Turn around to me1
あんなに綺麗に咲き誇っていた花弁もとうに散って
今、桜の木には青々とした葉だけが所狭しと茂っている。
そろそろ日差しも強くなってきて、少し動くと冬服の厚手の生地では
薄っすら汗が滲んで、暑くすら感じるくらいだ。
そんな今は、GWも終わった5月中旬。
1ヶ月と少し前、あのオリエンテーリングの日。
自覚した、楢橋先生を好きだという気持ち。
だけど、特に何の進展もなく…私は彼にとって大勢いる生徒のうちの1人のまま。
先生の担当は、数学。
体育とか芸術選択と違って、数学は毎日ある。それが嬉しい。
先生の授業は、評判が良かった。
授業中に冗談を言ったり、脱線して話し始めたり…なんて事はなかったけど
とてもわかりやすかったし、理解してない生徒には嫌な顔1つ見せずに丁寧に教えてくれた。
もちろんあの容姿だから、女子からは別の意味でも評判が良かったけど。
『何組の誰々が楢橋先生に告白した』なんて噂は、もう何回くらい聞いただろう。
その度に、今度こそ先生はそれを受け入れてしまうのではないか、と
心臓の締め付けられる思いがした。
私には告白なんて、そんな勇気はないから。
今まで好きな人ができても、告白なんてとてもできなくて
その人が誰か他の人と思いを通わせるのを、ただ見ているだけだった。
それに今、私が好きなのは“先生”。
生徒である私なんて受け入れて貰えるわけがない。
――そう思いつつ、他の子が先生に告白したって話を聞くと、不安でたまらなくなるんだけど。
今の私にとって1日1時間ある数学の授業だけが、唯一先生に逢える時間。
たまに校舎内で見かけたり、芙美に付き合って行った頼人さんの教官室で
偶然逢ったり…なんて事もあるけど、そんな嬉しい偶然はそう滅多にない。
確実に先生に逢えるのは、数学の授業だけ。
――“逢う”って言い方もおかしいけど。そんな風に思ってるのは私だけだから。
先生はただ、自分の受け持っているクラスで授業をしているだけ。
今日は、もうすぐ始まる3時間目が数学の時間。
チャイムが鳴って先生が教室に入ってくる時が1番ドキドキする。
すぐ目の前を先生が通るから。
ふわっと香るタバコの香りに、私の心臓は毎日、壊れちゃうんじゃないかってくらい早く鼓動を打ちつける。
黒板は見辛いし冬は寒いし…今までは嫌いだった、この“1番の指定席”も
今では大好きな席になっていた。
席替えなんて、ずっとしなくていいのになぁ…。
そんな事を考えていたら、チャイムが鳴って先生が入ってきた。
教壇に向かって歩く先生のスーツからふわっと香るタバコの香り。
今日も変わらずドキドキ心臓が煩くて、頬が赤くなってしまってるんじゃないかと
自分の頬を両手で押さえた。
週番が号令をかけて、先生がグルリ、と教室内を見渡す。
その後、私が2番目にドキドキする出席取り。
「藍澤」
「はい」
たったそれだけのやり取りだけど、私の心臓はドキドキしっ放し。
緊張で声が上擦らないように、注意して返事を返す。
全員の出席を取り終えると、授業が始まる。
先生のよく通る声は、耳に心地良い。
チョークを持つ手も、教卓に置いた教科書を見る時に少し伏せる長い睫毛も
何もかもが、私の鼓動を早めてならない。
毎日毎日これじゃ、そのうち私の心臓は止まってしまうかも。
カタン、とチョークを置く音が聞こえ、黒板に向かっていた先生が生徒の方へ向き直る。
それに合わせて、私は教科書に視線を落とす。もうクセになってしまった、この動き。
先生がこちらを向いている時は、私は教科書を読んでる振りをしたり
ノートを書いてる振りをする。
だって、もし目が合ってしまったら?
嬉しいけど、どんな顔をしたら良いのかわからない。
そもそも、授業中に教師と目が合ったらどんな顔しよう、なんて悩む方が
おかしいんだろうけど。
「じゃあ中間に出す単元まで終わったから、あとは自習。わからない所があったら聞きにくるように」
そう言って自習用のプリントを配ると、先生は教卓の椅子に腰を下ろす。
教室内が俄かにザワザワし始めた。
そうだった。来週からは中間テストが始まる。
2年生になって最初のテスト。忘れてた訳じゃないけど、知らず溜め息が零れた。
椅子に座って本を読み始めた先生をチラッと見てみる。
窓側に背もたれを向け、こちら側を向いて座ってる。
組んだ足が長いなぁ。
でも…残念。これじゃ先生を見る事ができない。
だって、先生が本から視線を上げたらバッチリ目が合ってしまう場所に私の席はある。
仕方なくプリントに視線を落とす。
先生に教わるようになって初めてのテストで、悪い点を取る訳にはいかない。
少しでも良い点を取って、先生に良い印象を持って欲しい。
でも…数学は正直言って得意ではなくて
1年生の時は、平均点より少し下くらいが、いつもの私の点数だった。
だけど。今年は楢橋先生に教わってるからっていう、ちょっと不純な理由ももちろん含まれてるけど
でも去年より、しっかり授業も聞いてるし。俄然、数学に対するやる気が違う。
心の中で『よしっ』と気合いを入れると、改めてプリントに向かった。
――が、そんな私の気合いも虚しく、すぐに行き詰まってしまった。
例えば、問題がそのまま数式で出ていれば、それなりに解けるんだけど
それが文章になると、途端に難しく思えてしまう。
私の文章読解能力に問題があるのかもしれないけど。
1人であれこれ数式に当て嵌めたりしてみたけど…私の頭にはちんぷんかんぷん。
仕方なく、クルリと体ごと後ろを振り向く。
「ねぇ、芙美……」
同じようにプリントと睨めっこしてた芙美に声をかける。
芙美は、私と違って数学の成績が良い。
…と言うか、全体的に私より成績が良いんだけど。
「ん?どうしたの?」
私のちょっと情けない声に、彼女はプリントに落としていた視線を上げる。
「うん、あのね?この問題なんだけど…ちょっとわからなくて……」
そう言って芙美の前にプリントを置いて指を指す。
私の指した問題をチラッと見た芙美は、にっこりと擬音がしそうな笑顔を貼り付けて顔を上げた。
「…え?」
「結夢?この問題わからないの?」
「え…、う、うん…」
う…なんかその笑顔ちょっと怖いっていうか……。
「さっき燈吾先生、なんて言ってたっけ?」
「………?」
「『わからない所があったら聞きに来るように』…そう言ってたよね?」
相変わらずにっこりと笑って芙美が言う。
う…それは確かにそう言ってたけど…。
「ほら。さっさと行く!」
そう言って芙美が先生のいる教卓の方をびしっと指差す。
私の気持ち知ってるくせに…芙美の意地悪……。
「うー…でも先生忙しそうだし……」
そう。さっきから先生の元には生徒が入れ替わり立ち代り質問に行ってる。
女子が多いような気がするけど…そこはあえて気にしない事にする。
「何言ってんの。そんなの気にしてちゃダメ!あ、ほら。今チャンスみたいよ」
芙美の言葉にチラッと先生を見てみる。確かに今はちょうど誰もいないみたいだけど…。
「うー…でも……」
「ウダウダ言ってないで、さっさと行ってらっしゃい!」
プリントを私に押し付けると、行けとばかりに手の甲をヒラヒラさせられた。
どうやら芙美は何を言っても教えてくれる気はないらしい。
仕方なく私はプリントを胸に抱くようにして席を立った。