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短編

アマリリス

作者: 秋口峻砂

原稿用紙五枚、社会問題

 あの故郷の優しい風に、もう触れることはないのだろうと思っていた。少年の頃、物語を書くのが好きだった。思い出すと赤面してしまうそうなほど稚拙(ちせつ)な物語。だがそれは夢に溢れていた。

 そういえば、それを読んで褒めてくれたのは、その頃に付き合い始めた妻だった。

 物語が完結することはなく、思い出と共に物置の奥へと追い遣られてしまった。




 心も身体もボロボロになった時期があった。

 数字とその順位だけが己の存在価値だった。順位を上げる為には手段を選ばなかった。

 手に入れた無意味で無価値な称号が矜持(きょうじ)だった自分が確かにいた。

 それらを支えていた自分の中の何かが折れる時がいつかくることを、どこかで分かっていた。そしてそれは実にあっさりと訪れた。

 気付くと押入れの中で震えながら泣いていた。口から漏れる嗚咽(おえつ)を押し殺すことに必死だった。守るべき妻も子もいる。彼らに不自由はさせたくない。

 だが身体に力が入らない。立ち上がる気力すら湧かない。実力社会で生きてきた私にとって、それは間違いなく己への死刑宣告だった。

 漏れる嗚咽に気付いた妻が押入れを開けた。押入れに隠れ震える自分の情けない姿を見られるのがあまりにも(みじ)めだった。

「どうしたの、あなた」

 妻の声は戸惑っていた。私が強いと思っているはずなのだからそれは仕方がないと思った。そして同時に、私達の夫婦生活は終わるだろうと思った。

 今まで家庭を(かえり)みず、ただ数字だけを追い掛けてきた夫なんて、金を稼がなければ存在価値なんぞない。それは分かり切っていた。

「どうして、こんなところに隠れているの」

 私は答えることすらできなかった。もう自分でもどうすることもできずにいた。何もかもが嫌になっていた。数字を追い掛け続ける毎日も、嬉々として上司や同僚を蹴落とす自分にも。

 つい先日、私が出し抜いた同僚が会社を解雇された。彼と組んでいた時期があった。だがそれはあくまで当面の利害が一致しているからだと思っていた。

 だが、彼はそう思っていなかった。私を信用信頼し、この実力社会を共に生き抜こうと考えていた。だから出し抜くのは簡単だった。彼はあっさりと失脚し、不利益を生んだとして会社は彼を切った。

 彼が解雇されたその日、彼は帰宅途中に私を待ち伏せていた。問い詰められてもへらへらと笑って誤魔化(ごまか)した。その時、彼の目を真剣に見ていれば、あんなことにはならなかったのかも知れない。

 翌日、彼は自宅の書斎で首を吊った。妻が難しい病気で手術には大金が必要だったと知ったのは、彼の葬式に参列した時だった。

 その時、私の中で何かが壊れた。

「もう、やめましょう」

 不意に、妻の声が柔らかくなった。私は思わず彼女の顔を見詰めてしまった。そこにはまるで子供を見詰める母のような、あたたかい目をした彼女がいた。

「もう、頑張るの、やめましょう」

 優しく抱きしめられ、堪えられなくなった私は、彼女の胸の中で泣き(わめ)いた。




 翌週、会社に辞表を出した。あれだけ尽くした会社からは何の労いの言葉もなかった。同僚は皆、ライバルが減ることを喜んでいるようにすら見えた。

 妻と子を連れて故郷に戻った。幸いにも多少の貯金はしていたので、今はそれを食い潰しながら何とか生活している。妻はパートとして働き、私は子供の面倒を見ながら静養し、そして少年の頃に書いていた物語の続きを書いている。

 私の書く物語を読むと、妻はいつも「もっと自由に書きましょうよ」と苦笑する。どうやら私はまだ何かに縛られているらしい。

 もう少年の頃のような、破天荒(はてんこう)な夢を描くことはできないのだろうと思う。だが、それでも物語を綴ることが、今の私が生きている意味らしい。

 いや、というよりも、いつか妻に「とても面白かった」と言ってもらえるように、ただひたすらに書こうと思うのだ。

 書斎の窓を開けると、秋の優しい風が頬を()ぜてくれた。視線を庭に向けるとアマリリスの花がふわふわと揺れていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 作品の内容が私の過去の実体験に似ていたので読んでいて思わず泣きそうになりました。 でも、この作品を読んで少しだけ心が楽になったような気がします。 ありがとうございました。
[一言] 現代の状況を表しているかのような小説ですね^^ 他人が失脚して喜ぶような人間にはなりたくないものですね~  ルビを振るほうが読みやすいと思いますよ
2012/06/29 19:54 退会済み
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