01 Prologue
全ては現実の秩序と法則に従ってモデリングされている。
陳腐なポリゴンなどではなく、高密度のパーティクルによって創造された世界。
全ては原子レベルからシミュレートされ、生命は緻密にエミュレートされる。
理想が形を成し、膨大なデータは仮想世界で偽りの肉体を与える。
ここは夢と虚構の桃源郷――――――――
「クソッ!!キリがない!!」
辰巳清彦は苦渋の表情を浮かべていた。
抜けても抜けても、更なる強度で展開する防壁。もう何時間も同じことを繰り返している気がする。自分が今どこに居るのか、ましてや時間でさえもエラーで分からない。
次々と更新される暗号鍵を、もう一人が生成パターンから推測して照合していく。脱出のために用意したセキュリティホールは、気付いた時には全て塞がれていた。
そもそも、最初は単なる好奇心だった。
バベルの秘密が隠されている。普段、清彦が徘徊している裏掲示板にアドレスと共に書かれていた、その一文が彼の興味を掻きたてた。もちろん、得体の知れない書き込みなのは分かっていたが、もし何かあっても逃げおおせるだけの自信はあった。そして、功名心に駆られた清彦は、後先考えずに侵入してしまった。
今まで失敗したことなどなかったし、いつも自信だけはあった。構造物を書き換えたり、公共領域にウィルスを仕掛けたり、自分は天才クラッカーを自負している――
防壁を潜り抜けながら、清彦はさっきまでのことを思い返す。
散々苦労して侵入したデータベース。喜び勇んで開いたら、舌を出した顔のイラストに“ごくろうさま”と書かれた、かわいらしい手書きのメッセージ。
憤慨しながら逃亡を図ったものの、開けておいた退路はいつの間にか塞がれ、今度は出現間隔がどんどん短くなっていく防壁。もう、何が何だかさっぱり分からない。
それでも大丈夫。こいつさえ居れば今回もきっと上手くいく。だいたい、こいつにいくら掛かったと思ってるんだ。清彦は自分にそう言い聞かせながら、もう一人の方をチラリと見る。
清彦の傍らに控える人物。それはナビゲーターと呼ばれる特殊なアプリケーション。独立思考型AIが搭載され、主の行動を常にサポートする。悪用すれば、清彦のようなスクリプトキディを天才だと勘違いさせる程の性能を持つ、仮想世界で人間を忠実に再現した人形。
清彦はふと我に返る。突如として目の前に現れたのは、大きさもデータの厚みも全く異なる防壁。ここのセキュリティは清彦の予想を遥かに超えている。まるで蟻地獄にでも嵌っているかのようだ。
「おい!早くしろ!!」
清彦は傍らのナビゲーターに檄を飛ばす。
解除を急かすが、遅々として進まない。
「予測不能なエラーが発生しました。解析プログラムを強制終了します。どうしますか。マスター?」
感情も抑揚もない声が、これ以上の逃亡は不可能だと告げる。
こんなことありえない。焦りと緊張だけが募る。
「ふざけんな!チクショウ!!」
癇癪を起した清彦は防壁を蹴飛ばした。
「入るは易し、出るは難し……ですわね。不正侵入が重罪なのはご存じかしら?」
追い詰められた清彦とは対照的――――
まるでアフタヌーンティでも楽しんでいるかのように、ゆったりとした口調。後ろからそんな声に話し掛けられた清彦は、思わずギョっとして振り返る。
そこには口元以外、頭の上からつま先まで、漆黒のすっぽりとした服に覆われた人物。
シルクのようにツルっとした生地には金色の縁取りがされていて、頭の額部分には魔法陣のような円形の刺繍が飾られている。表情は伺えないが、背丈や声からして女のようだった。
「チッ、そんなの知るかよ!!」
清彦は軽く舌打ちして吐き捨てる。
「相当な距離を逃げたと思ってらっしゃるでしょう? よくご覧なさいな」
言われた清彦は訝しげに目線を女の後方にずらす。
すると、
「……そんな、バカな」
目を大きく見開いた清彦の顔がだんだんと驚きに変わっていく。
そこには『一般来客用正面玄関』があった。
「あなたはログインしてから、まだ10分も経っておりませんのよ? この状況を例えるなら……そうですわねぇ」
女は笑みを浮かべながら、人差し指を下唇に当てる。
「お猿さんは30万里を飛んでも、お釈迦様の掌から出ることができなかった……かしら? うふふ、今の状況に相応しい素敵な例えですわよね?」
そう言って自画自賛した女は、そっと口元を手の甲で隠す。
動作はあくまでも優雅だった。
「……猿だって言いたいのか?」
なんだか気に喰わない、生理的に受け付けない。のんびりした口調、見下した態度も何もかも。ギリギリと歯を食い縛りながら女を睨むと、怒りの感情が膨れ上がる。
「あら? お怒りのよう……ふふっ」
わざとらしく隠した口元が嘲笑に歪む。
「バ、バカにしやがって!!このアマっ!!」
清彦の怒りが最高潮に達した。人一倍プライドが高い清彦にとって、このように馬鹿にされることは到底許せなかった。
「おいっ!ワームを出せ!!」
清彦は傍らのナビゲーターに向かって声を張り上げる。
ワーム。一般的には下位のウィルスだが、強力な自己増殖機能を持つため、数さえ揃えば脅威と成り得る。失敗した時の最終手段だった。
「プログラム、ロード完了。解凍後、展開して実行します」
清彦の手元にロードされたデータは粒子となり、収束して徐々に形を成していく。それは空間を構成するデータを餓鬼のように貪りながら、肥大して自己増殖を始める――――はずだった。
形を成そうとしていたプログラムが、まるで砂のようにサラサラと崩れて消えていく。
「面白いオモチャを持ってらっしゃるのね?」
清彦は何が起こったのか分からず、呆然としながら空っぽの手元を見ている。
怒りの表情はあっけなく消えていた。
「……おい、どういうことだ?」
脇目を振ってナビゲーターに問う。
「認証が拒否され、ファイルが全て削除されました。プログラムが実行できません」
冷ややかな回答。
「先ほどの例えを聞いていなかったのかしら? あなたが今居るそこは、最初からわたくしの閉鎖領域ですわ。わたくしが『認証』を『許可』しませんと、何もできませんわよ?」
女がやれやれといった様子で説明すると、清彦はビクっとして顔を上げる。
ケージの中、回し車をひたすら走り続けるハムスター。清彦の脳裏に浮かんだのは、そんな光景だった。
「……お、お前、ま、まさかウィッチか?」
態度では精一杯虚勢を張りながらも、震えた声の清彦が問う。
「『お前』だなんて、ずいぶんと失礼な物言いですこと。まあ、世間ではそう呼ばれているようですわね」
「……っ!」
清彦は絶句する。
冗談じゃない、洒落にならない。とんでもない奴に目を付けられてしまった。
ウィッチ。世界に僅か数人と言われるウィザードと並んで称される、電子の魔女。噂では最上級のプログラムスキルを持った女賞金稼ぎらしい。彼女らが作成したプログラムはウィッチクラフトと呼ばれ、裏では相当な高値で取引されている。
「そろそろ時間ですわね。これでお話は終わりですわ」
はい終了といった具合に、女は両手で軽く手を叩く。
「お、俺はこれからどうなる?」
清彦が恐怖に蒼白となった顔で問う。
「簡易裁判の後は例外なく『コキュートス』と聞いております。それから、あちら側であなたの身体も拘束されたそうですわ」
その言葉を聞いた瞬間、清彦の表情は一瞬にして凍りつく。そして、紐が切れたマリオネットのように膝から崩れ落ちたのだった。
コキュートス。現実世界から切り離され、意識体のまま永劫に閉じ込められる電子の牢獄。収容者の主観時間は大きく引き延ばされ、体感時間は1時間が1日に、1日は24日に相当する。
特に、政府や特定の企業、機関に不正侵入を行なった者は、最低でも1年の懲役。本人が実際に感じる時間は8760年だ。刑期中は常にモニターされ、生かさず殺さず、発狂させず。ある意味、死刑よりも残虐。仮想世界だからこそ実現された、実在する無間地獄。
清彦は恐怖に身を震わせ、ついには両手で顔を覆いながら嗚咽を始める。プライドという名のメッキが剥がれ落ちた瞬間だった。
「あらあら、情けない……。殿方が取り乱す姿は見たくありませんわね」
女は両手を腰に当てて、ふぅと短い溜め息を吐く。
半ばあきれた様子だ。
「……して……許して……」
清彦は土下座して許しを請い始める。まるで呪詛でもかけているかのように、何度も繰り返して許しを請う。体感時間が引き延ばされる恐怖は、さっきまでの出来事で十二分に思い知った。コキュートスはこんなに生易しいのではないだろう。
「自業自得ですわ! わたくしには、あなたをどうこうする資格はございません!」
女は手を腰に当てたまま、ぴしゃりと言い放つ。
「……ひっ」
清彦は声にならないような声を上げると、観念したのかそれっきり黙り込んでしまった。土下座のまま、ただ震えている。
「それではご機嫌よう」
女が語るよりも早く、清彦の身体は次第に変化を起こし始める。
仮想空間で清彦を構成しているデータは光の粒子となり、煌めきながら昇華していく。現実世界からの干渉で強制的にログアウトされているのだった。
「見てはいけないものを見たくなる。知ってはいけないものを知りたくなる。まあ、そんな気持ちはわたくしにも分かりますけれど、今回は運がよろしくなかったですわね……。あなたもそう思いますでしょう?」
清彦が居た場所を見つめながら、女は独り言のように話し始めた。
「そうだね。ただ、何というかな……。仮想空間の上に仮想空間を作るなんて、ほんといい性格してるよね? しかも最初から彼の周囲だけに作って、外から丸見え。最初はホログラムかと思ったけど、まさか閉じ込めてるとはね。もしこれが昼間だったら、いい晒し者だよ?」
苦笑しながら話しているのだろう、その声は女の後ろから聞こえた。
どことなく、軽そうな印象を受ける口調の男だった。
「わたくしはあくまでも指示に従っただけですわ。本当はもっと別の意図があったようですけれど。あなたこそ、最初からずっとそこで見ていらしたのでしょう? 殿方が覗き見だなんて、感心しませんわよ?」
女は口元に笑みを浮かべながら、振り返りもせずに話を続ける。
お互い顔見知りなのか、ギスギスした雰囲気は感じられなかった。
「そこはお互い様ということで。あぁ、もう少し早ければ俺の獲物だったのになぁ……。二人へ同時に依頼出すのは勘弁してほしいよね。このままじゃ、今日のバイト代ゼロだよ? これじゃ、我が親友みたいじゃないか」
きっと、大げさに両手を広げて茶化しているのだろう。
女は雰囲気で察すると、クスリと笑う。
「あら、そうでしたの?」
「まあ、いいけどさ。久々に楽しいものが見られたし、キミの怖さも改めて分かったからね。それじゃ、俺は本来のバイトに戻るよ。またね」
言った男の気配は瞬時に消え去った。
ログアウトとは異なる、微風を感じるようなデータの流れ。
どこか別の場所へシフトしたようだった。
静かになったところで、女は残された人物に目を移す。そこには主が居なくなった後も、閉鎖領域に立ち尽くすナビゲーターが居る。
通常はログアウトすると、自動的にデータ化されて持ち主へ戻される。しかし、今回のように犯罪者の持ち物となると話は別だ。
「これも規則。恨むなら、あなたの主を恨んで下さいましね」
忠犬のように佇むナビゲーターに向かって、女はそっと声を掛けた。
それは同情しているのか、とても優しげな声だった。
(ごめんなさいね)
女が小さく呟くと、彼女の周囲にほんの一瞬、画面のようなものが現れて消える。
すると、ドーム状に展開されていた閉鎖領域は、波打つように歪み始め、最後にはシャボン玉のように弾けてデータの塵へと還っていく。
程なくして、異物として削除対象になったナビゲーターは、本日も正常稼働中のセキュリティシステムによって速やかに排除されたのだった。
そして、辺りに静寂が訪れる頃、女の姿は影も形も見当たらなかった。