49.聖者は泉の底で黄金を授かる(後編) ◆★
天を衝く水柱から雨が降り注ぐ。
泉から溢れ出した水が足を浸す。
その水の存在が、人々に奇跡を実感させ続ける。
救いを体験した人々の祈りの声は、もはや轟きのようだった。
痛みを奪われた者は笑い、歩けなかった者が立ち上がる。
浸蝕を隠していた者は肌を晒し、浄められた場所を確かめては叫んだ。
――救われた。救われた。救われた。
その言葉が、水面を震わせる。
私は濡れた息を胸に押し込み、足を浸す水面に目を向けた。
浅く波打っている。揺れている。
その揺れが“誰”のものなのか――それだけを考えていた。
不意に、水面に膨みが生じた。
水中を清浄な“波”が駆け抜ける。
彼女が浄化の力を使ったのだと、身体が理解してしまう。
――この場に姿を現そうとしているのか。
その直感は、すぐに現実のものとなってしまった。
透き通った水の下に、彼女の輪郭が浮かぶ。
膨らんだ水がばしゃりと解け、水面に彼女が立ち上がった。
流水が形を持ったような、波打つ長い髪。透き通った白い肌。
人ならざる龍の徴を宿しながらも、人の肉感を持って存在する美。
その姿に魅入られ、見上げる私を、青い瞳が捉えた。
歓喜が溢れ出し、胸が痛いほど高鳴る。
――私は貴女に救われて、生まれ変わった。
――もう、この手が貴女を穢してしまうという恐れもない。
――やっと、貴女に触れることができる。
この想いを言葉にして伝えたい。知ってほしい。
だが、周りの音で我に返った。
群衆が、顕現した女神の姿を目にして発したどよめきだ。
熱狂は一段、深く沈んでから爆ぜた。
「見ろ! 女神様だ……!」
「聖者様の前に、女神様がお出でになったぞ!」
「あれが女神イズミール様なのか……」
無数の視線が集まってくる。
その目は、私にも向けられていた。
「あれは聖者様なのか……? 髪の色が」
「泉から上がったら、あの御姿になっていたんだ」
「聖者様が引き上げた男も元に戻ったらしいぞ」
黄金に戻った髪。黒を失った肌。青い瞳。
私の身に起きた変化は、ただの回復ではない。
女神イズミールが、私を“完全に”祓った証なのだと、人々はそう捉える。
祝福、寵愛、選別。
言葉は違っても意味はひとつに収束していく――女神による“救済”だ。
彼らは、かつて“深淵殺し”だった私を、黒を帯びたままの私を、聖者と呼ぶ。
私の存在は、彼らにとって“救済の約束”なのだ。
私という“前例”がいるならば、女神は自分たちにも救いを与えてくれる。
そう信じられる――信じたいのだ。
そして、その“約束”は、今、彼らの目の前で現実になった。
彼らが望む以上に、奇跡の方が境界を跨いで彼らに触れてきたのだ。
救済を得られると期待するのも無理はない。
祈りの輪を成す最前列の者が、半歩、足を踏み出した。
踏み出した足が立てるのは、足音ではない――水音と波紋だ。
隣の者、後ろの者が釣られて動き出し、波音が重なる。
――危うい。
逸った誰かが大きく動き出せば、その拍子に、一斉に動き出しかねない。
先を競うようになれば、人を押し退け、踏みつける者まで現れかねない。
救いを求める意思は純粋なものだが、人は純粋な心を持ったまま、人を傷つけ、裏切る。
人の持つ純粋な心は、綺麗事だけでは出来ていない。
誰よりも早く。
誰よりも多く。
誰にも渡したくない。
自分だけが救われたい。
そんなものを、今ここで彼女に見せるわけにはいかない。
私は目を細め、彼女の美貌から意識を逸らす。
微笑以外の所作から、彼女の心の揺れを読み取ろうと試みた。
僅かな首の振り。肩の緊張。所在なさげな指先。
微笑みの奥に、困惑と拒絶の揺れがある――私にはそう見えた。
あの黄金のルテアの時と同じだ、と直感する。
おそらく、この状況は、彼女が意図したものではない。
水柱も、溢れ出した泉も、浄化の雨も。
きっかけはなんだ?
泉に飛び込んだことだろう。
では、この事態を招いたのは、あの男の帯びていた黒禍か――それとも私か。
いずれにしても、彼女は自分の力を完全には使いこなせていないのだと思う。
これほどの浄化の力を発揮できるなら、泉に落ちる前に対処できたはずだ。
だが、あの時、咄嗟に動けたのは、御子様おひとりだけだった。
かつての私や、人々が思っているほど、彼女は完全ではない。
今、この場に姿を現したことも、適切な振る舞いとは思えない。
人の信仰を集めたいのなら、この上なく有効だが、望んでいないならば悪手だ。
あるいは、祈りの熱に押されて、溢れた力を扱いかねているのかもしれない。
『―~―――~~―~~――~~―~―~~~』
彼女が私の視線から目を逸らしながら、声を発した。
唄声のように響くその声は、どよめきと水音にかき消されることなく群衆に届いたようだ。
私も含めて、その言葉の意味を人は理解できない。
理解できないのに、人は、その声に意味を見出そうとする。
意味が分からないまま、勝手な意味を背負わせようとする。
「女神様が御言葉を発せられたぞ!」
「あぁ、なんて美しい御声なんだ……」
「御告げだ! 救いの御告げだ!」
熱狂が、さらに高まる。
そして、人の輪が、水音とともに、さらに狭まった。
降臨した女神の姿を、声を、より近くで。
人々はそう望み、前へ前へと向かおうとする。
膝まで水に浸かりながら、手を伸ばし、祈りながら進む者がいる。
(もう時間がない)
人間が、彼女に危害を及ぼすことは出来ないだろう。
だが、心が傷つかないとは限らない。
飢えと渇きの顔をした群衆に詰め寄られたとき、彼女はどう感じるか。
救いを求めるあまり、人が人を押し退け、踏み潰す様を目の当たりにしたとき、どう思うか。
彼らを、今すぐ止めねばならない。
時間稼ぎに過ぎないとしても、私にしか出来ないことがある。
――私はその場で即座に膝をついた。
水中に腰が冷たく沈む。背中に視線が集まったのを感じる。
手を組み、頭を垂れる。
水面に降臨した女神に対して、斯くあるべき祈りの姿。
それを、聖者とされている私が率先して行い、周囲に示す。
今、この状況、この場だからこそ、呼びかけずとも通じるはずだ。
これは人々の熱狂を“儀式”や“作法”という形に押し込める方便に過ぎない。
駆け出しそうな足をその場で止めさせるための嘘。
救いを求め、伸ばそうとする手を、組ませて祈りの形に変えるための嘘だ。
その場しのぎでしかないが、今は、こうするしかない。
私は顔を上げ、彼女の瞳を見つめた。
(頼む。伝わってくれ)
――彼らは私が止める。
――あなたを守りたい。
――怖がらせたくない。
――あなたは今、この場にいるべきではない。
言葉の代わりに、視線で訴える。表情で請う。
言葉では伝わらない。伝えられない。
言葉にすれば、この嘘が露見してしまう。
群衆が足を止めた。
隣の者と顔を見合わせ、囁き合い、頷き合う。
ざぶん、と大きな水音と波が生まれた。
群衆の輪が、その場で一斉に跪き、祈りの姿勢を取ったのだ。
『~――~~―~~―~―――~~~~――』
首を巡らせ、周囲の動きを見ながら、彼女が再び声を発した。
表情は穏やかで、信心深い人間達の様子を満足そうに眺めている――そう信じたい者にはそう見える。
だが、首を巡らせる動きには性急さがあった。
焦りと困惑が透けて見える。
彼女は怯えている。
それを思うと胸の奥が痛んだ。
慈しむ微笑みと、心地よい声音。
その向こう側にある本心に、どうしたら触れられる?
どうしたら慰められる?
これほど近くにいるのに、触れられない。
声は届くのに、意味が通じない。
目の前にいるのに、守る方法が分からない。
(ああ、ならば、いっそ……)
その手を取って――この場から連れ去ってしまえばいいのではないか。
そんな不埒な考えが芽を出した、その瞬間。
――ずどん、と腹に響く轟音が落ちた。
※※※※※
地の底を叩くような衝撃。
水面を波が駆け抜け、私の膝を揺さぶり、群衆の足をさらうように広がっていく。
水柱が――膨れ上がっていた。
先ほどまでの勢いが、前座だったとでも言うように。
天と地を繋ぐ柱。
いや、柱ではない。もはや、塔だ。
水でできた塔が、空へ空へと伸び、陽光を切り裂いて立ち昇る。
全員が、呆然と見上げるしかない。
空に虹が生まれた。
昇り切った水は、まだ落ちてこない。
――落ちてくる?
この巨塔が倒れ、崩れ、降り注げば。
それはもう、救いなどではない。人は流され、押し潰され、飲み込まれる。
『~~~――――~~~ ~―~――~~――~~~』
彼女がこれまでになく、高く大きな声で唄った。
両手が動く。左の手が水の塔へ、右の手が森の奥へ差し向けられる。
巨大な水の塔の根元が、うねった。
揺らぐことのない巨塔に見えたものが、大蛇のように身をしならせる。
そして、彼女の指した方向へ、長い身を倒していく。
場に光が差し込んだ。
水の塔に遮られていた陽光が戻ったのだと、遅れて理解した。
影が大きく動いた。
空を昇っていた巨塔が、大きく弧を描き始めた。
その様子は、巨大な水の龍が鎌首をもたげて森を見下ろしているようだった。
水の龍の首が、ゆっくりと遠くの樹々の向こうに降りていく。
鳥が一斉に飛び立った。羽音が幾重にも重なり、突風のような音を響かせた。
樹冠の上まで跳ね上がった白い波濤が見えた。
次いで、地鳴りが。
振動で水面に波が立った。水の底になった地面が震えている。
森の向こうから、山崩れのような音が近付いてきた。
木々の合間から濁流が押し寄せてくる。
いや、木々をなぎ倒し、巻き込みながら近づいてくる。
折れた幹。
地面から引きずり出された根。
枝葉や土砂を巻き込んで、一塊になって迫ってくる。
――死だ。
自然の暴威を前に、その言葉が喉に貼りつく。
避難を叫ぶ? 間に合うのか? 叫んだところで、足場は水だ。
人は混み合い、道は一瞬で詰まる。
そして、森の残骸と土砂と水で膨れ上がりながら、あの塊は追ってくるだろう。
『~~――~~――~―』
私すら思考を止めて立ち尽くすしかなかった中で、
彼女の唄声が森に響き渡る。
濁流が森を砕き、吞み込みながら迫ってきた。
そして、泉の領域へ流れ込む。
その瞬間――濁った流れが色を変えた。
折れた木々や岩が宙に浮いているように見える。――宙ではない、透明な水だ。
濁流が一瞬で、澄んだ水になった。
泉から白い波の壁が立ち上がり、土砂や木々を含む流れとぶつかる。
泡が弾け、飛沫が散り、轟音が響く。
――白い波の壁は砕けなかった。
水の中で暴れ回っていた木々や土砂が、力を失ったみたいに沈んでいく。
水の中で泥の煙が巻き上がっても、あっというまに澄んでしまう。
圧倒的な暴威を見せつけた濁流が、泉の領域の前に屈服した。
濁りも、流れも、勢いも。
すべてを奪われた水の塊は、泉の畔で巨大な壁のように留まっている。
そして、ざぁ、と音を立て、崩れながら森の方へ流れ出した。
水自身が帰る場所を悟ったかのように、泉の領域から引いていく。
濁流が“立ち去った”後、そこは、もはや森ではなくなっていた。
樹々は薙ぎ倒され、土が抉れ、川が生まれている。
洪水によって森が切り拓かれていた。
いつのまにか、泉から立ち昇っていた水の塔は消失していた。
時間をおいて、空から水が降り注いだ。
水桶を幾千もひっくり返したような豪雨が、陽光と共に降り注ぐ。
皆、無言だった。
皆、表情を失くしていた。
沈黙を破ったのは、水滴が水面に落ちる音。
そして――歓声。
狂乱は祈りへ形を変えた。
恐怖は畏怖へすり替わり、畏怖は崇敬へ燃え上がる。
たった今、死が迫っていたことを理解できた者ほど、より深く跪き、より大きく名を叫ぶ。
「イズミール様ァァ!」
「女神様! 女神様ァ!」
「救いだ! 世界は救われる!」
私は立ち上がれなかった。
膝が土に沈んだまま、目だけが彼女を追った。
彼女は変わらぬ微笑を浮かべ――立ち尽くしていた。
この出来事は、もう止まらない。
今日この瞬間は、巡礼の列が語り継ぐ“神話の起点”になる。
この圧倒的な神威は、どのような誇張も飲み込んで真実にしてしまう。
救いを求める声は、感謝だけでは終わらない。
“もっと”だ。
もっと救え。もっと癒せ。もっと浄めろ。
その“もっと”が、彼女を壊す。
守らねばならないのは泉ではない。
彼女の心だ。
群衆が熱に浮かされ、救われたと叫ぶほどに、彼女は逃げ場を失う。
求められ、縛られ、崇められ、そして――期待に押し潰される。
彼女は、ゆっくりとこちらへ視線を寄越した。
小さく振られる首、後退る足。
これではあの時と同じだ。
どうか、そんなふうに微笑まないでくれ——怯えないでくれ――
私は彼女に手を伸ばした。
今すぐにでも、群衆の渦から彼女を引き剥がしたかった。
その手を掴んで連れ去ってしまおう。
人の目も、耳も、神話も届かない場所に、彼女を連れ出さねばならない。
だが、私の決意は、彼女には伝わらなかった。
彼女は、私に背を向けた。
拒絶だと分かった。
私に向けた拒絶ではないかもしれない。
群衆に向けた拒絶かもしれない。
自分自身の衝動に向けた拒絶かもしれない。
それでも、私の伸ばした手は届かなかったのだ。
「イズミール……待ってくれ、私は君を――」
呼びかけた。声が掠れた。水に濡れた喉が痛んだ。
彼女の肩が僅かに揺れた。振り返らない。
水面が――さざ波ではない。もっと静かな、もっと冷たい揺れを起こした。
彼女の輪郭が、溶ける。
最初から水だったものが、“人の形”を解いて水に還った。
行ってしまった。
今、この泉には彼女はいない。この水面は彼女の目ではない。
そう、感じた。
残ったのは、水の匂いと、雨の音、名を叫ぶ群衆の声だけだった。
私は伸ばした手を、宙に残したまま固めた。
指先が冷える。
触れられるはずだった水が、もうそこにない。
胸の奥で、先ほどまで歓喜だったものが、違う形で脈を打ち始める。
――このままでは、彼女は壊れる。
濡れた掌を握り締め、群衆の熱狂の中で、私はただ一人、歯を食いしばっていた。
まずは――この場を鎮めねばならない。
次に――彼女を探さねばならない。
水域がどこまで広がったのか。森のどこまで“泉の領域”になったのか。
目の届かない場所で黒禍の汚染が及ばないように。
ペッシヌスが嗅ぎつける前に、彼女を見つけねば。
――だが、なによりも。
私は、彼女が追い詰められているなら、力になりたい。
忠義だとか使命だとか、そんな言葉で飾り直せない、むき出しの願いが胸の底で脈を打つ。
私は人々に指示を飛ばした。
病人や浸蝕者の状態を確認し、瓦礫や土砂の状態を検めさせる。
拓けた森だった場所への立ち入りをひとまず禁じる。
人々は祈りながら動く。祈りながら、命令を聞く。
“女神の奇跡”が、統制の道具になってしまう。
その事実が、さらに胸を冷やした。
私は最後に一度だけ、水面を見た。
そこにはもう、彼女の輪郭はない。水は澄んでいる。
だが、その底には大きな穴が穿たれ、深く、暗く奥まで見通せなかった。
私は濡れた衣のまま、森へ踏み出した。




