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56.聖者は黄金より言葉を求める(後編) ◆★ ※挿絵追加

 炉の火が落ち着き、家の隙間風が湯気の匂いをゆっくり攫っていく。

 サルディスは椀を伏せ、指先で器の縁を一度だけ撫でた。考えがまとまった時の癖らしい。


「さて……“話し方”に入る前に、ひとつだけ確かめておきたいことがある」


 灰色の眉の下、細い目が私を捉える。


「アイオリス殿。おぬしがイズミールを語る口ぶりはな――」


 言い淀むでも、遠慮するでもない。あくまで観察の結論として言う。


「まるで恋焦がれている男のそれだ」


 炉の薪が、ぱち、と弾けた。


 リディアが「ひゃっ」と小さく息を漏らし、膝の上で握っていた手を一度強く結ぶ。

 耳まで赤くなっているのが見て取れた。目線が宙に迷い、私の斧に逃げ、また私に戻って、また逃げる。


 私は否定しなかった。

 私のそれはもはや信仰ではない――そういう自覚がある。


 サルディスは鼻で短く息を吐き、口元だけで笑う。


「よい。否定せぬのは潔い。だが先に言っておくぞ」


 杖を軽く指で弾く。微かな音が板壁に吸われた。


「人と精霊は、身も心も違う。報われるとは限らん。――いや、報われぬことの方が多い」


 それでも彼は、そこで切り捨てない。


「だが、それも縁の築き方のひとつだ。否定はせん。縁というものは、はじめから形が決まっておらんからな」


 リディアが、私とサルディスの間で視線を行き来させてから、赤いまま小さく頷いた。

 自分が頷いてしまったことに気づいて、さらに赤くなる。

 その様子を見ていると、気恥ずかしさを覚えないではないが、飲み込んでおく。


 私は椀の底に残った香草の匂いを吸い込み、息と一緒に胸の奥へ落とす。


※※※※※


「……話を続けてくれ」


「うむ。次だ」


 サルディスは姿勢を崩さず、だが声の調子だけを変えた。

 学者が珍しい標本を前にしたときの、抑えきれない興奮が混ざる。


「この水域に漂う水の気の濃さからは信じ難いことだが――イズミールは、精霊として相当に歳若いとみえる」


 リディアが目を見開く。


「と、歳若い……?」


「おそらく、百年も経っておらんのではないか。――いや、もっと短い可能性もある。

 精霊は、世界を循環する力の集う場所――"結節点"に現れるとされておる。

 おぬしが最初に訪れた時は、まだ小さな泉だったと言っておったな?

 今のような湖や、滝などであればまだしも、泉にしては生まれた精霊が強すぎる」


 私の背筋に、冷たいものが走った。

 泉は来る度に姿を変え、彼女が姿を現す度に目を瞠るような奇跡の数々を起こしてきた。

 それは彼女が偉大な女神だからなのだと思っていたが、魔術師には異様と映るのか。


 サルディスは続ける。


「黒禍が世に現れ始めてから、そういった場の"格"に見合わない、奇妙な精霊が現れ始めた。

 それが深淵に抗う世界の意思によるものだと説く者もおったが、真相はわからん。

 ただ、そうやって新たに生まれた精霊も、古き精霊たち同様に姿を消していった」


 理由は言わずとも分かるな、とその目が語っている。


「生まれて間もない精霊は揺らぎやすい。

 意志の輪郭が薄いから、名付けや契約、信仰に、その在り方を容易く左右される」


 彼の指が空をなぞる。見えぬ水の輪が、部屋の中に描かれた気がした。


「おぬしがイズミールに感じた心の揺らぎ――人のような困惑、動揺、恐怖。それはな」


 目が、私の目を外さない。


「おぬしがイズミールに“人のようであってほしい”と望んだ……その望みを受けてのものとも考えられる」


 言葉が胸に刺さった。


 私は思わず、指先で掌の傷跡のあった場所を探った

 かつてあった痛みはそこにない。今は別の痛みが胸に湧く。


「……私の、願いが?」


 声が低くなる。抑えたつもりでも、揺れた。


「願いは"呼び水"になる。深い縁を結んだ者の心が揺れれば、その揺れを映す」


 サルディスは淡々と言った。


「おぬしは欲したのだろう? 言葉。応答。名。理解。――人の温度」


※※※※※


 私は喉の奥で息が詰まり、視線を落とした。

 イズミールが揺らいでいるのは、私が揺らがせているからなのか。


 救われたくて、名を呼びたくて、応えてほしくて。

 あの泉の静けさを、私が勝手に“人の形”へ引き寄せたのか。


 リディアが口を開きかけ、また閉じる。どう慰めていいか分からない顔だ。

 サルディスは私の動揺を見て、むしろ追い打ちではなく、釘を打つように言う。


「己が染めたなどと気に病むことはない。精霊の心とはそういうものだ。

 何よりも、今、イズミールは、神として多くの人々に崇められておる」


 私は目を上げる。分かっている。分かっているから、胸が重い。


「明日をも知れぬこんな世の中だ。救いを求める者たちはさぞ熱心に祈っておるだろう。

 イズミールはその願いに応える善き女神となる。――望まれれば、望まれるほどな」


 炉の火が、静かに鳴る。外の森が、遠い獣の声で息をする。

 サルディスは少しだけ首を傾げた。


「だが……人の願いを叶えるだけの"器"になったものは、味気なくつまらないとは思わんかね」


 私は息を止めた。

 願いを叶える器。祈りを捧げる偶像と聖堂。値札のつけられた奇跡。


 それは、私が彼女にさせたくないものだ。


 サルディスは、そこへ言葉を重ねる。


「世を形作る元素に、なぜ意志や感情が宿るのか……私にも分からん。

 だが、それが自然と宿るものだと言うなら――」


 指先で机を軽く叩く。二度ではなく、一度。静かな強さ。


「おぬしから得た揺らぎもまた、その一つだ。

 その揺らぎがあるからこそ、イズミールはただの願いの"器"になりきっておらぬのだろうよ。

 せっかく生まれた人のような心――ただ、塗り潰されるままにするのは惜しいとは思わんか?」


 胸の奥の痛みが、形を変える。

 罪悪感から、焦りへ。

 焦りから、決意へ。


 私は斧に手を置いた。冷たい鉄が、今は“水”の気配を持っている。

 浄められた鉄。救いの象徴。繋がりの証。


「……失いたくない」


 短く言った。言葉にすると、揺れが止まる。


「私は……彼女が、乞われて応えるだけの存在になるのを見たくない」


 リディアが小さく頷き、口を結んだまま目を伏せる。泣き腫らした目の奥に、別の熱が灯った。

 サルディスは満足そうに顎髭を撫でた。


「ならば、話はさらに早い」


※※※※※


 ここから先は講義だ、と顔が言っている。


「精霊との繋がりを深めるには、その精霊の生まれた"座"が相応しい。

 結節点、核、神域……呼び名はどうでもよい。要は、そこが精霊の居場所だ」


 私は頷く。

 ズミュルナ湖の中心。かつて泉があった場所。神域として人が立ち入ることが禁じられた場所だ。


「聖地やら神域扱いされておっても、おぬしは"聖者"殿だ。当然、立ち入りもできるだろう?」


 彼は、当然のように言った。

 当然ではない。だが、"聖者"という名が一人歩きしている今、それを利用すれば可能だ。


「……できる」


「次に、縁ある品だ」


 サルディスの視線が、私の斧へ落ちる。


「その斧。それから話に出てきた水の瓶……それは特に強い。

 ――それから、黄金になったという供物も、できればあった方がよいな」


 私は心の中で、木彫りの花を思い浮かべた。

 この手で造って捧げたもの。彼女自身の手で突き返され、壊れ、芯だけが黄金になったあの花。

 人々の目を変え、女神の存在を決定づけた証拠。


 サルディスは一息つき、声を落とした。


「そうした品々は鍵となるが、今のおぬしに必要な者はまず"土台"よ。

 故郷の泉への接し方や、築いた縁があるにしても、おぬしにはこの世の理――元素への熟知が足らん。

 知識としてただ頭に叩き込むだけではいかん。知を心身に(こな)れさせねばならんのだ。

 霊子を感じ取り、水の元素に馴染む素地をおぬしの中に設けることが重要だ。

 それには、"座"に近い場所での瞑想が最も効果的だ――リディアや」


 突然、名を呼ばれてリディアがぴくりと肩を揺らした。嫌な予感がしたのだろう。


 サルディスは、容赦なく弟子へ視線を向ける。


「リディア。お前がアイオリス殿に瞑想の仕方を教えてやりなさい」


「えっ……わ、私が、ですか!?」


 声が裏返った。顔が赤いまま、今度は青ざめる。

 さっきまでの照れが、そのまま困惑に変わっている。


 サルディスは、眉一つ動かさない。


「教えを与えることは学びを得ることだ。人に言葉にして渡す時、己の穴が見える。穴が見えれば埋まる」


 リディアは口を開け、閉じ、手を膝の上で握り直した。


「で、でも……私、まだ……」


「まだ、だからやるのだ」


 きっぱり言う。


 そして、急に悪戯っぽく目を細めた。


「ついでに――お前も"御子"とやらの一人くらい、意思疎通の糸口でも掴んでみせよ。

 なに、大勢いるのなら一人や二人、捕まえられよう」


「つ、捕まえるって……!」


 リディアが真っ赤になって立ち上がりかけ、慌てて座り直す。椀がかた、と鳴った。

 サルディスは笑った。声を出さず、肩だけが揺れる笑いだ。


 捕まえるという言葉こそ露悪的ではあるが、この老魔術師も弟子の少女も、人や精霊に対して真摯だ。

 私はそのやり取りを見て、口の端が僅かに緩むのを感じた。

 久しく忘れていた種類の空気だった。戦いでも祈りでもない、人の生活の温度。


 だが、すぐに戻す。今は、遊びではない。

 私はリディアへ向き直り、頭を下げた。深くはないが、形式だけのものではない。


「……どうか、よろしく頼む――姉弟子殿」


 リディアが目をぱちぱちさせた。


「え、ええっ、あ、姉弟子……!? わ、私が、アイオリスさんの!?

 だって、私、まだ見習いでっ、精霊と契約だって出来てもいないのに!」


挿絵(By みてみん)


 見習い魔術師としてのリディアの腕前を私は知らない。

 だが、本人のこの反応からみて、熟達には程遠いのだろう。


 サルディスの意図は分かる。

 剣に例えれば、私は握り方・構え方はおろか、体が出来ていない段階に等しい。

 そんな状態で熟練者から術理を説かれたところで、身につくことはない。

 経験の浅い者同士を共に学ばせ、競わせながら、教えを授ける方針なのだろう。


 逸る気持ちはあるが、私はサルディスの方針に異を唱えるつもりはない。

 一朝一夕に身につく技術だったなら、魔術師はもっと世に溢れていた筈だ。

 

「私は精霊に関してまったくの素人だ。サルディス殿の教えを理解する素地が出来ていない。

 だから、先達である君と共に学びを得たい」


 私は言葉を選ぶ。命令でも懇願でもなく、頼みとして。

 リディアと目を合わせる。照れか困惑か緊張か、少女の顔がみるみる赤くなっていく。


「……イズミールのために」


 その名を出すと、リディアの表情が変わった。赤面しつつも真面目な顔になる。


「……わ、分かりました」


 小さく頷く。自分で頷いたことに、今度は逃げない。


「私、できること、やります。……御師匠様に言われたから、だけじゃなくて」


 言いかけて、赤くなり、咳払いで誤魔化した。


「と、とにかく……知っていることから教えます」


 サルディスが満足げに頷いた。


「よし。では手順を決めるとしよう。聖地へ入る算段、縁の品の確保、瞑想の場所と時間――」


 老魔術師の声が、炉の火と同じくらい落ち着いた温度で部屋を満たしていく。


 私は斧の柄を握り直した。

 水の気配が、鉄の奥で静かに息をしている。


 “話し方”を学び、もう一度、彼女と向き合うために。


 イズミールが救済の女神として願いの器にされる前に、彼女の揺らぎを守るために。

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