Awareness3
始業式のあの日。
別に緊張していた訳でもなければ、妙に張り切っていた訳でもないが、少し早めに着いてしまった。
今思うと、やっぱりどこか力が入っていたのかもしれない。
どうにも朝は苦手で、学生時代はいつも遅刻ギリギリ…という生活を送っていたこの俺が
“遅刻ギリギリ”どころか、むしろ“早い”とも言われる時間に出勤したのだから。
――だけど。
この櫻花の一教師となったのは半月程前とは言え、その間していた事と言えば説明会だの研修だので
実際に、生徒達の前に“教師”として立つのは今日が初日。
もちろん担任クラスなど持っていなければ、授業だってしていない。
だから、早く出勤した所で、特にこれと言ってする仕事もなく。
職員室にいても、この独特の雰囲気にまだ慣れず
それに、研修の時から何かと付き纏ってくる同期の女教師が鬱陶しかったのもあり
新任教師が始業式の日からウロウロしているのも考えもんだったが
以前魅せられてしまった、校舎裏に1本だけ立っていた桜の木を
何の気なしに見に行った。
花を愛でる趣味はなくても、桜だけはなんとなく好きだった。
何本もの桜が犇めき合うようにして咲き誇っているのも圧巻だが
1本だけぽつん、と立っている桜の方が、より一層興味を惹かれる。
その凛とした佇まいが好きだった。
校舎の裏、裏門へと続く道を少し逸れた所。
ちょうど職員用の駐車場へと続く道にある、その木。
ここ櫻花は、職員全員、車通勤しても大丈夫なんじゃないか、というくらい
充分に職員用の駐車スペースが用意されていたので
新任教師という立場でありながら、ちゃっかり俺も車で通勤していた。
そして今朝も駐車場から職員玄関に向かう途中、見事に咲き誇るあの木を見かけた。
あんなに立派な木だが、校舎裏のさらに逸れた所にある、というだけで途端に近付く人間が減る気がする。
むしろ、ここに桜の木があると、ほとんどの連中が気付いていないのかもしれない。
でもそれは、俺にとって好都合であるわけで。
別に人が嫌いという訳ではないが、1人になれる場所は好きだった。
――が、その日は違った。先客がいたのだ。
桜の木の下で、じっとその木を見上げている少女が。
小さくて細い体に、柔らかそうなふわふわとした髪。
楽しそうに、そしてどこか愛しそうに桜を見上げている瞳。
目が離せなかった。
その少女があまりにも綺麗だったから。
――欲しい、と思った。
容姿ももちろん『かわいい』と言われる部類に入ると思うが
…そうではなくて。雰囲気というか、うまく表現できないが…とにかく“綺麗”だと思った。
正直、初めて会った女にこんな感情を持ったのは初めてだった。
だけど、『触れたい』『欲しい』と思ったのは紛れもなく本心で。
今思えば、この時俺は彼女に、俗に言う“一目惚れ”というやつをしたのだろう。
そんな経験もなかったし、今までどこか冷めた気持ちでしか女と付き合った事がなく
本気で人を好きになった事のなかった俺が、そんな自分の気持ちに気付く由もなかったが――…。
彼女は、俺が担当している2年生だったから、毎日授業で顔を合わせた。
必死にノートを取っている姿や、わからない問題があった時など百面相のようにコロコロ変わる表情に
何度教壇で1人笑いそうになった事か。
また、彼女の親友の芙美ちゃんと頼人が付き合っているという事もあって
頼人の教官室で顔を合わせる事もあった。
そうやって彼女と接していくうちに、どんどん彼女に惹かれていく自分がいた。
まさか、自分が1人の女に―――しかも生徒にこんな気持ちを持つとは思いもしなかったが…。
彼女は感情がすぐ表情に出る。
自惚れと言われるかもしれないが、そんな彼女が自分に特別な感情を抱いている事は
なんとなく気付いていた。
嬉しくなかった筈はない。自分が欲しいと思っている女に想われているのだから。
だけど――自分は教師で彼女は生徒。
受け入れる訳にはいかない。
今までの女だったら、適当に付き合って、面倒になったら別れていたかもしれない。
だけど…彼女は違う。そんな軽い気持ちで受け入れられない。
自分はいい。だが、彼女をこんな制約の多過ぎる恋愛に安易に引き摺り込む訳にはいかない。
それに…正直そこまでの自信や覚悟が自分自身にもなかった。
だから、彼女が自分の気持ちを口にした時――好きだ、と伝えられた時
思わず抱き締めそうになったこの腕を必死に押さえつけた。
そして『聞かなかった事にさせてくれ』と彼女を拒絶した。
――欲しい、と願っていたものがすぐそこにあったのに。
本当は目の前で震えている小さな体を、思い切り抱き締めたかったのに――…。
「…さて。俺は帰るわ。芙美が待ってるし?」
考え耽っていた俺は、頼人の声で現実に戻された。
「……まさかお前がそこまで1人の女に嵌まるとはな」
散々言いたい事を言ってくれたお返し、とばかりにフンと鼻で笑ってやる。
「そう?」
「高校の時から散々好き勝手やってただろ。特に女関係」
コイツは俺に負けず劣らず“来るもの拒まず去るもの追わず”主義で
高校、大学と一緒だった俺は、コイツの“彼女”をそりゃあもう何人も見てきた。
それが…芙美ちゃんに出逢った途端、パタリと女遊びをやめたかと思ったら
卒業間近とは言え、まだ中学生だった彼女と付き合い始めたもんだから、あの時は本当に驚いた。
もっと驚いたのは、こと恋愛に関しては、俺と同じか――もしくはそれ以上に冷めていた頼人が
芙美ちゃんと付き合い出した途端、何ともマメな男になった事だったが…。
「あはは、それ言われると耳が痛いな。…まぁ、あの頃はまだ芙美に逢ってなかったから。
――燈吾もそのうちわかるよ」
「…………どうだかな」
また自分の話に戻されるのはごめんだとばかりに、適当に返事を返す。
…そこで、ふと浮かんだ事。
何となく…そう何となく。コイツなら何と答えるだろうかって。
「――頼人。もし…芙美ちゃんと出逢ったのがここだったら、お前は――…」
「何も変わらねぇよ」
「え…」
「芙美と“教師”と“生徒”で出逢ってたらって事だろ?それなら答えは“変わらない”
俺はやっぱり芙美を選んだと思う」
だから、そう即答された時に思わず言葉に詰まってしまった。
「んじゃま、帰るわ」
頼人もこれ以上、話を続けるつもりはないらしく…と言うより早く帰りたいんだろう。
鞄を抱えると、ドアに向かって歩き出していた。
「おう。…じゃあな」
「また明日なー」
手だけをヒラヒラ振りながら、振り返らずに出て行った頼人の後姿とゆっくり閉まるドアを眺めながら
俺の頭には、今の頼人の言葉とこの前ここで見た彼女の泣き顔が
いつまでもグルグルと廻っていた。