乞い文
前作『請い文』と対になる話です。
拝啓
秋も深まり、朝夕は冷え込むようになってまいりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。
そちらでは、もうひと月もしないうちに雪が降るのでしょうか。先生が、お体を壊してはいないか心配です。
私は、元気です。
先生と共に暮らしていた頃に比べれば、少し食が不規則になりましたが、これは学生特有のものだと思います。
食よりも、学ぶことの方が楽しいのです。どうしても、勉強を優先してしまいます。
私が食事を作るようになる以前の先生のようだ、と言えば、先生も想像しやすいでしょうか。
私が先生の家を出て半年経ちました。
きちんと食事はしていますか? 睡眠は取っていますか? 先生は、仕事の忙しさを理由にすぐ不摂生をするから、心配です。
雪が降る前に屋根のペンキ塗りをしなければと思って、二年放置していたことを思い出しました。今年こそはペンキを塗り直さなければ、屋根雪が落ちにくくなります。
去年は、小倉さんの物置が豪雪で崩れてしまいましたね。
屋根雪が落ちなければ、先生の家も雪の重みで潰れてしまうかもしれません。お忙しいとは思いますが、ペンキの塗り直しを検討してください。
一人で屋根に昇るのは危険ですので、橘さんに必ず声を掛けて下さい。人知れず屋根から落ちていたなんて事があったら、私は一生後悔してしまいますので。
お仕事の方は、いかがですか。
また新しい学級の担任になると聞いておりましたが、今年の生徒達は、優秀ですか?
先生の教え子となる生徒は幸せです。
先生は、教師のくせに口下手で、無愛想な人ではありましたが、とても温かな言葉を伝える方だったから。
私は、中学に在籍していた頃も、卒業してからも、先生の言葉に支えられ続けていました。先生の言葉は、いつも私を救ってくださいました。
学生寮を追い出されたときの私は、先生と再び出会えたことがただ、奇跡だと思えました。
三日、公園のベンチで夜を越しました。
孤児である私には、高校の学生寮を追い出されてしまえば居場所などありませんでしたから、このベンチが家になるのだと、半ば諦めておりました。
そんな時に、先生が私の前に現れたのです。
先生に憶えていてもらえた事が、ただ、嬉しかった。
私は地味でしたから、中学を卒業して先生のもとを離れてしまえば、きっと忘れられてしまうと思っていましたから。
そして、この奇跡を逃したくはないと、そう思ってしまいました。先生の手を掴んで、決して、離したくはないと。
正直に伝えてしまえば、あの時、私が先生に身体を売ろうとしたのは、宿が欲しかったからではありません。
先生は教職員ですから、かつての教え子と身体関係を結んでしまえば、それを弱みに出来ると思ったからです。
先生には、私は何度も同性と身体を重ねたことがあると伝えましたが、そんな事実はありません。
嘘をついてでも、脅してでも、先生と共にいたかった。私は、中学の頃からずっと、先生のことが好きでした。
けれど先生は、そんな取引をせずとも、私に手を差し伸べてくださいました。
先生の優しさに包まれて、私は、私自身の卑しさに嫌気が差しました。
私は、先生が思うほど、良い子ではありません。先生に好かれたいが為に、ずっと、ずっと、演じ続けていただけなのです。
そんな私の奥底の本性を見抜いたから、先生は私を受け入れてはくれなかったのでしょう。
それで良いのだと、今では諦めもつきました。
先生の隣にいるのは、私の様に穢れた人間ではありません。
ならばせめて、先生が望んだように、優等生として生きられるよう、今はただ勉学に勤しむ毎日です。
一緒に暮らしていた頃に先生は、私のことを賢いと言ってくれましたね。それは学業の成績だけでなく、内面も含めてのことだと。
私には、その意味がよくわかりませんでしたが、今では少しわかります。
人付き合いにおいて、相手の心情の機微を悟ることは大事だと気付きました。
そして、どうやら私には、その機微に敏感に反応できる賢さがある。先生の言っていた賢さとは、このことだったのでしょう。
思えば既にあの頃から、先生は私を外の世界でも生きていけるよう指導してくださっていたのですね。
一言一言が、教師としての助言だったのだと、毎日思いながら過ごしております。
ただ、先生の言葉を思い出すたびに、くるしく想うのです。
どれだけ私が先生を慕い、先生のために食事を作り、先生のシャツに糊を張っても、または先生の隣で眠ることが出来ても、私は先生の伴侶ではなく、先生の教え子でしかなかったのだと。
私は、勘違いをしていた。いえ、夢を見ていたのです。
先生の一番近くにいるという現実を、私は都合良く解釈しておりました。
先生と過ごした日々は、私にとって幸せな日々でありました。
何よりもお慕いした先生と、同じ屋根の下に居られたこと。家族を失ってから、ひとりひもじい想いをして生きてきた私に降った、最大の幸福でありました。
勿論、その幸福もいつか終わりがくると覚悟はしておりました。
先生が進学を薦めてくださったときに、私はその終わりがきたことを悟りました。だから最後に、私は先生に想いを告げました。
私が抱いた幻想は、先生が、私を愛してくださっているということでした。
先生が私を拾ってくださったのは、同情ではない。
先生が私を家に置いてくださったのは、同情などではないと。
馬鹿だと笑ってください。
賢いと言ってくださったその口で、私を軽蔑してください。
私は、賢くなどないのです。
現実を受け止めることなど出来なくて、たくさんの言い訳で塗り固めて先生の隣にいるという事を脚色していたのです。
私はそんな人間です。
先生のもとを離れたあとも、先生と共に暮らした日々を思い出して涙を流すような、卑しい人間です。
諦めがついたと嘘を吐き、けれど先生からの優しい言葉を欲するような、計算高い人間です。
私は、先生を愛しております。
今すぐにも先生に会いに行きたい。
だけど、もう先生に嫌われたくはないのです。
どうか先生は、これからも優しく清らかなひとであってください。
私は先生のその優しさと清廉さに触れて、ただ幸せでありました。醜い私が、一時でも、美しくなれたような気がしたのです。
もし仮に、この手紙を受け取った先生が私に再度同情してくださったとしても、決してもう、手紙を寄越さないでください。
先生からの手紙を受け取るたびにくるしくなるのです。
そして、まだ一筋でも、期待をしてしまう自分がいやになるのです。すぐにでも、先生のもとへと帰りたくなってしまうのが、虚しいのです。
だから、どうかもう、手紙は送らないでください。
どうか、私にもう期待をさせないでください。
私は大丈夫です。
心配は無用ですので、今の教え子たちを立派に育ててくださいますよう。
秋雨のみぎり、何とぞお身体を大切になさってください。
敬具