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47.聖者は泉の底で黄金を授かる(前編) ◆★

43話「清浄なる泉に流れ込むもの」~44話「浄なる泉を染めるもの」までのアイオリス視点

 ゴルディウムを訪れる巡礼の列は日に日に伸びていく。

 今や女神イズミールの御名は、遠く広く、海を越えた地にまで知れ渡っているという。

 救済を求める者。欲望を抱く者。好奇に駆られた者。列に加わる者達の動機は様々だ。


 その全てが泉に雪崩れ込めば、とても収拾がつかない。

 ゴルディウムは巡礼の足を止め、選り分ける関所として機能している。

 足止めを受けた者も腹が減る、屋根と寝床を必要とする。

 足止めを受けたくない者は、順番や資格を金で売買する。


 あの男――ペッシヌスの目論見通り、ゴルディウムはそうした人々の財を喰らい、肥えていった。


 ペッシヌスは表向き、私を女神の代行者、聖者として尊び、泉の礼拝に関する決まり事を一任する。

 巡礼者のうち、浸蝕を受けた者や傷病者を優先すべしという判断にも異を唱えない。


 あの日、不埒な企みを抱いた者を御子様が拒絶したことを受け、私は資格の売買を禁じた。

 真に救いを必要とする者だけを通すよう、ペッシヌスに申し渡したが彼は大人しく従った。


 私のこの決定に対して不満の声は上がっているはずだ。

 だが、そうした声は泉の畔に留まり続ける私の元には届かない。

 おそらく、不満の矛先は私にだけ向かうよう仕向けられていることだろう。


 私が女神の意思を代弁する形をとって、専横を働いている、と。


 皮肉なことに、それは限りなく事実に近い。

 私はあの方の平穏の為ならば、その御意志を捻じ曲げて伝えることさえも辞さないつもりでいる。


 ――そんな、視座と志の低さの報いか、ある日、状況が一変する出来事が起こった。


 巡礼者の“質”が変わった。

 昨日までなら、列の先頭にいるのは崇敬か欲望に目を輝かせた者だった。


 だが今は違う。


 彼らは追い立てられた者の目をしていた。救いを切望する、渇いた目だ。

 ひどく見覚えのある光景――あれは巡礼者ではない、難民だ。


 自分の足で歩けず、肩を貸される者がいる。それでも足らず、板に乗せられた者がいる。

 衣服に煤や血を滲ませたままの者がいる。親の姿が見当たらない子供がいる。


 浸蝕者も多い。


 角や鱗、黒い斑点――分かりやすい“兆し”を持つ者ばかりではない。

 見た目は普通に見えても、怖気の走る気配を帯びた者が混ざっている。


 何処かに魔樹が現れたのだろう。


 この世ならざる場所に通じる”裂け目”が開き、その地を深淵に堕とした――そうでなければ、この数は説明がつかない。

 怪我人が増え、浸蝕者が増え、逃げてきた者が増え――それらが巡礼の列に混ざって流れ込んできた。


 その兆候に気づくのが遅れた理由は明白だ。


 私を含む多くの者が、この泉から目を離せずにいた。

 女神イズミールの存在は、この昏い世界にもたらされた灯火だ。

 その輝きに目を奪われ、暗がりや足元への注意が疎かになっていた。


 女神の御座所。私が救いを得た場所。

 御許に居続けることを、私は自らの務めと言い訳していたが、外のことなど気に留めていなかった。


 恋慕と執着を自覚したとき、私は己を恥じた。

 だが、その羞恥の熱さすら握りつぶして、私は泉の畔から離れようとしなかった。


 そして、それ以上の恥ずべき行いに手を染めようとしていた。


※※※※※


 ゴルディウムから泉へと通じる林道の合間には、柵と門扉が設けられている箇所がある。

 閉ざした門の先にあるのは、女神の御座所――泉だ。

 夕刻過ぎにこの門を通ることを許された者は、私を含む限られた者たちのみだ。


 私は泉を隔て、閉ざした門扉を背に、居並ぶ者たちに目を向けた。


 彼らは、かつて“深淵殺し”と呼ばれた者たちだった。


 私と同じように、黒を浴び、黒に焼かれ、黒を断ち切るために穢れた武器を振るい、己を削り尽くした者たち。

 そして今は、女神と御子様の水に触れ、人の形を取り戻し、武器に銀の輝きを宿した者たちだ。


 神や精霊の力を借りた魔法を除けば、深淵に抗し得る力は、同じ深淵に属するものだけだ。

 神秘が遠ざかった今の世界では、“深淵殺し”こそが数少ない対抗手段だった。


 彼らが今手にしているのは“深淵殺し”ではない。

 浸蝕から解き放たれた武器は、銀の輝きを帯びている。

 それは、女神イズミールの浄化の力を宿している証に他ならない。


 この世界に属する清浄なる力は、世界の理の外にある深淵を消し尽くすことができる。

 そのことを、私は以前、身をもって示した。


 彼らは既に“深淵殺し”とは言えない。

 だが、この銀の武器があれば、魔樹に立ち向かえる。


 私は、彼らに魔樹を討つことを命じようとしていた。

 変異した身体を浄化され、希望を取り戻した彼らを再び地獄へ舞い戻れと命じるのだ。


 しかも、私自らは同行せずに、彼らだけを死地に送り出すつもりでいる。

 私はこの地から離れるわけにはいかない。

 あの方に危機が迫った時、御傍にいられないなどあってはならない。


 だから、彼らを代わりに派遣する。


 魔樹の規模にもよるが、彼らの多くが戻っては来られない可能性がある。

 戻れたとしても、その身は再び黒禍による浸蝕を受けるだろう。


 それでも、送り出さねばならない――すべては、あの方をお守りする為に。


「私達はかつて深淵を殺すだけのものだった。黒禍に身を染めてでも深淵に抗うことを望んだ」


 私の声と表情は硬い。居合わせた者達も同様だ。

 だが、“深淵殺し”だった頃と大きく異なるのは、その目に狂気の色が無いことだ。

 狂気の力を借りずとも、今、この場に立っていられるのは、信仰という柱があるからだ。


「我々は女神イズミールの浄化を受け、救われた。

 だが、それをただの慈悲や、赦しだとは思うな――

 その刃に宿る銀の輝きは、女神イズミールの深淵に抗う意思であり、御裁定だ。

 それを振るい、あの御方に代わって深淵を見つけ出し断ち切る――それが今の我々の使命と思え」


 今、彼らの顔には、尊い使命を帯びているのだという誇りがある。

 銀の斧と一瓶の泉を手に、此処を旅立った時の私と同じ顔をしている。


「その身と刃を再び黒に染めることになったとしても、魔樹を断ち、必ず此処に戻れ。

 女神イズミールは決して私達を……この世界をお見捨てにはならない。

 あの御方は、我々の深淵に抗わんとする意思を認め、背中を押してくださる方だ――それを忘れるな」


 私は”死ね”という命令を、信仰の言葉に包んで渡した。

 彼らが命を賭けるに足る“意味”を必要としていることを知っているからだ。

 意味がなければ、人は死ねない。意味がなければ、人は戦えない。


 これは詭弁だ。


 深淵に対する復讐心を、女神から授かった崇高な使命に置き換えるための嘘だ。

 小綺麗な器に移し替えたとて、私達の中身はそう簡単には変わらない。

 “深淵殺し”の道を選んだものは、平穏より戦いに身を置くことを選んだ人種だ。

 戦いに向かわせるのが、信仰か狂気か、その違いに過ぎない。


 彼らは私の言葉に頷き、出立した。


 彼らに与えた使命は間違いなく意義あるものだ。

 この聖域は、人の世に残された希望なのだから。


 その希望を守るために、私は彼らを死地に送り出した。


 私の中にある罪悪感は、彼らと共に死地に向かわないからではない。

 ここに留まるという私の選択が、私情からきているという自覚故だ。


※※※※※


 ゴルディウムに押し寄せた難民の列を、柵の外に押し留め、選り分ける。


 オルセイスが失陥し、同盟都市に助けを求めたあの日、壁外に閉め出され、選り分けられる側だった私が、今、難民に対して同じことをしている。


 その皮肉が舌に苦みを生むが、私はそれを飲み込んで、救う者と救わない者を選んだ。


 泉を守らねばならない。

 女神を……イズミールを守らねばならない。

 そして、そのために私は、私の意思で見捨てる命を選び、除く。


 冷たい思考が、胸の熱を押しのける。私の中のもう一人が囁く。


(穢れが深い者を入れるな)

(泉を染めさせるわけにはいかない)

(黒禍を泉に浸せば終わりだ)


 私は先頭に立って列を為す人々を振り分ける。

 村人や護衛に指示し、柵を作らせ、縄を張らせる。


 屋台の者たちにも命じる。水桶を回せ。柄杓を渡せ。寄進は受け取るな。

 水を飲ませろ。傷口を洗い、浄め、血止めを行え。

 列を崩すな。森を抜けようとする者を行かせるな。倒れた者を放置するな。

 変異の兆候に目を凝らせ。黒い泥を吐いた者が現れたら人を呼び、決して触れるな。


 泉の畔は既に祈りの場ではなく、戦場だった。

 剣戟と断末魔こそ響かないが、苦悶の呻き声が森の静寂を乱した。


 だが、苦し気な声に混じって、祈りの言葉が聞こえる。

 泣きながら、笑いながら、女神の名を呼ぶ声が重なって響き渡る。


 そんな人々の祈りに応えるかのように、鏡の水面に水の蕾がいくつも現れた。


 ざわめきが一瞬静まる。

 前の者が息を呑んだのを、後ろの者が怪訝な表情を向ける。

 だが、何かが起こる兆候を肌で感じ、押し黙った。


 ――女神イズミールの御子様が水面に姿を現した。


 透き通った水の肌。龍の徴を持った幼子の形をした清浄なる存在。

 一人、また一人と水面で生まれ、ふわりを舞い上がる。


 その姿に、泉の畔に運び込まれた重症の者たちから感嘆の声があがった。

 神秘の存在への畏怖と、救いを求める懇願の祈りが捧げられる。


 常ならば、無邪気で活発な動きを見せる御子様方が、この日は様子が違った。

 深い傷を負った者には静かに寄り添うように近付いて、優しい抱擁を与えた。


 その透明な身体は、人の穢れに触れると黒を剥がし、濁りを宿して形を失い、水に還る。

 これまでに何度も目にしてきた光景だが、やはり、その様子は胸が痛む。

 初めて浄化を受けた者からも、不安の声が上がる。


 無理もない。


 取り込んだ黒禍を浄化し、再びその姿を取り戻すことを知っていても、可憐な幼子の姿をした御子様の身体がほどける様は衝撃的だ。


 穢れを引き受けた時に、恐怖や苦痛を感じておられないのか。

 心優しい女神が、我が子をこのような役目に向かわせることに心を痛めていないか。

 御子様が水に還るたび、あの方が水底で震えているのではないか。


 感謝と、罪悪感が同時に湧く。

 だが、今の私には御子様方の献身に縋るしかない。

 それがたまらなく口惜しい。


 私は列を捌き続ける。

 重い者を先に。浅い者は後に。

 明らかに間に合わない者を――どうする。


 喉の奥が硬くなる。


 ――慈悲の刃。


 その言葉が脳裏に浮かぶ。

 手遅れな者の苦痛を長引かせない為に命を絶つ行為。


 泉を守る。女神を守る。

 そのためなら、一人二人――いや、十人百人――切り捨てる覚悟が、私にはあるのか。


(――ある)


 答えが即座に出た自分が、怖かった。

 そして、その怖さすら、あの方の手の震え、首を振り、後退ったあの姿を想うと掻き消える。


(もう失いたくない。恐れからも悲しみからも遠ざけたい)


 それは、不遜で、身勝手な私の“欲”だ。


 そんな物思いに気を取られていたせいだろう。

 私は致命的な見逃しをしていた。


 泉の畔に担架で運ばれ、呻いていたはずの男が、よたよたと立ち上がった。

 最初は「意識が戻ったのか」と思った。

 水を飲ませた者がいる。痛みが引いたのかもしれない。奇跡のような回復は何度も見た。


 だが、違った。


 その男の立ち上がり方は、人の身体の範疇に留まらない動きだ。

 何かに引っ張りあげられたかのような不自然な挙動――


 口元から、黒いものがはみ出し始めた。

 触手のように蠢き、顔を覆い、湿った影が胴体を伝って脚に絡みつき、無理やり足を前へ運ばせている。


 泉へ。

 女神の元へ。


 背筋が総毛立った。


(やめろ!)


 声が出る前に、身体が動いた。私は駆け出した。

 男の傍にいた者が悲鳴を上げる。護衛が叫ぶ。誰かが男を止めようとする。

 私は人混みの隙間を縫って進もうとするが、驚き戸惑う人の群れは、動く壁となって私を阻む。


 ――御子様の一人が、変異し始めた男に向かって飛んで行く。


 触れた瞬間、御子様の身体は水に還り、男の体を浸蝕する黒禍を浄化した。

 驚きと歓声が上がった。立ち上がり、あるいは逃げかけた者が腰を下ろした。


 だが、私には分かった。


 残っている。


 黒禍は、まだあの男の奥にいる。

 見えない場所で、息を潜めている。

 泉に落ちれば、そこで一気に――


「止めろ!」


 叫びながら、私は伸ばした。手が届く距離だった。

 届くはずだった。


 男の身体がぐらりと傾いた。

 意識が抜けたように、水面に倒れ込む。


 私はさらに踏み込んだ。

 だが、足元には寝かされている病人がいた。護衛が担いでいる怪我人がいた。

 避けるべきものが多すぎた。

 私の理性が彼らを踏み殺すことを躊躇わせる――逸る心が焦りを掻き立て、手と足に無駄な力みをもたらす。


 ――ついに、私の目の前で、男が泉に落ちた。


 どぼん、という音が、重く響いた。

 水柱が立ち、波が大きく水面を乱す。男の体が泉の底へ沈んでいく。


 オルセイスの泉の最期。


 黒く染まっていく清い水。

 命の気配が失せた城内、城壁に蠢くもの。空を染め裂け目。

 忌まわしい記憶が蘇る。


「……っ!」


 それ以上を考えるより先に、私は泉に飛び込んでいた。


※※※※※


 冷たく重い水の壁が、身体を包み込んで動きを阻害する。

 視界が白い泡に覆われて、先に落ちた男の姿を隠してしまう。


 もどかしさを覚える中、腕と脚を大きく振って水を掻き分け、泡の柱から脱する。

 ごぼごぼという気泡の音が、耳に籠って響く。

 耳も鼻も頼りにならない。水越しに見える世界はぼやけて心許ない。


 だが。


――~~(はぁ!? )―~――~―(ちょ、お前っ)――~~~―~(……何してんだ!?)


 その“声”は、籠った水中のはずなのに、はっきりと伝わってきた。

 せせらぎのように耳に優しいあの歌声――イズミールの声だ。


 音の聞こえてきた水底に目を凝らすと、そこに彼女はいた。


 ルテアの花が黄金と変じたあの日以来、ずっと姿を現すことがなかった。


 御子様に引き継がれたその面影の向こうに、何度彼女の姿を思い浮かべたことか。

 脳裏に浮かぶ微笑とあの涙に、笛を吹く手が何度止まりそうになったことか。


 ほんの一瞬。

 水の中にいるということさえ忘れて、美しいその姿に見惚れてしまった。


 開いた口から空気が漏れ、抜けた場所に冷たい水が入り込んできて、我に返る。


~~―(アホ!)~~――~~(死にてえぇのか!) ~――~(って違う!) ~~―~―~―(そっち、そこだ!) ~~―(そいつ!!)


 彼女が再び唄うような声を響かせ、ある方向を指差した。

 言葉は分からない。

 だが、彼女が姿を見せたことと併せて、その意図は明白だ。


 顔をそちらに巡らせると、沈んでいく男の姿が見えた。

 暴れることも、もがく素振りもない。

 完全に意識を失っている。


 私は泳ぎ進み、男の身体を掴んでその脇に腕を回した。

 衣服が水を吸って、鉛のように重い。

 引くたびに抵抗が増す。水は清く澄んでいるが、今は泥のように身体を引き止める。


 触れた瞬間にも直感した。

 この男の中には、まだ黒禍の穢れが巣食っている。


(早く引き上げねば)


 水を蹴って水面を目指そうとする。


 その瞬間――男の身体が、痙攣した。


 背中が反り、口が開いて泡が漏れた。

 その口元から、黒が、ずるりと溢れた。


 水の中でそれは、異様に速く形を変えた。

 溶け崩れながらも、細く、鋭く尖り、意志を持った棘になる。

 私の中に残る黒禍の残滓に吸い寄せられるように、黒い棘がうねりながら肩へ迫ってくる。


 咄嗟に身体を捻ろうとしたが、抱えた男の身体が不規則に暴れ、水の抵抗もあって、ほんの一瞬だけ、私の動きを鈍らせた。


~~―~―(……駄目だっ!)


 再び彼女の声が響いた。だが、それとほぼ同時に肩口に鈍い痛みが走った。

 入られた。傷口から黒い棘が入り込み、肉を同化させながら掻き分けて、肌に黒い筋を残していく。

 反射的に肉体が竦み、吐息が漏れ、口から泡を吐き出した。


(――早く、早く水の外に!)


 私の体に入り込んだのなら、まだ好都合だ。

 泉を――彼女を穢す前に、この黒禍を連れて一刻も早く水から上がらねば。


 そう思っていた矢先、水が震えた――


 水そのものが、恐れるように、怒るように、水の粒そのものが膨らんだ気がした。

 重たい破砕音が水底から響き、上へ、上へと向かう水流を感じた。


 水面から差し込む陽の光よりも眩く、彼女の姿が目に映った。


挿絵(By みてみん)


 水中を。

 身体の中を。

 清らかな“波”が通り抜けていく。


 その瞬間、身体全体が髪の一本、薄皮の一枚に至るまで生まれ変わったかのような爽快感を得た。


 ――浄化だ。


 水の女神イズミールの権能。

 私の命を繋ぎ、人の形を取り戻してくれた救いの力。


 今まで受けたどれよりも、圧倒的に強く、優しく、清らかな水の気が私を包んだ。


 “波”が通り抜けた後、黒禍の気配はもはや微塵も感じられなかった。

 だが、水は水だ。人は水の中で息が続かない。


 私は男を抱え直し、光の刺す水面を目指して昇らねばならなかった。


 しかし、どうしても後ろ髪を引かれて、水から飛び出す前に、水底に目を向けた。


 水の底に立って、こちらを見上げる彼女と目が合った。

 変わらぬ微笑で私を見上げるその姿が、酷く小さく遠く見えた。


 私一人だったならば、水底に沈んで行ってその手を取って連れ出したいのに。


 私の息は続かない。抱えた男の息もだ。

 彼女は、私の未練を断ち切るかのように水の中に溶け込んで、姿を消した。


 私は最後の吐息を水に中に吐き出し、水面の境界を抜けて、人の領域に戻った。

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