52.逃げ上手になれない女神 〇★
森の中に俺の水が広がっていく、増えていく。
どこからともなく集まってくる人、人、人。
祈られて、追いかけ回されて、また増える日々が続く。
……もう、いいじゃん。
もう諦めて、女神として人助けして、感謝されて、ちやほやされて——
それで埋まる穴があるなら、埋めればいいじゃん。
そう思った瞬間、自分で自分の考えにぞっとした。
(埋まる穴ってなんだよ。誰の穴だよ。俺のだろ……墓穴じゃん)
反発心で、どこかの水がぶくぶく泡立つ。
泡立ったつもりで、すぐ凪いだ。水面が凪いでも、水底だけがざわつく。
渦が生まれそうになるのを、必死に押さえる。
——助けられるでしょう。
——助ければ、みんな喜ぶでしょう。
——喜ばれるの、嫌いじゃないでしょう。
それは、声ってほどはっきりしていない。
けど、俺の中に“お優しい女神様”的な意識が居座っている。
(うるさい。黙れ。いい子ちゃんぶるな)
それが正論だと思えてしまうのが腹立たしい。
腹が立って、笑い飛ばせないのは——否定しきれないからだ。
助けられるのに助けないのは、悪いことだ。
……そういう理屈が、俺の中に根を張り始めている。
誰の理屈だよ。俺のじゃない。俺はそんな立派な人間じゃない。立派になんかなりたくない。
ちゃんとしたふりをしてると、いつか「ちゃんとできなかった瞬間」に首を絞められる。
そういうの、知ってるんだ。
でも結局、俺は人目を避けながら浄化を続けている。
水が汚れたままなのは嫌だ。
それに、黒いのは近づいた瞬間、混ざった瞬間に分かってしまう。
分かったら、もう放っておけない。
部屋にゴキがいるのに気づいたら終わり、みたいなやつだ。
見なかったことにできない。片付くまでずっと意識し続けてしまう。
※※※※※
大きくなった身体どこかで、また、黒いのの気配を感じた。
ゾッとするのとうんざりするのが半分半分。
意識をそちらに向ける。
そこが元の泉のあたりだと気付くと、もう一つ、憂鬱の種を思い出した。
泉の畔にあった社だ。
洪水未遂と森林破壊の後、水量が増え続けた結果、あの小さな社は完全に水没した。
あれを建てた大工どもがどんな顔をしたのか、考えたくない。
ただ、あの辺りで今、何かを建てようとしているのは把握している。
泉が泉じゃなくなって、湖みたいになっても、放っておいてくれる気はないらしい。
あの水の底には、俺が——俺の“核”みたいな湧き口がある。
あちこちに湧き口が増えても、あそこは俺の原点だ。
本当は人間たちにあんまり近付いて欲しくない。触れられたくない。
感傷は置いておいて、黒いのを消さなきゃスッキリしない。
社の真上あたりで水面が、ぷる、と盛り上がる。
身体を創る時みたいに、輪郭だけ先に作って、そこへ水を寄せる。寄せて、絞って、削って——。
俺の量産型がいくつも、水面の上で小さく息をするみたいに揺れた。
最近、量産型を動かすのが前より楽になってきた。
狙いだけ決めれば、あとは勝手に“それっぽく”動く。
跳ねる、手足を振る、姿勢を整える——そういう細部がらしく動く。
結果は合ってる。動きをいちいち握らなくて済むぶん、助かってはいる。
マニュアルからセミオートになった、みたいな感覚。
今のところ怖いほどの変化はない。ひとまず良し、にしておく。
量産型を出した気配だけで、どこかで人が膝をついて祈る。
その“祈り”のざわつきに合わせたみたいに、量産型の移動がほんの少しだけ早くなる。
その人々の中に紛れた黒いのの匂い——匂いじゃないのに匂いみたいに分かるやつ——へ向けて、量産型が向かわせる。水面をぴょんぴょん、と跳ねるみたいに移動し、目標に接近。
ぴた。
触れた瞬間、黒い気配が薄れる。成功だ。
代わりに、量産型の中に墨みたいな濁りがにじむ。
俺から切り離した水だが、湧き口の奥が、きゅ、と嫌な音を立てた気がした。
(……壊れるか?)
いつもみたいに形が崩れると思った。
でも今回は、踏ん張ってる。崩れない——少し意外だった。
俺の力が増えて耐久力が増えたのか、大した汚れじゃなかっただけか。
いや、他の個体がなんか近くに居るな……汚れがいい感じに分散しただけか。
とりあえず、身体の中の濁りが無くなるまで浄化しておく。
人間の傍に置いておくと、いつまでも祈られる。さっさと回収だ。
今回は崩れてないし、遠くまで移動させてから、ほどいて水に戻そう。
帰りの動作が行きと違う。芸が細かいな。
前にさせた動きが癖になってでもいるんだろうか。
水の記憶って、響きが胡散臭い。というか、どの水も俺だろうが。
何はともあれ、これで仕事は完了だ。
浄化してやると、人間たちが騒ぐ。笑う。泣く。俺の内側が、ぽこん、と湧く。
(……ああ、クソ)
“増える”感覚が、いちいち気持ちいい。
気持ちいいから、気持ち悪い。
俺の中で“私”の収まりがよくなっていく。ムカつく。
※※※※※
――その時だった。
遠く。木々の壁の向こう。
それが現実の声なのか、祈りなのか、もう判別がつかない形で——届いた。
イズミール、と。
あいつの声だ。
信者の合唱みたいな雑音じゃない。
祈りの圧の中にぎっしり詰まった願いでもない。
もっと近い。もっと真っ直ぐ。
水の奥、湧き口よりさらに奥の、自分でも触れたことのない場所をなぞられるみたいに、ぞくりと来る。
祈りが「むずむず」だとしたら、これは縮む。軋む……疼く。
(……は?)
違う。嬉しいとかじゃない。条件反射だ。そういうやつだろ。
意味が分からないのに、心が先に決断を下した。
逃げなきゃ、って。
俺は人気の無い水場を探し出す。
水面を落ち葉に覆われた水溜まりの中――狭くて暗い、押し入れみたいなスペースに、身体を創って意識の焦点を移す。
身体に意識を移すと、広がった水域が遠のく。視界と音が遠のく。
顔を上げると水面から角がはみ出そうなので、膝を抱えて、息もないのに息を殺す。
(俺、なんで逃げ回らないといけないんだ……?)
俺を女神にしようとする奴らのせいで、俺は今、大変なことになってるのに、お前は何なんだよ。
声が来るだけで、水面がざわつく。湧き口の奥がきしむ。
祈りで増えるのとは違う。もっと痛い。もっと近い。
(なんで俺を追いかけ回すんだよ)
俺は逃げながら考えた。考えるしかなかった。
理由が分からないと、怖さがもっと膨れ上がる。
――どうして俺は、木こり野郎から逃げる?
「追われてるから」——そりゃそうだ。
逃げても逃げても追ってくる。怖いに決まってる。
けど、怖さの種類が違う。
信者の群れが怖いのは、数と熱意と、祈りで増やされることだ。
俺を勝手に“女神”に祀り上げ、囲って、都合の良い存在にしてこようとする。
あいつが怖いのは——そこじゃない。
あいつは今、救われたい顔をしてない。
いつの間にか、していなかった。
救いを求める連中は、俺の水面を見て、汲んで、飲んで、浴びることを考えてる。
量産型を出したら、大喜びして、跪いて、祈って。
連中が欲しいのは結局のところ結果だ。治癒。浄化。奇跡。救済。
でも、木こり野郎は違う。
水面を覗く目つきが、何かをして欲しいっていう目じゃない。
……俺を探す目だ。
水面に手を突っ込んで、俺を引っ張り出そうとしている顔だ。
それがまず怖い。
罪悪感はある。
木彫りを割った。黄金に変えた。勝手に姿を弄った。金髪碧眼にした。
傷も消した。あれは、本人の人生の積み重ねまで塗り潰したかもしれない。
それを見せつけられるのが嫌だ。
俺のやらかしの証拠を、本人の顔で突きつけられる。
だけど、それだけじゃない。
……あいつは、俺に怒ってない。少なくとも、俺にはそう見えない。
怒るべきだろ。普通は。怖がるべきだろ。普通は。
なのに、あの目には“怒り”より先に“心配”があるみたいに見える。
追っかけてくるくせに、追い詰められてるみたいな必死さがある。
あいつの声は、祈りと同じ場所に響いてくるのに、他の奴らの祈りとは違う。
信者の祈りは、意味は分からなくても「救いを求めてる」ってことだけは分かる。
浄化する。感謝される。祈られて増える。それで終わりだ。
でも、あいつの声は違う。
あの湿っぽくて、重たくて、熱い視線を思い出させる声。
信仰とか忠誠とか尊敬とか、そういうのに収まりきらない熱。
——俺に、何かを求めてる。水じゃなくて。奇跡じゃなくて。
(……なんだよ、それ)
たぶん、追われてる理由も、そこに繋がってくる。
信者どもは“女神”を追っかけてる。
水のある場所を記録して、立て札や柵で囲い込もうとする。
俺が“女神”として扱われるのは、まだ分かる。
わかりたくないけど、色々と派手にやらかしたことを思えば、世界の文化としてそうなんだろうって、まだ飲み込める。
あいつは違う。
“女神”じゃなくて、“俺”を追ってる――何故か、そんな気がする。
それが嫌だ。
それが怖い。
俺は今、女の姿をしてる。
俺が執念と性癖を詰め込んだ、俺の理想の美少女フィギュアだ。
俺は圧倒的に可愛い――少なくとも俺の中では。異論は認める。
つまり、だからこそ。
あいつが追ってくる理由が、最低の答えに繋がりそうな気がしている。
(俺、あいつに惚れられてるんじゃないか?)
……。
いやいやいや、無い。ダメだ。アウト。却下。
俺は水だけど男なんだぞ。
誰がなんと言おうと男なんだ。
男が女の体をしてるからって、それに惚れられて、嬉しいとか、ありえない。
男なんだから――呼ばれて“嬉しい”なんて感じがするのはおかしい。
嬉しい、じゃない。絶対違う。
違う……と思う。
じゃあ、あれは何だ?
怒りでもない。恐怖でもない。嫌悪だけでもない。
水の奥が“満ちる”やつに近いのに、祈りの快感とも違う。
冷たい水底に温い流れが対流し続けるみたいな――
(やめやめ、やめろ……それ以上考えるな)
”最悪”を想像しかけて思考を中断させる。
そんなの認めたら、俺は俺を守れなくなる。
でも、皮肉なことに、あいつのことを考えている間は、俺は“私”を忘れられる気がする。
あいつに悪態を吐いている時は、僻みっぽくて皮肉屋の“俺”が顔を出せる。
……だからって、あいつに感謝なんかしてやるものか。
顔を合わせるのはダメだ。
あの目で見つめられるのはよくない。
話もしない——したくてもできないが、できない方がいい。
野郎からの口説き文句なんか聞かされたくない。
(会話が成立しない相手を、見た目で選ぶんじゃねえよ)
いい加減、こっちが逃げてんのくらい分かるだろ、分かれよ。
“ただしイケメンに限る”なんて、俺に通用すると思うなよ?
大体、お前なら、信者の女とか選り取りみどりだろうが。
滅茶苦茶、熱い視線で見られてんの……知ってるんだからな。
どこかの水溜まりが、ごぼごぼと泡立って濁る。
……浄化。
イケメンへの妬みで思わず煮立ちそうになった。
それ以上でもそれ以下でもない――はい、終了。
やめよう。あいつの事を考え過ぎるのは。
あいつはヤバい。
俺の大事な何かを、境界ごとぶっ壊しかねない劇薬だ。混ぜるな危険の何かだ。
※※※※※
少しだけ落ち着いてきた。
……落ち着いた、っていうか、疲れた。
疲れて波を立てる元気がなくなっただけだ。凪じゃない。へたって沈んでるだけだ。
俺はとんでもなく広がって、でも、どんどん女神にされていく。
あいつらは俺を拝んで、ありがたがる。
ご利益が欲しいからだろう。黒いのを取りたいからだろう。
それは分かる。分かってしまう。だから余計に逃げにくい。
俺が逃げ回っている間にも、森のあちこちで誰かが縋って、誰かが祈っている。
その祈りで、湧いて、増えて、広がっていく。
そうやって水域が増えたことで、今なら——もっと大きいことができるんじゃないか。
そんな考えが、頭の隅で勝手に育つ。
地面を削って、川を作って逃げる。
地下に染み込んでいって、地下水として逃げる。
森の外へ。人の声が届かない場所へ。祈りが刺さらない場所へ。
……あいつの声も。全部、届かない距離まで。
俺は一度、森を薙ぎ倒した。
潜るにしても、外に向かうにしても、また森を壊すことになる。
自分が逃げるために、地面を抉って、木を倒して、巣を壊して、生き物を沈めて。
急に水場が無くなれば、その後、生きていくのだって厳しくなるはずだ。
逃げたいのに、逃げ方がいちいち大惨事になる。
しかも、逃げた場合どうなる?
俺の上に何かを建てようとしてる連中はどうなる?
黒いのに侵された奴らとか、病人は?
路頭に迷うどころじゃ済まないだろう。
全部壊して、見殺してにして。
それで自由になれたとしても、俺はきっと引き摺り続けることになる。
誰かに悩みを打ち明けることもできず、眠ることもできず、ずっと水底に独りで沈むのは嫌だ。
(……俺、何がしたいんだよ)
自由が欲しいだけだ。
他人の都合に振り回されたくないだけだ。
でも、俺はもう、がっつりと“大勢の都合”の中に組み込まれてる。
しかも、その大勢の運命を俺が握ってるようなものだ。
冗談じゃない。
諦めて女神になるか、逃げだすか。
答えが出ないまま、遠くの方で、人の祈りがまた一つ重なった。
そして、その奥に混ざって——
イズミール、と。
あいつの声が、また、まっすぐ刺さってくる。
そのブレないまっすぐさが、ムカついてムカついて。
遠くの水たまりが、ぽん、と跳ねた。
それに釣られて、別の水たまりも、ぽん、と。
……たぶん、雨か何かのせいだ。




