セカンドインプレッション ★
目が覚めた――と、いつものように思った。
ゆらゆら揺れる視界の中に、白い輝きが降り注いでくる。
光は揺らぎに呼応して反射と屈折を織り交ぜ、俺の中に複雑な波紋を描いた。
あれ、この感じは……――そうだ。俺だ。俺は水で、泉だ。
意識がはっきりしてくるにつれて、泉としての感覚が蘇る。
世界の見え方。音の届き方。境界が曖昧な体。
今となっては「あの身体」で得た感覚より、こっちのほうが慣れ親しんだものだとさえ思う。
(いや、違う。俺は人間だ。人間だった)
それを忘れないために、俺は「器」を造った。どんなものより精巧に、心血を注いで。
……「彼女」という呼び方は、もう適切じゃないかもしれない。
そうだ、思い出した。
昨夜――いや、何日寝ていたのか分からないが、俺は「彼女」になった。
観賞用の美少女フィギュアとして作ったはずが、気づいたら俺自身の身体になっていた。
ブンドド用の水フィギュアがTPS視点だとすれば、急にFPS視点に切り替わった感じ。
FPSどころじゃない。もっと一体感があった。
あれはもう完全に、俺の身体だった。
それで色々確かめようとしていたところに、アレが現れた。
黒くて、ざわざわして、どろっとした鎧みたいな化け物。
思い出しただけで、ぞわりと水面が泡立つ。
理屈抜きで分かった。絶対ヤバい奴だ。近づけちゃいけない。
あの時の俺は、いっぱいいっぱいだった。
とにかく、ありったけをぶっ放した。
意識を失う前の、あの激流。
中身を全部ぶちまける勢いで叩きつけて、アレを押し流した。
ブンドドで操作はかなり上手くなったが、あれだけの水量を動かしたことは一度もなかった。
というか、あの時――俺の身体、半分以上減ってなかったか?
水が抜けて、魚とかエビがピチピチ跳ねてたのを何とか助けた覚えがある。
目の前で「彼女」の手が崩れて、形を失くした光景が脳裏に蘇る。
(せっかく作ったのになぁ……)
喪失感で気持ちが沈みそうになる。気持ちっていうか、俺が沈める側なんだけど。
……いや、今はそれどころじゃない。状況確認だ。
※※※※※
まず、泉の水位。
半分以下に減っていたはずなのに――戻っている。
思ったより長く寝てた? 雨が降った? それとも湧水量が増えてる?
水底の岩盤に意識を向ける。俺はそこから湧いてきている。
……うん? なんか前より勢いがある気がするな。
砂利が巻き上げられて、水の中でシャッキリポンと踊ってるわ。
なんだこれ。リバウンド的な? 激痩せの後の激太りみたいな?
わからん。わからんが、俺が増えるのは良いことだ、たぶん。減って無くなるよりは。
というか、減りすぎたから意識が落ちたんじゃないか?
だとすると加減なしでぶっ放しすぎた俺の自爆ってコト……?
やめよう。俺は悪くない。悪いのはあの化け物野郎だ。急に出てきやがって。
あんなの誰だってビビるわ。しかも夜だぞ、夜。ホラーだろ。
(なぁ、エビ、魚、お前らだってそう思うよな?)
返事はない。ただの水生生物のようだ。
あれはまぁ、台所でGと遭遇してスプレー一缶ぶちまけたみたいなもんだ。
人として普通。俺が特別ビビリってわけじゃない。以上、QED。
次、泉の畔に意識を寄せる。
あの野郎がやって来た側の畔が、大きく抉られていた。
昨日までそこにあった、小石混じりの粘土質の重たい地面が、スプーンで掬ったみたいに削れている。
断面から草の根が剥き出しになって垂れ下がっていた。
……俺がやったのか、これ。
前に泉の拡張を試した時とは段違いの威力だ。
あの時は粘土層にぶつかって、崩し切れないなと尻込みして、ここが限界だって諦めたのに。
抉れた箇所には、もう俺が流れ込んでひたひたになってる。
そして、その抉れの底に――何かがぶっ刺さっていた。
斧だ。
薪割りとか消防用のシンプルなやつじゃない。
大人が両手で振り回すような大きさで、生き物をぶっ殺すための形をしてる。
長い柄の半分以上が水面から斜めに飛び出していて、でかくて重たそうな刃が水底の土に埋もれていた。
水面越しの陽の光を受けて――刃は銀色に煌めいていた。
……あれ、こんな感じだったか?
なんか前に見た時は、もっとグロくて不気味だったような気がする。
テンパっててよく覚えてない。あの黒いドロドロがこびり付いて汚れてただけかも。
(……う)
思い出し、また震える。
そうだ。あの化け物野郎、なんか黒くてグロくてヤバい汁を垂らして歩いてた。
地面がジュッって言ってたぞ、ジュッて……ありえねえよ。酸か? 毒か?
あれがこびり付いてたやつが、俺の中にあるってこと……?
水の中を隈なく眺めても水は綺麗に見える。黒いドロドロは漂っても沈んでもいない。
でも、あれが俺の中にあったと思うだけで、もう嫌だ。
存在しない皮膚が痒くなるような不快感がぞわぞわってきた。
(おえぇ……綺麗になれ! なれったらなれ! 何なら消えろ、吹っ飛べ!)
浄化を使いまくる。ついでに水流を動かして斧を水の外に放り出そうとする。
――が、重すぎるのか、いくらぶっかけてもびくともしない。
(畜生。あの野郎、不法投棄しやがって。粗大ゴミってレベルじゃねえぞ、汚染物質だ!)
腹立たしくて水面が泡立つ。
水温が上がってるわけじゃないので、泡のあたりに小魚たちが集まってくる。
餌じゃねえし、見世物でもないからな!
……しかし、この斧がここにあるってことは、あの野郎が確かに来たって証拠だ。
あの時は火事場……いや、水場? の馬鹿力で思い切り吹っ飛ばした。
けど。
(……まだ、いるのか?)
自分でも嫌になるくらい小さな声が、頭の中で漏れた。
水流で吹っ飛ばしたからって、くたばったとは限らない。
むしろ相手は化け物だ。水ぶっかけたくらいで死ぬ奴の方が珍しい気がする。
誰もいない世界だと思ってたのに、化け物いるじゃん。異世界こわい。冗談抜きで。
化け物野郎が近づいてきた時のことを思い出す。
兜の隙間から見えた、血走った黒い瞳――
あの目は、「彼女」を、はっきり捉えていた。
どんな感情が籠ってるかなんて目だけ見たって俺には分からない。
怒りか、恨みか、執着か。とにかく凄まじい圧を感じる眼だった。
この世界に来て初めて、俺に向けられた視線。
ぞくり、とする。
寒気のような、熱気のような、妙な感覚。
こぽり、と水底から泡が一つ浮かび上がる。
(……気にするな。忘れろ。あいつはもう居ない、ここには来ない――)
祈るような気持ちでそう思い込もうとした。
だが、遠くの木々の間から「音」がした。
ぎし。
金属が、どこかを擦る音。
森と泉しかない世界には相応しくない硬質の音。
ぎ、ぎし……。
耳じゃないのに、音が刺さる。水の中に震えが伝わってくる。
振動が、俺の境界を撫で回すみたいに。
(やだやだやだ)
思考だけが早足になって、体は逃げられない。泉だから。
昨夜の、初遭遇の恐怖が、今さら遅れて心臓の代わりの場所を締めつける。
でも、大丈夫だ。大丈夫。
今の俺には「体」はない。泉だ。水だ。
あの化け物が人を襲うんだとしても、泉を襲う理由はない筈だ。
少なくとも泉が俺だなんて分かりっこない。
気づかれない。気づかれないはず。
……だから息を潜める。
息なんてないのに、潜めるしかない。
水面を揺らさないように、波紋を立てないように。
小魚が跳ねたら心臓が止まりそうなくらい、俺はびびっていた。
ぎし、ぎし。
音が近づいてくる。水面に映らない景色は見えない。
見えないから想像ばかり働いてしまう。怖い。
やめろ。来るな。そこで止まれ。引き返せ。
(お前……分かってんのか。俺に近づいたらあれだぞ、バシャじゃすまねえからな)
そう念じても、相手は期待に反して、どんどん近づいてくる。
(やんのか、こら! おい! やんのか……来んなよぉ……)
木の影が揺れて、幹の間から黒い塊が僅かに覗いた。
※※※※※
(……ひぇ)
いた。
黒い鎧の騎士。昨夜の化け物だ。
あの、どろどろでざわざわで、地面をジュッと焼きながら寄ってきたあいつ。
反射的に水面にさざ波を立てそうになって、慌てて押さえ込む。
攻撃するか、隠れてやり過ごすか。どっちだ。どっちが正しい。
いや正しいとかじゃなくて、生き残れるほう。
(また水をぶち当てるか? でも威力が……水位も……いや、でも……)
迷っているうちに、黒い鎧は、畔へ向かって一直線に近付いて来る。
……近い。近い近い近い。
昨日は、もっと異様に大きく見えた。もっと「化け物」だった。
今は、近づくにつれて、違う部分が見えてきた。
そいつの身体――鎧はところどころひしゃげていた。
あちこちに凹みやら割れやら欠けやら……俺が吹っ飛ばす前からそうだったのか?
継ぎ目や、留め具が歪んでるのか、歩くたびにギシギシと悲鳴を上げている。
ぎし。ぎ、ぎし。
その音が、痛い。耳の奥ではなく、俺の「輪郭」の奥を爪で引っ掻かれるみたいに。
(……何だよあれ、落ち武者かよ、昼間から出てくんじゃねぇって……)
歩きにくいのか、その歩みは不規則で鈍い。
それが余計に恐怖を引き延ばしてくる。
なのに、目は勝手に観察してしまう。怖いものほど見てしまう、あのやつ。
黒い騎士は、抉れた畔の縁で足を止めた。
水面から飛び出す斧の柄の目前。
手が動く。
そうか。この斧を回収に来たのか。
(それ持ってどっか行け! ここには何にもないから! はよ持って帰れ!)
俺の心の叫びを無視して、そいつは自分の鎧に手をかけた。
(え?)
ぎしり、ぎし、ぎしと軋んだ音が続いて。
ひしゃげた肩甲が、ごそりと剥がれた。
がしゃん、と重い音。
黒い部品が、土に落ちる。
続けて、篭手――手甲のあたりを外し始めた。
(な、何してんだ。なんで脱ぐ!? お、おい、よせ、やめろ)
意味のない念が頭の中で渦巻く。
鎧が外れたら、出てくるのは――昨日見た「血走った黒い目」の本体だ。
牙か、触手か、黒い粘液の塊か。そういうグロい中身が自由に――
篭手が外れて、露わになったのは。
手だった。
人間の、手。
五本の指。関節。掌の肉。爪。
浅黒い皮膚。傷だらけで骨張った手。「人間」の「男」の手だ。
(……は?)
混乱が、遅れて襲ってくる。
あれ?
こいつ、もっと「化け物」って感じじゃなかったっけ?
いや、化け物だろ。汁垂らしてたし、地面ジュッて言ってたし――
でも、あの手は明らかに人間だ。
えーと、もし、あれが人だとすると……
俺……人間を化け物だと勘違いして、攻撃してしまったのでは?
(…………)
脳内で、小心者めいた後悔と自己弁護が殴り合いを始める。
違う。違うって、だって前は絶対化け物だったじゃん。
……いや、襲ってきたように見えただけかもしれない。
手とか爪とか汁とか!あんなの人間じゃねぇって!
……暗くて見間違えたってことは? 滅茶苦茶テンパってたし。
で、でもほらあれだ、正当防衛! 正当防衛だ!
……先にぶっ放した場合ってどうだっけ? てか、法律あんの、この世界。
結論。わからん。わからんが、俺は悪くない。はずだ。そうであってくれ。
黒い騎士は、鎧をさらに剥ぎ取っていく。
歪んだ金属が地面に散らばっていく。
けど、兜は思うように外れないみたいで。
頭を抱えて、ぎしぎしといわせながら泉の畔まで――来た。
※※※※※
(うわ。近い。近い近い近い)
水面に映る歪んだ黒兜。兜から覗く黒い瞳。
見られてる。
また見られてる。俺、見つかった?!
いや、俺は水だ。ただの綺麗な水だ。
透明で、見えるのは底の砂地だけ――見られてないよな……?
水をぶっかけるか? もう、ぶっかけるしか?
やるのか、今、ここで?!
思考が堂々巡りするうちに、奴は水面を覗き込んだまま、畔に膝をついた。
(え?)
攻撃の姿勢じゃない。
斧を掴むでもない。
ただ、泉の前で姿勢を低くして、兜にかけた手を動かすことしばし――兜がついに外れた。
朝の光が、男の素顔を照らし出す。
黒いほつれ髪。黒い瞳。浅黒い肌。
精悍で、幾つもの傷跡がありながらも整った顔立ち。
疲れで影が落ちているのに、その影すら「絵」になるタイプのやつ。
(……イケメンじゃねえか)
瞬間、俺の中で恐怖が別のものに変わった。
なんだよ。
なんなんだよ。
化け物かと思ってたら、急にイケメンになりやがって。
こちとら顔なし、体なしで泉にされたってのに、なんだお前、コラ。
こういうイケメン野郎に限って、大体人当たりが良くて世渡り上手なんだ。
人に優しくされて心に余裕があって、良い感じのサイクルで生きてる。
――そうに決まってる。
俺? 俺はもちろん輪っかの外だったよ畜生が。
……ただの僻みだ。そんなことは分かってる。
イケメン野郎は驚いたような、呆然としたような顔をした――そんな表情でもイケメンだ。
呻いたとしてもイケメンだろうし、泣いても絵になるんだろう。癪に障る。
男は泉に沈んだ斧に目を向けた。
今度こそ拾うのか、と思ったが手を伸ばそうとしない。
触れずに、視線だけで確かめるように銀色に輝く刃をジッと見つめていた。
次に、水面を覗き込む。
そこに映る自分の顔を見ているのだろう。
黒い瞳がわずかに揺れた。ナルシスト野郎か?
こっちは今だけ泥水になってやりたい気分だっての。
男は、次に自分の手を見た。
捩じれてもいない、鈎爪もない、人間の手。
そこにあることを確かめるみたいに両手の指を動かした。
男は深く、深く息を吐いた。
何かに感じ入っているような顔。
「□□□□□□」
言葉が、口から零れる。
低く、掠れた声だ。祈りみたいな、誓いみたいな、厳かな響き。
でも、俺にはまるで意味の分からない音の連なり。
(なんだ、何を言ってる……?)
聞き取れなかったわけじゃない。でも、言葉って感じがしない。
意味が全く分からない。
それなのに。
その声が水面を震わせた瞬間、俺の内側に、ふっと何かが灯った。
雨が降ってきた時の、あの高揚感。
雨粒が水面を揺らし、俺が増えていくあの満たされた感じ。
胸のないはずの胸の奥が、勝手にきゅっと持ち上がるあれだ。
それが、晴天なのに――今、きた。
(は……何だよ、これ……なんで……?)
意味が分からない、こんなのは初めてだ。
もしかして、こいつが俺に何かしたのか? 何を? どうやって?
気持ちが、妙に浮き立つ。
水底で砂利が湧水に巻き上げられてくるくると踊る。
「□□□□□□、□□□□□□□□――」
男は、俺に向かって、なおも言葉を続けていた。
その顔に水をぶっかけてやろうとは、何故か思えなかった。
(なんなんだよ、お前。一体、俺をどうしようっていうんだよ……)
男の向けてくる眼差しから逃げるように、俺は水底で砂地に潜り込むエビを凝視した。




