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51.神域の水は広がり、世界は狭まる ◆★

 深い森の中、二人の男が測量器と画板を抱えて歩いていた。


 地図職人の男は、インク壺の蓋を二度叩いてから、まだ乾かない紙の端を指で避けた。

 指先に付いたインクが、まるで黒禍の汚泥みたいに皮膚の皺に残り、顔をしかめる。


 黒は黒禍を思わせる不吉な色だ。

 煤や炭を原料にできるため、黒インクは安上がりで作りやすい。

 だが――インク職人も染物工も、代筆屋も地図職人も、皮膚に染み付いた跡を「浸蝕では」と疑われる。


 だから黒い染料を扱いたがらない。

 普段は青や茶のインクを用いる。だが、今はそうも言っていられなかった。


 女神イズミール降臨の地、聖地ゴルディウムは辺境に位置する。

 広大な森林地帯の大半は、つい最近まで手付かずだった。


 しかし開拓が進み、女神の泉への道が通り、神話めいた出来事が次々に起こった。

 極めつけは、降臨した女神が巨大な水の龍を従え、森を押し流し、広大な水域を築いた一件である。


 「神威で地形が変わったから」という常軌を逸した理由で、一帯の測量と地図作成の依頼が舞い込んだ。

 莫大な報酬に釣られたのもある。

 だが何より、あちこちで囁かれる女神イズミールの噂の真相をこの目で見てやろうという気持ちが強かった。


 そして仕事に取り掛かった途端、難題にぶつかった。


 インクが、紙が足りない。人手が足りない。

 日々刻々と森の地形が変わっていくのだ。

 昨日まで獣道だった場所に小川ができ、窪みは泉になり、泉は沼や池へと化ける。


 特別、雨の多い地域でもない。そもそも、雨は降っていない。

 近くに大きな川も湖もないのに、どこからともなく水がこんこんと湧き、森を浸していく。


「なぁ、ここも明日には沈んでるんじゃないか」


 そう言っても、相棒は笑わなくなった。

 笑えない冗談が現実に追いついてくる速度が、この数か月で一段上がったからだ。


 地図を作っても作っても仕事が終わらない。

 だが書き換えるたび、報酬はきちんと支払われる。文句のつけようもない。

 普段使いのインクが尽き、縁起の悪い黒インクに手を出すことになったのも仕方がない。


 終わりの見えない仕事の合間、滞在先の街――ゴルディウムもまた、森の水域に呼応するように拡大していった。

 市場の喧噪は早朝から途切れず、荷車の轍が土を硬く締め、石積みの基礎があちこちで唸る。

 黒禍で潰れた村の分まで、人が、物が、金が――逃げ場を求めて、ここへ流れてくる。

 そして逃げ込んできた人々は、ここで糧を得て、職を得て、住処を得る。


「なぁ、これいつまでも終わんねえって」

「……じゃあ、移り住んじまうか」


「……それもありかもしんねぇなぁ」


 引き受けた仕事の間だけの滞在のつもりだった。

 だがこの聖地も奇跡も本物だった。この街の伸びしろは計り知れない。


 男は定規で線を引き、昨日の岸を塗りつぶした。

 地図を刷新し続けるうちに、ひとつ気付いたことがある。


 水場は次々に増える。だが新しい水際は、道を避け、建物を避け、畑の端で止まる。

 水は無秩序に広がっているのではない。そこには――意思が感じられた。


「なぁ、女神様宛てに立て札でも置いといたらどうだ。“こっからここまでは陸でお願いします”って」


 男が冗談めかして言い、相棒は鼻で息を漏らした。


「……女神様の御意思に物申すってのか」


 男は相棒をしげしげと眺めた。

 角ばった顔、ごつい体。インクの染み付いた作業着。

 その上から、似合わない薄藍のサッシュ。


 刻々と変わっていくのは森や街だけじゃない。人もだ。

 無愛想で信心とは程遠かった相棒が、今や熱心なイズミール信徒になっていた。

 なんでも、水の幼子と遭遇したとか、そんな話である。


 男は溜息を吐き、地図に記したこの水域の名へ目を向けた。


 ――ズミュルナ。


 女神イズミールにあやかった名付けらしいが、この広がっていく水域は、もはや泉や池の呼び名に収まらない。

 遠からず「ズミュルナ湖」と呼ばれることになるだろう、と男は思った。


 書き直したばかりの地図に、小さな波紋が広がった気がした。

 明日も明後日もまた駆けずり回ることになる――そんな予感に、男は女神へ向けて小さく祈る。


(ほどほどに頼みますよ、女神様ぁ)


◆◆◆◆◆


 杭打ちの音は、祈りの言葉よりも乱暴で、しかし確実だった。


 ズミュルナ湖の心臓部――女神がこの世に姿を現した泉と、それを祀った社は、いまや水の底にある。

 水はすべて繋がっている。

 だがその一帯だけは「女神の座す場所」として隔てられ、近づくことは許されない。


 その「女神の御座所」を囲むようにして、水面に木の骨格が並び始めている。

 丸太を束ねた(はしけ)が組まれ、柱で固定され、そこへ(けた)が渡され、足場が伸びる。

 湖の上に、神域を囲むように巨大な神殿を作る――狂気じみた計画を、誰も止めない。止めようとも思わない。


 黒禍が蔓延し、天へ魔樹が枝葉を伸ばす。

 明日が保証されない世界で、人は浄化をもたらす女神を讃え、救済を乞う「場」を求めている。


「神域は、ここから先だ」


 縄が張られ、杭に札が打たれる。札には文字が躍っている。

 読めない者でも分かるように、波と竜を象った印が彫ってあった。


 現場の監督役の神官は、舟で運ばれてきた人足の泥だらけの靴を見下ろし、舌打ちを飲み込んだ。


 女神イズミールと御子様方は、清浄なる水の化身である。

 その寝所たる神域へ、泥を付けたまま足を踏み入れるなど、あってはならないことだ。


 水中に没した社に代わる、イズミールの神殿の建造は大事業である。

 ゴルディウムでは各地から集まる巡礼、移民、難民からも人足を募っている。

 だが、この神域に派遣される者がこの有り様では先が思いやられると、神官は内心頭を抱えた。


 女神の偉大さ。人が女神に相対するに相応しい作法。

 聖者アイオリスが定めた戒律を、大衆に啓蒙する立場の者が不足している。


 神殿建立の主導を担う黄金派――欲張りのペッシヌスめ――は戒律を軽視し、工期を急かしてくる。

 大工衆に属する神官は、この神殿建立そのものを女神への祈りの形と捉えていた。

 拙速で杜撰な工事など、女神への不敬としか思えない。


 人手が足りない。技巧と崇敬が足らない。木材と釘の品質にばらつきが大きすぎる。

 不満は多い。だが、一つ一つ正していかねばならない。


「その靴は脱げ。いいか、水に物を落とすな。この水面を女神様の眼と思え」


「それから、御子様方が現れた時は、騒ぐな、触れるな――近くにいらしたら、動くな」


 ものを知らない人足達に、最低限の教えを説く。

 監督下にあるうちに、いかに自分が崇高な役目を担っているかを教え導かねばならない。


 その時、湖面が不意に凪いだ。

 杭打ちが生み出す波紋が、すっと消えたのだ。


 誰かが息を呑む。


 湖面の上に小さな白い影が現れた。ひとつ、ふたつ、みっつ。

 頭には短い角とヒレ。龍の徴を持つ幼子――女神イズミールの御子たちが、水面を踊るように駆ける。


 注意を受けた人足が、ひゅっと息を詰まらせた。

 背筋が伸び、次いで膝をつき、身体を畳むように折り曲げる。顔だけは湖面から離せない。

 周りの祈りの姿勢と声を真似て、拙い祈りを始めた。


 神官は自らも跪きながら、己の不明を恥じた。

 ここは神域なのだ。

 人が人に蒙を説くまでもなく、神秘に触れれば、人は自ずから膝をつく。そういう場所だ。


 杭打ちの音が止み、森と水面に祈りの声が響き渡る。


 龍の幼子たちは、水面を飛び跳ねながらも波紋ひとつ立てず、艀の一つへ近付いていく。

 人々が固唾を呑んで見守るなか、木屑拾いの少年の頭に小さな手が置かれた。

 すると、少年の前髪の下に隠れていた黒い斑が、油膜が剥がれるみたいに薄くなる。


 浄化をなした幼子の透き通った手の中に、黒い濁りが浮いた。

 だが、一緒にやって来た二人の幼子がその手を取る。

 濁りは二人の掌へ分けられるように移り、同時に薄れていった。


 その様子に、神官は誰よりも驚嘆していた。


 ――おお、助け合っておられる。


 龍の幼子たちは、女神イズミールに代わって浄化の役目を担うべく現れる。

 しかし浄化を行うたび、その身体は形を失って水に還っていった。


 それが死を意味するものではないとしても、我が身を削る姿に人々は心を痛めていた。

 だが今、幼子たちは互いに助け合い、痛みを分かち合うことで役目を果たしきってみせた。


 その成長を目の当たりにし、神官は胸を打たれた。


 現れたときの活発さをそのままに、龍の幼子たちは湖面を駆け、水面に飛び込んで姿を消した。


 誰かが息を吐く音が響いた後、わっと歓声があがる。

 浄化を受けた少年が担ぎ上げられ、涙を流しているのが見えた。

 神官は確信した。彼は生涯この日を忘れないだろう。


「あれが女神様の御子様方だ! この地はあの方々の聖所である! 理解できたな?」


 張り上げた声に視線が集まる。熱の籠った視線だ。

 神話の只中にあることを実感し、神秘への崇敬を抱き、教えを求める者の目だ。


 龍の幼子さえ手を取り合って事をなしたのだ。

 神ならぬ人の身で、分かち合わずに何が出来ようか。

 神官は教えを乞う者には戒律を、技巧の未熟な者には手本を示した。


 水の女神に奉じる宮のため、槌音が湖面に再び響き渡る。


◆◆◆◆◆


 使節の馬車は、塵を上げてゴルディウムへ入った。


 旗は三つ。ひとつは領主の家紋、ひとつは都市の印章、ひとつは――女神イズミールを奉じる誓約の印。

 誓約は口にするだけなら軽いが、書に認め、旗に掲げれば鉄より硬い――盾としても、枷としても。


 応接の席で、使節は礼を尽くした。献上品の蓋が開き、宝石が光り、香が立つ。

 だがこの街では、宝石の輝きが奇跡の輝きに勝てない。香の匂いが浄化の前では霞む。


「我が地にも、御子様をお招きしたい」


 言葉は丁寧だったが、内情は焦げついていた。

 黒禍は国境を尊重しない。魔樹は条約を読まない。

 そして、聖地から外へと流れ出る浄化の水は有限だ。

 救いを独占できる者が勝つ――そういう現実が、外交から余裕を削いでいく。


 対応する者は、笑顔を崩さなかった。

 彼は窓口ではあるが、外交官でも交渉役でもない。

 女神とその御子は人の言葉を解さないのだから、そもそも、彼には便宜の図りようがない。


「御子様方はズミュルナ湖からお出になりません」


「……なぜだ」


「母なる女神の御許にあるがゆえに、幼子には離れ難いのでしょう」


 使節は、拳を握った。母と子。便利な言葉だ。反論できない形で世界を区切る。


「ならば、女神イズミールに嘆願の機会を」


「御方の降臨は、その御意思によってのみ成されます」


 使節は一歩踏み出しかけて、背後の護衛が袖を掴んだ。

 ここで声を荒らげれば、不敬を働いたことになる。

 誓約の旗を掲げている以上、不敬とは女神に対するものと扱われかねない。

 この街で女神の名を軽んじることが何をもたらすかは明白だ。


 席を外れたあと、使節は湖畔へ出た。

 遠目に見える神域の縄と札、その向こうの水面と、その外周で行われている呆れる規模の大工事の様子を眺める。


 そこで――水面に白い影が現れた。


 幼い竜が水を滑り、こちらを一瞥した。透き通った水の身体ゆえに感情は読み取れない。

 無邪気に跳ね回る様は、市井の子らと変わらぬように見える。


 だが、あの小さな身体で、治らぬはずの浸蝕を治す。

 切れぬ筈の黒禍を切り、魔樹を消し尽くす、浄化の力を持っているというのだ。


 使節は知っている。

 御子をかどわかし、祠に囲い込む企てが、これまでに幾度も行われたことを。

 持ち去れたのは「御子の水」ではなく、ただの水だった――そんな噂が、いつも後に残ったことを。


 御子は、近づいてこない。


 使節は、膝を折った。計算ではない。反射だった。

 罪を見抜かれているからこそ、近づいてこようとしないのだと感じた。


 神にどう赦しを乞えばいい。

 何を差し出し、どう願えば、自分達に便宜を図って貰えるのか。


 便宜――そう。この期に及んでなお、利益を独占する方法を考えてしまう。

 故郷の利益を最大化するために考えを巡らせるのが己の務めだからだ。

 それを強欲だと嫌うのなら、何故、人に救済など見せたのだ。


 胸に怒りに似た感情が渦巻く。

 それを見透かされるのを恐れて、使節はしばしの間、顔を上げることが出来なかった。


◆◆◆◆◆


 遠い地方都市の石壁の下で、小さな祠が建った。


 祠の中には、水瓶がひとつ置かれている。金細工に縁取られ、銀の鎖で固定された水瓶だ。

 中身は透明で、ただの水にしか見えない。だが人々は、その水瓶に向かって膝をついた。


「女神イズミールの神域から拝領した聖水である」


 女神は言葉で人を導かない。教えを説かない。

 ただ、浄化によって救いをもたらし、神威を示す。


 神官の役割は、女神の偉大さを説き、礼拝と戒律を教えることになる。

 教えは新たな秩序として人に浸透し、やがて信仰こそが国や都市の法より尊ばれるようになる。

 信仰は、権力にも法にも、黄金にもなり得る。


 列の最後尾で、老人が咳をした。乾いた咳。胸の奥の黒い痕が、肺を撫でている咳だ。


「……この水も祈れば、治るのか」


 神官は一拍置いた。必要とされているのは希望だ。


「神域では御子様が現れ、お救いくださります」

「この地でそれを望むには――祈りです。清き願いは必ずや、この水の先に届くでしょう」


 御子は現れない。女神は顕れない。

 ここにあるのは、運ばれてきた“水”だけだ。神域の外に切り取られた欠片だけだ。


「女神イズミールの代行者たる聖者アイオリス様は、かつて泉から離れた地へ旅立ち、深淵を祓いました」

「その出立の際、聖者様は一瓶の泉の水を授かりました。数多の難行の中、瓶の水に祈りを捧げ、奇跡を起こされたのです」


 神官が語るのは、紛れもない事実であり――同時に、人々が支えにする神話でもある。

 神話的な出来事が、誰にでも起こるはずもない。

 それでも人々は縋る。縋るしかない。


 神官は、なお祈りの文句を整えた。

 人々に渡す言葉を、より滑らかに、より甘く、より従いやすく。


 祠には、いずれ女神像が運び込まれることになっている。


 水の衣を纏う女神が、幼い竜を抱く像だ。

 神官は、水そのものこそが尊い神体だと知っている。

 だが、人が理解しやすい“形”を好むことも理解している。


 人の作った偶像への祈りが女神に届くのかを、神官は疑問視していた。

 一方で、それが女神イズミールの名を広く伝えることには疑いを持たない。


 神域は、泉から池へ、池から湖へと広がっていったという。

 ならば自分たちの務めは、湖から海へと広げることだ――神官はそう考えた。


◆◆◆◆◆


 ズミュルナ湖の岸辺では、今日も巡礼が途切れない。


 足の豆、背の荷、胸の奥の黒い咳。彼らはそれを抱えてここへ来る。

 救いを信じたいのではない。信じるしか、生きる形が残っていない。


 そして最近、彼らは囁き合う。


「神域に御子様が現れたそうだ」

「森の中の小さな泉に、女神様が姿をお見せになったとか」


 噂は祈りより先に走る。走りながら、形を変えていく。


 水面が揺れた。


 白い指先が水から伸び、水の衣が風もないのに翻った。

 女神の姿が現れる。


 女神が、せせらぎのような唄声を発する。


 その唄声の、意味を人は理解できず、美しい声色に聞き惚れる。

 だが、人々は頷く。泣く。笑う。赦しだ、裁定だ、導きだ、と勝手に受け取る。

 分からないものほど、都合のいい意味が詰め込める。


挿絵(By みてみん)


 その足元で、御子がいくつも浮かぶ。幼い竜たちが湖面を滑り、列へ散る。

 抱きしめ、撫で、浄化する。黒が薄れ、呼吸が楽になり、目に光が戻る。


挿絵(By みてみん)


 救いが増えるほど、祈りが濃くなる。

 救いが増えるほど、あらゆる欲が集まる。


 水は広がる。

 名が広がる。


 だが、女神の胸の裡を――いまだ誰も知らない。

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