46.清浄なる泉は森を浸し、神域を為す 〇★
水の中で全力を叩き込んだ瞬間の、あの爽快感が、今でも内側に残っている。
黒髪黒目、傷跡ありの褐色肌のイケメンが、金髪碧眼、傷なし、白い肌のイケメンに――変わった。
いや、違う。変わった、じゃない。
――変えてしまった。
進化? 変化? 変態? どうでもいい。
言葉遊びで逃げたところで、現実は一つだ。
俺はまたやらかした。しかも、よりにもよって人間を変えてしまった。
あの瞳の青が、まだ意識に焼き付いている。空みたいな青。
人の目って色が変わるんだな、なんて馬鹿みたいな感想が浮かぶのが腹立たしい。
……で。
本来なら、あの後も病人の対応に追われるはずだった。
あの場は“現場”で、手が足りなくて、列が続いていて、木こり野郎が何とか捌いていて――俺は量産型を増産して、浄化して、祈りをぶつけて止めて、はい次、はい次、って、ただのライン作業に戻るはずだった。
そのはずだったのに――
どの辺からそうなったのか分からない。
自分の中の何が引き金だったのかも分からない。
木こり野郎に黒い棘が刺さった瞬間?
俺の中が真っ白になった瞬間?
奥の方で何かがバキッて砕けた瞬間?
それとも、木こり野郎にまた名前を呼んで貰えた瞬間?
……うん、その、なんだ。
――間欠泉ちゃってた。
あいつが直接手で掬って水を飲もうとした時に感じたアレ。
あの最中には、たぶんもう出始めてたんだろう。
普段の“湧く”は、ぽこ、ぷつ、っていう内側の気配だけだ。
泉の底で小石が転がる程度の、世界の呼吸みたいな控えめなもの。
それが、あいつに水をぶっかけた後で、ずどん、って水の底を殴るような衝撃に変わっていた。
水面が持ち上がって、空気が破れて、白い泡が爆ぜて、視界が一瞬、白に塗り潰される。
その“白”が晴れた時には、もう遅かった。
水面を割って泉の中央から水柱が噴き上がると同時に、畔から水が溢れ出した。
降り注ぐ水と溢れた水で、あっという間に辺り一面が水浸しになる。
さっきまで渇いた地面だった場所が水たまりに、浅瀬に、水の底になる。
社の前の列が崩れ、護衛や屋台の連中が、怪我人の肩を抱えて高い場所へ押し上げる。
社の床を持ち上げる柱の根元まで水が迫る。
足首、脛、膝。水位が上がるのが早すぎて、誰かが転んだ。
寝込んでいた病人や怪我人のところに人が集まって、慌てて抱え起こした。
災害だ。水難だ。大惨事だ。
なのに、誰かが笑った。誰かが叫んだ。叫びは悲鳴や怒号ではなくなっていた。
歓声だ。
言葉は分からないけど、表情を見れば分かってしまう。
誰もが喜んでいた。
だって、濡れた顔が、みんな同じ形をしている。
目が輝いて、口が開いて、頬が上がって、呼吸が乱れてる。
救われた顔。奇跡を見た顔。神話の一場面の中にいるぞって顔。
しかも、水を浴びると同時に浄化も受けていたらしい。
黒いのを抱えていた奴らだけじゃない。怪我人や病人だけじゃない。
たぶん、集まっていたほぼ全員が、俺の水を浴びて……疲れや痛みが抜けたり、傷が薄れたりした。
あれだけわちゃわちゃしていた”現場”が一気に片付いてしまった。
――いや、もしかしたら。
あいつみたいに“変わって”しまった奴だっているかもしれない。
それを思うと、水温が一気に下がる……気がするだけだ。凍ったりはしない。
そこら中が水浸しで、その場にいる人間で水面に触れていない者がほとんどいない。
普段、タブーみたいにされてる“泉に触れる”は、こっちの方から境界を越えたものだから、もうあってないようなものだ。
“触れてはいけない”なんて空気は、どっかに行ってしまった。
水が溢れ出して、誰もが同じように濡れてしまえば、タブーも何もない。
水に浸かった連中から笑い声が漏れる。浮かれた叫びが上がる。
狂乱した連中が、俺の中でチピチピチャパチャパ大はしゃぎだ。
(おいおいおい。俺はお前らのプールじゃないぞ、おい)
今更、波を立てようが水面を鎮めようが、水をぶっかけようが手遅れだ。
何をしたって――しなくたって――こいつらは「おおおお!」ってなるだけだ。
……もう収拾がつかない。
急に水域と意識が広がったところに、大人数が浸かって大騒ぎをするもんだから、水の中がうるさくてかなわない。
水中でバタつく手足。遠慮なく水面に突っ込んでくる顔や頭。
掬われて。浴びられて。飲まれて。
飛沫が散る。波が立つ。人の笑い声が響く。
汗と、血と、涙が水の中に溶け込んでくる。
そして、人の祈り。祈り。祈り。
祈りは、目に見えない手みたいに"内側"を掴んで引っ張る。
――"内側"ってどこだ? わからない。知るかよ。
どくん、どくん、どくん。
“増える”あの感覚が、湧き口の奥を直接叩いてくる。
心地よい。気持ちいい。漲ってくる。
圧倒的な喜び。
人としての常識が気持ち悪いと感じても、それを塗り潰すみたいな快感に満たされる。
"俺"の中に"私"が満ちて、広がって――ありもしない頭が割れそうになる。
(いやだいやだいや、こわいこわいこわい)
逃げたい。
視線から逃げたい。祈りから逃げたい。増える自分から逃げたい。
水底に引き籠っていた時みたいに、泉の意識から離れたくて――つい、身体を創ってしまった。
よりにもよって水面の上。金髪になった木こり野郎の目の前に。
最悪だ。
※※※※※
ばしゃ、と水面を割って、身体が創られる。
その瞬間、空気が変わった。視線が刺さる。息が止まる。音が跳ねる。
ワッと歓声が響いた。
誇張抜きで、水面が震えた。
目が眩む。視線が眩しいってこういうことか。
何十? 何百? の目が、一斉に同じ方向を向く。
私を見てる。俺の造形を。俺の“顔”を見てる。
(ひっ)
見ないでくれ。見ないで。見ないで。見ないで。
ここまで多く視線を浴びた経験なんてない。
その中で。
金髪になった木こり野郎が、私を見つめた。
空色の瞳が私を映して細められた。
熱を含んだ顔。信仰や信頼だけじゃない感情の籠った、そんな顔。
「な、なんだよ、お前……見るな、そんな目で見るなって」
周りの熱狂も、怪我人や病人も、膝下まで水に浸かってることも気にならないみたいに、ただ私だけを凝視して、その場に跪いた。
「ば、馬鹿、お前っ、そんなことしたら――うわあああ!?」
そして、こいつがそんなことをすれば、周りは当然――
その場にいた全員が、一斉に私に向かって跪いた。
祈った。祈り出した。声を合わせる。
手を組む。頭を垂れる。唇が動く。肩が揺れる。泣く。笑う。叫ぶ。
私の声なんかお構いなしに、視線と、呼びかけと、祈りと願いがやってくる。
どくん、どくん、どくん。
信仰が集まって、私を湧かせる。
やめろやめろ、やめて、祈るな。増やさないで。
零れる、溢れるから! 噴くって、出ちゃう! 駄目、だめ――ッ!
ずどん、と。
水面を震わせる音を立てて、さっきよりもぶっとい水柱が噴き上がった。
一瞬、時間が遅くなる。白い柱が上へ上へ伸びていく。
天井のない空へ向かって、ただ上へ。細かい飛沫が光って、虹が生まれる。
水の筋が、空気を切る音がする。水って、音がするんだな。あはは……。
(いやいやいや……ヤバいヤバい、なんだこの水量、どっから出てきた!?)
何リットル? いや、何トン? これ……そのまま落ちてきたらまずくね……?
叩きつけられたら人が死にかねない量だ。全部叩き潰す、押し流す。
社が潰れて。人が怪我して。全部が壊れて水の底に沈む。
私は水を操れる。でも、昇り過ぎた分は操作が効かない。
できるのは、このぶっ壊れた蛇口――噴き出し口の角度を弄るくらいだ。
(人っ……人! 人っ、人のいない方向――っ!)
私は必死に水柱を傾ける。
止めることも塞ぐことも出来ないなら、傾けて曲げるしかない。
「うおおああああーーっ! なんとか、なれぇぇーーーっ!!」
昔、ネット動画で見たダムの放流シーン。
あれみたいに、水がドドドと空気を震わせる。
水柱が横倒しになって、切り拓かれていない森へと流れ込む。
地面がえぐれて、泥が飛んで、根っこがほじり返され、幹が倒れる。
枝が折れて、草が泥と一緒に流れていく。
薙ぎ倒された流木が別の木を巻き込んで、あるいは積み上がり、あるいは道連れにして押し流す。
ずどどざざざごごご。
森が呻き声をあげる。鳥が一斉に飛び立ち、無数の獣の気配が遠ざかる。
森の中に川が出来た。
出来た、というより、水の通り道が森を抉り取って川にした。
「あああああ゛ぁぁぁ!?」
津波。土石流。環境破壊。人災。いや、泉災。
目の前で起こる一大スペクタクルに、群衆がポカンとする。
さっきまでの狂乱が、一瞬だけ止まる。止まって、空気が冷える。
その隙間に、俺の理性が顔を出す。
(あ、これ……駄目なやつだ)
次の瞬間、さっき姿を見せた時以上の大歓声が轟いた。
鳥はもうさっきの環境破壊でとっくに飛び立ってたから、音を立てるのは人間だけだ。
なのに、森中が揺れる。耳が痛い。水面が痛い。湧き口が痛い。
人の叫びは鳴りやまない。止まらない。
彼らが口にする言葉は相変わらず音としてか認識できない。
それでも、何を言っているのか想像がつく。
イズミール。
イズミール。
イズミール。
その名を連呼しているんだろう。
だって、その叫び声が、私を湧かせ続けているんだから。
尽きることのない祈りは、水底の岩盤だけじゃなくて、薙ぎ倒した木の根元、抉れた土の底、石の隙間――そんなところにも湧き口を増やしていく。
地の底から湧き上がってくる水が、勝手に出口を作る。
涌き口が増え、水に沈んだ場所が増えれば、私の領域、意識が広がる。
私が広がっていく。より深く、より遠くまで――
(遠く……?)
ハッとする。
広がったってことは、あの流れの向こうにだって行ける。
――逃げられる。
逃げる。逃げよう。逃げないと。私はここで“神様”にされる。
名前を叫ばれ続けて、増やされ続けて、湧かされ続けて、そのうち“俺”が薄まる。
今だって、"俺"と”私”がどうしようもなく混ざってる。
頭の中で意識がふらついて、勝手に“私”に引きずられる。
「イズミール……□□□□□□□□――」
木こり野郎がこっちに向かって手を伸ばし、呼びかけてくる。
青い瞳には切実な感情が籠っているように見えた。
その感情の正体が何なのかわかりたくなくて――
私は身体をほどいて意識を泉に戻す。
戻す、っていうか――もう、戻る“場所”が一つじゃなくなっていた。
水域が急に広がって、どこからどこまでが自分なのか分からない。
あの社のすぐ下の水面も私。
森へ流れていく濁流も私。
抉れた地面に溜まった水溜まりも私。
枝にぶら下がって落ちていく雫まで、一部みたいに感じられる。
怖い。水が広がれば自由が増えると思ってた。
でも、増えて広がったのは自由なんかじゃなかった。
祈りで増える"私"と"俺"の境界が消えるのは、乗っ取られるのと同じだ。
(違う、そうだ。私じゃない、俺だ。泉だけど、私は俺だ。)
木こり野郎から背を向ける。
こいつの目を見ていると、私は私でいたくなる。
私として応えたくなる。
あの手に"触れたい"だなんて、そんなの絶対おかしい。
「黙れって! もう私に構うな! ほっとけよ!」
あの手を取ったらおしまいだ。
今度こそ俺が俺でいられなくなる。そんな気がする――
(逃げなきゃ、逃げないと。どこに? どこかに)
とにかく端っこだ。
人のいなそうな場所。声が届かない場所。祈りが刺さらない場所。
そういう場所を見つけて、選んで。そこに身体を創り直す。
意識を走らせる。水の流れに乗って森へ滑る。
腐葉土を抉り取って出来た溝を流れる濁った小川。
根の隙間を抜けて、砂利の中を通り抜け、落ち葉を水面に乗っけて下流へ。
どれも、水としての感覚だ。人間ではありえない広域に及ぶ感覚。
そして、見つけた。
斜面の窪地。草が寝たばかりの新しい凹み。
そこへ、ちょろちょろと水が流れ込み、溜まった濁った水溜まり。
汚い。まだ小さい。でも、まだ静かで、周りに誰もいない。
――ここだ。
「イズミール!□□□□!!」
あいつの呼ぶ声が身体に響いたけれど、私は意識の場所を創り変えた。
※※※※※
ちちち、と鳥の声。風に揺れる枝葉のざわめき。
私は森の中の小さな泉の水面に新しい身体を創った。
水面が浅く揺れて、葉っぱが一枚、そっと浮かぶ。
流れ込んでくる水も、溜まった水も茶色く濁っている。
水辺や底に草が倒れていて、ついさっき水没したばかりだと分かる。
新しい水場――私が無理やり沈めて出来た、私の器。
水の流れが斜面に小さな凹みを刻み、少しずつ土を削り取って小川になりつつある。
伝ってきた水がこの窪地に溜まって泉というか、水たまりを作っている。
この流れ込んでる小川的なものも、私だ、と直観的に分かる。
群衆の目からはなんとか逃げおおせた。たぶん。
少なくとも、今ここに人影はない。叫び声も聞こえない。
祈りの圧は届いている、今も増え続ける自分が怖い。
遠くの方で、まだ名前を呼ぶ声が木々の壁越しに響いてる気がする。
気がするだけだと思いたい。
でも、こんなのは結局、自分の水の範囲内で動き回ってるだけだ。
それでも今は、この森の音が自分の部屋みたいで懐かしく、ありがたい。
やっと一人になれた……。
私は出来たばかりの泉の水面に座り込んで、吐く必要のない息を吐くフリをした。
代わりに、ぽこん、と水底に湧き口が生じた。
……やめろ。勝手に湧くな。
今は静かにしろ。静かにしてて……お願いだから。
身体に移っている今、視界は見える範囲に収まっている。
目の前の木。苔のついた石。折れた枝。濡れた草。泥。小さな泡。
全部が、ちっぽけで、安心する。
……水が濁っているのは嫌だ。我慢ならない。浄化、浄化。
身体に感覚が紐づいているから、さっきまでの私よりは狭い。
それでも、分かる。
水面が、流れが、湧き口が、森のあちこちに存在する。
それが分かってしまうのが、怖い。
「もう……どうすんだよ、これぇ……」
声が震えた。水面が小さく波立つ。
自分で自分を揺らして、やっぱり落ち着けと命じて、命じた分だけまた揺れる。
最悪の循環。
この泉は流れ込んで溜まるだけの水たまりで、循環はしてないんだけど。
「こんなの、もう泉っていうか水没林じゃん……湖じゃん……」
膝を抱えて丸くなる。水の身体は冷たいはずなのに、抱えた膝の辺りが熱い。
水なのに熱い部分がある、冷たい部分がある。いや、水だからか。
自然と、木こり野郎の顔が浮かぶ。
金髪。青い目。白い肌。傷が消えていた。
あの傷痕。どうやってついたのか分からない。手にも、身体にもあちこちあったな。
あれ、全部消えたのか。全部消しちゃったのか。
謂れも知らないで、消してくれって言われたわけでもないのに。
私は、何をしたんだ?
黒いのを消しただけじゃない。
あいつの“人としての積み重ね”まで、塗り潰したんじゃないのか。
そもそも、あいつはそれを望んでいたのか。
泣いてた。
泣いてたんだ、あいつ。
あの涙は何だ。喜び? 痛み? 解放? 感謝? 絶望?
俺に変えられたことを喜ぶ気もする。
(馬鹿か、Tシャツにサインするのと訳が違うだろうが)
急に姿が変わったってのに、周りの連中も気にしてないように見えた。
むしろ、羨ましそうですらあった。嘘だろ。
喉の奥がむかむかする。吐き気。吐きたい。
吐くのは水だ。吐くじゃなくて、湧く。湧いたら増える。
もう、完全にただの泉じゃない。人を治して、人を変えて、森を薙ぎ倒して、沈める。
ゾッとするほどの水量だった。
鉄砲水。土石流。津波。そんな勢いの水を扱いきれなくて、森を壊した。
人が怪我をしたり、流されたり、動物が逃げ切れずに溺れ死んだかもしれない。
「……知らないったら、知らない……」
声が小さくなった。
「この泉からやり直すから……もう、ほっといてよ……」
泉からやり直すって何だ。やり直せるのか。
やり直すって言葉で、自分を騙そうとしてるだけだろ。
だって、私はもうこんな広がってる。戻せっこない。
そう、元には戻らない。
森の傷も、木こり野郎の髪も、目も、戻らない。
この目を閉じられるものなら閉じてしまいたい。
でも、この微笑みの張り付いた顔は目も口も自由に動かせやしない。
閉じられない目に、あの青い瞳と金色の髪が焼き付いている。
……次に会った時、何を言えばいい?
言ったってどうせ言葉は通じない。私はあいつの名前だって知らない。
(次に会った時?)
まるで会いたいみたいじゃないか。
ああ、クソ……また"私"に流されてる。
本当に、流されてばっかりだな、俺……。




