ファーストコンタクト ★
俺は下を向いて、水面――泉を覗き込んだ。
――「彼女」は穏やかな微笑みを浮かべている。
いや、違う。水面は水面で俺は俺で、彼女は――彼女で。
でも彼女が、俺で。
混ざる。溶ける。分別が利かない。
泉の中にはエビも小魚もいる。銀色の腹が月明かりにきらりと光り、すっと影を横切る。
まるで空に浮かんでいるみたいに、その姿が鮮明に見える。
ああ、今日も俺は澄んで――
(違う! 今それどころじゃない!)
「な、な、な……っ???」
焦りで思考が空回りして、言葉だけが先にこぼれる。
なのに水面に映る彼女は、動揺とは無縁のまま微笑を固定している。
さっきまで俺が眺めていた、あの完成品の顔だ。
(落ち着け。落ち着けって)
落ち着けるわけがない。視界が揺れていない。水越しじゃない。
風が頬を撫で、葉擦れが耳を刺し、足の裏に砂利の冷たさが当たっている。
俺は口を開けた。
「……な、なにが――」
声が出た。確かに出た。出たのに。
水面に映る唇も、頬の柔らかなカーブも、顎の線も――まるで動いていない。
微笑のまま、声だけが空気を震わせている。
「……は? なんだこれ……どうなって――」
自分の頬に手をやった。指がある。爪がある。
触れた瞬間、ぞくりとした。
俺が触れている。
俺が触れられている。
押せば押しただけ頬がへこむ。肉みたいな弾力。皮膚みたいな張り。
指が沈む感触が、確かにある。強く摘んで引っ張る。伸びて、戻る。
現実の肉の抵抗と、現実じゃない滑らかさが混ざって気持ち悪い。
(体って……こんなだっけ。なんか……違う)
胸に手を当てた。確認だ。確認、確認、確認。エロ目的じゃない、現実の確認だ。
両手で握る。手に余る。柔らかいものが掌の中で形を変える。
押せば押し返してくる。弾む。沈む。大きくて重たい。
試しに爪を立てた。思い切り力を込める。普通なら痛いはずだ。
でも、痛みが来ない。あるのは「触られている」という事実だけ。
痛みまでは届かない。せいぜい、くすぐったさに近い。
そして、ある一線を越えると――トプン、と。
指先が皮膚のはずの境界を抜けて沈み込んだ。
「ひぃ――っ」
押し返す抵抗が消える。水に指を突っ込んだ時の、あのやわい包み込み。
体温じゃない冷たさ。ぬるいのに冷たい――いつもの泉の感触が、内側から顔を出す。
白い肌に、細い指がずぶずぶ刺さっている。グロい。
(……あ、これ)
体は、体だ。
色がある。形がある。重さがある。
関節の位置が分かる。髪が背に触れている。空気が肌を撫でる。
だけど、水だ。肉じゃない。水でできてる。
俺は指を引き抜いた。トロリ、と遅れて形が戻る。
表面は何事もなかったみたいに滑らかで、微笑もそのまま変わらない。
長いまつ毛、優しい目元。綺麗だ。けど、それが怖い。
怖いのに、どこかで分かってしまう。
これは俺が作った。俺が「こうあってほしい」と思った嘘だ。
その嘘が、嘘のまま半端に現実になっている。
「なんでだよ……」
声が震えた。震えた気がした。口は微笑のまま動かない。
「な、なんで、こうなった……? さっきまで俺は……泉で……」
頭がぐるぐる回る。理屈を探しても掴むものがない。
理想のフィギュアを造った。完成品を眺めていた。
気づいたら――俺がそれになっていた。
意味がわからない。
言葉だけが勝手に漏れる。止まらない。
「理想と、性癖、詰め込んだよ……うん、最高の出来だよ……分かる。分かるけどさぁ――」
両手で肩を掴む。鎖骨のあたり。皮膚の薄さ。俺がこだわった線。
そこで、ようやく実感が刺さった。
これはもう鑑賞用じゃない。
俺が――入ってる。これは俺だ。
「俺自身がなってどうすんだよぉ……!」
情けない声が森に響いた。
口は相変わらず微笑んだまま――まるで俺の狼狽を笑っているみたいに固定されていた。
※※※※※
「はぁ……もう、どうすんだよこれ……わかんねぇよ……」
掌を見つめて愚痴をこぼす。
頭を掻きむしりたいが、角やらヒレやらがあるのを思い出して手を止めた。
空を見上げると、二つの月が相変わらずこちらを見下ろしている。
(そうだ。ここで目覚めた時から、分かんないことだらけだったじゃないか)
少しだけ気を取り直す。
思ってもみなかった事態だが、身体ができたのは――たぶん、いいことだ。できることが増える。
そうやって前を向こうとした、その時。
――まず、森の音が消えた。
風の擦れる音が、葉のざわめきが、虫の羽音が、まとめて喉を握り潰されたみたいに途切れる。
その静けさに、体の表面が泡立つような錯覚が走った。
(なんだ……?)
森が息を潜めている。怯えたように縮こまり、身を隠そうとしている。
向こうから何かが来る。
茂みが割れた。
出てきたのは、巨大な斧を肩に担いだ黒い鎧姿の「何か」だった。
兜で顔は見えない。なのに視線だけが刺さってくる。
目が合ったわけじゃない。それより先に「見られている」と分かる圧があった。
この世界に来てから、誰かに本当の意味で見られたことはなかった。
魚も鳥も獣も、俺をただの水として扱うだけだった。
でも、あれは違う。
あれは、俺を見つけている。見つかってしまった。
兜の頭部から、髪なのか触手なのか分からない黒いものがざわざわ蠢いていた。
鎧の表面には血管みたいな黒い筋が縦横無尽に走り、脈打つたびに金属が軋むような――いや、内側の肉が膨張して鎧を押し広げるような――ミシミシ、バキ、という音がする。
そいつはよろめきながら、一歩ずつ泉へ近づいてくる。
重たい足音が地面を叩くたび、身体から黒い液体がぽたぽた落ちた。
地面に触れた瞬間、じゅっ――と。
焼けた鉄板に水を落としたような音と一緒に、土が黒く染まっていく。
(……来るな)
喉が乾く。乾く喉なんてないのに、乾きだけが来る。
本能が叫ぶ。あれは「いてはいけない」ものだ。
なのに身体が動かない。足がある、手がある。それでも動かし方を忘れたみたいに硬直する。
顔はきっと微笑のままだろう。けれど俺の中身は、心から恐怖していた。
そいつは、ついに畔までたどり着いた。
近い。踏み出して手を伸ばせば届きそうな距離。
兜の隙間がぎょろりと動いた。血走った黒い目が見えた気がして、喉の奥からヒッと声が漏れた。
その瞬間――化け物が、斧を取り落とした。
どしゃ、と重たい響き。
斧は転がり、刃先が泉へ――俺の水へ――浸かった。
刃にこびりついた黒い何かが、水に触れた瞬間。
ぞわり、では済まなかった。
背中の芯を舐められるみたいな怖気が、本物の骨のないはずの背筋を駆け上った。
あれに触れてはいけない。混ざってはいけない。
あれを一滴でも残したら――という理屈にならない確信だけが、全身に走る。
化け物はがくりと膝をついた。
そして、こちらに手を伸ばしてくる。
泉の水じゃない。
今の俺の「体」へ。
籠手が、ぱき、と割れた。
裂け目から覗いたのは黒い体毛に覆われた肉で、そこから捩じれた指が伸びる。
爪は鉤みたいに反り返っていて、近づくほどに「掴む」ではなく「裂く」形をしているのが分かる。
爪の先はあの黒い液体でぬらりとした光を帯びていて、その滴りがポタポタと目の前で落ちる。
(来るな……来るな、来るな来るなっ!)
思考が終わる前に、身体が答えを出した。
恐怖が怒りに変わる。拒絶が、水を突き上げる。
――叩きつけろ。
バケツじゃない。水鉄砲じゃない。
泉そのものをぶつける。
「近寄るんじゃねぇぇぇ!!」
轟、と泉から水柱が立ち上がった。水位が目に見えて下がる。
半分以上が持っていかれる。自分が削れていく。怖い。怖いけど、止められない。
浄化も同時にありったけを叩き込む。
綺麗になれ。黒いのを残すな。一滴も、一欠片も、俺に触れさせるな。
水は澄みきって、渦を為し、白い泡を巻き込み、鉄砲水みたいな勢いで化け物へ激突した。
水の塊が真正面からぶつかる。黒い鎧の巨体が浮いた。
波は砕けない。後から後から押し寄せる水流が目の前のものすべてを押し流す。
化け物は抵抗する間もなく激流に飲み込まれ流されて、茂みの向こうへ消えた。
静けさが戻った――いや、森は音を取り戻した。
風が吹き、木々のざわめきと虫や鳥の声が帰ってくる。
残ったのは、激流によって大きく削れた畔に転がる大きな斧と――低くなった水面。
そして、露出した泥の上でもがく小魚。エビ。水草の先が空気に晒されて震えている。
「……あっ、や、やば……っ」
今まで感じたことのない疲れが、一気に来た。
水を動かすのが重い。意識が濁る。眩暈みたいに世界が傾く。
でも、先に動いた。
手じゃない。残った水だ。
水を寄せる。溜める。薄い場所へ流す。魚を包む。泥から引き剥がす。
小さな命が跳ねて水へ戻る。エビが砂の影へ潜る。
間に合え、間に合え、と念じながら、最後の一匹を水の中へ滑り込ませたところで――
膝が砕けた。
砂利の上に倒れ込む。風の音が薄くなる。
森の輪郭が、暗幕みたいに落ちてくる。
目の前で白い手が、細い指が、バシャリ、と色と形を失った。
景色が崩れていく――いや、崩れているのは俺の「目」のほうだ。
小さな泡が流れに翻弄され、くるくると回る。
回りながら沈んでいく。沈んでいく。
(ああ……これ……死ぬ、のか……)
俺は、意識を手放した。




