女王陛下アンジェリカのお仕事
「こんなことすら満足に出来ませんの!? 早く完成させて提出しなさい!!」
「も、申し訳ございませんでした……!」
玉座の間に、怒声が響き渡った。
辛うじて外には響いていないものの、その部屋にいた者全てに緊張が走る。
声を張り上げながら、土下座をする臣下の手に赤いヒールの踵をめり込ませるのは、『紅の女王』と恐れ敬われる当代の女王陛下、アンジェリカ・レタ・リス・ロフィーリーストその人。
豊満な胸を大胆に覗かせた赤のドレスに綺麗に巻かれた赤毛、そしてさめざめとした緑の吊り目で憤る様はまさしく女王。
アンジェリカは優秀故に、使えない者に対しては酷く厳しい。
今回この臣下が踏まれているのも、提出するはずだった書類がまだ完成していない、という理由からだった。
ある程度怒鳴り散らしたアンジェリカははぁ、と溜息を零す。
「……まぁいいですわ。今回の件でのお咎めはこれくらいに致しましょう。……でも、次やったらどうなるか……」
分かっていらっしゃるわよね?
アンジェリカは赤いファーの付いた扇子を口元に当て、跪く臣下に向けて絶対零度の視線を向ける。
「っ、……は、はい……っ」
「……いいですわ、もう下がりなさい。……興が冷めえしまいましたわ。わたくし、もう部屋に戻ります」
くるりと踵を返すと、アンジェリカのドレスの裾と巻き髪がふわりと揺れる。
制止の声など聞かず、アンジェリカは二人の侍女を連れて部屋に戻った。
□■□
パタン。
自室の部屋の扉を閉め、鍵をかけ、さらに上から鎖を巻いて錠前を掛け、その上から鉄製の扉を閉じ、指紋認証でしか抜けないような設定が続いていることを確かめ。
「……」
アンナ・フレデリカはゆるゆるとその場にへたり込んだ。
未だに膝はガクガクと笑い、手は絶え間なく震えている。
その震えを抑え込むように両腕をさするアンナの肩に、暖かいケープが掛けられた。
「お疲れ様でしたわ、アンナ」
「あ……アンジェリカ、様……」
アンナの後ろに立っていたのは、アンナと瓜二つの女性──本物のアンジェリカだった。
なんでこんなことになったのかしら……。
アンナは震えが止まるまでアンジェリカに宥めてもらいながら、こんなことになってしまったときのことを思い起こしていた。
□■□
アンナ・フレデリカは所謂、没落貴族、というやつだった。
没落した上に両親は事故で他界。家も売られ、男爵位という爵位があるだけの無一文な状態。
そんな人生においての最大の不幸に見舞われ、途方に暮れていたアンナを救ったのは『紅の女王』アンジェリカだった。
『アンナ・フレデリカ。わたくしのところに来なさい』
そのときのことを、アンナは今でも覚えている。
見慣れた自分の顔と同じ顔をしたのが女王だと言われ、アンナは大層困ったのだ。
それと同時にかの名高いアンジェリカの側にいてもいいのか、と疑問にも思う。
しかしこの機会を逃したら行く当てのないアンナは、アンジェリカとともに城に入ったのだ。
アンナの仕事はこうだ。
とても多忙で席を立つ暇のないアンジェリカの代わりに、外などを出歩く際の影武者になって欲しい。
しかもこの仕事を受ければ給料も貰え、衣食住も確保してくれる、と言われ、アンナは困った。恐ろしく良い待遇のせいだ。
しかしこの仕事を断ったところで行く当てなどない。
アンナは悩みに悩んだ末、その仕事を受けることになった。
今となっては後悔しかないが。
アンナの初仕事は大勢の側近の前でのスピーチ。
大いに緊張はしたものの、もともと演技も上手く話し上手だったアンナはそこまで苦とせずに初仕事を終えた。
問題は、その後だったのだ。
□■□
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません、アンジェリカ様……」
「構いませんわ。それよりアンナ、今度はどこの誰?」
「……サイネス伯爵です」
「……下等狸が……」
一応伯爵である男にそんなことを言ってもいいのか、とアンナは思ったが、アンジェリカの溜飲は止まらず。
いつになく険しい目つきをして毒を吐き続ける。
「全く、どいつもこいつも気持ち悪いですわ。どうして踏まれて喜ぶ変人ばかりなのよ!」
……そう、そうなのだ。
この国の政務につく人間は何故か皆、アンジェリカに踏まれたいと思うような変態共なのだ。
アンナは粘りつくような目で自分を見てきた視線の数々を思い出して、ぶるりと身を震わせる。
この仕事につき始めてから何度貞操の危機を感じたか。
男性だけならまだいい。しかしアンジェリカを狙うのは、侍女として仕えてくれる女性も含まれているのだ。
アンナはアンジェリカに付き添われて、漸く立ち上がることができた。
そのまま中に入ると、心配そうにアンナたちを見つめる侍女三人と騎士二人。
「アンナ様、大変お疲れ様にございました……こちらにお茶の準備ができております。ここでは心ゆくまでお休みください」
「ありがとうございます……」
アンナはぐったりと椅子に腰を下ろす。背凭れに置かれたクッションに身を沈めれば、大分落ち着いてきた。
すると向かい側に座ったアンジェリカが苦々しく書類を睨む。
アンジェリカがわざわざ影武者を立てたのはこのためだ。
ただでさえ信用ならない者たちが集まるこの城という場所。何かを頼めば先のようにわざと書類の提出を遅らせ踏まれようとする、また争奪戦が起きる。
そんな中で信頼できるのは、自分とごくごく僅かな味方だけ。
しかしアンジェリカ一人で政務が上手く回るはずもない。稀にアンジェリカに興味を示さずしっかりと仕事をこなし、そういった変態からさりげなく気を逸らしてくれる者もいるが、そんなの片手で足りるほどだ。
そこで浮かび上がったのが影武者を立てること。
そして見事アンジェリカのお眼鏡に適ったアンナは、影武者として変態どもと戦う宿命を背負ったのである。
「苦労をかけるわ、アンナ。でも大丈夫よ。そろそろ変態ども全員をここから追い出して、まともな臣下に変えることができそうなのよ! これでわたくしたちに降りかかる変質的な視線は大分減るわ……!」
「そうですか、それは良かったですわ……」
アンジェリカが拳を握り締める様を見て、アンナも心穏やかに微笑む。
そしてアンナは紅茶を一口含み、ホッと息を吐き出した。アンナが唯一心を休められる場所は、自分の身の危険を感じないこの場所だけ。
アンナは変態の手を踏みつけたヒールをちらりと見た。
踏んでしまった……今日も踏んでしまったわ……。
そのときに見られた粘着質な視線と吐息を思い出し、アンナはクッキーを無理矢理詰め込む。
なら踏まなければいい、と思うかもしれないが、虐げなければ虐げなかったで部屋に侵入してきたり道すがらで襲ってきたり、とにかく異常なことをし始めるのだ。
今回思わず手を踏みつけてしまったのも、これ以上放っておいたら足に縋ってまで触れてこようとする素振りを見せたからである。
触られるくらいなら、と勢い良くヒールを突き立てたアンナだったが、どんどん泥沼に浸かっていっている気がするのは気のせいか。
虐げれば虐げるほど、変態どもは悦ぶのだ。
しかしアンジェリカのためならば、とアンナは唇を噛み締める。
アンジェリカは立派な女王だ。
その上優しく美しく、こんなアンナのことを救ってくれた張本人で。
アンナは正直言って、最早付き合うとか結婚するという考えに魅力を感じなくなっていたのだ。
わたしの生涯を、アンジェリカ様のために捧げるわ……!
アンナ・フレデリカ。
没落男爵家の娘であり、現在十六歳。
彼女の女王業は、使えない臣下たちを踏みつけることだ。