And I love...1
「――違う、ごめん。そうじゃないんだ」
『ごめん』と言ってしまった後で“間違えた”と思った。
“それ”は俺が口にしてはいけない言葉。
慌てたように謝罪を口にし、出て行こうとする彼女の腕を思わず掴んだ。
正直、驚いた。
ドアを開けた時、そこにいる筈のない人間がいたから。
もう2度とここへは来ないだろうと思っていた、彼女が。
「あ、あの…!突然すみません!今少し…いいですか?」
一瞬合った視線を僅かに下げた後、今度はまっすぐに見つめてきた。
その瞳に魅せられて、一瞬思考を奪われる。
“釘付けにされた”とでも言えば良いのだろうか。
弱くおとなしい印象を持つ彼女が、たまに見せる強い意志を持った瞳。
柄にもなく、心臓が早鐘を打つ。
「あの…ダメ、ですか…?」
俺が黙ったままなのを否定と取ったのか、彼女はまっすぐ合わせていた視線を落として俯いた。
「…あ、ああ、いいよ。――どうぞ」
慌てて意識を戻すと、大きくドアを開けて彼女を中へと促す。
すると彼女は弾かれた様に顔を上げ『…失礼します』と一礼して廊下と教官室の仕切りを跨いだ。
彼女が何かを決意してここに来た事はわかっていた。
そうでなければ、彼女が<ruby>こ<rt>・</rt>こ<rt>・</rt></ruby>に来る訳がない。
「あ、あの!さっきは…ありがとうございました。その…先生が、保健室に連れて行って下さったって…」
――あの時。校庭で体育祭の練習をしていた時。
俺は1組の生徒達の中にいながらも、少し離れた場所にいる藍澤の様子が気になっていた。
青白い顔をして今にも倒れそうな藍澤が。
だから、彼女が倒れた時、自分でも驚く程早く彼女の傍に駆け寄っていた。
周りに生徒達がいるだとか、その生徒達の視線だとかはまったく気にならなかった。
…というより、気にしている余裕がなかった。
それ程までに俺の中には、藍澤の事しかなかった。
意識がなくグッタリとした彼女を抱き上げると、周りの悲鳴やザワつきが一層大きくなった気がしたが、
そんな事は構わず、保健室へと急ぐ。
保険医の木下先生が留守だったので、空いていたベッドに彼女を寝かした。
青白い顔をして横たわる彼女を見ていると、何とも言えない焦燥感が押し寄せる。
もしかして…いや、もしかしなくても彼女をここまで追い詰めてしまったのは自分なのではないか、と。
苦しそうに息をしている彼女の額の汗を拭う。
こうして彼女の意識がない時にしか、触れる事ができない自分。
受け入れる事もできないクセに、突き放す事も放っとく事もできない、中途半端な自分。
そんな自分が1番未練がましくて…滑稽だ。
暫く彼女が横たわるベッドの脇に座り彼女を見つめていると、ドアが開く音がした。
ベッドを仕切るカーテンを開いて顔を出したのは頼人。
「結夢ちゃん、どうだ?」
「――まだ眠ってる」
「そうか。それにしても燈吾。お前、早かったなぁ。俺の方が近くにいたのに?」
そう言って頼人はニヤッと笑う。…なんなんだ、そのいやらしい顔は。
「…別に。偶々だろ」
「ふーん。ま、いいけど。で、どうする?」
頼人の言葉に俺は立ち上がる。
藍澤が目を醒ました時、俺はいない方がいい――そう判断したから。
「――後は頼む」
「わかった。まぁ、あれだけの生徒が見てたんだ。どっちにしろわかる事だとは思うけど」
「…それでも、俺がいない方がいいだろ」
彼女が俺のせいでこんな状態になったのだとしたら、俺はいない方がいい。
俺はカーテンを開け外に出ると、そのまま保健室を後にした。
「――先生」
藍澤の声に、先程の保健室へといっていた意識を現実に戻す。
彼女の瞳には、何かの決意が見て取れる。それ程の意志の強い瞳。
嫌な予感が過ぎる。背中を嫌な汗が流れたような気がした。
「藍澤!?ちょっと待…っ」
「先生が好きです」
情け無くも俺は彼女の言葉を遮ろうとしたが、彼女はその俺の言葉を押し切った。
彼女からこの言葉を言われたのは2度目。
彼女の瞳が俺をじっと見つめる。体は震えているのに、視線はずっと合わせたまま。
そんな彼女に俺は居たたまれなくなって、思わず視線を逸らす。
まだ16の少女が、自分よりもずっと年下の彼女が、俺から視線を逸らす事もせず、気持ちを伝えてくる。
受け入れる事も拒否する事もできない中途半端な自分より、彼女の方がずっと強い。
――俺は何をしているのか。
何だかんだと理由をつけて自分を正当化して、彼女を遠ざけている自分は。
“楢橋先生”という蓑の中に、“楢橋燈吾”の本心を隠して、彼女に向き合わない弱い自分。
こんな小さな少女にばかり本音を言わせて。
俺はいつからこんなに狡くて情けない男になったのか。
いつから、こんなに“大人”を振り翳して、自分の本音を隠してしまうようになったのか。
俺は、なっても良いのだろうか。
“楢橋先生”ではなく――楢橋燈吾という、1人の男に――。
――あの日。
あの桜の木を見つめる彼女を見た時から、目の前の少女を欲しいと思っていた。
自分の惚れた女が、こんな狡くて情けない男にここまで言ってくれているのに。
――何を迷う必要がある。