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座布団とシヅ子とシゲ子と、

作者: 麦原
掲載日:2026/04/24




 明治から昭和に移ったあたりですね、あるアパートにシヅ子とシゲ子という親子が住んでいました。この人らは、まあなんとも可哀想な二人です。だって亭主と死別しているんですから。


 シヅ子はにとっては夫を亡くし、シゲ子にとってはお父さんを亡くしたわけです。私はですね、その二人を見ていたんですよ。だって私は座布団です。高円寺のこのアパートに二人が来てからですね、私が購入されたんですよ。


 シヅ子はこれまたデキる女です。記者として大いに仕事をしていたんですね。シヅ子が仕事に行っている間、シゲ子は大家さんのところで遊んでいましたが、どことなく寂しげでしたよ。お母さんはまだ帰ってこないの? そう何度か独りごちて、十回を超えたあたりでしょうか、畳の上でしくしく泣きはじめました。大家さんが来ると、驚いた様子で、ハンカチを渡してやりました。私は座布団ですから、シゲ子の涙は拭けません。


 シヅ子は帰ってくると、大層疲れた様子で、とてもシゲ子の相手をできる状態ではなかったと見ますが、えらくいい女ですから、きちんとシゲ子が眠るまであやします。そうして、少しばかり夫のことを思い出すのでしょうか。それとも、夫への情ではなく、娘をこんなことにしてしまった自責からでしょうか、シヅ子も泣く時がありました。


 私はそれぞれお互いに見えないように泣く親子を美しく思います。しかし、ここにですね、変な男が現れます。確か、大庭葉蔵とかいう男ですよ。


 私はですね、最初、やや、変にオドオドしたやつが来やがったなと思いました。だって、視線が動いているんですもの。がちゃりと部屋を開けやいなや、変な冗談を飛ばして、やれやれと私に腰を下ろすんです。そんで綴じ糸を弄っているわけです。私はその綴じ糸がないと解けてしまうので、この男のことが嫌いになりました。


 シヅ子がその男に抱かれている時も、私はなんだかむず痒い思いです。シヅ子! そんな男に抱かれちゃいけねえ。もっといい男がいるさ。お前は色男というがね、こいつは何かダメだ。それは予感でした。男は倒壊寸前の建物のようでして、いつ崩落するかわからないんです。そんで、その崩落させるか否かの権限や裁量を、男自身が持っていないようなんです。それでいて、崩落するなら他人を巻き込んでしまいそうな、そんな雰囲気がありました。


 しかし男自身、自分が崩落寸前の人間であると、わかっていたようなんです。これがいじらしいところです。しかし誰かに頼らねば、生きていけねえ。男に少しだけ同情しました。しかし、そういうところが、やはり嫌いでした。


「お金が、ほしいな。」

「……いくら位?」

「たくさん。……金の切れ目が、縁の切れ目、って、本当の事だよ。」

「ばからしい。そんな、古くさい、……」

「そう? しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げる事になるかも知れない。」

「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ。」

「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、煙草を買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ。」


 シヅ子はどうも、その男の気持ちがわからなかったようです。しかし、私は少しだけわかりました。いっつもはこの男の尻に敷かれて嫌気が刺しますが、これには同情せざるを得ません。普段から冗談を言っていると、本気で本当のことを言っても真面目に受け取ってもらえないのです。また、男が本気で逃げるかも知れない、と心の隅で気づいていたとしても、シヅ子は冗談だということにしてしまったでしょう。


 同棲が始まってからも、男はずっと変な絵を描いて、シゲ子と遊び、そんな日常でした。しかし日常がのどやかになるにつれて、どんどんと男の顔は老けてゆき、所謂「いい人」になっていきました。私はそれを怯えからだと、世間に怯えているのではないかと考察しました。そしてそんな心の細い男に相変わらず、尻に敷かれていました。シヅ子が仕事に行っている時でした。


「シゲちゃんは、一体、神様に何をおねだりしたいの?」


 たしか、シゲ子が「神様はおねだりしたら、なんでもくれるのか」と男に聞いていました。男はなんの気無しに聞いたに違いありません。シゲ子といる前は、男は「いい人」の顔を外し、強張りのない顔で接していました。


「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの。」


 そうシゲ子が言った時、男の顔が氷面のようにひび割れ、皺が走り、やがて能面の笑顔となりました。「いい人」になってしまったのです。


 やがてその男は落ちぶれます。男がアパートに寄り付かなくなったあと、シヅ子とシゲ子は兎を一匹部屋に放ちました。もう男が来ないもんですから、二人とも寂しそうでした。その兎は男の代わりだったのか、それとも男に構ってもらうためのものだったのか、わかりません。


「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね。」

「おきらいかもしれない。ほら、ほら、箱から飛び出した。」

「セッカチピンチャンみたいね。」

「そうねえ。」


 セッカチピンチャンとは、男が描いていた漫画のことです。そして、私は見ました。確かに見たんです。シヅ子とシゲ子が兎を追っている光景を。そして同じくして、その光景を覗く男を! ドアからひっそりと覗いていました。


 私は可哀想にと思いました。幸福そうに見えてしまったら、もうダメだろう。何せ、男は怯えているのです。男はしばらく経つと、泥酔しながら堀木とかいう友人と、このアパートに泊まりに来ました。私はもう、男を責めたくありません。いくら、私を酒臭くしてもよかったんです。私を折り曲げて、綴じ糸を解いてくれたっていいんです。男の行方はわかりません。ただ、君、世間はそれを許さんと思うぜ。




太宰治『人間失格』の一場面を引用しています。座布団視点で描いてみました。

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