ココロノユクエ2
突然の事に、言葉が出なかった。
久しぶりに先生の顔を見た気がする。
――少なくとも、あの日以来、初めて交わった視線。
小さく嘆息すると共に、先生の足がこちらに向かって歩き出したのを見て、思わずビクッと体が揺れた。
先生は私の前まで来ると、私とプリントとを交互に見下ろした。
たまらず、視線が落ちる。
だけど。私の目の前の席に座った先生に驚いて、落ちた視線がすぐに上がる。
『――聞きに来れば良かったのに』
先生のその言葉にドクンと心臓が大きく鳴ると同時に、体が大きく揺れた。
あの日の光景が鮮明に蘇る。
『……ごめん。聞かなかった事にさせてくれ』
目の奥が熱くなってくる。
…泣いちゃダメだ。
下を向いたまま、涙が落ちてしまわないように必死に歯を食いしばる。
だけど。こらえようとすればする程、その滴は溢れそうになって。
プリントを差し出した手が、震えてしまった。
「――藍澤」
呼ばれた名前に、いよいよ涙が零れて落ちそうになって、慌てて立ち上がる。
あと少し。あと少しだったのに…。
ぺこりと頭を下げた時、一粒の滴が零れて落ちて、机に丸い染みを作った。
―――瞬間
何か強い力に引っ張られて、気付けば目の前には濃いグレーの世界が広がっていた。
そしていつもより強く感じる、先生の煙草の香り。
『抱き締められている』と気付いたのは、一瞬の間の後。
途端、頭の中がパニックに陥る。
心臓はバクバク、頭には“?”の羅列。
――――ドウシテ?
夢なのか現実なのかもわからなくなってくる。
これは、私の願望が見せた夢なのではないか。
だって、こんな事あるわけない。
――先生に抱き締められるなんて。
だけど。
先生の香りや温もり、力強い腕は確かにすぐそこにあって。
先程、堪え切れずに零れてしまった涙も、いつの間にか止まっていた。
――と、急に先生の腕に力が籠る。
「せ、先生…!?」
苦しい程の腕の力に思わず声を上げると、突然解放された上に先生が一歩下がった事で、
今まで彼に凭れる様に抱き締められてた体が、反動でよろけそうになった。
急に自由になった体と、なくなってしまった温もりに、少しの淋しさを感じると同時に
“抱き締められた”という事実が急に現実味を帯び始め、自分でも顔が赤くなるのがわかる。
…だけど。
私を解放した彼は眉を寄せて横を向いてしまい、その表情は横顔しか見えない。
なんだかたまらなく怖くなって。先生にこっちを向いて欲しくて。
「…あ、あの………」
今もし視線が交わったとして、どんな顔して良いかわからないのに。
「……せ、先生…?」
でも。
次の彼の言葉で、自分がいかに馬鹿だったか思い知らされた。
“そんな筈ない” “受け入れて貰える訳ない”そう頭では思っていながら
心のどこかで、もしかして…って思う自分がいて。
抱き締められたからって、どこかで期待してる自分がいて。
…私って本当に馬鹿だな。
―――そんな訳ないのに。
「……悪かった。…気を付けて帰れよ」
ガツン、と殴られたような、そんな気がした。
さっきまでの事がやっぱり夢で、今が現実なんだって突き付けられたようで。
“勘違いするな” “受け入れられない”って言われてるようで。
眉を寄せて顔を逸らしたままの先生が、私の想いを全てを拒絶してるようで――…。
…だったら、どうして……?
―――ドウシテ ダキシメタノ?―――
気が付いたら、走り出していた。
もう1秒だって、先生の前にいたくなかった。
――…いられなかった。
…もうこれ以上、先生の顔を見るのも、言葉を聞くのも怖かったから。
あの日の事がまだこの胸から消えてくれないというのに。
もしまた、先生に拒絶の言葉を言われたら…?
……私はそんなに強くない。
だから逃げた。先生の前から。
ドクンドクンと心臓が煩い。
イタイイタイ クルシイクルシイ って体中が叫んでる。
振り向く事も止まる事もせず、ただ只管走った。
先生から逃げるように。
――…自信の痛みから逃げるように。
もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。