桜と君と1
「――うわぁ…今年も満開だ……」
――時は4月初旬。
世間ではそれぞれの新しい生活がスタートする頃。
ここ、私立櫻華高等学校も、本日始業式を迎える事となっていた。
通常の登校時刻より、ほんの少し早い時間。
校舎の裏、裏門へと続く道を少し逸れた所にある、1本の大きな桜の木。
櫻華高等学校、という校名にふさわしいような、一際目立つその木。
今年、2年生に進級した私、藍澤結夢は、その桜の木がとても好きだった。
初めてこの木を見たのは、1年前の入学式の日。
入学式という晴れの舞台に緊張していたせいなのか、早く着いてしまった高校生活最初の日。
せっかくだから…と、1人のんびり校内を散策している時に、たまたま見つけた1本の桜の木。
満開に花を咲かせたその桜の木を初めて見た時、
そのあまりに立派な佇まいに、しばらくその場を動けなかった。
それから、その桜が散ってしまうまで、朝早く登校してその木の下で桜を眺めるのが
私の日課になった。
それは次の年も変わらず――。
始業式の始まる時間より少し早く登校し
今、こうして2年目の満開の桜を眺めているのだった。
――と、その時…突然強い風が吹いた。
桜の花弁が風に舞う。途端、私は目を強く瞑った。
強風が吹いた時、こうしてしまうのは、おそらく大抵の人がそうだろう。
長くも感じた風が通り過ぎた後、瞑っていた瞳を薄っすらと開けると
飛び込んでくる、風に舞う桜の花弁達。
もったいないなぁ…。
そんな事を思いつつ、ふと横に視線を走らせる。
ドキッとした。
一瞬、瞳が開き、動く事も視線を逸らす事も、呼吸をする事すらもできなかった。
―――あまりにも綺麗だったから。
何の気なしに視線を走らせた方向、そこに立っていた1人の男の人。
距離にして10mあるかないかという距離。
こちらに気付いているのかいないのか、彼はただ桜の木を見上げていた。
誰………?
スーツを着ている事から、生徒ではない事はわかる。
というより、生徒というには大人の雰囲気のある人。
背が高く、濃いグレーのスーツを来た彼は、まさしく大人の男といった感じだ。
彼は、ただ桜の木を見上げている。
視線を少し下げた所にいる私になんて、まるで気付かないかのように。
彼の瞳はただじっと、その立派な桜の木に向けられていた。
それが私にはなんだかもどかしく、そして何故か悲しかった。
こうしてわざわざ始業式の日に早く登校してまで見に来る程好きなこの桜の木も
なんだか今は、ちょっと恨めしく感じてしまう程に。
自分の体が自分の体でなくなったような感覚だった。
もしかしたらこうして自分が彼を見ている事に気付かれてしまうかもしれない。
そう思うと瞳を逸らさなきゃ、と思うのに逸らせない。
苦しいような、痛いような…自分でも説明できない不思議な感情。
瞳が逸らせない。指の1本ですら動かせない。―――動悸が早まる。
どのくらいそうしていただろうか。
数分か…それとも数秒だったかもしれない。
2人の間に流れる静寂は、私を呼ぶ声で終わりを告げた。
「おはよ、結夢。やっぱりここにいた」
明るい声と共にやってきたのは、内山芙美。
私の幼馴染でもあり、親友でもある。
「あ…おはよ、芙美」
「結夢ったらどうしたの?ボーっとして…」
芙美は、背中の半分くらいまである真っ直ぐな髪の毛と同じ色をした
漆黒の瞳をクリクリさせて、私の顔を覗き込む。
「う、ううん。何でもないよ」
「――そう?ね、そろそろ行こ?始業式始まっちゃう」
「あ、うん。そうだね…」
クルッと足取り軽く踵を返した芙美は、私の腕を引っ張り歩き出す。
私は芙美に連れられ、校舎の角を曲がる寸前、
あの男の人が立っていた場所へ、今一度視線を向けた。
――が、そこにはもうその姿はなかった。