Turn around to me2
指が長くてちょっとゴツゴツしてて…男の人らしい手だなぁ、なんて。
目の前でスラスラと動く手をぼぅっと眺めながらそんな事を考えていた。
「藍澤?聞いてるか?」
――と、突然聞こえてきた声に我に返る。
「あ、はい。聞いてます。…すみません」
…そうだった。
芙美に背中を押されて、先生に質問に来たのはついさっきの事。
問題の解き方を説明しながら、プリントの上をスラスラと走る、ペンを持った先生の手に
つい見惚れてしまって危うく説明を聞き逃すところだった、なんて言えない。
「――で、ここで求めるのは a>2 とする時の x の値だから―…」
表情を幾分か引き締めてプリントに向き直した私を確認すると、先生はまた説明を続ける。
私は、また先生の手に行ってしまいそうになる視線をなんとかプリントに向けて、
その手が導き出す解法を必死に目で追う。
いつもは、先生が通り過ぎる時にふわっと香るだけの彼のタバコの香りも、今はすぐ傍にある。
それだけで、さっきから私の心臓はドキドキとものすごいスピードで脈を打っていた。
でも今は問題に集中しないと…。
「――これで x の値が出る。…わかった?」
プリントから視線を上げた先生が、聞く。
「…はい。大丈夫……だと思います」
はっきり断言できないのが、ちょっと悲しい。
確かに今は理解できた。
先生の説明はわかりやすくて、彼の手が導き出す式でその答えに辿り着くのはわかった。
でも…。これが1人で最初からこの問題に取り組んだ時、スラスラと解けるか、と問われたら
できる、と即答できないのが、悲しいところだった。
これは完全に、私の頭の出来の問題なんだけど。
「――もう1回説明しようか?」
「あ、いえ…!大丈夫、です。ありがとうございました」
もしかしたら私は難しい顔をしていたのかもしれない。
もう1度シャープペンを手に取った先生に慌てて言うと、先生が小さく苦笑した。
「まぁ、またわからなくなったら、いつでも聞きに来ていいから」
そう言ってくれた先生に、もう1度『ありがとうございました』と頭を下げると同時に
授業終了を告げるチャイムが鳴った。
「じゃあ今日はここまで。号令はいいよ」
教室内を1度グルリと見渡してそう言うと、先生は教室から出て行った。
――そして金曜日。
来週の月曜から中間テストが始まる。
私は数学でどうしてもわからない問題があったけど
とうとう今日まで質問に行くチャンスを逃してしまっていた。
どうしようかな、とちょっと迷って。
でも、芙美にも『先生に質問に行け』ってせっつかれてたし
私自身、やっぱり初めての先生のテストで少しでも良い点を取りたいという気持ちがあったから
いつも一緒に帰ってる芙美には先に帰ってもらって
放課後に1人、先生に質問に行く事にした。
教科書とノートを持つと、私は先生の教官室に向かう。
先生が教官室にいるかどうかはわからないけど、櫻花の先生達は1人1人に教官室が
与えられているせいか、職員室より教官室にいる先生の方が多い。
それにどっちにしろ、テスト前の今、職員室は生徒立ち入り禁止だし。
教官室は、教科棟と呼ばれている職員室や音楽室・実験室などがある棟の、上から2つの階にある。
その中でも先生の教官室がある数学科は1番上の階だった。
ほとんどの生徒が下校して、ひっそりと静まり返った教科棟の階段を1人で上って行く。
先生の教官室は5階の1番右奥の部屋。
5階まで着いて―――足が止まった。
先生の教官室の前に誰かいたから。
私は咄嗟に階段を1段下りて身を隠す。
誰だろう。髪が長かったから女の人には間違いない。
制服じゃなかった気がするから、誰か他の先生だろうか…。
別に、先生の教官室に他の先生がいてもおかしくない。
何か用事があって来ているだけかもしれないし。
そう思いながらも、心臓がドキドキと音を立てる。
いつもより早く打つ脈に、苦しくなる。
私はドキドキうるさい心臓を片手で押さえながら、顔だけ出してその訪問客を見た。
―――立川先生。
その人が誰なのか、すぐにわかった。
先生や頼人さんと同じで、今年大学を卒業して赴任してきた新任の先生。
始業式の日、彼女も壇上で挨拶をしていたから間違いない。
年下の私が言うのも変だけど、雰囲気のかわいい先生で、男子生徒から人気があったし
同じクラスの男の子達も『かわいい』と騒いでいたから、なんとなく私も知っていた。
でも確か…立川先生は1年生の英語科の担当だったはず。
なんで?
なんで1年生担当の、それも英語科の立川先生が、楢橋先生の教官室に来るの?
どくんどくん、と私の心臓はさらに大きく音を立てる。
ここから立川先生のいる所――楢橋先生の教官室の前――までは少し距離がある。
だけど…耳に痛いくらいの静寂に、自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと
私は無意識のうちに、さらに強く自分の心臓を押さえていた。
――と、ゆっくりと教官室のドアが開いた。
中から顔を出したのは、もちろんあの部屋の主である、楢橋先生。
彼の顔を見て微笑む立川先生。
――その顔は、私が見てもわかるくらい“恋する女”の顔だった。
心臓は未だどくんどくんと大きく脈を打ち、喉もカラカラに渇いてる。
先生は開け放したドアに凭れるように寄りかかって、彼女と話をしている。
腕を組んで少し俯いた彼の表情は、ここからは見えない。
彼は今、どんな表情をしているのだろうか――。
あの、オリエンテーリングの時のような、優しい顔をしているのだろうか。
そう考えた途端、息苦しくなって、涙が出て来そうになる。
こんな場面なんて見ていたくないのに…早くこの場を去らなきゃって思うのに……。
私の足は本来の役目を忘れたかのように、その場から動こうとしてくれない。
しばらくして、楢橋先生が少し顔を上げて何か言うと
嬉しそうに微笑んだ立川先生が―――彼の教官室に入って行った。
ドアがパタンと…彼らと私を遮断した。
ここから2人の会話は聞こえなかったが、彼が立川先生を招き入れた事には間違いない。
もしかしたら、2人は同僚教師だし、仕事の話をしているだけかもしれない。
――でも、そう思い込もうとしても、どうしても別の考えが浮かんできてしまう。
だって、あの立川先生の、彼を見る表情は“同僚教師”を見るそれじゃない。
それは、恋愛経験の乏しい私にだってわかるくらいだった。
そして、そんな彼女を受け入れて自分の部屋に招き入れた先生――。
私は空気の抜けた風船のように、へなへなとその場に座り込むと
彼らが消えたドアをしばらく呆然と見つめていた。