、するけど…。」
「結局、智紀もあの人の味方なんだ!?そりゃそーよね。実の母親と、血が繋がっていない義理のお姉さんじゃ、母親の方が大事だモンね!」
「何でそんな言い方するんだよ!?おれは姉ちゃんだって、お母さんだって、同じくらい大事だよ!勝手に思い込んでんなよな!」
智紀の、朝美の腕を掴む手に力が篭った。
「…っ痛い!放してよ!!」
今度こそ懇親の力を込めて、朝美は智紀の手を振り払い、走り出して行ってしまった。
「…勝手にしろよ。」
立ち尽くしたまま、智紀が小さく呟いた。
暫く朝美の消えた夜の街を見詰め、踵を返して家に向かった。
朝美は足の向くままに走って行った。気が付くと、駅前の小さな公園のベンチにいた。背凭れに手をつき、荒い息を抑えてやっとで腰掛ける。
そのまま暫く呆然としていた。
荒い息が落ち着き、心臓の音が駆け足から徒歩の速さへと変わって行く頃、漸く少し冷静になれた。
『…あたし、智紀に酷い事言っちゃったな…。』
反省の念が、朝美の心に重く圧し掛かってくる。
智紀が自分のことを実姉の様に慕い、思い、心配してくれている事は、朝美にも感じ取る事が出来ていた。
そしてあの義弟は、思い遣り深い優しい性質の持ち主で、歳の割りには確りとした考え方の出来る賢い子だと言うことも、朝美には判っていた。
昔はそれこそ、その性格が災いして、良く近所の悪ガキどもにいじめられていた。その度に朝美は智紀をいじめた連中に、一人殴りこんで行き、大喧嘩をやらかして来る様な、かなり活発な少女だったのだ。
しかし、中学に上がった頃からだろうか?朝美の、その活発な様子が成りを潜め始めた。
その頃になると智紀も大分強くなってきて、本来あの子が持っていた良い性格が周りから慕われ始めた。小学五年の頃にはクラスメートからの推薦で、生徒会委員へクラス代表として立候補する程になったのだ。
義母には本当に自慢の息子だった。血が繋がらない朝美と自慢の実子と、扱いの差がはっきりと別れ始めたのも、その頃からだ。
父親も智紀を愛した。出来の良い息子が出来たのだ。嬉しいに決まっている。朝美は家族の様子に、馴染め切れなくなって行った。
そんな環境の中でも、朝美が智紀を憎らしく思う様な事には成らなかった。それはやはり、あの子の性格だ。どんなに周りから期待を掛けられる様に成っても、全く変わらずに、朝美を実姉のように慕いつづけてくれた。二人は本当に仲の良い姉弟だった。
その智紀に、朝美は酷い事を言ってしまった。
暗く、重い気持ちに襲われる。
『あたしはただ、落ち着いて生活したいだけ。』
里沙に問われて出てきた言葉を思い出す。
『バカみたいだ…。落ち着ける環境を壊しているのは、自分自身だ。』
家の中で唯一、リラックス出来る時間と関係まで、些細な意地っ張りからの喧嘩で壊してきてしまった。
「…どーしよう…。」
小さく、声が漏れた。
このままでは益々、家に帰れなくなりそうだ。中々、腰を上げる事が出来ずに、朝美はその場所で一時間程の時間をぼうっと過ごした。
何時までも、このままでいる事も出来ない。でも、どうすれば良いのか分からない。そんな気持ちで首を左右に振ると、ベンチの上に、誰かが忘れて行ったらしい煙草と百円ライターを見つけた。
始めて里沙と会った日に、中学の同級生、能勢が咥え煙草をしていた事を思い出す。朝美は無償に吸って見たくなった。今まで吸った事は勿論ない。
手を伸ばし、紙のパッケージを探って見ると、まだ7、8本残っている。銘柄を見て、それほどキツイ煙草というイメージは無かった。朝美は好奇心の赴くまま、不器用な手つきで一本取りだし口に咥え、百円ライターで火を着け、恐る恐る吸って見た。
始めの一吸いで、軽く咳込んだ。しかし、もう一度、煙を吸い込んで見ると、以外とすんなりと喉に入ってくる。煙を吐き出す。
『何だ、こんなモンか。』
そう思うと、それまで良く判らずに嫌っていたのがバカバカしくなってきた。余り美味しいとは思えなかったが、何となく気分が落ち着くような気がする。
フェルターから2.3センチを残す所まで吸い続けると、きつくなってきた気がして、ベンチの隣に据えられていた灰皿で揉み消した。
『コレ、貰って行っちゃおう。』
何となく気分が落ち着いて、家に帰れる様な気がした。それが煙草の所為とは言い切れないと思ったが、両親への反抗心も手伝って、朝美は煙草とライターをフレアスカートのポケットへ仕舞い込んだ。
五
翌日、廊下で朝美を見かけた里沙は、小さく声を掛けた。
「朝美さんのお家は、ここから遠いの?」
「え?あ、里…野沢先生。昨日は、ありがとうございました。」
「ちょっと、資料運ぶの手伝ってもらえるかしら?」
周りの目を気にしている事が判り、朝美は素直に頷いた。
学習準備室の鍵を開け部屋に入る。扉を閉めて、二人で顔を見合わせた。小さく笑いあう。
「何か、変な感じね。」
「そーですね。」
二人が仲良くしている事は秘密にしなければ成らない。何かあった時に、教師である里沙に疑いが掛かるかもしれないし、その点では朝美も気を使おうと思っていた。
「ところで、お家、遠いの?昨日、朝美さんから電話が来たのが遅かったでしょう?」
資料を探しながら、里沙が言った。
「自宅の最寄駅、駅前の本屋さんで立ち読みしちゃって。」
「そうなの?どれくらいの時間?」
「えっと、ファッション誌を二冊読み切ったから、大体一時間半くらいかな?」
「呆れた。よくそんなに立ったままいられるのね。」
「若いから。」
「ハイハイ。直ぐそう言うんだから。どーせ私はオバサンですものね?」
「あはは。良く判ってる!」
「もう、失礼ちゃうわ。」
笑顔で膨れた振りをする里沙に、朝美は心の中で謝った。そして同時に、相談をしたくなった。
智紀に謝ろうと思っても、どう言ったら良いのか判らない。
昨日、智紀に対して放った言葉は今更、取り戻せない。きっと随分、怒らせてしまった筈だ。今朝、智紀は部活の朝練があり、朝美が階下に降りて来た時には、もう出掛けていた。
義母とは、一言も口をきいていなかった。父親とだけは、夕べ帰ってから少し話し合った。父はいくらか朝美に対して、申し訳無い気持ちも持っている。それは普段の態度で良く判る。
けれど最近は年頃の娘として、他の家庭でも良く見られる様な父娘関係が続いている。父親がウザクなる年頃、と言う事だ。
『下着を一緒に洗わないで』と言う程の酷さはないが、会話はここ一、二年程、殆ど交わされていなかった。
「里沙さん、今日もお邪魔して良い?」
「構わないわよ。でも今日はケーキじゃなくて、クッキーにしましょうか?実は昨日、ケーキでお腹が一杯になって、お夕飯食べられ無くなってしまったの。」
「何でも良い。…ちょっと、相談したい事があるの。」
「あら、嬉しい。私でお役に立てるかしら?」
「…多分ね。」
「じゃ、行きましょうか?」
学習資料を一通り持ち、その内の半分を朝美に渡した。資料室を出ると鍵を掛け、職員室に向かった。
放課後、朝美は昨日の様に、門柱の影で里沙を待っていた。
「お待たせ。」
校庭側から、上半身を覗かせる様にして姿を表した里沙が、笑顔で言う。
朝美は周りを見回して、言葉を選んだ。
「野沢先生、リーダーの発音で聞き取れない所があるんですけど?」
里沙は、自分達の隣を通りながら挨拶をして行く生徒に、挨拶を返す。
「良いわよ。歩きながら聞かせて貰おうかしら?」
朝美に軽く、ウインクをする。
「お願いします。」
ぺこりと、頭を下げる朝美を促して、歩き出した。
「はー、気―使うな…。」
学校から離れ、周りに同じ制服姿を見かけなくなってから、朝美が溜め息を吐いた。
「そーね。…ここに寄ってきましょう。」
洋菓子店の前で、里沙が言う。
「このお店の手作りクッキー、美味しいのよ。」
「知ってる!あたしも時々、買ってくよ。」
店に入り、クッキーが並べてある籠を物色し始めた。
「どれが好き?」
「チョコチップクッキー。ミルクとビターがあるでしょ?そのビターが好きなんだ。」
「あたしは、チョコじゃなくって、ミルククッキーが好きなのよ。」
「そーなんだ。」
二人で12枚分も選び、取り分け籠を一杯にして会計を済ませた。
「また、買い過ぎちゃったかしら?」
「残ってもいいじゃん?明日食べれば。」
「そーね。ケーキと違って生物じゃないものね。」
「そーそー。」
店を出て、里沙の家に向かった。
今日も里沙が、良い香りがする紅茶を入れてくれた。
「昨日のと、違う…?」
一口飲んで、朝美が聞いた。
「良く判ったわね。昨日のは、アールグレイベースの紅茶で、今日のはダージリンベース。結構、凝っているのよ。」
「へー。何種類くらいあるの?」
「家には四種類くらいしか用意してないんだけど、良く紅茶の専門店に行くわ。そこで色々飲んでみて、気に入った物を買ってくるのよ。」
「今度、そのお店教えてよ。」
「良いわよ。一緒に行きましょう。」
紅茶に口をつけ、クッキーに手を伸ばす。
「…それで、どんな相談?」
「…うん。先ずは家のこと話さないと、意味が分からないと思う。」
「聞かせて頂戴。お家の事からどうぞ。」
「…長くなるけど。」
「構わないわ。」
「…じゃ、先ずは口を挟まないで聞いてて。」
朝美は、自分の家族構成から詳しく、里沙に話して聞かせた。
「そう言う事情のあるお家だったのね…。」
家族構成と両親、義弟の人となりまで話が終わり一息付いた時に、里沙が一つ頷いた。朝美は頭の良い子だった。
学校の成績とか勉強が出来る、と言う意味ではない。話しの筋道を立て、他人に対して確りと説明出来る。そう言う意味での頭の良さだ。
そこまでの話を聞いて、担任教師の最近の評価を照らし合わせて見て、合点が行った。
朝美の行動は、つまりは義母を始めとする家庭に対する、一種の抗議行動と見て良いようだ。
「トイレ、借りて良い?」
朝美が視線を伏せて言った。
「どうぞ。ダイニングを抜けて、突き当たりのキッチンの出入り口を出て、左側になるわ。分かるかしら?」
ソファを立ち上がった朝美が、案内に立とうとする里沙に断った。
「分かると思うから。ね、もう一杯、紅茶入れてくれるかな?」
「ええ。じゃ、もう一度お湯を沸かさないと。」
やはり立ち上がる。キッチンまでは案内半分で先に立って行く。
「こっちね?」
出入り口を出ながら呟いた。ポケットに、昨夜ベンチで見つけた煙草とライターを忍ばせていた。
家族の事、殊更、義母の事を話した所為か、無償に覚えたばかりの煙草を吸いたくなっていた。でも、里沙の前で堂々と喫煙する事は憚られた。
電気のスイッチに並んで、換気扇のスイッチがあった。両方をオンにして個室に入ると、便座カバーを上げ、成れない手つきで煙草を出し、火を着けた。静かに煙を吸い込んで見る。何となく気持ちが落ち着いてくる。やはり2、3センチの長さを残して便器に捨てた。ペーパーをカラカラ回して音を出し、丸めて捨ててから水を流した。
制服にほんの少し、煙草の匂いが移っている様な気がした。バサバサと上着を振って、もう一度着直してからトイレを出た。
里沙はリビングで新しい紅茶を入れていた。ティーポットから良い香りが立ち上っている。さっきとまた違う香りがした。
「違う種類の紅茶、入れて見たのよ。どうぞ。」
元の席に落ち着いた朝美に、新しい紅茶を勧める。やや、眉を顰めた。
「何か、違う匂いがしてるみたい。」
ドキッとする。やっぱり、匂うのだろうか…?
「きっと、気のせいね。」
里沙は、朝美の制服についた匂いを、何となく感じていた。けれど身近に煙草を吸う人間はいなかった。直ぐにピンとは来なかった。
朝美は内心、胸を撫で下ろした。
「続きを、聞かせてくれる?ここからが、本題なのかしら…?」
「…そう。昨日の夜…、」
家に帰ってからの事を、智紀との会話も全て話した。
ただ、煙草を見付けた事だけは、内緒にしておいた。
一通り話し終え、朝美は小さく溜め息をつく。
「酷い事、言っちゃったよね…。智紀があたしの事、本当に心配しててくれた事くらい、分かっていたのに。あたし、アイツに何て謝ったら良いのか分からないんだ…。」
「率直に、夕べはごめんなさい。で、良いのじゃない?」
「どんな顔して言ったらいいの?きっと、本当は一番言ってはいけない事だったんだよ?あたしにとって、血は繋がっていないけど、一番大切な家族だったのに…。あたしがあんな事言っちゃったから…。きっと、凄く傷付けたと思う。」
「…朝美さんも傷付いているわよ。言ってしまった事で、あなた自身が酷く傷付いてると思うわ。…だから、良く解っているでしょう?智紀君のこと。そのまま、その気持ちで謝れば良いのよ。」
「……。」
「何を怒っているのか、どの言葉が相手を傷付けてしまったのか、全く解らないで謝っても伝わらないかもしれない。そんな時の言葉は相手の心に届き難いし、返って怒らせたり、傷付けたりしてしまうかもしれない。けど、相手の心を思い遣って、気付いてから自分の悪い所を謝るのなら、きっと相手も解ってくれると思う。」
「……。」
「だから、朝美さんは今の気持ちのまま、ただ率直に謝れば良いのよ。」
「…そうなのかな。…それで、良いのかな…?」
「私は、それが一番良いと思うわ。智紀君って、思いやりの深い優しい男の子なんでしょう?きっと今、朝美さんが物凄く後悔していること、気付いてくれていると思うわ。…信じて見なさいよ。家族でしょう?」
「…うん。あたしが家族の中で信じられるのは、智紀だけ。」
「じゃ、問題無いわ。今日、早速お話しなさいよ。」
冷めてしまった紅茶を飲み切った。
「もう一杯、温かい紅茶を入れるわね。朝美さんの気持ちが落ち着いたら、また駅まで送るわ。」
「…ありがとう。」
「ちゃんと仲直りしたら教えてね?」
「…うん。」
それから里沙が入れ直してくれた紅茶をゆっくり飲んだ。
飲み切った頃、漸く朝美の気持ちが落ち着いた。
今日も里沙の軽自動車に乗り込み、駅に向かう。里沙はハンドルを握ったまま、カーラジオに表示されている時計を確認した。
「八時ね。遅くなってしまったけど、大丈夫?」
「平気。どうせ昨日も遅かったし。」
「でも、お義母さんにまた悪い印象が残ってしまうわ。」
「そんなの…。関係無い。」
「そう。」
暫く会話が止まる。駅に到着する頃、里沙が言った。
「…けど、智紀君の為に、表面上だけでも良いから上手くおやんなさい。」
智紀の為に、そう考えれば出来るのだろうか…?少し考えて、呟く様に返事をした。
「…そうだね。」
駅前に車が止まる。朝美はシートベルトを外し足もとの鞄を持つ。ドアに手をかけた。
「お家に着いたら連絡、頂戴ね。」
「分かった。」
車を降りてドアを閉め、目を上げて里沙を見る。
里沙が身体を伸ばして、助手席側の窓を少し開けた。
「まだ、不安そうな顔をしてるわ。大丈夫?」
「そんな顔、してるかな…?」
「大丈夫よ。朝美さんが家族の中に、一人でも本気で大切に思える人がいるのなら、その一人の為に頑張る事は出来る。…私も、そうだったから…。私の場合は、お婆様の為に頑張ってきたのよ。」
ニッコリと笑顔を見せて言った。
「どんな人?」
「優しくて上品で、きちんとした方よ。私の目標なの。あんな風に歳を重ねる事が出来たら、とっても素敵だわ。」
「今度、詳しく聞かせてよ。」
「ええ、また美味しい紅茶でも飲みながら、ゆっくりと話しましょう。じゃ、気を付けてね。」
「うん。今日もご馳走様。…ありがとう。」
「お休みなさい。」
「お休みなさい。」
駅の明かりに朝美の姿が吸い込まれて行った。その姿が見えなくなってから、里沙は車を発進させた。
…また、一人切りの家が待っている。
六
9時前に朝美から連絡があった。
「無事、着きました。…これから、智紀と話をします。」
「そう、頑張って。きっと大丈夫だから。」
「…うん。」
そうして電話は切れた。
今夜は風呂上りに、ブランデーを落とした紅茶を飲んだ。やはり一人きりの家は寂し過ぎる。思いついて、エアメールを書いた。フランスにいる叔父夫妻宛だ。
内容は、やはり下宿を始め様と思うがどうだろうかと、伺いを立てる旨を認めた物だ。ただ、自分自身もまだ歳若い女である為、入居者は中学〜大学くらいまでの女の子に限定したい。そんな内容だった。
手紙を書き終えて封をすると、明日の授業の予習を少しだけしてからベッドに入った。今夜も余り良く眠れそうも無さそうだと思った。
里沙への電話を切り、階段を上がって、智紀の部屋をノックした。
電話は、リビングに親機があり、二台の子機は階段途中の踊り場と、キッチンの片隅に置いてある。今、使った電話は踊り場に置いてある物だ。
この場所にあれば、階下で誰か電話に出る事が出来なくても、朝美か智紀が部屋から取りに行けば済む。それで、その場所に置かれていた。
この親子電話が設置された時、朝美は自分の部屋に子機を置きたいとお願いをした。その時、父親と智紀はそれで良いと言ってくれた。
だが義母が、朝美の部屋にあって、智紀の部屋に無いのは不公平だと言い出して反対をした。二年ほど前の事だ。
部屋の中は静かだった。暫く間を置いてもう一度ノックをする。
「…どーぞ。」
寝ぼけた様な声がした。ドアを開けて顔を出すと、勉強机の椅子に座った智紀が振り返っていた。顔にノートの痕が着いている。
「勉強してた?ごめん…。」
「ちょっと、うたた寝してたみたいだ。」
眠そうな目をしばたたいて、智紀が小さく笑って見せる。
「…昨日はごめんなさい。」
朝美は思い切って頭を下げた。
「…いいよ。姉ちゃんの気持ちも分からない事、無い。」
「…本当に、許してくれるの?」
「許すって言うか…。でも、本当はお母さんとも、もう少し打ち解けて貰いたいって、思う。」
「…そーだよ、ね。」
「あ、でもこれは、姉ちゃんよりお母さんが大事とか、そう言う意味じゃなくて、何て言うのか…。家族じゃん?そりゃ、お母さんにも悪い所があると思うけど、でも、姉ちゃんも結構、意地っ張りな所があるのは確かだと思うし、おれも本当は、もっとはっきりしないと成らないって言うか…。」
頭を掻き掻き、一生懸命、言いたい事を纏めている。
「うん。」
「だからさ、やっぱり変にエコヒイキっての?されてる様な気はするんだ。おれはそー言う事されたくないって思う。それをさ、おれも、もっとちゃんとお母さんに言わなきゃ駄目なんだなって、昨日、思った。」
「…智紀の所為じゃ無いと思う。やっぱり、あたしがもう少し考えないと駄目なんだよ。…ちゃんと、お義母さんと話しをするから、だから、智紀は今まで通りでいてよ。でないと、あたしがリラックス出来る場所が無くなっちゃうから…。」
二歳も年下の弟に、頭が上がらない思いがする。智紀はまだ中学二年生なのに、高校生のあたしよりも、ずっと確りしている。
朝美は、顔を上げる事が出来ないでいた。
「うん。…でもやっぱ、おれも厭なことはイヤだって、お母さんに言うようにするよ。」
暫く沈黙があり、智紀が言った。
「でもさ、父さんは、姉ちゃんもおれもヒイキしてない様な気がするけど、やっぱり駄目なのかな?」
「駄目って?」
「クラスの女子がさ、自分のお父さんの事、嫌いだって言って盛上がってたりするんだよね。普通、女は年頃になるとソー言うモノだって、部活の先輩が言っててさ。姉ちゃんもそーなのかなって、思って…。」
朝美はキョトンとしてしまった。そう言われて初めて、この一、二年間の自分の態度を、改めて考えて見る。
「家の場合はちょっと特殊じゃん?それって、当てはまる物なのかな?」
「…それとは、ちょっと違うと思っていたけど…。理由は後から着いて来ただけなのかも知れない…。」
「理由?」
「あたしは、お義母さんと再婚した父さんに、…苛ついてた。」
「良く解らないや。」
「智紀には解らないよ。だって、女じゃないもン。」
「女だったら解るの?」
「解ると思うけど…。」
「じゃ、一生、解らなくても良いや。おれ、男だもん。」
朝美は小さく笑ってしまう。
「そーだね。いーよ、解らなくても。」
智紀も朝美の笑顔を見て、やっと少し気が解れた。
「…お母さんと話し合う時、おれも一緒にいてやろーか?」
「生意気!そこまで弟に甘えられる訳無いでしょ?」
「生意気ってこと、ないじゃん。心配してンだから。」
前にも聞いた事がある様な智紀の台詞に、里沙の事を思い出した。
『連絡、入れなきゃ。』
そう思った。
「ありがと。でも、あたしの問題だから…。勉強中にごめんね。」
「いーよ。寝てたし。」
部屋を出て行こうとする朝美に声をかける。
「姉ちゃんも、ちゃんと勉強しろよ。」
「それが生意気なんだよ。じゃーね。お休み。」
「お休み。」
ドアを閉めて、朝美はホッとして息をつく。
『里沙さんが言った通りだった。智紀だけは、信じられる。』
その思いに背中を押され、朝美は階下に降りていった。義母と、確りと話し合うために。
義母は、遅くに帰宅した父親の、夕食の給仕をしていた。ダイニングへ朝美が顔を出すと、父親が言った。
「朝美、まだ食ってないんだろう。席に着きなさい。」
「…はい。」
食事は余り喉を通りそうも無かったが、言われた通りに椅子に座る。義母が無言で朝美の分の食事を出す。箸を持たずに、朝美は切り出した。
「父さん、…お義母さん。話があるんだけど…。」
義母を呼ぶ時、一瞬、言葉が止まってしまった。それでも、智紀と里沙の事を思い出すようにしながら、何とか続けた。
「飯の後で良いだろう。兎に角、食べなさい。」
「…はい。」
促されて箸を持つ。朝美は無理矢理、残さずに食事を食べ切った。
静かな食卓だった。
「ご馳走様。」
「はい…。」
義母は、朝美が残さず食べ切った事が意外だと言う顔をして、食器を片付ける。父親は食後の緑茶を飲んでいる。
「…話し、有るんですけど…。」
「ああ、そうだな。万里子も片付けは後で良いから一度、座りなさい。」
義母にも声をかける。
「わかりました。」
手を途中で止めて椅子にかけた。父母二人を前に、朝美は小さくなって俯いてしまう。
二人共、何も言わなかった。そのまま五分ほど沈黙があり、朝美が小さな声で切り出した。
「…今まで、どうも済みませんでした。これからは、なるべく早く帰って来る様にします。食事もします。だから、これからも食事の支度、お願いします。挨拶もちゃんとするようにします…。」
思いつく限りの事を並べた。
「と、言っているが、万里子?」
「…あたしは、今言った事を確り守ってくれるなら、文句は有りません。」
「そうか。話しはそれだけか?」
他に言うべき言葉は浮かばなかった。朝美は小さく頷いた。
「あたしからも一つ。挨拶だけじゃなくて、キチンと返事もしてもらいたいわ。うんともすんとも言われなかったら、どうすれば良いか分からないでしょう。」
「…分かりました。ごめんなさい。…お風呂入って寝ます。」
「万里子、ビールを出してくれないか。」
「はい。」
義母と朝美が席を立ち、朝美は着替えを取りに自分の部屋へ向かった。
階段を上がって行くと、智紀が心配そうな顔をして、踊り場にある電話の隣に立っていた。
「良かった。」
「…何が?」
「また飛び出して行ったら、追いかけてやらなきゃと思って。」
「それで、そんな所で構えてたの?」
「…うん。」
「全く、あんたって子は…。もう少し姉さんの事、信用してよね。」
前を通り抜け、更に階段を上がって行く朝美の後を追うように、智紀も上がっていく。其々の部屋の前に立ち、ドアに手をかけて朝美が言った。
「勉強、終わったの?」
「うん。」
「そ。じゃ、お休み。」
「お休み。」
お互いの部屋に引っ込んだ。
朝美は着替えを持って直ぐに階下へ向かった。バスルームはダイニングからでないと入れない。
ダイニングでは父親がビールを飲んでいて、義母は片付けの続きをしていた。無言で、通り抜ける。
「朝美さん、洗濯物、後で部屋に持って行って下さいね。」
手を止めずに言った。無視しようとして思い直す。
「分かりました。」
そのまま、脱衣所へ入って行った。
風呂を上がってから、洗濯物を持って自室に戻った。
部屋に戻った時間は11時だった。朝美はヘッドホンを使って音楽を聴きながら、毎月買っているファッション雑誌を眺めていた。
洋服は、毎年お年玉を大切に使って自分で買っていた。
外では良い母親に見せたがる義母だ。朝美が小学生の頃は良く一緒に出掛けて、洋服を買い与えていた。ただし、朝美が気に入っても、義母のプライドが許す物で無ければ駄目だ。
元々、マヌカン等していただけあって、確かにセンスは悪くないが、好みが違った。朝美はトレーナーや綿シャツ、Tシャツ等、気軽に着れる洋服が好きで、デザインも余り可愛らしい物や、上品な感じの物よりは、ストリート系の物を好んだ。
義母に言わせると、そう言った物は安っぽい、下品な洋服。と言う事になるらしく、朝美が本当に気に入って選んだ物で、購入してくれた服は殆ど無い。義母に買い与えられた洋服は、一度か二度袖を通して、後は箪笥の肥やしになってしまった。偶にリサイクルショップに持って行って、小遣いに換えている。
色々なファッションを眺めたりするのは、大好きだった。ただ、自分に似合う物と、好きだけど余り似合わない物がある。余り好きではなくても、似合ってしまう物も…。
義母の好みは、その最後のパターンの物ばかりだった。それがまた苛つく原因になる。正直、そう言った服は周囲の評判が頗る良かった。だからこそ、自分が好きな事を活かせる職業に着きたいと言う夢を、朝美は頑なに拒否していた。
こんな意地を張っていたら、損をするのは自分自身だとは、朝美自身感じている。それでも…。
やはり将来は、ファッションと全く関係無い仕事につき、出来る限り早く、この家を出て行きたいと思っていた。
朝美は小さく溜息をつく。何時の間にか、音が聞こえなくなっていたヘッドホンを外した。
『もう寝よう。』
心の中で呟いて、電気を消してベッドに入った。
『明日、里沙さんに、智紀と仲直りした事を報告しないと…。』
将来の事、義母の事、父親の事…。考えたくなくても、頭に浮かんでくるそう言った悩みを思い出さないように、明日、学校で里沙に報告する時の事を思い描いて見る。
『智紀と仲直り出来たよ。』
そう伝えたら、里沙さんはどんな顔をするかな?笑顔で『良かったわね』そう言ってくれるだろうか?それとも、そっけなく『そう。』何て答えるのかな。何処で話そう?やっぱりまた、放課後に正門前で待ち構えてようかな?いっその事、朝早く出て里沙さん家の前で待っていようか?…それも、良いかもしれない。ちょっとでも早くに報告したいし。
何時の間にか、眠っていた。精神的に疲れたからかもしれない。
朝美が目を覚ましたのは、十月になったばかりの夜明けが訪れる、少し前だった。今から支度をすれば、朝、里沙に会うことが出来るかもしれない。そう思い、まだ眠っているかもしれない智紀を、足音で起こさない様に注意しながら、階下へ降りて行った。
七
早朝の空気はヒンヤリして、清々しく気持ち良かった。
今朝、階下に降りた時、義母は朝食の準備をしていた。義務と割り切っているのだろう。朝美の弁当は毎日作っている。それも、外に向けてのアピール要素が強い物だと思っているらしく、栄養バランスの取れたメニューを、盛り付けも見栄え良く作る。
最近、態とその弁当を持たずに出ていた朝美だったが、昨日の今日だ。今朝は大人しく鞄に入れた。
「今日は随分、早いんですね。」
挨拶をした後、直ぐにそう言われた。口調はいつも通りで、やや冷たく感じるくらいの丁寧さだ。
「ごめんなさい。日直でした。」
勿論、嘘だ。
「それならそれで何故、昨日の内から言ってくれないのかしら?お弁当、これから用意するのよ。」
「…すみません。」
智紀の為だ。自分に言い聞かせる。
「いいわ。先に朝美さんの分を用意します。これからは前日の内に言って下さいね。」
「…分かりました。」
内心、舌を出していた。それでも我慢して聞いていたのは、智紀の顔を立ててあげようと思ったからだ。
『里沙さんの言った通りかもしれない。家族の中に本当に大切に思える人がいれば…、智紀がいれば、頑張れそうだ。』
朝の空気を思い切り吸い込んで、駅に向かった。
玄関を出て、鍵をかけた。振り向いて出入り口のステップを踏んだ。
「おはようございます。」
いきなり声を掛けられ、足元を見ていた里沙は驚いて顔を上げた。
「朝美さん?びっくりした!…おはよう。態々、待っていてくれたの?」
「夕べ智紀と仲直り出来たから、少しでも早くに報告しようと思って。」
照れ臭そうな笑顔で、朝美が言った。
「そう。良かったわね。…私の言った通りだったでしょう?」
里沙は喜んでくれた。笑顔だ。朝美は何となく嬉しいと感じた。
「うん。…でも、義母とはあんまり。」
「急ぐ事は無いわ。段々、段々。ね?」
「…そーだね。…平気になれるのかな?」
二人で並んで歩き出す。
「それは、時間が掛かるかもしれないけど。大丈夫よ、きっと。」
「そーかな?」
「智紀君がいるでしょう。私も応援してるから。」
「…ありがとう。」
「ストレスが溜まってどうしようも無くなったら、また家にいらっしゃいよ。美味しい紅茶、ご馳走するわ。」
「うん。でも、当分は早くに帰らないと。」
「そうね。もし良かったら、日曜日にお出でなさいな。お昼、ご馳走するから。それなら平日は早くに帰れるでしょう?」
「…もしストレスが溜まり過ぎてどうしようもなかったら、逃げてくるよ。…里沙さん、本当にありがとう。」
「どう致しまして。私も一人の時間が紛れて、嬉しいのよ。」
「…あの家、やっぱり広過ぎるよね。」
「そうね…。」
学校が近付いてきた。運動部の朝連はもう始まっており、それ以外の生徒はまだ、登校するには早過ぎる時間だ。並んで正門を入り、教員用玄関と、生徒の下足場に分かれて校舎に入って行った。
「二時間目に会いましょう。」
「うん…、じゃない。はい。」
ぺろりと舌を出して、はにかんだ笑顔を見せる。里沙は、笑顔で小さく手を振った。
職員室で、隣席の葉山と挨拶を交わして椅子にかけると、大崎が近寄って来た。
「おはようございます。」
「おはようございます。野沢先生、少しお話しがあるんですけど、良いかしら?」
「はい。」
席を立ち、職員室の廊下を挟んだ、向かい側にある会議室へ入った。
里沙に椅子にかけて待つように促し、大崎は二人分の茶を運んできて席に着く。
「朝からごめんなさいね。高田さんの事で、ちょっと。」
そうだろうとは思っていた。大崎は大崎で、何か朝美の家庭内の事情を掴んできたのかもしれないと思った。
「はい。何か分かったのでしょうか?」
頭の中では、自分が本人から聞いて知った内容を、どの程度報告するべきか考えていた。先ずは大崎の言葉に耳を傾け様と決める。
「彼女の、中学の担任教師と連絡を取って見たの。」
一言、言ってから、長い話をする為の準備のように一口、茶を飲んだ。
「彼女は中学の頃、素行が余り良くない生徒とも親しい様な所があったらしくて、何度か生活指導をした事があったと言うの。彼女自身は、やや欠席や遅刻が目立った位だったから、それ程厳しい指導をした訳ではなかったそうだけど。ただ、何度か職員室に呼んで、そう言った生徒との関りをなるべくしない様にと言う注意を、しただけだったらしいわ。」
それは初耳だ。里沙は家庭の事情を聞いただけだった。
「そうなんですか…。そんな雰囲気は、感じませんでしたけれど…。」
大崎はもう一口、茶を口に運んだ。
「それで当時の担任教師も遅刻、欠席の事で親御さんに一応、連絡をして見たと言うの。本人の交友関係についても、それとなく伺って見たらしいのだけれど…。」
恐らく、ご両親は朝美の交友関係に、あまり詳しくなかったのでは無いだろうか?
そう思った里沙の推理は的中していた。
「交友関係に着いては、全く気付いていない様だったと言うのね。」
『やっぱり。』
昨日聞いた話の中で、朝美が両親とそれなりに会話を交わしていたのは、小学校を卒業する頃までだったと言っていた。
「ただ、そこで分かった事が、高田さんのご家庭はご両親が其々のお子さんを連れての、再婚だった事。そして、お義母様と言うのが、ご主人の連れ子であった朝美さんを、持て余し気味らしかった事。」
朝美の立場から逆で、義母側から見たらそうなるのだろう。
「私が当たって見て知る事が出来たのは、その程度だったのだけど…。」
小さく溜息を吐いて、続けた。
「状況から考えてみて、恐らく今でもご家庭は…。特に朝美さんと、お義母様の関係は、余り芳しくない様に感じられるわ。」
里沙は、自分の知った事を報告するかどうか、まだ躊躇っていた。
「今朝、高田さんと一緒に正門を入った所を、目にしたのだけれど…。野沢先生、貴女は何か聞いてるかしら?」
そう言われて決心した。
「実は…。教師として生徒である彼女に、どの程度踏み込んで良いのか、少し考えてはいたのですが…。」
そう切り出して、一昨日、朝美が正門で待っていた時から昨日の事までを、出来る限り詳しく説明し始めた。
一通りの話しを聞いた後、大崎が言った。
「そう。教師が生徒を下校時、自宅に招いた事は感心出来ないけれど…。良く聞かせてくれました。ありがとう。」
「すみません。やはり、良くない行動でした。」
大崎は冷めた茶をもう一口、口にする。
「今の彼女には、教師としてではなく、個人としての貴女が必要かもしれませんね。…この事は、私達だけの秘密にしておきましょう?」
上品な笑顔を見せる。
「ありがとうございます。」
「けれど、下校時に自宅に招くのは、もうしない様にして下さいね。…休日に友人として招く分には、問題無いと思いますけど。」
「はい。」
俯いてしまった里沙の肩に、優しく手をかける。
「出来るだけ、彼女の事を見守ってあげて。私も良く注意するようにします。ただ、今まで通り、学校では他の生徒と変わらない対応を、お願いしますね。」
「分かりました。」
その時、朝の予鈴が鳴った。
「もうこんな時間。急いで授業の準備をしないと。野沢先生、お時間取らせてしまって、ごめんなさいね。」
大崎が壁の時計を確認して、席を立った。湯のみに手を伸ばす。
「いえ。私が片付けておきます。今日は二時間目の三組からですし。」
「そう?ありがとう、お願いします。」
慌てて会議室を出て行った。
里沙は手を着けていなかった自分の茶を口に運ぶ。冷めてしまった茶をゆっくり飲み終えてから、二人分の湯のみを片付け、職員室に戻った。
それから約一ヶ月の時が流れた。
その間、朝美は真面目に登校し、帰宅も遅くなる事は無かった。里沙は漸く代任教師としての生活に慣れ始めた。
毎日曜日は、朝美を自宅に招いたり、時には紅葉を見にドライブに出掛けたりして過ごした。やや歳は離れているながらも、二人の間には友情の様な信頼関係が成立してきたのだった。
仲良くなるにつけ、朝美は色々な事を話す様になった。
里沙が朝美の喫煙を知ってしまったのも、朝美の心の中で里沙に対する構えが取れてきた事の現れだったのだろう。
それは、二人で過ごした三回目の日曜日の事だった。
その日は、十一月に入ってすぐの日曜日だった。
その前の週、朝美が里沙の家のリビングで紅茶をご馳走になりながら、小さな頃の思い出を語った。
「あたしがまだ三歳頃だったと思うんだけど、実の母さんと、父さんと三人で埼玉の城峯公園って言う所に、桜を見に行った事があるんだ。」
「四月頃?」
「ううん。十月だった。写真がアルバムに整理してあったんだけど、メモで十月…何日だったかな…?書いてあったから。小学生の頃、何で十月に桜の写真が撮れてるのか不思議で父親に聞いたら、『それは冬桜だ。十月桜とも言われてる。有名な所があってな。埼玉の城峯公園まで見物に行ったんだ。朝美は覚えて無いか?』って、言われたんだ。」
「十月桜、ねぇ…。良いわね。来週、見に行ってみましょうか?」
「どうやって?」
「埼玉なら、車で行けるのじゃないかしら?電車代じゃ交通費が高くなってしまうでしょう?」
「えー、里沙さんが運転するの?」
「他に誰が居るの。」
「大丈夫…?結構、遠いと思うよ。」
「平気よ。こう見えても良くドライブに行くんだから。」
「そうなんだ。」
「美味しい物が食べたくなったりすると、その有名な場所まで運転して行ってしまうのよ。大学の頃は、友達と運転変わりながら、京都の方まで行った事がある位よ。」
「ふーん。…その友達って、もしかして彼氏?」
「そうね。そんな時もあったわよ。」
目線を上げ、紅茶を飲みながら答えた。
「今度、話聞かせてよ。」
「興味あるの?」
「興味が無い訳ないじゃん。これでも花の女子高生!」
「そーね。そう言う年頃よね。」
「じゃ、来週はお弁当持って冬桜見物。」
「早起きしなくちゃ。」
「期待してまーす。」
朝美は随分、打ち解けてくれていた。家ではやはり気が張ってしまうらしく、この家に来ると一気にお喋りになった。それが、ストレス解消にも役立っていたらしかった。
そして、ドライブに行った日。
2時間くらいは車を走らせた。二人にとって、学校があり生徒の家も近くにある街中で会うよりは、少し離れている位の方が気楽だった。相変わらず学校では、贔屓なしで対応してもいる。
公園の駐車場に車を止めて、散策コースをのんびりと歩いた。その内に朝美が幼い頃の思い出を話し始めた。
「あたしさ、本当のお母さんと三歳頃までしか、一緒に暮せなかったんだ。…って言う事は、この公園に来たのが家族揃って出掛けた、最後位だったと思うんだよね。小さかったし、あんまり詳しい事は覚えてないんだけど、多分、この公園でお母さんの寂しそうな笑顔を見たような気がする…。」
「そう…。思い出したの?」
「うん…。何となく、おぼろげにだけど。」
散策コース途中のベンチに腰掛ける。一本の冬桜が満開だった。
「確か、それから直ぐ離婚した。お母さんが家を出て、二ヶ月もしない内にあの人が智紀を連れてきたの。『あたしが新しいお母さんよ。智紀は貴女の弟になる子よ。仲良くしてあげてね。』とか言われたと思う。良く分からない内に、あの人はあたし達の家に住み着いちゃった。」
俯き、爪を噛む。暫く黙って桜を眺めてから、里沙はお手洗いに立った。
「来る途中にあったわね。ちょっと失礼して良いかしら?」
朝美は黙って頷いた。里沙が立ち、姿が見えなくなった頃、バックから煙草とライターを取り出した。無償に吸いたくなっていた。
あの夜、拾った煙草は、もうとっくに無くなっていた。これは、自分で買った三箱目の煙草だった。
一本目を吸い終わる寸前に、里沙が戻ってきた。
「朝美さん!」
厳しい声で呼びかけられて、朝美は慌てて煙草を消した。手遅れだった。
「…見つかっちゃった…。」
呟く。里沙は朝美の煙草とライターを取り上げた。
「こんな事して…。そういう気持ちになってしまうのは、分からない事ではないけど…。でも、貴方は未成年で、しかも女の子でしょう。将来、子供を産むことが出来る身体なのよ?大切にしないと駄目でしょう…?」
ベンチに座ったままの朝美の前に膝を折り、屈んで顔を覗き込む。
「…ごめんなさい。」
「…何時から?」
「智紀と喧嘩しちゃった夜。偶然、駅前の公園のベンチで、誰かの忘れ物を見つけたの…。どうしてか、吸って見たくなって…。」
「それで、覚えてしまったのね。」
俯いたまま、頷いた。
「そう…。あの時感じた匂いは、これだったんだわ。」
里沙が呟いた。朝美がビクリと、顔を上げる。
「家のトイレで、吸わなかった…?」
また、俯いてしまう。
「…やっぱり、匂い残ってたんだ…。」
「始めは分からなかったわ。私の身近に吸う人がいなかったから。ただ、何となく知ってるような匂いがしただけ。芳香剤もあるから。」
俯いてしまったままの朝美の隣に腰掛け直した。ゴミ箱が近くに無かったので、里沙は自分のバッグのサイドポケットに、煙草をしまった。
「これは、私が後で処分します。…お願いだから、もうこんな事しないで頂戴。私が、何時でも貴女の話を聞いてあげるから。夜中に電話して来たって構わないわ。学校でそう言う気分になったら、思った事や感じた事を紙に書いてみて。それでも気が収まらなかったら、書いたものを私に渡して。誰にも聞かれないところを探して、ゆっくり話しましょう。」
「そんな事…。」
「出来ない?…私は貴女の友達でしょう?もっと頼ってちょうだい。」
「だって…、」
「信用してもらえない?」
「そんな事、無いけど…。」
「信用して貰えて良かったわ。この話しはここまで。今日は朝美さんの話しをたっぷり、聞かせて貰うわね。」
「…怒ってないの?」
「どうして?勿論、煙草を吸ってしまった事は、いけない事だと思うわよ。だけど私が知っている朝美さんは、頭の良い確りした子だもの。一度注意されたら、ちゃんと考えて見ることが出来ると信じてるわ。」
「…頭良くなんか無い。確りもして無い。」
「自分で気が付かないだけよ。」
「……。」
「お腹、空いたわね。そろそろお弁当にしましょう?早起きして腕に寄りをかけて作ってきたんだから、残したりしたら承知しないから!」
笑顔で言ってくれた里沙に、朝美は心から申し訳無いと思った。そして、深く感謝をした。
それから気を取り直して明るく振舞い、昼食の後、もう暫く付近を散策して、色々話しをした。
公園は冬桜と紅葉が美しく、朝美の沈んだ気持ちをいくらか和らげてくれたのだった。
それ以来、まだ喫煙はしていない。夜中に、吸いたい気分になる日もあったが、いざとなったら夜中でも話しを聞いてくれる相手がいるという事実は、それだけで朝美の気持ちを和らげてくれたのだった。
八
里沙が東城高校で働き始めてから、二ヶ月が経とうとしていた。
十一月下旬。そろそろ、木枯らしが吹き始める頃。
この頃、里沙は自分のデザインを、近くの手作り家具製造工場に持ち込み、プロトタイプを作ってもらう事が出来る所まで漕ぎつけていた。
近所の小さな有限会社だ。元々、里沙の車を工場敷地の空きスペースに置かせて貰っていた所で、近所付き合いを通して親しくなった会社だ。
里沙が自分のデザインを見て貰うと、社長夫婦が興味を示してくれて、今後、どの様に活動をするつもりなのか聞いてくれた。
製造、販売ラインは、これから確保して行かなければならない旨を話して見た所、それならこの会社で製造して、小売の店に置いて見て貰える様に話しをして見ようと、大変協力的な対応をしてくれた。
この工場の製品は、客や小売店の評判も良く、里沙としてもこの会社が協力をしてくれるのなら心強かった。
元々は、どこかの製造会社でも紹介して貰えたならばと思い、デザインを見て貰ったのだから、本当に有り難い申し出だった。
フランスの叔父夫婦に宛てた、手紙の返事が届いたのもこの頃だ。
叔父夫婦は、自分達がやりたかった下宿を里沙が始めたいと言う申し出に、大層、喜んでくれた。必要な経費は基本的に全て持つと言ってくれた。夫婦の厚意に、里沙は心の底から感謝した。
そうして、里沙が自分の夢に一歩近付いた、この頃。事件が起こった。
それは週末の夜。日付が変わろうとしていた、深夜0時前。
唐突に鳴った呼び鈴が、デザインデスクの前でウトウトしかけていた里沙の目を覚ました。慌てて目を覚まし、時計を確認して、里沙はルームウエアの上にカーディガンを引っ掛けて、玄関に向かった。
厭な予感がしていた。
「どなたですか…?」
恐る恐る、閉じたドアに身を寄せて、覗き穴を確認した。
穴から見えたのは、朝美の肩をそっと押さえている葉山。二人の姿だった。慌てて、里沙はドアを開けた。
「どうされたんですか!?こんな時間に!」
出て来た里沙を、葉山が驚いて見る。表札を改めて確認して朝美を見る、里沙を見る。
「…ここは…、高田さんのご自宅では、なかったのですか?」
「私が留守を預かっている家です。朝美さん、いったいどうしたの?」
「…ごめんなさい。家には帰りたくなくて…、それで…。」
「とにかく、上がって。温かい飲み物を入れるわ。葉山先生もお上がり下さい。事情をご説明頂きたいわ。」
「…はぁ、そうですね。」
二人を招き入れ、ドアを閉めた。ちょっと考えてドアに鍵をかう。
十一月下旬だ。夜はもう寒かった。リビングの暖房をつけ、ソファを手で指し示し、二人が腰掛けるのを認めてからキッチンに向かった。
朝美は黙って俯いていた。
温かいココアを三つ、トレーに載せて再びリビングに入って来た里沙に、葉山は立ち上がって礼をした。
「こんな時間に申し訳有りませんでした。もう、お休みじゃ有りませんでしたか?」
ココアをテーブルの上に並べながら、里沙は小さく首を振った。
「いいえ。まだ起きていました。…どうぞ、お掛け下さい。」
もう一度、里沙に促されて、葉山は腰を下ろす。
「さ、飲んで。落ち着いてから話しを聞かせてちょうだい。」
促して腰掛け、自分のココアに口をつけた。朝美はマグカップを両手で包み込む様に持った。
「朝美さんが落ち着く前に、葉山先生から事情を伺いたいのですけれど。」
「そうですね。」
一つ頷いて、葉山が続けた。
「実は、一時間くらい前に、駅北の繁華街で彼女を見かけたんです。」
「ここの、駅ですか…?」
「そうです。私服でしたし、僕はてっきり、この近所に住んでいるのかと思って。それで、流石にこんな時間に外出しているのは、やはり問題だと思いまして、彼女に声をかけて家まで送るからと、そう言って…。」
そうして、葉山は今日の夕方からの話を始めた。
この時期、葉山は研修期間が終わり、大学に戻っていた。
夕方の五時半ごろ、街で偶然、同じ時期に研修をしていた仲間の、向野 仁と、一ヶ月半振りに会った。
向野と、お互いの大学の就職内定状況などの情報交換を始めて、そのまま流れで、駅前の居酒屋で酒を飲んだ。十時半頃、話しも一回りした頃合を見て居酒屋を出た。
向野は自宅がここから一駅分しか離れていないからと言って、歩いて帰って行った。店の前で別れたと言う。
葉山は久し振りにこの駅で下りていた。美味いラーメン屋が駅北にあった事を思い出して、踏切を渉って店に向かった。その途中で、朝美を見つけた。
朝美は一人で、繁華街にある小さなゲームセンターから出て来た所だったと言う。彼女は、自分の初日の授業に遅れて出席してきた事もあり、葉山も良く覚えていた。
時計を確認すると、十一時を回る頃。それで気になって声をかけた。
朝美は始め、声をかけてきた男が葉山である事に気付かなかった。いぶかしんでいる内に、腕を掴まれた。逃げようとした。その時始めて顔を間近に見て声を聞き、相手が葉山で有る事が判った様子だった。
葉山は送って行くつもりで、朝美の自宅住所を尋ねた。中々、返事もしなかった朝美を説き伏せて、何とか家の場所を聞き、送り届けて見たら里沙の家だった。
「…そう言う訳だったんですが。まさか、貴女の家に案内されるとは思っても見なかった。…いったいどうして?」
朝美を見る。朝美は俯いたままだった。当惑した視線を里沙に移した。
「ちょっと、事情があるんです。」
里沙は曖昧な笑顔を見せた。朝美の様子をちらりと見て、話を変える。
「葉山先生、ありがとうございました。後は私が彼女と話しをして見ます。電車、終わってしまいましたよね。どうされますか?」
「そう言えば、そんな時間ですね。」
リビングの時計を確かめて、葉山が言った。深夜一時。
「歩いて帰ります。」
「遠いのじゃ有りませんか?」
「まぁ、一時間か一時間半ぐらいで着けると思います。…僕はここから先の話は、聞かない方が良さそうですし。」
軽く笑顔を作る。里沙は少し考えて、葉山の人柄を信じる事にした。
「もしよろしかったら、始発までここで仮眠を取っていかれたら?」
「それは、流石に申し訳無いです。」
「遠慮されなくても。…見ての通り、この家は空き部屋ばかりですから。二階に七部屋もあるんです。元々、家主が下宿を始める為にリフォームした家なので。ベッドも有りますから、お泊まりになって下さい。」
葉山は驚いた。
これ程の家だ。部屋が多いのは感じていた。だが、里沙の家族がどこかの部屋で休んでいるだろうと、勝手に思っていた。
「…もしかして、お一人なんですか…?」
「留守を預かっておりますから。」
確かに招き入れられる時に、そう言っていた。
「それなら、なおの事、泊まってなんかいけませんよ。女性の一人暮しの家に男が泊まったら、貴女の信用にだって関ってしまいます。」
「そんな事を考えられる人を信用出来なかったら、一人で生活して行く事なんて出来なくなってしまいます。一人だからこそ、人に助けて貰わないと、何も出来ませんから。」
笑顔を見せる。
「それに、各部屋には鍵もついておりますし。ご安心下さい。」
「そう言う問題では、無いと思います。」
「じゃ、従兄弟か股従兄弟になって下さい。それでいかがでしょうか?」
「しかし…。」
「構いませんよ。幸い、ご近所の方達にも信用戴いておりますから。」
そこまで言われては、断り切れなかった。実際、これから歩いて帰るのは、確かに大変な事でもあった。
「そこまで仰って頂けるなら、お言葉に甘えさせて貰います。始発まで、二階の一部屋をお借りします。」
「どうぞ。ご案内します。朝美さん、ちょっと待っていてね。」
朝美が小さく頷いた。
二階の階段を上がって、直ぐ右にある一部屋に葉山を通した。ベッドと勉強机だけが置かれた部屋だ。掃除は日替わりで二部屋ずつ毎日していた。誰も使っていないからこそ、埃が積もってしまう。この部屋は昨日、掃除機をかけたばかりの部屋だった。
電気と暖房のスイッチを説明して、葉山を残して部屋を出た。
里沙がリビングに戻ると、朝美のマグカップが中身を三分の一程残された状態で、テーブルの上に置かれていた。
「温かいココアを、入れ直して来ましょうか。」
朝美が首を横に振る。
「紅茶がいいな…。始めて来た時、飲んだヤツ…。」
「分かったわ。ちょっと待っていてね。」
頷いた。里沙はキッチンに入り、少し考えてブランデーを用意した。
紅茶にティースプーン一匙分だけ垂らす。香りが際立った。
「お待たせ。お砂糖と蜂蜜、どっちが良いかしら?」
紅茶の注がれたティーカップと、砂糖と蜂蜜をテーブルの上に置く。朝美は蜂蜜に手を伸ばした。カップに垂らしてスプーンでかき混ぜる。紅茶の色が濃くなる。
「蜂蜜入れると、色が変わるんだ。」
「そうね。でも、お砂糖を入れるよりは、酷が出るわ。」
里沙も今夜は蜂蜜を入れた。朝美が熱い紅茶を冷ましながら口に含む。
「お酒の味がする…。」
「ちょっとだけ、ブランデーを入れたのよ。体が温まるわ。」
「良いの…?」
「紅茶だから…。本当はいけないかもしれないけど。」
小さく笑う。朝美の表情も漸く少し解れた。
カップの紅茶が半分になった頃、里沙が聞いた。
「今日は、いったい何があったの…?」
朝美はまた俯いて、カップを弄ぶ。紅茶の表面に広がる波紋を、じっと見つめる。暫くしてから、やっと口を開いた。
「あの人が、母さんを悪く言ったものだから…。我慢が出来なくて…。」
「…そう。何を言われたの?」
「あたしが、…最近、結構、頑張っていたんだけど、それでも態度が悪いって話しになって。あたしがこんな風になったのは、昔の母親が甘やかし過ぎたんだって言って、子供の人格は三歳までに決まるのにって…。」
「それは、こじつけたような言い様ね。」
「その前に、父さんの転勤が決まった事から、話が始まったの。」
里沙は、カップを口に運びかけた手を止めた。
「単身赴任されるの?」
「ううん。家族で引っ越すって。」
「全員揃って話しをしていたの?」
「智紀には、もう話してあるって。」
「貴女と、お義母さんと、お父様で?」
頷いた。カップを小さく揺らしている。
「智紀は…、あの子は、我が侭言わないから、素直に頷いたって。」
「そう。」
「あたしは、あの家は母さんが一緒に暮していた家だから、離れたく無いって言って、父さんはもう忘れちゃったの?って言って、そしたら何にも言ってくれなくて…、それで、いっぱい文句言っちゃった。」
紅茶を一気に飲み干した。顔がブランデーの所為か、少し紅くなっていた。
テーブルにカップを置いて、続けて話す。
「それで、あの人が母さんを悪く言い始めたの。父さんは何も言ってくれなかった。そりゃ、離婚にどんな事情があったのか話してもらった事は無いけど、でも一度は好き合って結婚した筈でしょ?それであたしが生まれてきたんだよね?なんで、何にも言ってくれないの?母さんの事、庇ってあげようって気持ち、全くない訳?!そう思ったら、もう我慢できなくなって、それで、飛び出してきちゃった。他に行くところが思いつかなくて、ここまで来ちゃったんだけど、…何か、直ぐに里沙さんの家に来る事が出来なくて…、それで…。」
ゲームセンターで時間を潰した、と言った。
お金が無くなって、仕方なくゲームセンターを出た所で、葉山に声を掛けられた、と言う事だった。
里沙は時計を確認した。深夜二時。他家に連絡を入れるには、遅過ぎる時間だが、場合が場合だ。一応、連絡をしなければならないだろう。
今頃、高田家では大騒ぎになっている筈だろう。
そう思った時に、電話が鳴った。朝美がびくりとする。急いで受話器を取る。電話の相手は、里沙が想像した通り大崎だった。
「野沢さん?こんな夜中にごめんなさい、ついさっき高田さんのお宅から連絡があって…。」
コードレスの子機を持って、里沙はダイニングキッチンまで移動した。
「…朝美さんの事ですね?…はい。今、私の家にいます。」
「やっぱり…。」
里沙は、葉山が送ってきた事から、掻い摘んで説明した。
朝美はリビングのソファでじっと、身動き出来ないでいた。
「ご自宅に連絡を入れないとならないと、思っていた所でした。」
「そう…。分かりました。ご自宅には私が連絡をしますから、野沢さんは朝美さんの事をよろしくお願いします。」
「あの、朝美さんは、まだ落ち着いていない様なので、私が明日、自宅まで必ず送り届けます。そう、伝えて頂けないでしょうか?」
「…本当なら、直ぐにもご両親にお返ししなければならないわ。」
「それは、良く判っていますが…。」
リビングの方へチラリと視線を向ける。
「お願いします。必ず、明日の午前中に自宅まで送って行きますから。」
暫く、電話の向こうに沈黙が落ちた。
「…分かりました。この事は、私にも責任が有る事です。ご両親には伝えますから。必ず約束を守って下さいね。」
「ありがとうございます。」
受話器を持ったまま、深く頭を下げた。
この事が切っ掛けで、里沙は契約期間を三ヶ月以上残し、東城高校の教卓を去る事になる。だが、今は年下の友人の為に、一番と思える行動を貫き通したいと、強く決心をしていた。
電話を切り、リビングの充電器の上に戻す。ソファの朝美を振り向いて、里沙が言った。
「明日、私が送って行くわ。今夜は家に泊まって行って。」
朝美がゆっくりと里沙を振り向く。怯えた様な表情と、申し訳なさそうな表情が同居している。
「もう一杯、ブランデー入りの紅茶を入れましょう。」
カップをトレーに載せ、キッチンに向かった。
二杯目の紅茶を飲みながら、里沙が言い出した。
「この家で、下宿を始める事にしたの。叔父夫婦にも了承を貰ったわ。」
「…。」
「もし、朝美さんが希望してくれるなら、第一号の契約者にならない?」
驚いて里沙を見る。
「勿論、ただって訳には行かないし、ご両親の承諾も頂かないとならないけど…。貴女がもう少し大人になって、気持ちに余裕が出来るまで、ご家族から離れて見るのも一つの方法じゃないかと思ったの。」
「…でも、許して貰えるのか判らない…。」
「朝美さんの意思があれば、私も一緒にお願いして見るつもりよ?」
「そりゃ、あたしだって早くあの家を出たいと思ってるけど、でも…。」
「私が大家じゃ厭かしら…?」
「そんな事ない。…ううん。里沙さんと一緒に住むんなら、その方が。」
「そう?じゃぁ、そのつもりで明日、ご両親と話をして見ましょう。」
「…良いの?」
「上手く話が纏まれば良いけど。…もう三時ね。ちょっと休みましょう。」
「…。」
「今夜、泊まるお部屋、一階で良いかしら?」
朝美がこくりと頷いた。
「案内するわ。」
ニッコリとして、里沙が言った。
五時間くらいベッドに入る事が出来た。朝美はブランデー入りの紅茶が良い睡眠薬代わりとなって、里沙に起こされるまで確りと睡眠を取ることが出来た。
里沙の方は、4時頃まで起きて途中だったデザインに手をいれ、二階の葉山を起こして静かに送り出してから、三時間ほどの仮眠を取った。
7時ごろ起きだし、朝食の準備をして朝美を起こして一緒に食事をとってから、10時ごろに、朝美の自宅に到着したのだった。
九
里沙は既に心を決めていた。朝美の問題に関る姿勢は、一教師としての姿勢ではなく、一人の友人としての姿勢を貫き通そうと。
自分自身は日本で生まれ、中学に上がる前迄は日本で育った。両親は仕事の都合で、里沙が小学校低学年の頃に外国へと渉っていった。
一端は離れて暮していたものの、孫と暮したいという祖父の願いを受け入れ、中学入学の歳に親元へと呼び戻された。
そして更に高校二年の三学期から、教育は日本で受けさせたいとの母親の希望で再び、一人でこの日本に戻って来たと言う経緯がある。
家庭内で様々な問題が浮かんできた事も、勿論ある。家族の思いと、学校や友人との付き合いの中、どうにも成らないような思いに捕われた時期もあった。
そんな時期の支えが祖母であった事は、以前、朝美に語った通りだ。
今、事情は違うが悩みを抱えている朝美がいる。里沙の目から見てもほっては置けない気持ちが強かった。
ある意味、良いタイミングでもあると思った。持て余してしまう程の空き部屋を抱えた、一人暮しのあの家。どうすれば有効に使い切る事が出きるのか?その問題の解決策として、下宿を始めようと決心をした。叔父夫婦の了解も得ている。
しかし、その問題の芯の部分を占めているのは、現状に寂し過ぎる思いを抱えている、里沙自身の気持ちからだ。
それは、自分のエゴイズムが生み出している、妙な責任感なのかもしれない。そう、何となく感じてもいる。だがやはり…。
今の朝美には、友人としての自分の存在が必要なのでは無いか?そう思っている気持ちも事実だ。
ならば自分は、自身の心に従おう。それでどうなっても、自分が彼女の助けになることが出来るのなら、それで良いでは無いか?
以前、再び日本に一人で戻る里沙を勇気付けてくれた、祖母の言葉を思い出した。
『里沙の信じるように。決して後悔はしない様に。精一杯頑張って見る事が大切。その経験が、やがては貴女を成長させる。』
心の中でその言葉を反芻し、意を決っしインタフォンを押した。
始めに出てきたのは、まだ四十代には差し掛かって無さそうな、顔立ちもハッキリした、気の強そうな印象の女性だった。朝美の気配が変わり、里沙はそれまで以上の緊張感を背後に感じた。
この人が朝美の義母であろうことは、朝美の緊張を感じるより早くに判った。扉から出ると同時に、その女性は深深と頭を下げる。
「どうも、ご迷惑お掛け致しました。」
「いえ…。朝美さんの、お義母様ですね?」
「はい。朝美の義母でございます。失礼ですが、貴女は?」
「朝美さんの学校で、英語のリーダーを代任しております、野沢と申します。本来は、彼女を保護した時点で直ぐに、お返ししなければなりませんでしたが。…昨夜の彼女の様子をみて、出過ぎた事だとは思いましたが、一晩お預かりさせて頂きました。ご心配お掛けして、申し訳ございません。」
里沙も頭を下げた。朝美は後ろで、俯いたまま動かない。
「玄関先では何ですので。どうぞお上がり下さい。朝美さんも、良くお礼を申し上げて。」
その口調に優しさは感じられなかった。事務的な感じさえする。
里沙は元々、今後の事で話し合うつもりであったので、朝美を促して玄関を入る。義母がスリッパを出す。
ここまでの言動を見て、里沙は今まで朝美から聞かされてきた義母のイメージが、その本人と合致していた。
『外に向けては本当に良い母親を演じ切る。その徹底した態度の豹変振りに、虫唾が走るような気がする。』
朝美は、そう言っていたのだ。しかし、先ほど朝美にかけた声のトーンは、二人の真の関係を良く表していた様に里沙には感じられた。
リビングに通され緑茶を出された。直ぐに父親も表れ、ご両親と向かい合う形でソファにかけた。
「この度は本当にご迷惑をおかけ致しました。朝美には後で厳しく言って聞かせます。」
父親が深深と頭を下げる。義母も一緒に頭を下げた。
「それで…、どう言った経緯で、お宅様にご厄介をかけてしまったんでしょうか…?」
喧嘩をして飛出した事に付いては解っている事だ。この質問は、どう言うルートで持って、ここから電車を使って三十分程も掛かってしまう、高校近くの里沙宅に保護されたのかと言う意味だ。
里沙は昨夜の出来事を、順を追って話し出した。
「…またどうして、そちらに伺うような真似を…。」
当然、気に成る事だろう。高校のクラスメートの家に行くのではなく、代任教師の里沙の家を選んだ理由。
「別に、どーだっってイイじゃん。そんな事!」
黙っていた朝美が割り込んできた。
「朝美さん!どうだって良い事では無いでしょう?」
朝美を嗜めた。親が、愛情を持って子を叱りつける時、母親の叱り方と言うのはかなり感情的に成るものだ。
その点において、この義母の態度は異質な程に冷静であった。
そこも里沙には気になる。何か、別の怒りを抑え込んでいる風にも感じられた。…冷戦状態。そんな雰囲気だ。
里沙は静かに深呼吸をして、これまでの朝美と自分の関り方を、喫煙の事実だけを伏せて話し始めた。
その間、リビングの扉の影で、じっと話しを聞いている智紀がいた。
母には部屋にいなさいと言われていた。だが、どうしても朝美の事が気がかりだった。何かあったら、直ぐに義姉の助けに飛出そうと決めていた。朝美の事は、きっと自分が一番良く判っている。
里沙の話の途中から、義母の顔色が変わって行った。
怒り、ヒステリー、里沙という他人の前で、その感情を押し殺そうとする高いプライド。しかし、プライドでは抑え切れなかった。
話が終わった時、誰よりも早くに義母が口を出した。
「教師の立場でありながら、生徒に対して友達同士の様なお付合いをされてきた、と仰りたいのですね?まだお若い様だから、社会的常識が身に付いていらっしゃらないのかしら?いくらそれだとしても、生徒の生活に問題を感じる事がおありなら、直ぐに家族に連絡するなり、担任教師に打ち明けるなり、他に正しい対処法があるとは思われなかったのですか!?」
詰問口調の義母の言葉に、朝美が口を出しかけた。それを制し、里沙は真っ直ぐに義母の目を見返して言った。
「確かに、お義母様が仰る通りです。大変ご迷惑をおかけ致しました。ですが、私は朝美さんとそういうお付合いをさせて頂いた事で、確信した事があります。…朝美さんは、一端ご家族と離れて暮らして見た方が、よろしいのでは無いでしょうか?」
「失礼な事を仰るのね。朝美さんからどの様に伺ってるか知りませんが、それではまるで、私が母親としての勤めを果していない様な口ぶりじゃ有りませんか!」
「そんなつもりは有りません。ただ、この年頃の女の子は、お義母様が思うよりも、余程、感受性が強いものです。そして、他人と自分の関り方について、一番悩む時期でもあるんです。お義母様にも、そんなご経験はございませんか?…私には、有ります。」
「論点がズレてるのじゃありませんか?!今、問題にしている事は…、」
義母の、ヒステリックな響きを持った言葉に、父親が始めて声を出す。
「万里子!!」
一喝がとんだ。義母がビクリと、開きかけた口を止める。
リビングのドア影では、智紀が取っ手に手をかける。構えている。
「…喧嘩腰になってどうする?」
「…喧嘩腰だ何て…。」
「落ち着きなさい。…失礼致しました。ただ、これだけは申し上げておきます。万里子は、良くやってくれております。」
「…判ります。私も口が過ぎました。申し訳ありません。」
一度頭を下げてから、里沙が続けた。
「…今日は、私から一つご提案があって、お邪魔致しました。」
「提案?」
「はい。出過ぎた事をしてしまいましたが、私が朝美さんとこの様な友人関係を持ってしまったのが原因で、今回の様な事態を引き起こした事は、事実だと思います。お義母様のお気持ちも、解ると思います。…それを承知の上で、失礼を申し上げます。」
一度、言葉を切り、両親の顔を交互に、確りと見据えて言った。
「朝美さんを、高校卒業まで私にお預け下さいませんか…?」
「…何を…、」
義母の言葉を制して、父親が言った。
「どう言う事でしょうか?」
「お父様は、名古屋に転勤なさると伺いました。ご家族でお引越しなさると…。もうお決まりの事でしょうか?」
「はい。仰る通りです。昨夜もその話し合いの途中でした。」
「朝美さんは反対していると聞きました。思い出のあるこの土地から離れたく無いと。ご家庭の事情も、少々伺っております。…ですから、もう暫く、この土地で気持ちが落ち着くまで、せめて高校を卒業する頃まで、時間を上げて頂けませんか?」
「一人暮しをさせろと、仰るのですか…?」
「いいえ。実は、私が留守を預かっている家を、下宿にする話しが出ております。オーナーご夫婦はフランスにおりますが、私が、大家になる条件で、未成年の、ご家庭の事情で一緒に暮らす事が出来ないお嬢様を、お預かりさせて頂く話しが纏まっております。」
「…成る程。そう言う…。」
「いかがでしょうか…?朝美さんを、私の下宿にお預け頂けないでしょうか?」
「何を勝手な事を…!貴女の様なお若い女性が、そんな大変な役目…、勤まる訳が無いでしょう!?」
「万里子!口が過ぎる。」
「ですが、あなた…、」
「暫く黙っていなさい。」
「…分かりました。お茶を入れ直して参ります。」
立ち上がり、キッチンへ向かう為にリビングを出ようとした。
智紀は慌てて手を引っ込めた。直ぐそこの階段に逃げかけて、母に見つかった。
「智紀!お部屋にいなさいと言ったでしょう。何してるの?」
「…トイレだよ。」
「本当?…それなら良いけど。もう暫く、降りて来ては駄目よ。」
「…はい。」
仕方なく、キッチン手前にあるトイレのドアを開けた。蓋を閉めたまま座り込んだ。頃合を見て、リビングのドアに張りつくつもりだ。
リビングでは、暫く考え込んでいた父親が、口を開いた。
「…朝美は、どうしたいんだ…?」
朝美は俯いた姿勢で、父親を上目使いに見上げる。
「あたしは…。里沙さんの下宿に行きたい…。」
「何故だ?」
「…お義母さんの事、暫く離れてみたら冷静になって考えられる様に成るかもしれないし…。母さんの事、もう少し思っていたいから…。」
「…そうか…。」
また暫し考える。
沈黙の中、トイレの扉が開く音がした。リビング入り口の曇りガラス扉に影が映る。階段を上がって行く音は聞こえない。
「…智紀。話を聞いていたんだろう?入ってきなさい。」
おずおずと扉が開いて、智紀が顔を出した。里沙は小さく会釈をする。
「入ってイイの…?」
「大切な家族の事だ。お前の意見も聞きたい。」
智紀の口元が緩んで、直ぐに真面目な顔に戻った。
「失礼します。」
里沙に断ったつもりだろうか?何となく、気持ちがほころぶ様な気がした。…成る程。朝美が一番大切な弟らしい。
智紀が、義母が座っていたソファに近付く。
「かけなさい。万里子!智紀の分も茶を頼む。」
キッチンの方に聞こえるように声を上げる。小さく返事が聞こえた。
「で、なに?」
「お前の姉さんが、高校を出るまで、この土地に残りたいと言っている。」
「そーなの?姉ちゃん!」
朝美は小さく頷いた。
「一人暮しするの?」
「聞いてたくせに…。」
朝美が呟くと、ちょっと俯いて舌を出した。
「バレてた?」
「当たり前だ。…それより、お前はどう思う?」
「…イーと思うよ。姉ちゃんがここを離れたくないっての、解るし。…ずっと離れて暮らす訳じゃないんだよね?」
「一応、高校卒業くらいまで。」
朝美が答えた。里沙は、朝美の気持ちの変化に気付いた。さっきよりもリラックスしている。本当に仲の良い姉弟だ。
「じゃ、おれは問題無いと思うよ。…戻ってきたら、皆で仲良く出来るよね…?」
朝美は一瞬、視線を落とし、俯き加減になった。それから小さく、けれど確りと一つ頷いた。
「…そうなる様に、努力する。」
智紀は控えめな笑顔を見せた。
「じゃ、問題無いよ。…と思うけど?」
父親を見る。
「…そうか。」
扉が開いて、義母が新しい緑茶を五人分運んできた。茶を出し、智紀の隣に腰掛けた。
暫くの沈黙の後、父親が言った。
「私は、子供が自力で成長しようと頑張っているのを止める権利は、親には無いと思います。その姿を見守る事も、親の勤めでしょう。」
「…あなた!」
手で制する。
「我が家は、確かに問題がある家だ。いいえ。私に問題があるのでしょう。朝美が幼い頃に、自分の我が侭で、娘から実の母親を奪ってしまった。それが全ての発端です。…しかし、万里子と再婚し、智紀と言う素晴らしい息子を得られた事には、感謝しております。万里子も頑張ってくれたのは理解しているつもりです。…ですが、娘の気持ちを思い遣る事には、どうやら手を抜いてしまっていたようだ。…実の娘だから私の事は判ってくれているだろうと、勝手に思い込んで、甘えておりました…。」
「…父さん。」
優しい父親の笑顔を朝美に向けた。それから娘に対して、頭を下げた。
「済まなかった。…気持ちは、変わらないか?」
頷く朝美。義母は父親が娘に対して頭を下げたその姿が、余り面白くない様な表情で黙っていた。
「そういう事です。野沢先生、朝美の事を、どうぞよろしくお願いいたします。」
里沙を見て、テーブルに手を付いて頭を下げる。
「畏まりました。朝美さんは、責任を持ってお預かり致します。」
里沙も頭を下げる。義母は沈黙を守り続けた。
「…私のような若輩者の申し出を受けて頂いて、本当にありがとうございます。必ず、無事にお返し致します。」
頭を上げた父親が、義母を見た。
「万里子も、納得してくれるな…?」
「…私は、あなたの意思に従います。野沢先生、先程は失礼な事を申し上げました。朝美さんをよろしくお願い致します。」
不承不承、里沙に頭を下げた。
「姉ちゃんの事、お願いします。」
智紀も笑顔を見せる。そして少し寂しそうな目をした。
「これが多分、一番イイと思うから…。」
「…智紀。」
朝美が呟く。里沙はもう一度頭を下げた。
「…大変、長居をしてしまいまして、失礼致しました。費用のことなどは、またおってご連絡差し上げます。まだ未定では有りますが、成るべくご家族の負担に成らないように考えておりますので。」
「はい。ご連絡お待ち致します。」
「では、本日はこれで失礼致します。」
立ち上がる。家族全員ソファから立ち上がり、玄関先まで里沙を送って出た。
門の所までは朝美が一人、送って行く。
「里沙さん、ありがとう。」
「どう致しまして。朝美さん、お父様の言葉で気が変わったりしなかったの…?」
足元を見つめ、つま先を動かしながら言った。
「…解ってくれたんだとは思った。…でも、やっぱりお義母さんとは、もう暫く時間を貰わないと無理だと思ったから…。」
「…そう。お引越しは何時になるのかしら?」
「多分、冬休み入ってからだと思う。」
「分かったわ。お部屋は好きな所を選んでくれて良いわ。また、下見ついでにいらっしゃい。今度はちゃんと、ご家族に断ってから来てね?」
「分かってる。じゃ、気を付けてね。」
「ええ。明日、学校で会いましょう。」
「うん。ばいばい。」
笑顔で手を振って、車に乗り込んだ。朝美は車が角を曲がるまで、見送っていた。
十
里沙の一生徒の家庭に対する深入りが、問題になってしまった。
週末の夜に飛出し、遅い時間に繁華街で見つかった朝美の行動は、それだけで騒ぎになる種類の物だ。 朝美の姿を見知っていた人物が、その姿を見かけて学校に連絡を入れていたのが、露見した原因だった。
直ぐに家族が呼ばれ、そこで、里沙の申し出があった事も伝わってしまった。大崎は始めに、里沙本人からその事実を聞いて知っていたが、口を開かないでいてくれていた。あの連絡さえ入らなければ、何事も無く終わったかもしれない。
里沙が処分を言い渡されたのは金曜の朝だった。その2日前の水曜に、学校に呼ばれた朝美の義母から、事情が知れてしまったのだ。
義母は朝美の父親の前では承諾してはいたものの、プライドの高さが邪魔をしたか、穏便に済ませる為にどう行った態度を取るべきかと言う考えが出て来なかった。自身は後ろめたい事は無いと思っているのだから、どうしても里沙を責めるような伝え方になってしまう。
大崎も、担任として対応した。親が出て来てしまった今回のケースを、学校側に秘密裏に通す事などは不可能だった。
それでも心を砕いて、里沙と朝美の処分に対して、かなり学校側に譲渡して貰った。朝美は三日間の停学処分を受ける所だったが、警察に掴まるような事件を起こした訳でも無い。担任教師からの厳重注意と言う事で、収める事が出来た。
里沙に付いては、事が広がればPTAも乗り出して来かねない要素がいくつか含まれている。直ぐに解雇となる所、冬休みまでは教卓に立つ事が許された。本来は、三学期が終わる頃までの約束だった。
生徒の中にもおかしな噂が広がった。尾ヒレ腹ビレがついてとんでもない騒ぎになりかけた。朝美はやや、学校にいずらい雰囲気を味わった。
だが、その噂を本人に確かめたがる気質の生徒だっている。正義感が強いタイプと、噂を大きくして広げるタイプが、そんな行動に出易い傾向がある。幸い朝美に面と向かって質問してきた生徒は前者のタイプであった。お蔭で朝美は、この事がきっかけとなって、良い友人を得る事が出来た。何よりの救いだ。
その生徒の協力もあり、二学期が終わる頃にはとんでもない噂話は、収束して行った。
二学期最後の授業、教卓で里沙が挨拶をした。
「皆さんも知っての通り、私の授業は今日で終わりです。短い間でしたが、とても楽しい思い出が出来ました。日本人の骨格は本来、外来語、特に英語やフランス語、ドイツ語などの発音をするには向いていないと言われていますが、良く耳を済ませて聞けば、聞き取ることは出来るように成りますよね?リーダーの授業は、それがとっても大切です。そして耳から入った言葉を、好奇心を持ってどんどん口に乗せて行って下さい。私も、発音記号ではなく耳から覚えてきました。良く聞いて、言葉の意味を知る事は、とても大切です。リーダーの授業だけの事ではありません。家族や友達の言葉、それも耳を済ませて良く聞いて、そこに含まれている感情や本心の部分に、例え少しでも気付く事が出来る様になって下さい。」
そして最後の挨拶をして、教室を出た。
職員室のデスクを片付ける。放課後だった。
大崎が近付いてきて、里沙に声をかけた。
「ごめんなさいね。私の力が足りなくて。結局、予定よりも早くなってしまったわね…。」
里沙は片付けの手を止めて、笑顔を見せた。
「とんでもありません。私の所為で、ご迷惑をおかけ致しました。」
椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「私の方こそ、貴女には迷惑をかけてしまいました。高田さんの事は…、彼女が落ち着きを取り戻せたのは、貴女のお蔭です。彼女は前よりも明るくなりました。」
「朝美さんは元々、明るくておしゃべりな子でした。ただ色んな悩み事があって、彼女の本来の良さが、出てき難くなっていただけです。…私は何もしていません。彼女自身の努力です。」
「それを支えたのは、あなたの捨て身な協力の賜物です。…担任として、改めて彼女の事、よろしくお願いしますね。」
「はい。誠心誠意、努力します。」
笑顔の里沙を、大崎は頼もしげに見つめた。
「貴女は、昔からそうだったわね。面倒見が良くて努力家で。何時もクラスメートの輪の真ん中にいた。」
「そんな事、ありませんでしたよ。」
「いいえ。あなたの明るくて朗らかな人柄に、自然と皆が集まってくる様な、そんな存在だった。…貴女なら下宿の大家さんも、きっと勤まります。大変なことも多いと思いますけど、頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
「もう、片付けは終わり?」
「はい。本当にお世話になりました。」
「そう…。門まで見送ります。」
そう言って大崎は、正門まで見送りに出てくれた。
最後にもう一度、お互いに謝罪と感謝の言葉を交わして、笑顔で挨拶を交わして別れたのだった。
それから直ぐに冬休みに入り、朝美が智紀と父親に付き添われて下宿に引っ越してきた。それ程大きな荷物も無いが、男手があった方が便利だろうと言って付き添ってきたのだ。
家族の引越しは、3日後になる。義母は区役所に手続きをしに行っていると言う。
あの、里沙と高田一家との対面の日、父親が二人の子供に言った。
「お前達は、本当に仲が良かったんだな…。」
「知らなかった?」
「…改めて実感した。」
智紀の言葉を聞いて、感慨深げな笑顔を見せる。
「俺は本当に嬉しかったよ。自慢の子供達だ。」
「自慢出来るような優等生は、智紀だけじゃ無いの?」
朝美が捻くれた事を言う。
「確かに朝美は優等生とは言わないが、頭は良い子だと思っているよ。」
「…良く解らないよ。こないだ里沙さんも同じ事言ってくれたけど…。」
すると眉を上げて、本当に嬉しそうな顔をする。
「野沢先生が、そう言ったのか?」
「うん。」
「…そうか。朝美は本当に良い人に巡り会えた物だ…。感謝しなければならないな…。」
ほくほくとした笑顔を見せる。何年振りの笑顔だろうと、朝美は思った。
それから、朝美と二人の生活が始まった。
朝美は二階の一番広い、L字型の変わった形をした部屋を選んだ。まだ他の入居者はいない。里沙は朝美の希望通りに、部屋を当てた。
下宿に入る月々の費用は、学費、食費、光熱費を含め、一月五万円で契約をした。学費が無ければ、もう少し安くても構わなかった。父は格安に設定されたその金額を見て、有り難いやら恐縮するやらであった。
朝美は正月、名古屋の新居で過ごした。これからも長期休みの時には、両親の元で最低一週間は過ごす事に、家族間で話し合って決めたらしい。
これは、リハビリなのだ。朝美は心を落ち着け、家族の中に確りと溶け込めるようになる為に、里沙の下宿に来たのだから。
三ヶ月が過ぎ、入居者が増えた。
下宿第二の契約者になったのは、石塚 玲子と言う、四月から中学に入学する、今年十三歳になる、かなり厳しく育てられてきたらしい雰囲気の少女だった。
彼女は、ある会社の会長を務める祖父を持ち、両親は揃って教職に身を置く家庭の長女だ。どうやら母親が子供嫌いな人らしく、子供達は早くに自立させたいという教育方針の元で、玲子をこの下宿に預ける事にしたという。入居時、付き添いで来た母親が説明して行った。
祖父は、息子に好きな道を歩ませる変わりに、いずれは孫に会社経営を継がせたいと願っている。弟が一人。姉弟揃って、やや冷めたような性格をしている。学校の成績は中々よろしい二人だ。弟も高校は全寮制の学校に入れるつもりで、幼い頃から厳しく育ててきたらしい。
朝美との相性は、余り良く無さそうにも見えたが、この少女は案外確りしていて、今は住人同士の丁度良い距離を日々、模索しているように見受けられる。まだ小学校を卒業してきたばかりだと言うのに、逞しい物だ。里沙は玲子に、そんな感想を抱いた。
更に新しい入居者がやってきたのは、時期としては半端な、その年のゴールデンウィーク初日の事だった。
玲子入居から、約一ヶ月後の事である。
瀬川 利知未。玲子と同じく、中学一年生。一ヶ月半程、ニューヨークの母親のところに居たと言う。何やら複雑な事情があったらしい。
彼女の入居した日、里沙はかなりセンセーショナルな体験をさせられた。まず第一の驚きは、彼女はバッグ一つと、この下宿の住所が書かれた地図のみを持ち、たった一人で訪れてきた事。
そして次の驚きは、彼女の容姿だ。まだ12歳の筈だが、背が高く、その身長は既に160センチ近くはあったと思う。後に正しい身長が判明した。四月の下旬、その時の身長、158センチ。夏を過ぎる頃には五センチ近く伸びて163センチにまでなっていた。
里沙も背は高い方だが、彼女と同い年の頃はまだ150センチに差し掛かるくらいの物だった記憶がある。
それに加えて、その顔立ち。初見時、綺麗な男の子が来たなと思い、まさか今日、入居予定の中学一年・女子とは、里沙も思わなかった程だ。
その時の彼女の第一声は、更に里沙を驚かせた。
「灰皿、どこ…?」
だ。バッグを担ぎ持っていない左手で、上着のポケットから煙草の箱を取り出し、一本振るい出して口に咥え、箱を再びポケットに収め、変わりにライターを取り出し、慣れた様子で火を着けてライターをしまう。
その流れるような動作を目の当たりに見て、里沙は一瞬、言葉を失った。
『何て手馴れた様子!この子、いくつなのかしら…?』
その時、里沙の目には十四、五歳の少年に見えていた。まだ正体は判明していない。なんの為にここにいるのかも、判断が付かないでいた。
言葉が直ぐに出てこなくて、取り合えず思ったことを口にした。
「…それ、美味しい…?」
少年に見えていた少女は、奥二重のハッキリとした釣り目を丸い形に変え、咥え煙草を左手の指に挟んだ。
「…吸って見りゃ判るよ。」
火の着いた煙草のフェルターを、里沙の方に向けて差し出した。
「生憎、この家は禁煙なの。貴方は、どちら様ですか?」
再び煙草を口に咥え一吸いし、斜め下に煙を吐く。
「…そう。俺、瀬川利知未ってんだけど。話、聞―てない?」
そこで始めて、里沙は少女の正体を知った。
利知未は灰を玄関に落として、靴の裏に押しつけて火を消した。開いたままのドアの外に、落とした灰を蹴り出している。
「…貴女が、新しい入居者…?」
「そー。」
身体の向きはそのまま、上半身を捻るようにして振り向いた。
細いウエストが引き立った。ホンの少しの胸の膨らみも、確認できた。そこで漸く彼女が約束の少女である事に、確信を持つ事が出来た。
何はともあれ、これで今年の入居者が揃った。里沙は小さく息をついて、利知未に上がるように促した。呆れたような笑顔しか出なかった。
「いらっしゃい。待ってたわ。」
利知未は口の片端を軽く上げるようにして、笑顔のような表情を作る。
「…待ってた、ね。」
呟いて顔を上げると、改めて言った。
「世話になります。」
スニーカーを脱いで、廊下に上がった。里沙の出したスリッパを引っ掛ける。里沙は、『世話になります』その一言を聞いて、微かに安堵した。
『随分、ヤンチャな子の様だけど…。何とか、なるかしら…?』
戸惑いながらも、ワクワクしている自分に気が付いて、小さく笑ってしまった。
リビングの位置を、通り掛かりに説明する。
「ここがリビング。先にお部屋を決めてしまいましょう。」
黙ってついて来る。階段を上がり、朝美と玲子の部屋を教える。
「他の空き部屋、好きな所を選んでくれて良いわ。」
利知未は空き部屋の扉を一つ一つ開いて見る。階段を上がって直ぐの二部屋、玲子の隣室、斜め向かいの部屋。最後に廊下の突き当たり右側、二階の洗面台に一番近い部屋の扉を開けて、一足踏み込んだ。
南西の窓により、開ける。南東の窓にも近寄る。入り口を振り向いた。
「俺、この部屋が良い。」
「そう。じゃぁ、今日からこの部屋が貴女の部屋。お掃除は二階で共同の掃除機があるから、それを使って自分でやってね。家具は見ての通り、ベッドと勉強机とクローゼットしかないから、足りない分は自分で探して来て。食事は、学校のある日は朝・晩。日曜はお昼もこちらで用意します。夕ご飯は十八時以降。朝は部活がある子もいるから、言ってくれればその時間迄には用意します。何も言われなければ七時には出してます。時間を見てダイニングキッチンまで降りてきてね。この下宿は、基本的には自分の時間は自分で管理する決まりよ。そうそう、洗濯物は、本人が構わなければ一緒にやってしまうから、夜の内に脱衣所の籠に入れておいて。名前が必要なら書いておいてね。」
「…幼稚園みてー。」
「書かなければ、貴女の下着が別の子の部屋に紛れるだけよ。それで無かったら、自分で洗濯機を回して貰うしかないけど…。洗濯機が開いていれば、使ってくれて結構です。コインランドリーも近所にあるけど、自分持ちよ。お小遣いが勿体無いでしょう?」
「分かったよ。考えとく。」
「そう。物分りの良い子で良かったわ。」
ベッドの上にバッグを投げ出して、端に腰掛けている利知未が、また口の片端を上げる。これが彼女にとっての笑顔なのだろうか?綺麗な顔立ちをしているのに勿体無いと、里沙は思った。
「夕食の時に、他の子にも紹介するわ。これから一階を案内するわね。」
部屋を出ようとした時、開いたままの扉をノックして、朝美が顔を出した。覗き込むようにして利知未を見る。
「里沙、新しい同居人、あたしが案内して良い?」
「あら、ありがとう。説明は一通り終わってるから、お願いしてしまおうかしら?利知未さん、構わないかしら?」
「…俺はどっちでも。」
「俺!?あんた、男の子?」
「…一応、女だよ。余りにも良く間違われるから面倒臭―んだ。」
部屋に踏み込んできた朝美が、利知未の事をマジマジと観察する。
「…成る程ね。…面白い!あたし、朝美。よろしく。」
右手を差し出す。利知未はかったるそうに右手を上げ、軽く握手をした。
「利知未。取り合えずよろしく。」
朝美は智紀を思い出した。小学生の頃の、機嫌が悪い時の雰囲気。似ていると思った。ただし、この利知未と言う子は、機嫌が悪くなくてもこんな雰囲気何だと言う事も、なんとなく理解した。面白いと思った。
里沙は二人の様子に安心した。少なくとも、朝美とは気が合いそうだ。朝美の、弟思いで面倒見が良い所が、上手くマッチしてくれれば良いと思った。
「じゃ、よろしくね。私は仕事部屋にいるから。」
「OK!一階案内したら、近所も案内したげるよ。」
「…サンキュ。」
利知未は朝美に好印象を持った。自分の言動をこれ程すんなりと受け入れられる人間は、珍しかった。半年前と、一年半前に亡くなってしまった老夫婦と、離れて暮らす事に成った、二人の兄達ぐらいだ。
朝美が利知未にとって良い友人に成って行くのは、この瞬間から決まった事であったかもしれない。
夕食の席で引き合わされたもう一人の住人・玲子とは、初日からどうも喧嘩腰になった。
利知未の食事マナーと口調が、玲子の勘に触ったのだ。しかし、里沙は期待した。
玲子はここへやってきてから、正しく優等生らしい少女で、感情的に成った所は、二ヶ月経った今も見た事は無かった。利知未と喧嘩をする事で、始めて素の部分が表れた訳だ。
朝美も同じ様な気持ちだったらしい。
そうして里沙が一人切り、静か過ぎる毎日に戸惑い、落ち込んでいた日々は終わった。
新しい同居人が増え、インテリアデザイナーとしての道も見え始め、今、漸く、里沙の思いが形になり始めた。
これから先、冴史、里真、樹絵・秋絵、美加と言うメンバーが増えて行く未来が待っているが、それはもう少し先の話だ。
大好きなメンバーに囲まれたストーリーが始まるまで、秒読み段階。
…10・9・8・7・6・5・4・3・2・1・…!
ストーリーは、ここから始まる………。
2005.10.10. 今から、二十年程前が舞台の物語。
了
(2007.9 改定)
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