桜と君と4
その場にいるだけで空気をも変えてしまう人って、少ないと思う。
存在感がある人はたくさんいる。
でも、空気を変えるまでの存在感を持っている人ってあまりいない。
楢橋先生は、その1人…だと思う。
初めて見た時、一瞬にして空気が変わった。
身動きをとる事も、呼吸をする事さえも忘れてしまいそうだった。
怖い、とはちょっと違うけど…似たような感覚だったと思う。
あんな人、今までに出会った事ない。
「へえぇぇぇ!なんかロマンチック!」
朝の一連の出来事を一通り話し終えると、芙美からはそんな言葉が返ってきた。
「ロマンチック…って、そんなんじゃないよ」
もちろん、時間が止まったように魅了された事は内緒。
そんな事を芙美に話したら、何言われるか…。
冷やかされるだけならまだいい方。
芙美なら『告白!』なんて言いかねない。
そんなんじゃないから。ただちょっと存在感に圧倒された、だけ。
うん、それだけ。
「でもさ…あの時、あの場所に結夢以外いたっけ?」
「うん、それが…芙美が来た時にはもういなくなってたんだよね」
「えーちょっとぉ…それってホントに先生?結夢って霊感強くなかった?」
「や、やめてよっ!あれは楢橋先生で間違いないもん」
「ふーん?“間違いない”ね。断言できちゃうんだ、結夢ちゃんってば」
「…っ!」
にやりと楽しそうに笑う芙美に、言葉が返せなくなる。
きっと今、私の顔は赤くなってるんだろうな。
芙美の楽しそうな表情を見れば、聞かなくてもわかる。
「あー…うー…」
私の口からは、そんな言葉しか出ない。
それこそが、芙美の言っている事を肯定してる事になってしまうんだけど。
「うんうん。わかったわかった」
何がわかったと言うのか。
芙美は1人納得したように、うんうんと頷いている。
「だからっ……」
「はーい、席着いてー」
芙美の誤解を解こうと思った私の声は、無情にも担任の声にかき消された。
仕方なく、椅子ごと体を前に向ける。
1番廊下寄りの列の1番前の席。出席番号1番の指定席。
櫻華は共学校だけど、男女混合の出席番号なので『あいざわ』の私は、大抵1番だ。
担任教師が教卓の前に立ったのを見計らって、号令をかける。
今週は、私と芙美が週番。
担任は現国担当の女教師。年齢は30代後半っていったところだろうか。
生徒の意見を尊重してくれるし、授業もおもしろい。
なかなか人気のある先生だ。私もこの先生の授業は好きだった。
学年のそれぞれの教科担当の教師は、そのまま持ち上がりとなる為
去年1年生を教えていた教師達は、今年は2年生を受け持つ事になる。
櫻華は、副担任制をとっていない。
その代わり、学校の行事などには、学年担当の教師達が一緒に参加する。
その学年の教科担当教師達が、その時々に応じて副担任代わりとなる。
「じゃあ委員と係りを決めようかしら。えっと…藍澤さんと上野さん、とりあえずお願い」
これも1番のさだめ、かな。
クラス委員の決まっていない、新学年の初めはこうしてクラス委員代わりを
させられる事も少なくない。
ちらり、と後ろを振り返れば、芙美も同じように『仕方ないよね』って顔してた。
去年と同じ面子だからか、委員と係り決めは揉める事無くすんなり終わった。
私は、芙美のたっての希望で、一緒に化学係り。
どうやら頼人さんは、うちの学年の化学担当らしい。
特にやりたい係りもなかったし、何より芙美の嬉しそうな顔を見ていたら
こっちも嬉しくなるから、迷う事無く一緒にやる事にした。
「じゃあこれで今日はお終い。週番、号令よろしく」
担任の声に、号令をかけて今日1日の予定が終わる。
「ねぇ、結夢。化学教官室行かない?」
帰り支度をしていると、後ろから芙美に肩を叩かれた。
「え?いいけど…大丈夫なの?」
「平気よ。化学係りとして、これから1年教わる先生に挨拶に行くだけなんだから」
「そうだね。うん、いこっか」
櫻華は、教師1人ずつに教官室が与えられている。
頼人さんの教官室はすぐに見つかった。
ノックをすると、すぐに中から返事が返ってきた。
「失礼しまーす」芙美と2人で中に入ってすぐにドアを閉める。
「芙美?まぁ来ると思ってたけど。結夢ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです」
「5組の化学係りです。峰岸先生にご挨拶に来ましたー」
ふざける芙美に、頼人さんは優しい笑顔を見せる。
その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
瞬間、私と芙美は顔を見合わせる。
私達がここにいる事を、怪しまれたりしないだろうか。
「大丈夫だよ。2人は係りで挨拶に来てくれただけ、だろ?」
そんな私達の考えがわかったのか、頼人さんは少し笑ってそう言うと
教官室のドアを開けた。
「ああ、なんだ。お前か」
「なんだ、はないだろ。なんだは―…」
そこまで言いかけた訪問者が、私達の存在に気付いて言葉を止める。
今日何度目だろう。こうして動きが止まってしまったのは。
入ってきたのは、楢橋先生だった。